ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第8講

内なる人間への精神科学的な働きかけ

 (1910年5月25日) 


 

第8講「内なる人間への精神科学的な働きかけ」-1

霊的認識を深めること


 第7講では、ルツィフェルとアーリマンの影響に対抗するために病気や天災などが起こるのだということ、しかしだからといって治療や防災などが無意味だということはできず、その矛盾に直面しながらそれを乗り越えるための視点が必要だということを見てきましたが、この第8講では、その視点の一つとして、内なる人間と外なる人間との関係、そして内なる人間に働きかける必要性などを中心に見ていくことにします。

 なお、講義のタイトルはテキストの高橋巌訳では「高次存在たちのカルマ」となっていますが、内容的に合わないので、タイトルを「内なる人間への精神科学的な働きかけ」とします。

 さて、上記のような矛盾を解決するためには、ルツィフェルとアーリマンという二つの原則、作用力のことをさらに掘り下げて考える必要があります。

 私たち人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我を有しているのですが、自我がアストラル体に働きかけることで感覚魂が、自我がエーテル体に働きかけることで悟性魂が、自我が肉体に働きかけることで意識魂が作り出されるようになりました。このうち、エーテル体と悟性魂について見てみることにします。

 ルツィフェルの影響を通し、自己中心的な衝動、欲望などを発達させ、それがとくに悟性魂の働きにあやまちを生じさせたとしますと、それは死と新たな生との間で変化し、新しく生まれたときに、今度はエーテル体の中にある種の欠陥となって現れます。つまり、その欠陥は、悟性魂のなかで生じたのですが、それは新たな生では、悟性魂の中にではなく、エーテル体の中に存在することになります。内的(悟性魂)に生じた欠陥が外部(エーテル体)へと変化することで、そこにアーリマンが働きかけてくることになるのです。ルツィフェルの影響によって生じた欠陥がアーリマンによって与えられることになるというわけです。

 さて、悟性魂のあやまった働きが次の生でエーテル体の欠陥となって現れるということは、

たとえ悟性魂が健全に働いたとしても、欠陥のあるエーテル体がいわば歪んだ鏡、歪んだスクリーンのようになって、そこに歪んだ像が映ってしまいます。いくら傷のないフィルムを正常に作動する映写機にかけて映し出したとしても、スクリーンに映るのは歪んだ像なのです。ですから、そうした人にいくら理性や悟性ではたらきかけて、あなたが見ているのは歪んだ像だ、妄想なのだと説得しようとしても困難です。理性や悟性の働きに関わる悟性魂はちゃんと働き、論理的に正しく思考できる場合、妄想さえ証明してしまうことにもなるわけです。

 そうしたエーテル体の欠陥、障害を取り除くためには、通常の理性的手段による方法が困難なのだとすれば、いったいどうすれば良いのでしょうか。通常の場合、アーリマンの影響に対抗するためのカルマ的な作用がそのためには必要とされるようになるわけですが、その働きをこの世で実現することができるのが、精神科学的探求だといえます。精神科学的認識は、通常の地上的な働きを超えて働くことができます。人間のもっとも内なる部分と結びついた霊的認識によってしか、この世で「形成力」となって働きかけることができないのです。(以下の引用では、精神科学が神智学として表現されていますが、この講義がなされた時期には、まだ精神科学及び人智学の名称がないためです)

たとえば、誰かが迫害妄想の徴候を示し、その後で死を迎えたとしますと、その人は自分がアーリマンによる障害の結果行った不条理さのすべてを、生き生きと眼の前に甦らせ、そしてそのことが次の人生を根本的に健全にする力となるのです。なぜなら、迫害妄想による行為によって外界に不条理な結果を生ぜしめた、と悟るときにのみ、その人は治療されるからです。これがアーリマンの影響から逃れるのに必要な道なのです。妄想に悩んでいる人を、論理的に根拠をあげて、その妄想から引き離そうとしても無駄です。そうすることで、その人の矛盾はますます大きくなってしまうからです。有効なのは、特に子供の場合、徴候の結果がひどく馬鹿げたものだった、とわからせることです。自分の呼び起こした馬鹿げたふるまいが、ふたたび自分のところにはねかえってきた、とわからせることが大切なのです。そうすることによってのみ、治療が可能になります。

