ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第9講

男の体験と女の体験のカルマ作用

カルマとの関係における死と誕生

 (1910年5月26日) 


 

第9講-1

現代人の魂にとって必要な精神科学


 第9講では、まず第8講まで繰り返し扱われていたテーマである「予防医学的な処置」とカルマとの関係が、特に現代人の魂との関係で述べられています。

 病気にかかることによってカルマを精算しようとしていたにもかかわらず、予防医学的な処置によって病気にかからなかった場合、そのままではカルマは精算することができません。ですから、カルマを精算するためには、別の仕方を探さなければなりません。しかし、そのための機会を、現代のような環境は見出すことが困難になっています。そうした場合、魂は生きる衝動を失い、荒廃していくといいます。

 

ですからカルマを精算する仕方は、ある可能性が失われれば、また別のところにそれを求めるのです。(…)

 それはどのような仕方でなされるのでしょうか。人間がみずから背負い込んだカルマを精算するための多くの機会が、今日では取り除かれてしまっています。現代人は外的な作用を受ける機会を奪われています。外的な生活が以前よりも快適になり、身体もより健康になった現在の私たちは、カルマの精算を、それに対応する病気にではなく、それとは別のところに求めなければなりません。病気から救われた人は、病気とは異なる仕方でカルマの精算をするのです。それをさまざまな機会に求めなければならないのです。私たちは、より健康的な生活を保障されていますがされていますが、そのことによって次第に空しさと不満とを感じるようになっています。外的な生活が今後ますます快適になり、身体も健康になっていくと、魂はますます生きる衝動を失っていきます。物質生活の繁栄と魂の荒廃とが平行して進んでいくのです。(P179-180)

 現代人にとって、快適さを求めるということは、ほとんどの場合、疑いをもたれることさえなくなっています。より快適に、より快適に・・・というコンセプトはあらゆるところに浸透するようになっています。しかし、苦を排除し、かぎりなく快適さを求めるようになってくると、カルマを精算するための機会が外的には見出しがたくなってくるわけです。物質的に恵まれ、生活が快適になればなるほど、魂が荒廃してくるという現象は少しでも意識的に生きている方であれば実感せざるをえないのではないでしょうか。

 実際、目の前の生活に追われ、食べることが一所懸命だったりすると、自分の魂を見つめるというような余裕をもてないというのが多くの場合なのですが、現代のように物質的に恵まれ、身体的にも健康である状態になると、魂はただ生きることにではなく、その意味を求め始めます。「自己実現」などが云々されるのもそのひとつにほかなりません。

 「癒し」ということが強調されるのも、魂が何かを求め始めているにもかかわらず、いったい何を求めているのかがわからなくなっているからなのではないでしょうか。しかし、「癒し」が真に成立するのは、魂にとっての快適を求めることでなく、魂に真の栄養が与えられるときなのではないでしょうか。傷づけられたから魂が癒されなければならないというのではなく、そこに深い認識が求められるということです。そして、そのためにも精神科学(ここでは「神智学」と表現されています)が必要となるわけです。

 

神智学を学ぶ人は、このような事態に直面せずにすんでいます。というのは、神智学は事柄をどう理解したらいいのか、カルマの精算をどこでしたらいいのかを教えてくれるからです。魂はいつまでも空虚なままでいることはできません。一定のところまで空しさを感じつづけると、みずからの弾力性によって、反対方向へはね飛ばされます。そうして魂は、みずからの深層に親和した内容を求めるようになります。だからこそ、神智学的世界観が現代人の魂にとって必要なのです。(…)

 神智学は、人類全体のカルマの一部なのです。そのようなものとして、人類に結びついているのです。(P181-182)

 

第9講-1

男と女のカルマ


 さて、カルマの働きをさらに深く見ていくために、この第9講では興味深い例として、「男と女のカルマ」がとりあげられています。これまではどちらかというと、カルマが多く道徳的な意味合いで述べられてきましたが、道徳的意味合いではなく働く場合の例です。

 世の中には、まだまだ性別を絶対的なものであるかのようにとらえ、男のほうが偉いだとか、逆にフェミニズム的なあり方が主張されてりすることがけっこう多いのですけど、そういうひどく偏った視点に疑問を投げかけ、もっと深い認識を得るためにも、こうした男と女のカルマ的連関について見ていくことはとても有意義なことなのではないでしょうか。

