ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第5講

カルマとの関係における内因性の疾病と偶発性の疾病

 (1910年5月20日) 


 第5講ノート


1999.2.21

 この第5講の内容は、第4講の「治る病気と治らない病気」についてその内容を再確認しているところがかなりたくさんあり、あとはそれに基づきながら、第6講の「カルマから見た事故や災害」というテーマを展開するにあたっての土台の部分についての講義になっています。

 第4講では、病気になることのカルマ的な目的は、人間をより完全にすることであり、病気やカルマはむしろ「恵み」としてとらえなければならないということ、だからこそ「治療に全力を尽くす」必要性があると同時に、ただ治療や治癒そのものを自己目的化するのではなく、病気になることによって克服しなければならなかったものがいったい何であるのかということに目を向けなければならないということについて述べられていました。

 また、病因としてのルツィフェルとアーリマンということについても言及されその影響を洞察することの必要性とまたその影響に対抗するために「高次の理性」が「恵み」としての「病気」を与えているのだということについても示唆されていました。

 さて、この第5講では、そうした第4講での内容を受けながら、「偶発性の疾病」やさらにいえば事故や災害といったような「偶然」とされているものについての基本認識が提示されています。

 「偶然」という言葉は、わからないことをわからないままに放置するためにはとても好都合な言葉で、認識が欠如しているという現実が隠蔽されてしまうことになります。事故などでの病気はもちろんのこと、ウィルスが感染することによるとされる病気もそうですし、さらにいえば「災害」などもそうです。

 最近では「偶然の一致」ということについて、ユングの「シンクロニシティ」という用語が使われたりするようにもなりましたがその用語が使われたからといって、認識が深められるということはまれで、むしろ多くはその神秘性だけがクローズアップされることが多いようです。

 さて、テキストでは、次のように問題提起がなされています。

「外的な原因が特定できる疾病と、人体組織そのものの中に病因がひそんでいる疾病とを、どう区別するすることができるのか」。

 確かに病気の中には、外的なきっかけなしに、おのずから生じるものがあります。身体にその傾向が内在している場合です。反対に、外的な原因を特定できる病気もあります。たとえば足を骨折した場合です。都会の悪環境の下で生じる多くの病気にもそれが言えます。今日の医学は病因を外的作用の中に、特にバクテリアの中に見ています。(…)これまでも病気や健康の外的原因については語られてきましたが、現代人のその語り方は、私たちの世界認識を根本から混乱させるようなものです。たとえば、これまで健康だった人が、流感やジフテリアなどの流行している地方へ行って感染したなら、現代人は、その人がその地方へ行ったから病原菌をうつされたのだ、と言います。「たまたま」とか「偶然」とかいう言葉も使います。「たまたま、うつされた」というわけです。

 この「偶然」という言葉は、すべての世界観にとっての厄介事です。簡単に「偶然」と言えるのかどうか、考えてみようとしないかぎりは、満足のいく世界観を手に入れることはできません。(P102)

 シュタイナーはたとえば「歴史の中の偶然」とされている次のような例を挙げています。望遠鏡は、眼鏡工房で子供たちがたまたまレンズで遊んでいたことから発明され、ピサの大聖堂の教会ランプの規則的な往復運動を見たガリレオはその振り子運動と自分の脈拍との関係を調べ振り子の法則を偶然発見し、ルターはエアフルトのアウグスト会修道院の旧友といっしょに「たまたま」話し合い、神学博士の帽子を手に入れるように説得されたのがきっかけで聖書翻訳につながった、というのですが、「歴史の意味」と「偶然の出来事」とされることの関連は「偶然」ということで簡単に片づけることはできないということがいえます。

