ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第6講

カルマから見た自己や災害

 (1910年5月21日) 


 第6講ノート-1

深層意識の選択/外なるものが内なるものとなること
1999.3.25

 

 この第6講と次の第7講で、カルマが不慮の事故や病気の外的原因を求める場合、それがどのように生じ、どのように働くのかを見ていきます。

 内因性の病気に関しては、そこにカルマの法則が働いているというのはまだ理解が容易なところもあるのですけど、病気の原因が外から作用するときや「偶然」に生じたとしか思えないような事故や災害などにおいても、カルマの法則が働いていることを理解する必要があります。

 第5講では、ある事象を「偶然」だというふうにとらえるのは、アーリマンによって本質が覆い隠されてしまっていて、そのカルマ的連関がわからなくなってしまっているのだということが述べられていました。

 第6講の最初には、その「偶然」ということについてさらに、「遺伝的特徴」ということから説明されています。もちろん人間は「親や祖先から」の遺伝によってのみ生み出されてきているのではないというのはいうまでもありませんが、遺伝されているように見える部分にしても、それはたまたま「遺伝」したのではなく、それを選択したのは自分なのであって、自分の「外」にあったものが「内なるもの」となったわけです。

祖先がもっていたから自分ももっている、と思われている遺伝的特徴は、まるで私たちのせいではなく、私たちと無関係に、思いがけなく向こうから生じてくるように見えます。私たちは自分が前世から伴ってきたものと親や祖先から遺伝されたものを、まちがった仕方で区別しがちです。(…)

生まれてくる以前、私たちの「遺伝された」特徴は、外にありました。それがその人のところまでやってきたのです。その人がそこへ向かって行ったのだとも言えます。生まれてきたときに、それが内なるものとなり、そしてその後その人の内部から現れてきたのです。

 このように「遺伝的特徴」について語るときに私たちが錯覚にとらわれてしまうのは、内なるものになったものがまだ外なるものであった頃のことを観察できないためなのです。(P113-115)

 この「遺伝的特徴」のように、この世で生じる外的な出来事についても外なるものが内なるものに変わるかどうかということを見ていく必要があります。病気の原因が外から作用するときや「偶然」に起こったとしか思えないような事故や災害などにおいても、そうした自分の「外」にあったものが自分のところに「やってきた」または

自分が「そこへ向かって行った」のだというのです。

 しかしそれらは私たちの表面意識によるものではありません。深層意識がそれらを選択するのです。

 意識の深層は、病気の原因だけでなく、理性では納得できないような運命の打撃をも外の世界に探し求めます。普通、理性では、まさに雷が落ちるところに身をおくことなど考えられません。しかし意識の表層よりもはるかに深いところで、表層意識がもっていない予見力が働き、雷が落ちる場所に自分を置くことがありうるのです。そのようなとき、深層意識は、雷が自分の上に落ち、したがって自分が不慮の事故で死ぬことを望んだのです。(…)表層意識が病気にかからないように努力する一方で、深層意識が病気に病気のきっかけを探し求めるとすれば、、こんなに非合理なことはないと思えるかもしれません。しかし私たちは、病気になろうと努めることも「理にかなって」おり、病原菌に対する衛生基準を立て、それによって病気から身を守ろうと努めることも「理にかなって」いる、と考えるのです。(P130-131)

 ですから、病気と健康の本質についてもっと理解を深めるためには、私たちの「意識」のあり方について見ていく必要があります。

 

 

 第6講ノート-2

痛みと病気/アストラル体の異常な覚醒
1999.3.25

 

 そこで、まず、眠りと目覚めにおける私たちの「意識」の状態について見てみることにしましょう。人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我という4つの構成要素を有していますが、その構成要素の関係によって、眠りの意識、目覚めの意識の違いがでてきます。

 目覚めと眠りは、人間本性の4部分の相互浸透として理解できます。目覚めるとき、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という人間本性の4部分が互いに結びつきます。そしてその結果、「目が覚める」のです。アストラル体と自我が身体の中へ入っていき、しかも注意を外へ向けるのではなかったとしたら、目覚めることはできないでしょう。目覚めるとは、人間の四つの部分が一定の仕方で相互に作用し合うということなのです。そして眠るとは、その4つの部分が正しい仕方で分離するということなのです。ですから、「人間は肉体とエーテル体とアストラル体と自我から成り立っている」と言うだけでは十分ではなく、これらの部分が、一定の状態において、どのように結びあっているのかを知るとき、はじめて人間を理解することができるのです。これが人間本性を認識するための本質的な点なのです。(P120)

