ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第7講-1

数世紀にわたって見られるクリスマスのモティーフ:
キリスト・イエスの誕生ー羊飼いたちの礼拝ー王たちの礼拝ーエジプトへの逃避

モザイク、ミニアチュール(細密画)
イタリア、ネーデルラント、ドイツのマイスターたち

1917/1/2   ドルナハ


  トラペスニコフ博士{編集者註によると、当時ドルナハで生活していたロシア人美術史家で、シュタイナーのスライドによる講義の準備をした}がスライドを整えてくださいましたので、きょうもみなさんにお見せしていきますが、これらは今までのこの種の上映の場合と同じ観点ではなく、もっと題材に関わる[stofflich]観点にもとづいて上映されるものです。つまりこれからみなさんにお見せするのは、《キリスト・イエスの誕生》、《羊飼いたちの礼拝》、《王たちの礼拝》、そして《エジプトへの逃避》に関わる画像です。

 数世紀の発展を包括しているこれらの画像によって、《クリスマス劇》のなかに生きている、そして私が前の講義で行った議論のなかに生きていたものを、いわば別の面から、私たちの魂の前に導き出したいと思います。ですから、問題は何をおいても芸術的なものというのではなく、ある特定の題材分野の芸術による扱い、ということですから、きょうは芸術的な原理における発展についてはあまりお話しせず、その代わり、上映されるべきもののためのいくつかの別の観点についてみなさんに注意を促したいと思います。

キリスト教的な芸術発展について、先週のスライド上映の際に示された考察からみなさんが引き出すことのできた一般的な特徴、この一般的な特徴に、キリスト教の最初の数世紀の芸術上の表現からルネサンス時代へと私たちが前進するなら、みなさんはきょうももちろんお気づきになるでしょう。とりわけ目にとまるのは、最初の時代の典型的な表現から、つまり私が特徴づけましたように、いわば霊的世界からの啓示の影響のもとにある時代、フォルムや色彩の自然主義的な刻印よりも、霊的世界から啓示される霊的イマジネーションの再現に目を向ける時代、このような時代から、キリスト教的芸術が、この題材分野においても、自然主義へと、すなわち物質的世界にとって現実と名づけられうるもののある種の再現へと発展してくるようす、みなさんはこれをごらんになるでしょう、そして私たちは、芸術のなかの聖なる人物たちが、ますますいっそう人間的に、私たちの前に表現されるのを見るでしょう。

 けれどもきょうとくに私たちの興味を引くにちがいないのは、最近の講義を貫いていた主題の具象的な体現、とでも申し上げたいものです。私たちはまず最初に、《キリストの誕生》に関わるものが上映されるのを見るでしょう。これは次の題材分野、つまり《羊飼いたちの礼拝》と完全に厳密には区別されません。つまり、最初に私たちは、羊飼いたちの礼拝との関連でキリストの誕生に関係するものを見、次いで主に《王たちの礼拝》、つまり東方の賢者たち、マギたちの礼拝に関わる絵画を見る、と言うことができます。みなさんにお願いしたいのですが、これらのふたつの流れ、つまりルカ福音書の流れともうひとつのマタイ福音書の流れと呼ぶことのできる流れ -- 私たちはこれをふたりの幼児イエス[Jesusknaben]に結びつく流れと呼ぶことができます-- 、このふたつの流れがいかに展開してきたかに注意を向けていだだきたいのです。芸術という点でも私たちは、多かれ少なかれ羊飼いたちの礼拝に関連するすべてのもののなかに、とりわけ良く理解されることのできたものを見なければなりません、私がみなさんにその中心をデンマークと指摘しましたあの北欧の秘儀から残されたものの影響下に、感情的、感受的によく理解され得たものをです。この流れと関連しているのは、イエスの誕生に関わるものすべて、地上的な進化から、自然存在に結びついている霊性から、いわばイエスとともに成長してくるものに関わるすべてなのです。

 これに対して、星の影響のもとに -- つまり宇宙から啓示されるものの影響のもとにということに他ならないのですが --、ゾロアスター・イエスのなかに顕現する自らを告知するキリストに近づく東方のマギたちの礼拝ないし使命に関わるいたるところで、私たちはグノーシス的な流れを見出します。王たちの礼拝に関連するものすべてのなかで、まさにグノーシス的な流れが、すなわち、キリスト事件は宇宙的なものであるという意識、いわば宇宙からの授精ということが起こったのだという意識が、私たちの前に現れるのです。

 私たちの友人たちが親切にも、みなさんにこのように王たちを描いてくれました-- この絵は古い福音書から取られています --{この講義の際 、この「古い福音書」による《Sternbild 星座》を拡大したスケッチがホールに掲げられていたが、もはや確認できないので、《Speculum humanae salvationis》の手写本から[678]が印刷された(編集者註より)}崇拝し、すなわち魂の力のすべてを尽くし、魂の内部全体を尽くして認識を求めながら、地球を救済すべく定められている霊の到達する星を仰ぎ見ている王たちです。

678  細密画 三人の王が、キリストの誕生を告げる星を見ている 
《スペクルム フマーナエ サルヴァチオーニス(人間の救済の鏡)》
[Speculum humanae salvationis]によるペン画、ミュンヘン

 マタイ福音書に現れているこの流れは、さらに数世紀が流れ去るとともに根本的にますます理解されなくなったと言うことができます。私たちも知っているとおり、この流れはなるほどクリスマス劇のなかもに再生しています、とは言え、東方のマギの出現ということに対して、今日では、羊飼いたちへのイエスの出現、ルカ福音書にのっとったイエスの出現に対してもたらされたような理解がもたらされることはできません、端的に言って後者の理解は、感情及び感受の理解だからです。けれども、東方のマギたちに関わるものにもたらされねばならない理解は、グノーシス的な理解というものでなければなりません。そして《星に従うこと》ということで意味されるすべては、今やグノーシスではなく、人智学(アントロポゾフィー)的に方向づけられた精神科学が、いっそう公の信頼を見出すときにはじめて、ふたたび人類の意識にのぼることができるでしょう。

