ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第7講

カルマとの関係における天変地異

 (1910年5月22日) 


第7講-1

ルツィフェルとアーリマンの影響に対抗して働く「善なる力」としての病気


1999.4.28

 

 第6講では、カルマという観点からとらえた病気や事故、災害などは、深層意識において、みずからが選択したものなのだということ、また病気における痛みは、前世における「道徳的、知的な過失」がアストラル体に刻印されることで、本来なら目覚めているときには眠っているはずのアストラル体が異常な覚醒状態になっているということであり、さらに、痛みを伴っていない病気は、アストラル体よりももっと暗い意識であるエーテル体が異常な覚醒状態になっているのだということを見てきました。

 この第7講では、第6講でふれられたそうした事柄に関して、ルツィフェルやアーリマンの影響との関連から、病気や天災などがどうして起こるのかについて検討していきます。

 さて、痛みを伴う病気にせよ、痛みを伴わない病気にせよ、前世の体験が病気の原因になっている場合、そこには、ルツィフェル的な力やアーリマン的な力が働いています。

 「痛み」というのは、本来なら目覚めているときには眠っているはずのアストラル体が「異常な覚醒状態」になってしまっているということなのですが、その「痛み」は、ルツィフェル的な力の誘惑に陥っている私たちを「ルツィフェルの敵対者」がその力から救ってくれ、教育してくれるているものなのだといいます。

 私たちがルツィフェルの力にとらえられるとき、その一方で、それに敵対する力による反作用が生じ、それによってルツィフェルの影響を私たちから追い出せるようにしてくれるのです。ルツィフェルの力に敵対しているその力が、ルツィフェルの影響の下で生じる病気の過程に痛みを組み込んだのです。ですから痛みとはーールツィフェルの力を悪の力と呼ぶとすればーー善の力によって私たちに組み込まれたものだと言わねばなりません。善なる力が、私たちを悪の力の魔手から逃して、もはやその手中に陥らないですむようにしてくれるのです。もしもルツィフェルの力に由来する病気の過程に痛みが生じなかったならば、「ルツィフェルの手に陥っても、大したことはない」と思ってしまい、その力から離れるために努力しようとしなくなるでしょう。痛みとは、まちがって目覚めたアストラル意識のことなのですが、それと同時に、ルツィフェルの力にすでに陥っている私たちを、そこから救ってくれるものでもあります。ですから、ルツィフェルの誘惑との関係で言えば、痛みは私たちの教育者なのです。(P135)  

 さらに、アーリマンの影響によって生じた病気は、「痛み」を伴わないもののエーテル体の異常な覚醒によって、器官を麻痺、衰弱させ、破壊してしまいますが、それの「善なる力」のおかげだといいます。そうしなければ、私たちはアーリマンの影響によって、過度に物質的感覚的世界に拘束され、深く幻影の中にとらわれてしまうことになるわけです。

 アーリマンの影響に帰せられるべきものは、間接的にではあれルツィフェルに発しています。しかしルツィフェルの強い影響がアーリマンの影響を引き出してしまったとき、そのアーリマンの影響はさらに悪性の病気を生じさせます。それは深いところに根ざした病気になり、アストラル体だけでなく、エーテル体の欠陥となります。痛みの意識よりももっと深い意識の中で、アーリマンの影響が姿を現します。そして痛みを伴わずに器官に欠陥を生じさせて、役立たずにするのです。

 ある人生においてアーリマンの影響を強く受けた人の場合、その人は死の門を通り、そしてふたたび新しい地上の人生を始めますと、アーリマンの作用を受けて、どこかの器官のエーテル体が、正常の場合よりもはるかに深く、その器官内に入り込みます。その器官は特別集中してエーテル体の浸透を受けます。そうすると、その人は、その器官のせいで、アーリマンが世界の中に生じさせる幻影にとらわれてしまうのです。(…)

 けれどもそうなったとき、ルツィフェルの影響の反作用が痛みを生じさせるように、ここでも反作用が生じます。あまりに物質的=感覚的世界に拘束され、霊界へ参入できなくなる危険が生じた瞬間に、器官は麻痺し、衰弱し、破壊されてしまうのです。そのような崩壊過程が現実に生じるのです。(P144-145)

第7講-2

霊界参入に際してのルツィフェルとアーリマンの「誘惑」への対抗


1999.4.28

 

 こうしたルツィフェルとアーリマンは常に相互に働きあい、均衡を保っているのですが、内からはルツィフェルが、外からはアーリマンが働きかけています。ですから、私たちはその二つの「誘惑」に対抗していかなければなりません。霊的なものに参入しようとするときには、とくにそれが必要になるといいます。

外なる物質界の背後の霊界に参入するときには、常にアーリマンが幻影を生じさせようとします。魂の内部に沈潜しようとするときには、ルツィフェルの誘惑が特別大きくなります。私たちが神秘家として、幸運にも魂の内部に没頭できたとき、その前にあらかじめ自分の性格の中にある高慢や虚栄心などに対抗する手段を見出しておかなかったら、神秘家として生きながら、内部から魂に働きかけるルツィフェルの誘惑に陥ってしまうでしょう。神秘家は道徳的な修行をしませんと、神秘体験をもつようになればなるほど、大きな危険にさらされてしまうのです。(…)