 まず、「男は女のカルマ」であるということについて。

魂の特性は、死後から新しい誕生までの間に、来世のための身体組織に働きかけます。情や心の働きが強く、生まれてから死ぬまでの間、魂の内側に向いがちな人の場合、その傾向は身体の中に深く働きかけ、身体をより強力に組織します。女は心的、情的に諸印象を受け取ることによって、人生経験を魂の深層の中に取り込みます。男は学問の分野ではより豊かな経験を持つことができるかもしれませんが、女の場合ほどにそれを魂の生活の中に深く取り込もうとはしません。女の場合、経験世界全体が深く魂に刻印づけられ、それによって諸体験が身体組織の中により深く作用し、未来の身体をより強く規定しています。女の生活は、人生の諸体験を通して、身体に強く働きかけ、次の人生における身体を形成しようとする傾向を示すのですが、身体に深く働きかけるということは、男の身体を生じさせる、ということなのです。

 男の身体は、魂の力が身体部分に深く作用を及ぼすことによって生み出されるのです。このことからもわかるように、ある人生における女の諸体験は、次の人生での男の身体を生み出す結果を生じさせるのです。(…)ですからオカルティズムでは、「男は女のカルマだ」と言われています。(P183-184)

 さらに、「女は男のカルマ」であるということについて。

 

 男は外的な事柄を理解することはできても、魂の深い働きを体験することはできません。男の体験はあまり深刻にならないのです。今日の外へ向かう科学が深まることを知らず、内的なものを理解しないのは、まさにこのことのひとつの現れなのです。科学は常に広範囲な考察を行いますが、諸事象を掘り下げて関連づけることはしないのです。

 みずからの思考を育てるために、諸事象を関連づけようとする人は、外へ向かう科学が平気で諸事象を併置したままにしておくことに胸をむかつかせるでしょう。事柄を深みに向けようとはしないのですから。(…)

 知性は魂の深いいとなみを理解したり、そこにまで働きかけたりすることができず、表面的なところに留まっているといっても、現代人にとってその主張は容易に納得できるものではないかもしれません。しかし唯物論的な立場の人は、魂のいとなみを理解できないので、魂の中に深く働きかけずに一生を過ごすことになります。そのような人は、次の人生のために身体の中へあまり深く入り込もうとしない傾向を作り出してしまいます。そうするのに必要な力を十分に受け取らずに、一生を過ごしたからです。そうしますと、次の人生において、女の身体になる傾向がそこから生じます。「女は男のカルマ」なのです。(P186-188)

 女性は情と心の要素を強く持ち、魂の深い働きを体験が身体組織に強く働きかけることで次の人生において男性の身体を生み出そうとする傾向があり、男性は知的・唯物論的傾向を強く持ち逆に魂の深い働きを体験することなく生きることで次の人生において女性の身体を生み出そうとする傾向があることになります。

 こうした「男は女のカルマ」であり、「女は男のカルマ」であるということからこれからの人類の課題ともいえるであろうことを考えていくと、女性は過度に情動的なあり方にある種の客観性をとりいれるようにし、男性は内的なもの、魂の深みを理解しない主知主義的なあり方に、自由な精神性と柔軟性をとりいれるようにするということのように思います。おそらく「性」というのはそれそのものがカルマなのでしょうから、いずれはその「性」が克服されなければならなくなるときがくるのではないかという気がします。もちろん、「性」の克服はホモやレズビアンのようなかたちではなく、もっと個としてのあり方に関わってくるのが望ましいのではないかと思います。個の数だけの性(にかわるもの)があってもいいのでしょうから。そのときにはじめて、「性」ということに関連したさまざまな偏見や差別、蔑視などもなくなるのではないでしょうか。

 

第9講-1

生と死のカルマ


 さて、「男と女のカルマ」に引き続いて、さらに「生と死」に関するカルマがとりあげられています。人が死ななければならないというのもカルマだというのです。それは、太古のレムリア期に人間のアストラル体がルツィフェルの影響を受けることで生じることになりました。

