ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第4講

治る病気と治らない病気

 (1910年5月19日) 


 第4講-1

病気の原因と治療の意味


1999.1.23

 

 第3講では、「カルマとの関係における健康と病気」がテーマでしたが、そこではまず植物と動物、そして人間における病気の原因の違いという観点から出発し、人間の病気が、輪廻転生する「個性」を有しているがゆえに、「個的な動機にしたがって、外界と関わる」ことで、それがアストラル体に印象を与え、そのアストラル体がエーテル体に作用し、さらに肉体にも影響するのだということを見ていきました。

 さらに、人間がこの世で考えたこと、感じたこと、行なったこと、それらすべてが、死後、「強烈な感情」に変化し、それが次の転生、その次の転生というふうに再受肉する身体に影響を及ぼすこと。個的な生活経験の影響は、「意識化した表象内容」を持てる場合とそれが無意識的なものである場合とでは異なっていて、無意識的に受け取った印象は「深く肉体の中にまで作用を及ぼす」のだから、特に生まれてからしばらくの間における教育の責任ということが述べられていました。

 さて、今回のテーマは、「治療」。前回の「病気」というテーマがさらに掘り下げられています。「治療する」ということはどういうことなのか。また、「治療」ということは果たして可能なのか、不可能なのかが、カルマ的な観点から検討されていきます。ここで問題にされている「治療ははたして可能か」という問いかけは、治療法の発見というような現在の医療の可能性と限界についてではなく、病気とはいったい何故生じるのかという問いかけからのものです。

 シュタイナーはまず、16、7世紀の頃から19世紀まで続いたという「どんな病気にもはっきりした病名をつけることができるし、どんな病気もしかるべき薬草やその調合によって必ず治療しうる」という立場、いわば「薬信仰」があり、その正反対の考え方として、「ニヒリズム派」という立場、つまり、スコーダ教授の次のような発言に基づいた立場という治療についての二つの極端な考え方があることからこの第4講を始めています。「多分われわれは病気を診断し、記述し、説明することはできるだろう。しかし治療することはできない」。

 では、その「ニヒリズム派」の立場での「待機療法」というのはどういうものなのでしょうか。

 ディートルは、当時非常に説得力をもっていた統計学を採り入れたひとりでしたが、その統計学によれば、彼の導入したいわゆる「待機療法」を受けた肺炎患者と、従来の医療を受けた肺炎患者とを比べると、全快した人の数も死亡した人の数も同じだったのです。ディートルが創始し、スコーダがさらに引き継いだこの待機療法では、自己回復力がもっとも力を発揮できるような生活環境に患者をおきます。そして医者の役割は、主として病気の経過を見守り、何かが生じたときに、人間味のある適切な援助の手を差し伸べることだけなのです。病気になった患者の自己回復力が期待できるように処置をして、熱が下がり、生体による自己回復が達成されるまで待つ、というのが待機療法のすべてなのです。(P73)

 この考え方をシュタイナーが紹介しているのは、「発病とその後の病状の経過とを左右するものは人間の手の及ばないところにある」ということを示唆するためなのですが、それは「カルマの法則と人生に対するその作用」とに関係づけて考えられなければならないということを意味しているのだといいます。

 そこで、シュタイナーは問いかけています。 

人間存在の深いところに働く法則は、前世の中にその根拠を求めるべきなのでしょうか。これが私たちの当面の問題です。ある場合には自己回復力が生体から生じ、他の場合にはどんなに努力しても、全治できないようにあらかじめ定められているとすれば、そのどちらの場合になるかは生まれつき決まっているのではないでしょうか。(P74-75)

 治療の可能性と不可能性ということがただあらかじめ決まっているということであれば、それこそ、結局は「ニヒリズム派」と同じ「治療は不可能である」という立場になってしまうのですが、問題はそんなに単純ではありません。

