ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第5講-1

芸術上の人類進化における比類のない現象:レンブラント

ドルナハ   1916/11/28


 きょうはスライド上映の続きとして、ひとりの比類のない芸術家を選び出すことにしましょう、芸術上の人類進化においてもっとも偉大なひとりであるレンブラントです。今までの上映の場合ように、上映される作品の時代的世界史的な背景に基づいていくつかを導入的に上映してごらんに入れることは、今回の場合は本当のところ適切ではありません。と申しますのも、レンブラントのようなこういう芸術家の場合、これを個別的に取り上げる際に何よりもまず重要であるにちがいないことは、こうしたスライドのような模造品で可能な限り、それ自体を完全に魂に作用させるということだからです。レンブラントのもっとも主要な業績の少なくともいくつかを関連づけて魂の前に導くときにのみ、このレンブラントが人類進化のなかでいかに比類のない現象であるかがわかるのです。私たちがラファエロやミケランジェロその他の場合に行ったように、レンブラントの場合にももっと歴史的に背景を掘り起こそうと試みるなら、レンブラントについてはそもそも誤った方法をとることになるでしょう、と申しますのも、レンブラントは多くの関連で、人間的な現象として隔絶して[isoliert]立っているからです。彼は民族の広がり全体をはみ出していて、この進化から彼を説明する試みもあるかもしれませんが、それよりも彼について留意しなければならないのは、彼がいかに自分を進化のなかに置いているか、彼から発して進化のなかへと入り込んでいくものは何か、ということです。重要なのはまさに、レンブラントに固有の根源性の度合いがいかに高いものかを見通すことなのです。彼がこのように隔絶した現象としてヨーロッパの民族からはみ出していること、このことが証明しているのは、個人的なものの創造ということに目を向けるとき、本来歴史の経過においてはそう単純に作用を原因その他へとつなげることはできず、次のような告白に飛躍せざるを得ない、ということなのです、つまり、ひとつの庭のなかで他の植物に隣り合っている植物の原因が、他の植物のなかにあるということが少ないように、継起する歴史的な現象の原因が常に先行する現象のなかにあることはまれであり、諸々の植物が共通の太陽光という条件のもとに共通の土壌から生じるように、歴史的な現象も共通の土壌から生じて、人類を魂で貫く精神的生の活動によって選び出される、という告白に飛躍せざるを得ないのです。レンブラントのなかに何か特別に根源的なもの、何か根本元素的なものをさがさなければならないということから、中部ヨーロッパにおいて人々は、前世紀の八十年代末から九十年代初頭ごろにある特別な概念を獲得しました。当時一冊の本、この本はレンブラントを扱っているとは言えず、レンブラントに関連づけて出版されたものですが、この一冊の本がいかに重要で広汎な印象を与えたか、これは奇妙なことでした。八十年の終わりにウィーンを去ったとき、私はまさに、誰もがこの本を読んでいるという雰囲気から出てきたわけです。『教師としてのレンブラント あるドイツ人による』というこの本をです。そして私がヴァイマールに着いたとき、そこでもさらに数年、誰もがこの『教師としてのレンブラント あるドイツ人による』を読んでいるという状況が続きました。私自身にとっては、こう付け加えてよろしければ、ただきょうはあまり歴史的な議論をしたいと思っているわけではなく、二、三申し上げておきたいだけなのですが、この本はかなり不快なものでした。なぜなら、才気煥発な男であるこの著者が、紙切れに書き込み、才気煥発に考えついたさまざまなことを、次から次へと一枚ずつ紙切れに書き込み、そしてこれらの紙切れを小さな箱に投げ込んでこの箱を揺すり、すると紙切れは混ざりますが、それから順次紙切れを取り出して、それで一冊の本にした、あたかもそのように私には思えたからですが、このようにあらゆる考えが入り混じり、この一巻のなかではこのように論理的一貫性に乏しく、系統だった秩序に乏しかったのです。ですからこの本は一般に不快なものであったかもしれません。