 他方、アーリマンの幻影から身を守り、外界の諸現象の背後に存する事物の霊的根拠に至ろうとするには、内的に力強い性格を育てなければなりません。(P138-139)

 霊界通信は常に、本当の修行を通して獲得された力で統御されていなければなりません。ルツィフェルが思わずたじろぐ力があるとすれば、それは道徳的な力以外にはありません。徳の力は恐ろしい火のように、ルツィフェルを焼くのです。

 そしてアーリマンに対抗できる手段があるとすれば、それは神智学によって鍛えられた判断力と識別能力以外にはありません。この地上で獲得された健全な判断力は、アーリマンをおじけづかせ、逃げ出させるのです。自我意識が正しい修行を通して獲得するものは、何にもまして、アーリマンに嫌悪感をいだかせるのです。(P141)

 内からはルツィフェルが、外からはアーリマンが働きかけているために、まず、いわゆる「内なる自分」とかいうことを探求するにあたっては、ルツィフェルの働きに対抗するために、利己心をなくし無私であるということがなによりも重要視されます。でないと「内なる自分」をさまざまなフィルターによって見ることになりそれと気づかないうちにさまざまな欲望に身を焼くことになります。反省行というのもそうした誘惑から自由になるためのものだといえます。

 内面的な宗教のあり方から制度的な宗教へと反転していくという現象や宗教的なカリスマが大きな権力を濫用してしまうようになるというのも、「自分の性格の中にある高慢や虚栄心など」に、ルシファーが働きかけているということなのではないかと思います。宗教に限らず、政治権力を行使したりするような場合、同じような働きがあるのではないでしょうか。自分を特別視し、名誉欲などという形でそれを肥大させてしまい、それが自己目的化しているような方をよく見かけますが、それも同じです。

 また、外から働きかけているアーリマンに対抗するためには、「内的に力強い性格」「この地上で獲得された健全な判断力」「自我意識」が必要だというのですが、これがないとアーリマンの幻像にすぎない声や幻覚にとらわれてしまうことになるのだといいます。宗教的な方によく見られるように、この地上を汚れたものととらえ、この地上世界の営為を軽視し、霊的世界に参入しようとすることはそういう危険性に身をさらすということでもあります。この地上において、健全に思考し生活できるということこそが、外からのアーリマンの働きかけに対抗するということでもあります。

 ですから、内から働きかけるルツィフェルと外から働きかけるアーリマンの間でどちらにも傾斜しないような均衡が重要なのではないかと思います。「中庸」「中道」ということがいわれるのもそういうことなのだと思います。

 

第7講-3

ルツィフェルやアーリマンの影響に対抗するための調整作用としての天災


1999.4.28

 

 さて、人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という4つの構成要素を持っていますが、ルツィフェルの力はアストラル体に働きかけてきます。そのルツィフェルの力に対抗するのは自我を通して働きかけてくる力でその霊的存在は「ヤハヴェ」なのだといいます。その協力によって、私たちの自我は、ルツィフェルの力に対抗できるのだというのです。

 このルツィフェル存在が現在の地球紀で人間に対して演じている役割を月紀においてはアーリマン存在たちが「天使」に対して演じていました。「天使」は、月紀においてアーリマンやそれに対抗する存在たちを通じて達成したものをこの地球紀にもたらしました。それによって、地球は、ルツィフェルの影響に陥らないために必要なものを地上にもたらすことができました。そうでなければ、私たち人間は、ルツィフェルの影響に対抗することはできなかったのだというのです。アーリマンは、現在私たちに対してルツィフェルを通して働きかけてきます。

 病気は私たちがルツィフェルやアーリマンの影響に対抗するために生じるのですが、地震などの天災もそれと同じようにとらえることができます。それは、月紀からもたらされた力による、人間をより完全にするために起こる調整作用だというのです。そういう調整作用がなければ、ルツィフェルの誘惑に陥ってしまいます。単なる規則的な「宇宙秩序」やリズムによって作り出された「生活上の幸福、豊かさ、楽しさ」にあえてブレーキをかけるために地震が起こり、雹が降るというわけです。