 まず、ただただ治療ということは本来成立しないというのではなく、なぜ病気になるのか、ならなければならなかったのかということや治療するということがいったいどういう意味を持つのかが深く洞察されなければなりませんし、さらに、前世において病気の原因が形成されたということであるならば、その原因に対する結果としての病気という現象に対して何らかの形で働きかけることで、病気の原因そのものを克服するための契機がまさにこの世において与えられなければならないのだということがいえます。治療ということは、その契機ということと深く関係しているのですから、その点を見ていく必要があるといえるのではないでしょうか。

 さて、ここで、あらためて病気の原因となるのは何かということについて述べられています。 

 人間は自我、アストラル体、エーテル体が肉体から切り離されることで死を迎えることになりますが、その際、エーテル体のエッセンスだけは残り再受肉の際に新たなエーテル体に注ぎ込まれます。つまり、以前の人生の「成果」がエーテル体に込められているというわけです。エーテル体は身体の形成者でもありますから、その「成果」に応じた身体を得るということがいえます。

 昨日述べましたように、死から新しい誕生までの間に、人間は特別な力を自分の個性の中に取り込みます。カマロカ期に前世における善い行為と悪い行為、性格上の特徴などを直観して、自分の中の不完全な態度や不正な行為を精算し、自分をより完全にしようとします。人間はそのような意図と傾向をもって、新しい誕生を迎えるのです。新しい人生のために形成される新しい身体は、死から新しい誕生までの時期に獲得された力に応じた在り方を示していますから、その力が弱いか強いかで、身体も弱かったり強かったりするのです。(P75)

 ここで重要なのは、以前の人生において生じた課題とでもいえるものを死から新たな誕生までの「カマロカ期」において直観し、新たに生まれてきたときにその課題を克服しようとするということです。そしてそれにふさわしい「力」をもって新たに生まれてくるわけです。

ここでシュタイナーは、自我感情が弱かった場合それを鍛え上げようとする場合と逆に、あまりに強い自我感情ゆえに調和的なあり方を発達させようとする場合です。

 まずは、前者について。 

 誰かが前世においてあまりに自我感情が弱かったために、現在の意識段階にふさわしくないほど外に対して依存的であり、自己を見失っていたとしましょう。そして、他人の命じるままにあれこれと行動していたとします。さて、その人がカマロカ期に、この不十分な自己感情に由来する行動を回顧したなら、次のような意図をもつことでしょう。「自己感情をもっと発達させよう。来世では、生まれ変わったときの身体を通して、自己感情を鍛え上げよう。そのためには、肉体、エーテル体、アストラル体から来る力に対して、自我が十分に対応できるようになる機会を作らなければならない。身体に特別の症状を生じさせて、それをお前の弱い自己感情に働きかける契機にしなければならない」。

 とはいえ、この意図は意識化されては現われてきません。多かれ少なかれ、無意識の領域に留まっています。しかし、その人は無意識的なその意図にしたがって、自己感情を最大限に緊張させます。自己感情に大きな負担をかける人生を生きようとするのです。そのように、まるで磁力に引き寄せられるように、大きな障害の原因となる場所と機会とに引き寄せられるのです。(P76-77)

 こうした自我感情が弱く依存的で自己を見失ってしまうような人は、それを克服するために、たとえば「コレラ」に罹る機会さえ得ようとするのだといいます。コレラに罹ることによって、それに対するエーテル体、アストラル体の抵抗が自己感情を育てることになるわけです。

 また、後者の場合について。

 もうひとつ同様に際立った例をあげてみましょう。これとは正反対の例です。

 前世において、あまりに強い自己感情の下に一連の行動をとってきた人の場合です。その人はカマロカ期に、自分の自己感情をほどよく緩和して、調和的な在り方をさせなければならないと悟ります。そこで生まれ変わってきたときには、どうやってみても自己感情に歯止めがきかず、自分が不合理な存在であると思い知らされてしまうような機会を、三つの体を通して体験しようとします。そのためにマラリヤにかかるのです。(P77)