 とは言えやはりこの本からは、何かかなり重要なもの、十九世紀末にとって重要なものが語りかけてきました。この本を書いた人物-- 当時それは未知の人で、誰がこの本を書けたのかいたるところで探られていましたが-- は、当時すでに大多数の人々に向けて心から書いていました。彼はこう感じていたのです、人間の精神文化は十九世紀末においていわば精神的な生の母胎との関係を失ってしまった、人間の魂は、世界秩序の真の中心、真に内なる充溢とそれによる内なる充足を自らに与える何かを魂はそこから生み出すことのできるはずなのだが、そういう中心へと、もはや進んでいくことはできない、と。それでこの著者は、名前は知られてなかったので、方々で《レンブラントードイツ人》と呼ばれました。彼はいわば人間の魂を再び根本的な根源的な感受性に、世界の諸現象のなかに基盤として脈打っているものへの感受性に結びつけようとしたのであり、こういう思想を彼はもたらそうとしたのですが、それはいわば人類にこう呼びかけようとするものでした。魂の根本に生きているものを再び思い起こせ、君たちはこの根本的なものとの関係を失ってしまったのだから、君たちはいたるところで学問的なものの表面か芸術的なものの表面をこね回しているだけなのだから、再びこの母胎を思い起こせ、君たちは精神的な生の母胎を失ってしまったのだから! -- そしてこれを思い起こすために彼はレンブラントという現象に結びつけようとしたわけです。ですから彼は自分の本を『教師としてのレンブラント』と名づけました。人間の概念、表象、見解は彼には表面に漂っているように見えましたが、彼はレンブラントのなかに、根本的な人間の力から創造していた人格を見出したのです。

 感じ取らねばならないのは -- ここ数週間以来私たちが行っている説明に基づけば感じ取ることができますね -- 、全ヨーロッパの精神生活の強度は十九世紀の最後の数十年に本質的に後退してしまったということ、あらゆる分野において本質的に表層文化と化してしまったということ、そして、直ぐ前の時代の偉大な現象といえども、まったく表面的にしか理解されないという事態にまでなってしまったということです。そもそもいったい十九世紀末は -- むろん個々のものは度外視して、広い範囲で申し上げているのですが - -、ゲーテやレッシングといった現象について、何を理解したでしょうか。-- ゲーテやレッシングの偉大な作品については実際のところ何も理解されてなどいませんでした。この《レンブラントードイツ人》はこう感じているようでした、つまり、人類進化における真に偉大なものを感じ取るために、人間の魂の観照能力のすべてを、申しましたように、再び根本的なものに結びつけなければならない、と。とは言え、おそらくこの《レンブラントードイツ人》よりももっと深い意味で、時代が必要とし必要としたものを感じたとしても、やはりひとはこの《レンブラントードイツ人》と完全に道を共にすることはできなかったのですが、これものちに彼自身の進んでいく過程で明らかになりました。この《レンブラントードイツ人》のなかにはきわめて正直な感情がありましたが、ただ彼はやはりあまりにその時代の子で、まさに私たちがこの精神科学的努力のなかで魂の前に導こうとしているあの源泉を見出すことによって精神生活を真新たにすることが不可欠であるということを正しく感じ取ることはできなかったのです。けれども申し上げておきたいのは、当時あらゆる人々が、俗っぽい表現をお赦しください、気配のようにあったもの、つまり精神科学的努力の必要性というものの傍らを通過して行ったのです、あらゆる人々が通り過ぎていきました、そして今日もやはり大部分の人々が通り過ぎていくというわけです。そしてこのようにこの《レンブラントードイツ人》が次のように示唆する偉大な発端を担ったのです、レンブラントが自らに浸透させたような人間存在のあのような源泉を自らに浸透させることがそもそもどういう意味であるか、今一度思い起こせ、と。--《レンブラントードイツ人》の魂のなかにはこういうものが生きていたのですが、その後彼は、ますますいっそう、このような源泉はしかし人類進化のなかに存在しないのだという言うなれば一種の絶望に陥り、その後カトリシズムに移行しました。すなわち、彼は再び、何か古代からもたらされたもの過去のものに慰めを求めたのです、彼が自著『教師としてのレンブラント』のなかでそのための偉大な発端としたものに対する慰めを。この発端も、未来を担わなければならない精神生活へと真に進んでいくにはじゅうぶんではありませんでしたが。しかしともかくも-- 後にこの《レンブラントードイツ人》の名は知られるようになりました、彼はラングベーンという名でした{ユリウス・ラングベーン Julius Langbehn 『教師としてのレンブラント』Rembrandt als Erzieher は1890年ライプツィヒで出版}-- 彼がまさにレンブラントとの関連で感じていたこと、これをこの芸術的な人物との関連で感じ取らねばなりません。