 一体、私たちが「正常」と呼ぶ過程は、地球上のどの部分のことを言うのでしょうか。現在の太陽系が地球の目標にふさわしく秩序づけられたとき、太陽を中心とした地球その他の諸惑星の規則的な運行が生じ、その結果、私たちは昼と夜、夏と冬、晴れと雨とを知るようになり、穀物を実らせるようになりました。このことは、月紀が薄闇の中へ沈んだ後で、地球紀のために形成された宇宙リズムによるのです。しかし地球の内部では、ルツィフェルが働いています。ルツィフェルはその主要舞台である人間の内部よりも、はるかに広い範囲で働いています。太陽を中心とした惑星たちの規則的な公転、夏と冬、雨と晴れのリズムなどのすべての秩序の中でも、ルツィフェルが働いています。ところで、もしもルツィフェルが地球生活の中でのみ働き、そして太陽系の規則的な周期運動のような宇宙秩序、宇宙法則だけが支配したとしたら、人間はルツィフェルの誘惑に陥ってしまい、宇宙を救済するために働くことよりも、むしろ幸福な人生のほうを選び、努力して勝ちとることよりも、規則的な歩みに従うことのほうを大切にしたでしょう。

 ですからどうしても、宇宙秩序に反対する力が働かなければならなかったのです。その力が生じたのは、月紀にとっては正常かつ最善であるのに対して、地球紀にとっては異常で地球の規則的な歩みをそこねてしまうような経過が、地上生活の規則的な宇宙経過に混入したときでした。この力の影響が現れるのは、単なるリズムによって作り出された生活上の幸福、豊かさ、楽しさにブレーキがかけられるとき、たとえば、激しく雹が降りそそぐときなどです。

 地球の規則的な働きの下で創られたものが破壊されるのは、人間の常識では理解できない高次の摂理が働く結果、人間には洞察できないような、全体が善き働きとなりうるような調整がなされるときなのです。(…)

 規則的な歩みが続くかぎり、調整が必要となり、その結果、ますます激しく雹を降らせるのです。規則的な進行はすべて、地球そのものの力によります。火山が溶岩を噴出するときには、地上生活を調整するために、月紀の力が呼び起こされたのです。地震のような天変地異もすべてそうです。そして私たちの知るかぎり、そのようにして外から人間に働きかけてくるもののかなりな部分は、進化の全過程を見るなら、十分に理性的な理由をもっているのです。(P150-152)

 最近、「快適」「快楽」ということが至上の価値のようにいわれることがよくあり、それに反することを避けようとする傾向が支配的ですが、そうした傾向にルツィフェルとアーリマンが深く関わっているのだということに注意深くなければならないのだということも言えそうです。中村雄二郎さんも新刊の「正念場」で「痛み」について述べているように、そうしたいわば「快適」「快楽」に反するあり方の意味についてもっと見直してみる必要があると思うのです。

 

第7講-4

矛盾に直面する必要性


1999.4.28

 

 ルツィフェルやアーリマンの影響に対抗するために、病気や天災などがが生じる必要性ということについて見てきましたが、だからといって、治療することや天災などを避けるための防災などが無意味だとかそういうことをすべきではないということではもちろんありません。その、一見矛盾のように見えることについてもっと深く認識することが必要なのだといえます。

 そうでなければ、私たちはその矛盾のなかで引き裂かれてしまうことになりますし、カルマ的な連関を無視した無明かカルマ的な連関から逃れられないのだという諦念かのどちらかの極端な方向性を選択してしまいかねません。

 霊的な力の祝福に満ちた作用を受けるために、私たちがこの地上で、火山の爆発や地震を求めたり、自分の身体を破壊したりするはずはありません。しかしその一方で、天災が生じる正当な理由があることも事実です。どこかで疫病が発生するときも、人間のために何かが調整されようとしているのですし、人間により完全な方向を求めさせるために、災疫に直面させ、それを乗り越えさせようとしているのです。

 しかしそれならば、なぜ衛生上の処置を行うのでしょうか。疫病が善き作用をしているのなら、なぜ私たちは保健、衛生上の注意をはらい、病気にかからないようにするのでしょうか。天災や地災を避けるための努力など、すべきではないのではないでしょうか。

 もちろん、そんなことはありません。そういう努力をすることは当然ですが、しかしその場合、一定の前提条件が満たされていなければならないのです。(…)一方で、幻影に陥らないために、生体のある器官に障害が生じるのですが、他方私たちは、病気に対する衛生上の処置をすることで、そのような「善き」影響のもたらす結果を避けようと意識的に努めます。

 アーリマンの支配圏の中でこのことを考えてみますと、そこにまぎれもない矛盾が現れます。そしてその矛盾のすべては、人間を追いつめます。そのような矛盾に陥るときほど、私たちが幻想にとりつかれるときはありません。ある器官を使用できなくしてしまうのは、善き力の働きなのだ、と言えるなら、アーリマンの力に対抗する「善き」反作用にしたがおうとしないことは、人類に害をなすことになってしまいます。衛生上の処置は、この「善き」反作用に制限を加える点で、アーリマンに荷担することになってしまいます。

 しかしこの矛盾は、私たちの精神にとっての善き修行なのです。私たちは一度この矛盾に直面する必要があるのです。そしてこの矛盾から抜け出せるとわかったときにのみ、アーリマンの幻想から脱する力を自分の中から取り出すことができるのです。(P153-154)

 この矛盾を解決するためにこそ、「精神科学」的なアプローチが必要になりますが、それについては、第8講で述べられていますので、次講で。

 


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