 また、怒り、恐怖、嫌悪などの激情に駆られて行動した人は、そのカルマを解消するためにジフテリアという病気に罹るのだといいます。

 このように、カルマ的な病気の例として、コレラ、マラリア、ジフテリアがとりあげられていますが、こうした伝染病とされる病気の意味やそれに罹り克服することの意味について認識が深められなければならないということがいえるのではないでしょうか。

 そこには、通常の意識が担っている理性よりもさらに高次の無意識的理性によって、魂をさらに発展させていく過程が示されています。この点をよく考えれば、伝染病に対する理解がひらけてくるでしょう。人間はカマロカ期の経験から、 特定の病気にかかることを選び、その病気を克服し自己回復力を発達させることで、人生をよりよく生きようとするのです。(P78)

 

 

 第4講-2

病因としてのルツィフェルとアーリマン


1999.1.24

 

 さて、病気になるというのは、「自分の中の不完全な態度や不正な行為を精算し、自分をより完全にしようと」するために、「高次の理性」によって選び取られたものだといえるのですが、ではなぜ人間は、病気にならなければならなくなるようなそうした「自分の中の不完全な態度や不正な行為」といった原因をつくってしまうのでしょうか。

 それについては、ルツィフェルとアーリマンの影響ということを見ていなかなければなりません。

 ルツィフェルについては、この講義でもすでにふれたように、地球進化紀の月紀の時代に進化を停滞させた高次の霊的存在なのですが、人間の自我が働くようになる以前に、そのルツィフェルが、人間のアストラル体に影響するようになりました。 

 人間は、ルツィフェルの働きを自分の内部に担うことによって、その影響がなければそうありえたであろうときよりも、もっと善でないものへ誘う誘惑者を内部に担うようになり、その影響がない場合に判断し行為したであろうときよりも、もっと激情と情熱と欲望とから判断し行動するようになったのです。この影響によって、人間本来の個性は、あるべき状態に存在するときよりもいっそう「欲望の世界」に埋没するようになり、はるかに深く、地上の物質界に引き込まれるようになりました。人間はルツィフェルの影響を受けて、身体の中に深く入っていき、身体性と自分とを同一化するようになりました。(P79) 

ルツィフェルの影響によって外なる感性界の誘惑が生じ、人間はこの誘惑のとりこになってしまったのです。その結果、自我によって形成された人間個性にも、ルツィフェルの作用がそのすみずみにまで及ぶようになりました。人間は地上に受肉するようになって以来、ルツィフェルの誘惑の下にあり、その誘惑を、転生を通して、のちのちの人生の中にまでもち込みました。こうしてルツィフェルの誘惑の下にあるということが、「人間のカルマ」の本質の一部になったのです。(P79)

 ここで注意が必要なのは、この「ルツィフェルの誘惑」というのは両義的なものであって、その「誘惑」というのは人間に「自由」の可能性を与えるものでもあるということです。

 人間に自由がないとしたならば、人間は最初から「善」そのものであり、「不完全な態度や不正な行為」は生じることはないでしょうし、そうした原因をつくらなければ病気が存在することはなかったといえるわけです。

 ルツィフェルの誘惑が「善でないもの」へと誘うものであるというのはその影響がないとしたら「善でないもの」の可能性を持ち得ないということ。病気になることによって、自分をより完全にしようという「自由」さえも持ち得ないのだといえます。

 さて、影響はルツィフェルだけではありません。ルツィフェルが人間に影響を与えることによって、人間が外界、周囲の世界を見る仕方に「曇り」が生じ、その「曇り」の中に、アーリマンが働き始めたのです。そのことによって、外界はいわば「幻想世界」と化してしまうことになりました。

 世界はマーヤーである、ということがいわれますが、世界がマーヤーであるのではなく、世界を見る仕方にアーリマンが関与し、それを人間が「幻想世界」のように知覚してしまうということです。 

 今でもなお人間の通常の意識は、ルツィフェルとアーリマンの誘惑にさらされています。ルツィフェルは人間の内なるアストラル体の情熱や激情の中から働きかけ、アーリマンは外界に関する誤謬や錯覚を通して、外から人間に働きかけています。(P80-81)