 私たち自身が神智学を深く身につけることができれば、他の人に対して治癒的な働きを及ぼすことができます。神智学研究が人格を変えるくらいになるなら、私たちはその神智学に大きな信頼を寄せることができます。そのときは人格を通して、神智学の真実が外に向かって輝き出るのです。神智学は地上の人生のために働くのですが、その働きは地上の人生を超えています。その認識は超感覚的世界に由来しているので、単なる理性認識よりもはるかに深く働きかけるのです。

 外から論理的根拠を示して説明するだけではどうにもならないときでも、十分な時間をかけて、その人のために神智学の認識を折あるごとに役立たせることができれば、他の場合には転生を通してしか起こり得ないはずの「悟性魂によるエーテル体への作用」を、この世ですでに実現させることができるでしょう。物質界から得られる真実だけでは、感覚魂とアストラル体、悟性魂とエーテル体、もしくは意識魂と肉体の間に生じた裂け目を飛び越すことはできないのです。(P160-161)

霊的認識が深まれば、十年の間に人相が変わります。たとえば心の中での格闘が額に刻み込まれたり、内的平静が身振りに現れたりします。そのような場合、エーテル体の形成力もその影響を受けて、生体の精妙な組織までが変化します。霊的なものは、生体のもっとも精妙な組織にまで作用するのです。(…)

人間のもっとも内なる部分と結びついた霊的内容だけが、すでにこの世で形成力となって働きかけることができます。けれどもこのこと、すなわち深遠に橋をかける行為は、死後の世界では必ずカルマの行為として成就されます。たとえば、感覚魂の体験した事柄は、死後から新しい誕生までの間の世界に送り込まれるとき、必ず次の人生の形成力となって働くようになるのです。(P162-163)

 もちろん、これは悟性魂とエーテル体の関係だけではなく、感覚魂とアストラル体、意識魂と肉体との関係にもあてはまることだといえます。

 

 

第8講「内なる人間への精神科学的な働きかけ」-2

外なる人間と内なる人間との均衡


 さて、最初の問題に戻りましょう。たとえば、疫病にかかるのは、カルマの原因に対する反作用だといえるのですが、果たしてそれに矛盾しないかたちで、医学上、衛生学上の処置が許されるのかどうかが検討されなければなりません。

 そのためには、内なる人間と外なる人間を厳密に区別しておかなければなりません。

内なる人間として悟性魂の中に働くものと、悟性魂の結果としてエーテル体の中に現れる外なる人間とを厳密に区別しておかなければなりません。カルマの経過においては、まず内なる人間に働きかけ、次にその内なる人間を通して、カルマを清算するために外なる人間に働きかけます。(P172-173)

ある人物が前世において、隣人に関心を向けず、ひたすら冷淡な態度をとっていたとします。その人はカルマの結果、そのような冷淡さを身につけてしまったのですが、その冷淡さが後の人生において、カルマ的連関の中で自分の生体内に内的な力を形成します。つまり冷淡さに由来する行動にしたがわないよう努める力を身につけるようにするのです。しかしそれだけでは、魂の中から冷淡さを消し去ることにはなりません。ただ冷淡さが外に現れないようにするだけです。ですからそれ以上のことをしないなら、半分の仕事しかしたことにならないどころか、何もしなかったことと同じなのかもしれません。魂のためには、まだ何もしていないのですから。たぶん、外から人の手助けをするとしても、心からそうするわけではないのですから。もはや冷淡さをおもてに表すことはないとしても、その冷淡さが自分の内的組織の中に残り続けるでしょう。そして来世まで冷淡であり続けるでしょう。(…)私たちは、冷淡さの外的表現器官を取り除いた後で、その人の魂にも働きかけ、冷淡さへの内的傾向を魂から取り除くように努めることもできるのです。(P173-174)

 医学上、衛生学上の処置によって外なる人間に働きかけ、外なる人間を治療し得たとしても、それでは内なる人間が治療されたことにはなりません。ですから、内なる人間への働きかけがどうしても必要になります。外なる人間に働きかける医学上、衛生学上の処置を行う場合には、外なる人間が担っている魂に対しても働け架けなければならないのです。そうでなければ、ルツィフェルとアーリマンの影響に対抗するために起こるカルマの働きにみあうだけのものにはならないわけです。