 レンブラントは、私がこの関連で南ヨーロッパ的と言い表しました芸術的努力から出てくる何らかのものには、依存しておりません、デューラーがまだそうであったほどにも依存していないのです。こう言うことができるかもしれません、レンブラントの芸術家魂のどんな細部といえども、どういうかたちであれローマ的ー南方的な要素には依存していない、と。レンブラントはまったくもって自己自身に立脚し、彼が民衆という源泉そのものから汲み出す中部ヨーロッパの生活から創造するのです。それではレンブラントはいかなる時代に生まれ、働きかけたのでしょうか。-- それは中部ヨーロッパ中に三十年戦争の嵐が吹き荒れた時代でした。レンブラントは1606年に生まれました。ご存じのように、1618年に三十年戦争が始まります。そしてこう言うことができます、当時中部ヨーロッパ、南ヨーロッパが三十年戦争で引き裂かれていたとき、レンブラントは北西の隅で、まったく独自の芸術のなかに、中部ヨーロッパの本質であるものを作り出している、と。彼はイタリアを見たことがなく、イタリアのそれのような自然に依拠したことはありませんでした。唯一ネーデルラントの自然のみから彼はファンタジーを実らせたのです。すでに申しましたようにレンブラントは、いかなる研究やそれに類すること、イタリア絵画の研究やその他彼と同じ地域の画家たちの研究すらしませんでした。そしてこのように彼は、十七世紀当時自らを -- むろん無意識にですが -- 到来しつつあるアトランティス後第五時代の市民と正しく感じていた人々の代表として立っているのです。ある時点からレンブラントに至るまでに何が起こったか、私たちの魂の前にさっと通過させてみましょう。こういう事柄に対して感受性を持っていたヘルマン・グリムは、いわば芸術的現象を人類の歴史的進化のもっとも純粋な精華とみなしていましたので、彼はまた見事なしかたで、アトランティス後第四時代がアトランティス後第五時代へと入り込んでいく時期のために、芸術進化からヨーロッパの出来事へと、まさに数条の閃光とでも申し上げたいものを、投げかけたのです。私たちはすでに先日の上映で、この時代の芸術上の精華を私たちの魂に作用させようと試みましたね。ヘルマン・グリムは正当にも次のように言います。それに続く時代全体を理解するために理解されねばならないことが、カロリング家の人々とともに生まれる。けれども、カロリング文化のなかに生きていたものをよく知るために、ヴァルタリの歌より良いものはない、これは十世紀にザンクト・ガレンの修道僧によって書かれたもので、中部ヨーロッパがいかにイタリアによって覆い尽くされ、いかなる運命がヨーロッパに到来したかを示している。-- けれども形式においては、このヴァルタリの歌も、ローマ的影響を顕著に示しています、私たちがこの関連で呈示することができるであろうほかの現象と同様にです。

 続いて私たちは、新たな時代が姿を現すのを見ます、私たちが特徴づけた時代です。この時代が私たちに示すのは、中部ヨーロッパにおいていかにローマ的な要素が建築芸術および彫刻において発達したか、いかにゴシック様式が入り込んできたかということです。この時代が示してくれるのは、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハや、ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデが働きかける時代におけるこのローマ的芸術とゴシック様式の生命なのです。さらに私たちは、中部ヨーロッパ的な都市の自由、中部ヨーロッパ的土地文化が、私たちの考察のなかでとりわけ彫刻という現象として上演しました現象のなかに養成されているのを見ます。私たちは、中部ヨーロッパ的宗教改革[Reformation]がデューラーやホルバインのような形態のなかに出現するのを見るのです。さらに私たちは-- これはすでにミケランジェロの場合に強調したことですが--、反宗教改革[Gegenformation]がヨーロッパに溢れるのを見ます。 このことは今一度芸術のなかにも認められなければなりません。そして、ヨーロッパに大国家主義が氾濫し、政治的な個別性を無視するこのような時代が広がっていきますが、これはヘルマン・グリムがこう語っているとおりです。ヨーロッパの侯爵領の時代に広まったものは、ルーベンス、ヴァン・ダイク、ベラスケスその他の芸術のなかにみとめることのできるものであった、と。-- そしてこれらの名前を示すのなら -- 彼らの芸術は偉大であるとはいえ、そのなかには実際反宗教改革と関係するもの、中部ヨーロッパの民衆性[Volkstum]を破壊しようとする意志と関わるものが表現されているのを、私たちは見出すのです。そしてレンブラントは芸術家として、この民衆性の源泉のすべてから、もっともすぐれた意味で人間の個性と人間の自由の主張を含むものを、まさに芸術家として実行する者なのです。