 偶然は、いわゆる自然法則や生命法則では説明できない、と考えられています。偶然は、説明可能な範囲からはみ出しています。どうぞ、このことの横に、人間個性は、この世では、ルツィフェル原則とアーリマン原則の両方の支配を受けている、という事実を並べてみてください。この両原則は絶えず人間の中に働きかけています。ルツィフェルの力は、むしろ人間のアストラル体の内部に作用し、アーリマンの力は、むしろ人間が受け取る外的印象を通して作用します。私たちが外界から受け取るものの中には、アーリマンの力が働いており、快、不快、激情などのように魂の中から立ち現われるものの中には、ルツィフェルの力が働いているのです。(P105)

 なぜその人はそうしたのか、そうしなければならなかったのか。そのことについて人は自分であれこれと「理由」をつけたがります。魂の深いところにある衝動から何かをした場合でも、それとは別の、自分にとって都合の良い動機を与えることもありますし、「意図」などなく「偶然」なのだと思い込むこともあります。

 そうした顕在意識の上での単純な「理由」に異議を申し立て、フロイトは、魂の深みに「性欲」という動機があったと考えました。「たてまえ」はすべて「性欲」という「本音」の変形した顕れだというわけです。しかしそうしたことを一般化した理論として提示するのは無理があります。そうするとすれば、フロイトの性欲理論も性欲に由来することになってしまいます。

 シュタイナーはこうした事例について、「ルツィフェルは人間の魂のいとなみをマーヤーに変え、内面で本当に働いているものの中に、それとはまったく異なる「本音」を幻出させて見せる」のだと言います。還元主義的な心理分析などの危険性はそうしたことにあります。シュタイナーには「精神分析批判」とでもいえる講義がありますので、詳しくはその講義を参照していてだければと思います。ちなみに、それに関連した「ユングノート」をHPに登録してあります。

 また、アーリマンの影響についてシュタイナーは次のように述べています。

アーリマンは私たちの知覚内容の中へ外から侵入してきます。「私の思考力はもう通用しない。思考が糸玉のようにもつれてしまっている」と私たちが感じるとき、すでにアーリマンが強力に働きかけています。そのようなとき、アーリマン原則は外界の裂け目のようなところから、私たちの中へ押し入るのです。(…)

そうすると、私たちは考えることをやめてしまい、理性と洞察力で現象を把握しようとはしなくなります。そして、「偶然」が思考の中に居すわってしまうのです。「偶然」が居すわるところで、アーリマンはもっとも危険な存在になります。人間がアーリマンによってもっとも安易にだまされてしまうような現象を、人は「偶然」と呼ぶのです。(P108)

 このように人は自分で自分の行動の動機を安易なところに求めたり、また心理分析による還元主義的な「本音」をそれだと思い込んだり、逆に認識努力を放棄することで「偶然」という幻を手に入れてしまいます。

 ですから、内因性の疾病にせよ、偶発性の疾病にせよ、また偶然とされる事故や災害、歴史上の偶然にせよ、それをカルマ的認識で貫かなければならないのだということがいえます。

いくら偶然について語っても、事柄の本質に関わることができません。人間は自己教育によって、幻想を打破できるようにならなければなりません。言いかえれば、アーリマンがもっとも力強く働くところで、理性的に事柄の本質を追究しなければなりません。病気の原因について考察するときこそ、まさにそのような場合なのです。ある人が鉄道で旅をし、列車事故で死んでしまった場合、あるいはまた、ある人がある瞬間に外から病原菌に感染してしまった場合、どうしてそうなったのかを私たちは理解しようとしなければなりません。研ぎ澄まされた認識力で事柄を追求するならば、人生にとっての病気と健康の本質、人生全体にとってのその意味が、深く把握できるようになるでしょう。

 

 さて、第5講の基本的なテーマについてご紹介してきましたが、第4講との関係で「慢性疾患」「魂の治癒力」について述べられているところに興味深い内容がありましたので、それを補足させていただくことにします。