私たちの時代に、天然痘に対抗する「種痘」が現れました。しかしそれと同時に、私たちのもっともすぐれた精神の持ち主たちが、予防接種に反対しています。これは内なる人間の問題と関連しています。予防接種に反対するのは、内なる人間なのです。私たちは一方では冷淡さが現れないようにしますが、他方では、ふさわしい霊的教育によって、人間の性格を変化させる義務をも背負っています。そうでなければ、半分の仕事しかしていないことになってしまいます。(…) 一方で衛生学上の配慮をするなら、もう一方ではその身体組織が担っている魂のためにも何かをする義務があります。種痘は、その後必要な霊的教育を伴う場合には、何も害にはなりません。天秤の一方の皿だけに力を入れて、もう一方の皿のことを何も考えなければ、一方に傾きすぎてしまいます。(…)常に外と内とが均衡を保つようにすること、一方だけを見るのではなく、もう一方にも注意を払うことーーこのことは人類の進化にとっての重要な課題です。内と外とは大きな関連を示していますが、それだけでは「衛生とカルマとの関係」の答えにはなっていません。この問題に答えるには、カルマ的関連の中に深く入っていかなければなりません。そこでこれから、誕生から死までの間のカルマ的関連を考察しようと思います。その場合、人の一生における他の人びとの働きかけや、自由意志とカルマとの深い関連についても考察しようと思います。(P174-176)

 もちろん、内なる人間と外なる人間という視点、そして外なる人間に対して医学上、衛生学上の処置を行う場合に必ず内なる人間に対して「霊的教育」を行い、内と外との均衡を保つようにすることによってカルマ的なすべての「矛盾」が解決するわけではありません。そのためのさらなる視点については、次講で見ていくことになります。

 

第8講「内なる人間への精神科学的な働きかけ」-3

未来へのカルマ形成


 さて、ここで「カルマ」の問題をあらためて考えてみることにします。病気や天災、事故などをすべて前世で犯した罪の償いなのだというような短絡的な捉え方を避けるためです。

 カルマは、いわゆる「宿命」ではなく、未来に向けての新たな「原因」を形成する働きとしてもとらえていかなければなりません。過去に植えた種が現世で刈り取らなければならないように、積極的な意味で現在に種を植えることで、次の人生においてその成果を刈り取ることっができるのだという視点を欠かしてはならないのです。

カルマ論は宿命論ではありません。いつの人生においても、次の人生へ向けての新しい原因を作り出すことができます。そのことが理解できれば、人生においては過去に原因を求めることのできない新しい出来事が生じうる、と納得できるはずです。(…)

人類史上の大事件といえども、特定の個人の働きによって生じます。そのような人物が霊界から地上に降りてくるとき、彼自身のカルマにとって、その時期がふさわしいかどうかは顧慮されません。なぜなら、人類の進化目的のために生き、そして働かされるのですから。その人物が特定の時点に受肉できるように、彼自身のカルマが定めた誕生の時期が早まったり、引き延ばされたりすることもありうるのです。(…)

カルマはひとつの普遍的な法則ですからですからですか、誰もがカルマを生きなければなりませんが、その本質を理解するためには、過去を振り返るだけではなく、未来にも眼を向かなければなりません。私たち自身のカルマの中に存在しない事柄が私たちの身にふりかかってきたのだとすれば、その事柄の意味を明らかにできるのは、未来の人生でしかない、と言える場合もあります。(P167-168)

 また、こうしたカルマのとらえ方を個人レベルだけではなく、人類の歴史のなかにも見ていく必要があります。後アトランティス文化期には、7つの文化期がありますが、4番目にあたるギリシア=ラテン文化期が中央に位置し、第3期のエジプト=カルデア文化期と現在の第5文化期が対応しあっているのだといいます。第3文化期が今の第5文化期に繰り返されるというのです。たとえば、ケプラーはかつて第3文化期にエジプト人として生き、エジプト司祭の影響の下、星々の秘密を天上から開示されたのだといいます。また、古代エジプトでは、日中、儀式に則った仕方で身体を浄めることがひとつの掟であり、それが神々の意に叶った生活だったことが、現代においては、唯物論的な衛生基準となって現れているといいます。


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