 そのルツィフェルとアーリマンの誘惑が、人間に病気を生じさせることになります。ルツィフェルは人間のアストラル体に働きかけますから、アストラル体を通して病気を生じさせ、アーリマンはエーテル体を通して病気を生じさせるのだというのです。しかし病気を生じさせるといっても、それはその原因をつくるということであり、病気になるのは「高次の理性」の働きによるものだということに注意が必要です。病気になるということは、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に対抗するということでもし病気にならなければ、人間はその誘惑のままに堕落していき、「自分をより完全に」するということを放棄することになってしまうのです。 

 アーリマン的な誤謬−−これには嘘や不実などの意識的な不正も含まれます−−によって生じる病気は、一回かぎりの人生においてではなく、転生の中で生じます。ルツィフェルの影響もまた同じです。犯した誤謬は、いつかは罰せられずにはおかないのです。その罰は、通常の理性よりさらに高次の理性によって下されるのですが、高次の理性がそうするのは、死から新しい誕生までの時期に、誘惑に対抗する力を私たちに与えるためです。ですからその結果である病気は、私たちの人生の力強い教育者として働くのです。

 病気をこのように考察するとき、病気の発生にルツィフェルかアーリマンの影響が働いていたことに気がつきます。このことを治療する者が洞察するならば、患者の身体組織に対する治療者の影響力は、現在よりもはるかに強まることでしょう。(P82)

 病気は「私たちの人生の力強い教育者」であるということを深く洞察しなければなりません。

 また、治療ということに際しても、こうしたルツィフェルやアーリマンの影響を洞察することが重要になります。ルツィフェルの影響による病気とアーリマンの影響による病気とでは異なった治療が必要なのです。

 たとえば、肺炎は、患者がカマロカ期に過度な官能生活を回顧したことの結果で、カマロカ期に、生前の生活への反省が肺炎に対抗する力を人間に組み込むのだといいます。肺炎は、ルツィフェルの影響で生じるわけです。

 それに対して、肺結核はアーリマンの影響で生じるのだといいます。肺結核の場合は、自己治癒の過程で、石灰・塩分を含んだ物質が全体を固く囲んでしまいますが、そうした場合、アーリマンに対抗しているのだといえるのです。 

 アーリマン原則とルツィフェル的原則の二つは、病気の経過の中でこのように働いているので、病気はアーリマン的かルツィフェル的かいずれかの類型に区別できます。これが区別できれば、ふさわしい仕方で患者に協力することができるでしょう。ルツィフェル的疾病はアーリマン的疾病とはまったく異なる治療を求めているのです。

 ルツィフェル的疾病に対しては、電気治療を行なうべきではありません。それはアーリマン的疾病に対してのみ使用が可能です。ルツィフェル的疾病の場合、電気という非ルツィフェル的なものを治療手段にしてはなりません。電気はアーリマンの支配領域なのです。

 ルツィフェルの支配領域は、大ざっぱな言い方をすれば、熱の寒暖に関係があります。人体組織が自分から、または外の影響で発熱したり、熱を下げたりする場合は、常にルツィフェルの領域に属します。熱さと寒さに関係あるすべての分野で、私たちはルツィフェル的疾病を見出すのです。(P83-84)

 

 

 第4講-3

治る病気、治らない病気と医療の意味


1999.1.24

 

 病気の原因となるルツィフェルとアーリマンの影響について見てきましたが、病気になるということは、そうした影響に対抗させるために「高次の理性」が働きかけたということであり、人間は病気になることによってルツィフェルとアーリマンの誘惑に完全に陥ってしまう危険性から守られることになります。

 このことに関しては、「悪の秘儀」(イザラ書房)の第2章に収められている「キリストの行為と、キリストに敵対する霊的力としてのルシファー、アーリマン、アスラについて」に、より具体的なかたちで述べられていますので、それをご紹介させていただきます。