 太古のレムリア期にルツィフェルの影響を受けた人間のアストラル体は、肉体の物質部分に深く入り込むようになりました。ルツィフェルの影響なしに生じたであろうときよりもはるかに強く、そしてまったく異質な仕方でその中に入り込むようになったのです。人間はこのルツィフェルの影響によって、より物質的な存在になりました。ルツィフェルの影響がなかったなら、物質界にそれほど強く拘束されず、人間は存在の高次の諸領域に留まりつづけたでしょう。ルツィフェルの影響なしに生じたであろうときよりも、外なる人間と内なる人間とがはるかに深く浸透しあったのです。

 そしてその結果、外なる身体の物質性と内なる本性とが強く結びつき、受肉以前の霊界での諸体験が想起できなくなりました。今や人間は、そのようにして地上に生まれるようになりました。物質と強く結びつき、それによって、生まれる以前の諸体験の想い出は、すべて消されて生まれるようになったのです。ルツィフェルの影響によって、誕生は外なる人間と内なる人間との間を強力に結合させる行為となり、以前の霊界での体験は記憶から失われました。外なる身体に深く結びつくと、生まれる以前の事柄が回顧できなくなり、経験、体験は、外界との関係の中でしか生じなくなるのです。(P189)

 ルツィフェルの影響で、人間のアストラル体が、肉体の物質部分に深く入り込むようになったことで、受肉以前の霊界での記憶が失われることになり、人間は生まれる前の記憶を持たずに生まれてくることになりました。

 まさに、人間は死ねばおしまいだというような唯物論的で非常に短絡的な発想もここに原因があるのだといえます。もちろん、そのことによる積極的な側面もそのカルマ的連関によって生じたのだということもきちんととらえておくことが必要になります。ルツィフェルの影響によって、人間に自由が与えられたということです。それは、この物質界に肉体を持って生まれることで、個としての自我を成長させることができるという可能性ということです。

 聖書にある「放蕩息子のたとえ」にも関連しています。自分が本来だれなのかを忘れて地上をさまよい堕落し、いずれ自分のほんらいあるべきところに帰っていくのだけれどそのことによって「自己意識」が得られるようになるというテーマの話です。法華経にもそれと似た話がありますね。「放蕩息子のたとえ」ほどには、積極的な意味合いが希薄なところはありますが。

 さて、人間は霊界での諸体験を忘れてこの地上に生まれてくるわけですが、そのことで、外界との関わりのなかでしか何も経験できなくなってしまい、霊界との関係が見失われてしまうようになりました。そのことが、まだ「死」の原因でもあるのだとシュタイナーは述べています。

 一体、この外界との関わりは、何を結果としてもたらしたのでしょうか。霊界との関係を失わせる結果をもたらしたのです。だからこそ、人間が霊界において目覚めるためには、外界から受容した濃縮物質を、ふたたび取り除かなければならないのです。身体の濃縮した物質性のゆえに、ふたたび霊的なものに至るには、その身体性を私たちが自分で取り除かなければなりません。私たちが受容した濃縮物質は、生まれてから少しずつ人体を破壊していきます。外から流れ込んできたものが少しずつ身体を破壊していき、もはや生存しえなくなるようにしてしまいます。ルツィフェルの影響なしに受容した場合よりもいっそう濃縮した物質性を受容した私たちは、死の到来するときまで、自分の身体をゆっくりと破壊していくのです。

 このことからわかるように、ルツィフェルの影響こそ、人間が死ななければならないことのカルマ的原因なのです。誕生がこのような形式で存在しなかったとすれば、人間にとって死もこのような形式では存在しなかったでしょう。ルツィフェルの影響がなかったならば、人間は死後の生活についての確かな見通しをもって、死を迎えたことでしょう。誕生と死とはカルマ的に関連しているのです。現在の人間の体験する誕生なくして、現在の人間の体験する死も存在しないのです。(P191)

 さて、最初の話にもあったように、人間は予防医学的処置を行い、外的環境を快適にすることによって、みずからのカルマの精算をする機会を持ちにくくなり、だからこそ魂がその本来の力を失い、空虚な状態に陥りがちになっているために精神科学が人類のカルマとして必要とされています。男女のカルマの問題、生と死の問題もそうした視点でとらえてみることが必要な時代になってきているのではないかと思います。

 ただただ男性の優位や女性の優位を、同性愛の権利主張を・・・というような空虚なあり方やひたすら死なないための生に執着して混乱してしまうようなあり方を未来に向けて克服するためにも、シュタイナーの精神科学は非常に多くのものを示唆してくれます。


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