 私たちは眠りにはいるとき、肉体とエーテル体から、アストラル体と自我が離れていきます。エーテル体も離れてしまうと死を迎えることになります。

 そうした肉体、エーテル体、アストラル体、自我という人間の4つの部分の関係を人間のこれまでの進化段階との関係で見ていくと興味深いことがわかります。

 まず現在の地球紀とその前の進化段階の月紀が比較されています。かつては、アストラル体は、エーテル体や肉体と強く結びついていたのですが、地球紀になって自我を有するようになり、アストラル体がエーテル体や肉体から切り離されてしまうことになったというのです。そしてアストラル体はかつてのような明るい意識が失われることになりました。

 自我意識をもつ以前の人間は、最高の人間本性としてのアストラル体が生み出す意識、アストラル意識をもっていました。この意識は暗く曖昧で、まだ自我の光によって照らし出されてはいませんでした。このアストラル意識は、人間が地球人になったとき、自我の強烈な意識の光に打ち消されて、その明るさも、響きも失われていきました。

 しかしアストラル意識は今でも私たちの中で働いています。ですから次のように問うことができます。「われわれのアストラル意識が打ち消され、自我意識だけが働くようになったのは何によってなのか」と。

 そうなったのは、自我の働きを受けて、アストラル体とエーテル体の従来密接だった結びつきが、はるかにゆるいものになってしまったからなのです。自我意識が生じる前のアストラル体は、エーテル体や肉体とはるかに緊密な結びつきをもっていました。アストラル体は今日の場合よりもはるかに深く、他の本性部分の中に浸透していました。ある意味で現在のアストラル体は、エーテル体や肉体から切り離されてしまっているのです。

 一体、私たちの日常の自我意識のもとで、この太古の結合に似た状態を作り出すことは可能でしょうか。アストラル体が通常よりも深く他の諸部分の中へ入っていくことが、今日の人間生活の中でも生じうるでしょうか。(P121-122)

 では、今日の人間が、かつてのようにアストラル体がエーテル体や肉体に強く結びつくとどうなるのでしょうか。人はそのとき病気になるというのです。

今日の覚醒時の人間の場合、さまざまな本性部分に一定の相互関係が保たれているので、アストラル体が異常な在り方をして、肉体、エーテル体の中にいっそう深く浸透すると、たちまち障害が現れてきます。昨日の考察にありましたように、そのような場合が実際に生じるのは、前世において犯した道徳的、知的な過失がアストラル体に刻印づけられたときです。

 そのような人が新たにこの世に生まれてきたとき、前世のこの過失が、正常な関係とは異なる肉体、エーテル体との関連を、アストラル体に求めるのです。(…)

 前世の考え方、感じ方のカルマが人体組織を無秩序にするようにアストラル体をうながすと、どうなるでしょうか。アストラル体は正常な人間の場合よりも、もっと深く肉体、エーテル体の中へ入っていきます。(…)そのようにしてアストラル体が普通以上に肉体、エーテル体の中へ入っていくと、どうなるのでしょうか。

 病気が生じるのです。(…)病気とは私たちのアストラル体の異常な覚醒状態のことなのです。

 通常の覚醒状態における私たちは、そもそも何をしているのでしょうか。そのときの私たちは、通常の仕方で目覚めるために、アストラル体をあらかじめ眠らせておくのです。私たちが自我意識を保つには、アストラル体が眠っていなければなりません。それが眠っているときにのみ、私たちは健康でいられるのです。(P122-124)

  前世における「道徳的、知的な過失」がアストラル体に刻印されることで、本来なら目覚めているときには眠っているはずのアストラル体が「異常な覚醒状態」になり、それで病気になるというのですが、では、そうしたアストラル体の「異常な覚醒状態」とはいったいどういう意識状態なのでしょうか。それが「痛み」だといいます。

 そのとき、誰でもよく知っている意識の目覚めが生じます。病苦が、病気の痛みが目覚めるのです。(…)痛みは、アストラル体が肉体、エーテル体の中に、そうあるべきではないほどに押し込まれ、意識化されていることの現れです。(P124)

 

 

 第6講ノート-3

痛みのない病気/エーテル体の異常な覚醒
1999.3.25

 また、病気には「痛み」を伴っていないものもありますし、むしろ多くはその場合のほうが病気としては重い場合が多いようです。では、そうした「痛み」を伴っていない場合の病気はどのようにとらえることができるのでしょうか。