●慢性疾患について

慢性疾患とは、ある意味では病気が克服されているのですが、別の意味では、まだ克服されてはいないような状態、治癒過程が中途半端にしか進んでいない状態です。換言すれば、エーテル体と肉体との関係はすべて調製されたのですが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調製されていないため、回復と不治との間を行ったり来たりするのです。(…)そこから脱するには、回復した組織部分を健全に保ち、まだ無秩序にうごめている部分、魂の内的な働きと結びついている部分をそのままにしておくことです。そうすれば、大きな効果をあげられるでしょう。

 しかし反対の働きがそれを妨害します。病気が慢性化した場合、患者は絶えずこの状態の影響の下に生きています。この状態を根本的には忘れることができないため、健康な部分をこの状態から引き離すことができず、「病的なことばかり考える」ことによって、健康な部分をも病的な部分をも病的な部分に引き込み、回復した部分をも新たに刺激してしまうのです。(…)

 アストラル体をこのように興奮させると、さもなければ健康でありえたはずの身体に非常な悪影響が及びます。どうぞ注意してください。そのアストラル体は、意識的にではなく、内的な魂を興奮させているのですが、当人はこのことを認めようとはしません。そのような場合、激情、気分の動揺、絶えざる倦怠感、不満足感が、意識化されないままに、有機的な生命力に作用して、生体を半ば健康、半ば病的な状態にしておくのです。(P96-97)

 「エーテル体と肉体との関係はすべて調製されたのですが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調製されていない」というのは身体的に健康を回復しえているはずなのに、そのエーテル体にアストラル体からの無意識的な「激情、気分の動揺、絶えざる倦怠感、不満足感」の影響が及び、肉体の治癒に到らないということです。

 ですから、病気の治癒においては、アストラル体からエーテル体への無意識的な影響ということに注目する必要があるのだといえます。病気であるという状態への不満感や絶望や疲れといった否定的な感情をプラスの方向に向けていくこということでしょうか。

 とはいっても、慢性的な病に状態にある人にいくら否定的な感情を持つなといっても、「あなたはわたしのこの気持ちがわからないからそんなことがいえるのだ」とでも言われてしまうのがおちで、逆に言えば、そうした感情の傾向故に病気になることを選択しているともいえるわけですから、なおのこと困難だということはいえます。

 ある意味で、宗教的な回心のようなことが病を癒すというのもそれがそのための有効なきっかけになることもあるのかもしれませんが、そういう「信仰」というかたちではなく、あくまでも認識を深めることでそのきっかけにするというのが精神科学的な方向性だといえます。

 

●魂の治癒力について

魂のすべての力で霊的なものと向き合うなら、ある複雑な道の上で、身体で行なう自己治癒を、魂の力で行なうことができるのです。

 ただその場合、直接病気と結びついている身体の器官のことを魂が考えないようにしなければなりません。(…)

 これが健康に関して積極的な忘却の効力なのです。この事実から、前世の過失が病気となって現われるカルマ作用に対して、私たちが必ずしも無力なのではないことに気づかされます。(…)

 ですから次のように問おうと思います。「魂の諸体験のカルマ的な結果として、私たちの魂を教育するために病気が生じるのだとすれば、今、その代わりに、その教育に相当する霊的な認識を獲得することによって、その病気を回避することはできないのか」と。

 私たちの努力で、病気を霊的な過程に変化させ、病気による自己教育ではなく、いわば魂の力だけによる自己教育を行なうことができるはずなのです。 (P98-99)

 この「魂の治癒力」というテーマはカルマ的な作用に対して積極的に取り組むという意味でもとても重要なもので、「病気を霊的な過程に変化させ」るための「自己教育」を試みることを予防医学的な観点からも大きな効果を挙げるのではないでしょうか。とはいえ、そこには精神科学的な認識が必要になり、それは、ルツィフェルやアーリマンによる影響から自由になるべく努力するということでもありますから、そこにも大きな困難があるとはいえます。

 そういう意味でも、まず「偶然」という認識の欠如などをふくむ世界観の上で、各自がコペルニクス的転回を果たさなければならないという現代的な要請があるのだといえそうです。


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