 まず、ルシファーの影響への対抗手段としての病気について。 

人間が完全に感覚的な世界の関心や欲望のとりこにならなかったのは、何の力によるものなのでしょうか。

 それは、人間を進化させようとする霊たちが、ルシファー存在たちに対抗する手段を講じることによって可能となりました。これらの霊たちは、本来含まれていなかったものを人間存在の中に混入させることによって、ルシファー存在に対する対抗手段を行使しました。つまり人間を進化させようとする霊たちは、人間存在の中に病気や、悩みや、痛みを混入させたのです。このことが、ルシファーの霊たちの行為に対して、必要なバランスを回復させることになりました。

 ルシファーの霊たちは、人間に感覚的な欲望を与えました。これに対抗して、高次の存在たちは、人間がこのような感覚的な世界に無制限に落ち込むことがないように、ある種の対抗手段を用いました。つまり高次の霊たちは、感覚的な欲望や感覚的な関心には病気や苦しみが伴うようにしたのです。その結果世界には、物質的な、あるいは感覚的な世界に向けられた関心と、同じ数の悩みや痛みが存在することになりました。感覚的世界に対する関心とそれに対応する悩みや痛みは完全に均衡を保っています。(前掲書P62-63)

 さらに、アーリマンの影響に対する対抗手段としての「カルマ」について。

 人類を進化させようとする存在たちは、感覚的な世界に関するアーリマン的な誤謬の中から流れ込んでくるものを修復しなければならなかったので、人間に「みずからのカルマによってあらゆる誤ちを再び取り除き、自分自身が世界の中に引き起こしたあらゆる悪を再び消し去る可能性」を与えたのです。(中略)もし罪や誤謬に対立する諸力としてのカルマの力が作用しないならば、人間が本来の目標に到達することは不可能になるでしょう。(前掲書P65-66)

 このことから、カルマということがいかに人間にとって「恵み」であるかということが明らかになります。

 カルマとは、人間が恐れ、おののかなければならないものなのでしょうか。そうではありません。カルマとは、人間がそれを与えられたことを宇宙の計画に対して感謝しなければならないような力なのです。(中略)

 もしカルマがなかったら、私たちが人生の歩みにおいて前進することは不可能になります。(前掲書P66-67)

 その意味で、病気やカルマは「私たちの人生の力強い教育者」であるともいえます。

 ここで、「カルマの開示」のテキストに戻ることにしましょう。先にご紹介した講義では、病気の原因となるルシファーの影響とカルマの原因となるアーリマンの影響というふうに分けて説明されていますが、この「カルマの開示」では、特にそうした区別がされていませんので、念のため。

 さて、この講義のテーマは、治療できるかできないかということでした。それについて、病気の原因となるカルマ的連関を考察しながら、病気になるということは、人間が誤謬に対抗し、より完全な進化を遂げていくための「恵み」でもあることを見てきました。

 では、そうした観点から見るとすれば、治療ということはどういう意味を持っているのでしょうか。

 たとえば、ある病気について、「カルマで病死することがわかっているのだからもはや治療することは何の意味もない」ということがいえるのでしょうか。それに対して、シュタイナーはそうした考え方が間違っているということを明確に述べています。治るか治らないかを決めるのは、その人の「高次の理性」であり、それを私たちの通常の意識で決めることはできないのです。

 まず、治療の意味というのは、それが治療可能かどうかというよりも、病気の治療プロセスにおいて、その患者がどのような力を獲得できるかということに見出されなければならないのではないでしょうか。その意味で、医療は病気を克服しようとする患者をできるかぎりサポートするものであるということが大前提になります。そして、治療可能かどうか、死に至るのかそうでないのかということは治療者にしても、患者本人にしても、判断することはできないわけです。

生きるか死ぬかの決断は、当人の個性に委ねなければなりません。私たちはただ回復するように、できるだけのことをしなければならないのです。(P87)

 もちろん、「当人の個性」という「個性」は、患者の通常の意識ではなく、カルマ的連関において必要な行動を促す、輪廻転生を通じた「個性」ですから本人が死を望むかどうかに委ねるということではありません。 