 先ほどは、人間の進化段階としての月紀の状態と現在の地球紀を比較しましたが、その場合は、月紀よりさらにさかのぼり、人間がまだ肉体とエーテル体だけを有している進化段階のことを見てみる必要があります。現在、睡眠中の人間は、肉体とエーテル体からアストラル体と自我が離れてますが、その睡眠中の人間の意識のような「暗い意識」です。

 前世の「諸体験の結果」、先ほどの痛みを伴う病のようにアストラル体を肉体、エーテル体に強く結びつけてしまうと、エーテル体と肉体との関係も、通常の状態よりもずっと強く結びついている状態になることがあり、その場合、エーテル体も異常な覚醒状態になります。その場合は、もはやそこにアストラル体が関わることができないために、痛みを感じることはありませんが、もっと「暗い意識」での覚醒状態になるわけです。

 このことを考えるには、人類の進化の過程をふりかえってみる必要があります。月紀の私たちは、アストラル体をエーテル体、肉体に組み入れました。しかしもっと以前の私たちは、肉体とエーテル体だけの人間でした。(…)その意識は、今日の夢意識の明るさにも達しない、暗い意識です。睡眠中の人間が意識をもっていないというのは、大きなまちがいです。睡眠中も人間は意識をもっているのですが、自我がそれを記憶することができないほど暗いのです。(…)

 さて、誰かが前世の諸体験の結果、アストラル体を不当な仕方で肉体、エーテル体の中に沈み込ませてしまうと、エーテル体と肉体の結合も、正常とは言えない状態になることがあります。エーテル体があまりにも深く肉体の中に入り込んでしまうのです。そのような場合、アストラル体はそこに関与することができません。以前の人生のカルマとして、正常な場合よりももっと強い仕方で、エーテル体と肉体とが結びついてしまっているからです。(…)

アストラル体があまりに深く、肉体、エーテル体に入り込むと、異常な仕方で目覚めるように、あまりに深く入り込んだエーテル体も、異常な仕方で目覚めます。ただそのことを人間は知覚できません。痛みの意識よりも、もっと暗い意識だからです。(P126-127)

 さて、そうしたエーテル体の覚醒状態としての「暗い意識」ですが、「暗い意識」といっても、まったく意識がないという状態でも、行動ができないような意識状態なのでもなく、たとえば夢遊病者のように、「体験を伴わない」ような睡眠意識が働いています。まさに、「無意識」での行動なのです。ちなみに、そうした「暗い意識」に対し、通常の明るい意識状態というのは、「不快などのアストラル意識」と「判断したりする通常の昼の意識、すなわち自我意識」です。そうした通常の明るい意識状態では理解しがたいような、そんな「無意識」から人は行動することがあるのですが、そういう「無意識」によって人は不慮の事故や病気の外的原因を自分で求めてしまうわけです。

エーテル体が肉体の中に深く入り込んで、当人の手の及ばないくらい深い意識が生じるとき、その人は正常な生活においても、事情も知らずに、何かをやみくもに行うことがあります。何をやっているのかもわからずに、無意識が行動しているのです。

 前世における行為の結果、死から新生までの期間にエーテル体が肉体の中に深く入り込む傾向を生じさせて、新しい人生を始めた場合、その人は深刻な病気を生じさせるような、外的なきっかけを探し求めるでしょう。

 通常の自我意識ではこのことを理解することができません。人間は通常の自我意識からそのような行動をすることが決してないからです。通常の意識がわざわざバクテリアのうようよいるようなところへ行け、と命令することはけっしてありません。しかし、病気になるきっかけが必要である、とあの暗い意識が思うとき、この意識が病気を外に求めるのです。人間本性が病気の原因になるものを見つけ出して、病気の経過を生じさせるのです。(p128-129)

 催眠術によって暗示をかけられた人が、自分ではそれと意識できないでもある行動をとってしまうことがありますが、そういう状態にも似ているのかもしれない、というか、催眠術というのはそうしたことを応用しているのかもしれません。

 そうした暗示の効果というのは、催眠術や「洗脳」というような意図的であるためにわかりやすいかたちのものもありますが、もっとそれと気づけないような仕方で私たちに影響していることもあるのではないかと思われます。「洗脳」を解く効果的な方法も明確にはないように思うのですが、そうした「暗い意識」での衝動に対して私たちはどうすればいいのかそれに対して明確な答えを提示することはできないのですけど、やはり一人一人が「自分で考える」ということから

出発する以外にないのではないかという気がしています。「そういうものだ」という自明だと思いこんでいることに対して常に意識的な態度でのぞみ、決して安易な答えで自分をごまかさないこと。それだけは少なくともだれにでもできることなのですから。


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