 奇妙なことに、すでにデューラーのところでみなさんにご説明した、元素的な明ー暗における活動というものがレンブラントのなかに継続されているのです。この明ー暗は、後にゲーテが科学のために獲得したもので、いまだそこに至らないために、今日科学はなおこれを認めておりませんが、そのうねりのなかに色彩の源泉を求めることのできる元素的な活動を、この明ー暗のなかに見出しうる、というところにまで科学はきっと行き着くことでしょう。私は申し上げたいのですが、これはまずデューラーにおいて輝き出し、次いでレンブラントにおいて芸術的に完全に展開していくのです。イタリアの画家たちを偉大にしたもの、つまり彼らにとって個人的な現象を典型的なものにまで高めること、これをもレンブラントは発展させました。レンブラントは忠実にして直接的な現実観察者です。けれども彼はこの現実を、古代の人が現実を観察したように観察するのではありません。彼はアトランティス後第四時代ではなく、まさに第五時代の人間なのです。現実を観察するとき、彼は外部に立っている者として対象に向き合うように観察しますが、実際に外部に立つ者としてなのです。基本的にレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロも、アトランティス後第五時代に生きていましたので、外部に立つ者として対象に向き合うほかはありませんでした。けれども、彼らは古代に由来するものによって自らを豊かにしていました。ですから彼らは、対象に対して半分だけ外的に、とでも申しますか、そのように向き合っていたようなものです。レンブラントはまったく外から対象に対峙していました。けれどもまったく外から対象に対峙していたので、レンブラントは完全な内面性を外から対象にもたらすことができたのです。対象に内面性をもたらす、これはしかし、人間個人のエゴイズムから、あらゆる可能なものを対象のなかにもたらすということを意味するのではありません、そうではなく、これが意味するところは、空間のなかで働き活動するものとともに生きることができる、ということなのです。レンブラントにおいて私たちに示されるのは、まさに十年間を通じて、いわば五年から五年へと格闘した人物です。絶えず格闘しつつ彼が突き進んでいくようすを、彼の絵画に見ることができます。けれどもこの格闘のすべてから溢れ出してくるのは、明ー暗をさらにいっそう際立たせることです。と申しますのも、色彩的なものは彼にとって、いわば明ー暗から生み出されるものにすぎないからです。デューラーのところですでに、彼は対象から迸り出てくる色彩ではなく、対象に投げかけられた色彩を求めた、ということを示唆いたしましたが、これはレンブラントの場合さらに高度にあてはまります。レンブラント自身が明ー暗の活動とうねりのなかに生きているのです。ですからレンブラントはまた、この明ー暗が人物形態の集合のなかに独特の絵画的彫塑性を出現させるようすを観察することに大きな喜びを感じるのです。南方の画家たちは構成から出発します。レンブラントは構成から出発するのではありません、彼は生きていく過程で、いわば彼のなかで元素的に働きかけている諸力によって一種の構成の可能性へと上昇している、と申し上げたいほどであるにしてもです。彼は単に人物を配置し、そのままにし、今や明ー暗のエレメント(元素)のなかで、彼自身が生き、活動します、人物に注がれてくるようすを追求した明ー暗のエレメントのなかに生き、活動するのです、するとこの明ー暗の生き生きとした活動そのもののなかで、宇宙的ー普遍的なものが彼に対して自らを構成するのです。

 


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