患者に協力して、その人の自己治癒力を発達させることができるときには、あるいは自然の力を借りて治療できるときには、私たちはひたすらそうしなければなりません。人が生死の瀬戸際に立っているとき、私たちのやるべきことは、治療のために全力を尽くすことでなければなりません。そうすれば、私たちの力がその人の個性に手を貸すことになります。医療とはそのような人の支えとなる働きをすることなのです。(P86)

 病気が治る、治らないに関しては、カルマの理解をもち、病人の看護にあらゆる努力をすべきです。そうするなら、他の世界が他の決断をしたときにも、私たちはこの決断を満足をもって受け入れるでしょう。「他の決断」に関しては、それ以外の何かを必要としません。私たちにとって必要なのは、不治の病気を眼の前にしたときでも、世界には不完全なものだけしか存在しない、というふうに考えて気を滅入らせてしまわないような観点をもつことです。カルマを理解することは、治療に関わる私たちの努力を萎えさせたりはしません。むしろ、さまざまな不治の病がもたらすどんなに厳しい運命をも、受け入れることができるようになることなのです。(P87)

 さて、その際に重要だと思われることについて、さらに少し付け加えておきたいと思います。これは、「病気になることのカルマ的な目的は、人間をより完全にすること」であるということから考慮されなければならない問題です。「治療のために全力を尽くす」必要性ということと同時に、患者がなぜ自分が病気になったのか、ということについて自覚していく必要性があるからです。つまり、「治療」が自己目的化されてはならないのではないかということです。これについては、スピリチュアルなヒーリングについて述べられている次のような観点を考慮することが必要になるのではないかと思われます。(葦原瑞穂「黎明」より*ちょっと表現にある種の匂いがありますけど^^;)

 ヒーリングの最も大きな意義は病気を治すことにあるのではなく、患者の意識を真理に目覚めさせ、その人が自然の摂理に合った生き方をするように変わることで、この地上により多くの調和をもたらすことができるという点にあります。仮に病気が治ったとしても、本人がまた、今まで通りの自然法則に反する生き方を続けるようであれば、彼もしくは彼女は大きなチャンスを逃したことになりますから、治療家は単に病気を治すことに止まらず、患者に対して自然の摂理を理解させるような、カウンセリングを適切に行なうことが非常に重要な仕事になります。実際にヒーリングの仕事をしている人達の体験では、患者は病気さえ治してもらえば、今度こそ自然法則に叶った愛と奉仕の生き方をしたいという必死の思いでやってきて、その時点では決して嘘ではないのですが、どの医者からも見放された病気が奇蹟的に治ると、いったんは大感激して喜ぶものの、日が経つにつれて、またそれまでの不調和な生活に戻って物質的な欲望に溺れ、利己的な行為を繰り返すようになって行く人達があまりにも多いということも、また事実なのです。(P296)

 このことは、なんだか宗教的な「心の教え」的にとられがちですが、たとえば対症療法的な治療にもいえることなのではないかと思われます。熱が出たから熱を下げるという治療なども、なぜ発熱することが必要なのかという観点が考慮されないでただ症状をおさえることだけを目的にした場合、病気に対する根本的なアプローチとして適切だとは言いがたいのではないでしょうか。

 宗教的な「心の教え」というかたちをとる場合にしても、それが「教えだから」という外からのものではなく、認識的にその必要性を納得するのでなければ、対症療法というのとなんら変わりはないように思います。

 そういう意味でも、「治療のために全力を尽くす」というのは非常にむずかしい問題を含んでいるのではないかと思うのですが、そうしたことを含んだ医療でないとしたら、現在のような医療システムの問題や臓器移植の問題などといった根本的な問題は解決に向かわないのではないか。この講義からはそんなことも考えさせられます。

 さて、次の第5講は、「カルマとの関係における内因性の疾病と偶発性の疾病」。通常いわれるような病気だけではなく、偶然のようにも見える事故や外傷などをも「偶然性の疾病」としてとらえ、そのカルマ的連関を見ていきたいと思います。

 


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