 そして最後に、《エジプトへの逃避》、これもキリスト・イエスのグノーシス的顕現とでも呼びうるものですが、これを示しているいくつかの画像をお見せします。これについてきょうは多くは語らないことにしましょう、また別の機会にお話しすることができるでしょうから。まずここで重要なのは、福音書に書かれているすべては、実際のところ、構成自体からしてすでに何かを与えることができるように構成されている、と意識すること、これを出発点とすることですね。エジプトへの逃避、これは私たちには使命との関連で現れ、つまり福音書にとっては正確にマギたちとの関連で現れますが、このエジプトへの逃避は、マギたちが最初に企図したことに基づいて、いわば成就されるわけです -- このエジプトへの逃避が私たちに証明しているのは、旧約聖書のなかでエジプト人について、エジプト的なもの一般について言われていることと、ユダヤ民族との間に関連があるということを、福音書が考慮に入れている、ということです。モーゼはエジプトの学問、すなわちエジプト固有のグノーシスに通暁していました。そして今、福音書において私たちに語られるのは、マギたちが東方から、実際にキリストの星である星により、キリスト・イエスの生誕の地までやってくる、ということ、けれどもさらに、いわば星の進行に完全には従わない何か、マギたちの意識のなかにも生きていない何かが起こらなければならないということですが、これは福音書のなかにはっきりと表明されていますね。これは、決定、そうですね、占星学的に規定できる決定、そういう決定というのは、ある種の偉大な出来事に対してはいわば破られねばならない、ということが私たちに示されているケースのひとつなのです。占星学的な決定が、歴史的な出来事に関して知ることのできるものに、いかに厳密に従っているか、ホロスコープについてみなさんに語られることによって、みなさんもこのことをごらんになりましたね、私たちの友人たちが、時間の経過のなかでキリスト・イエスの死の日とみなされた時のために作成したホロスコープです。けれども同時に私たちには、ゾロアスターがそのなかに生きていた幼児イエスは、この星の領域から運び出されねばならなかったことがわかります。イエスはエジプトに連れていかれ、その後再びエジプトからこの星の領域にもどされます。これは、過ぎ去った古い進化の秘儀全部を含んでいます、エジプトのグノーシスのなかで先祖帰り的なものとなり、意識的に自らを救済するために、いわば新たな啓示がそれと結びつかなければならない古い秘儀です。このような事柄の根底にはこうしたすべてがあり、福音書のなかにはわずかしか見られないにしても、構成の内部にはそれが含まれているのです。

 この機会に私が注意を喚起して起きたいのは、福音書の場合その構成に目を向けることがとくに重要だということです。と申しますのも、テキストは多くの点で破損していて、今日では、言うなればオカルト的なテキストを助けとして読むことができる人々によってのみ、そのままの状態で読まれることが可能だからです。さらにとりわけ翻訳においては、福音書テキストは理解され得ないのはもちろんです。けれども構成のなかには-- みなさんは、カッセルで行われたヨハネ福音書を扱った連続講義において、これをごらんになることができるでしょう -- 、福音書を考察するなら誰であれ、直接すぐさま注意を引かれるあろうものがあるのです。

 画像をお見せする前に、もう少し所見を述べさせていただきたいと思います。今日のような唯物主義的な時代にとっては、本来の時代意識に対する観照とでも申しあげたい、東方のマギたちの啓示の根底にあるような関連へと入っていく観照というものは、まったく失われてしまいました。今日占星学と呼ばれているものは、まったくもってディレッタントたちの手中に落ちてしまいました、彼らはそれによってあらゆる無意味なことを行い、今日では、地球と宇宙の関係について、この関係が物質的な関係、つまり星々の位置関係のなかに現れている限りでですが、この関係について語るときに、本気でそうするひとはわずかです。今日科学と呼ばれているもの、科学と称するものにとって、そもそも占星学などというのは古い迷信です。実際この占星学に関するものは、十八世紀になってはじめて、こういう表現を使ってよければ、どん底まで没落しました。十八世紀においてはまだ、マギたち、つまり三人のマギの出現の根底をなす深みについて理解を得たいのならば非常に重要な何かについて、語られていたのです。十八世紀には、古いイニシエーションの関係、秘儀参入の関係のなかから、いくばくかを守ってきたひとたちによって、物質的な星位の意味について、さらには不可視の星位の意味についても語られていたのです。十八世紀には、幾人かの知者たちのもとでなおもはっきりと語られていました、まず秘儀参入者が見ることのできる星もあるのだ、と。-- これは真実です、そして、なぜ羊飼いたちにイマジネーションが現れ、マギたちには星が現れるのか理解したければ、このことはとりわけ考慮されねばなりません。このことによって示唆されるのは、羊飼いたちには、彼らが古い先祖帰り的な意味で、生まれつきの、夢のような観る力を持っていることよって、啓示が現れるということです。東方のマギたちについて暗示されるのは、彼らが、まだ伝承されていた古い学によって、宇宙と地球の関係について知識を得、それによって何が近づいてきているのかを知り、何が近づいてきているのかいわば計算することができる、ということです。したがって-- 私たちが絵画の発展を考察すれば、みなさんもそれにお気づきになるでしょう -- 、あらゆる自然主義への移行にも関わらず、のちほどこれに気をつけて見ていただきたいのですが、三人のマギに対して具象的な表現はますます適合しなくなってくることもわかります。三人にマギに対しては、極めて古いもの、典型的なものがもっとも良く適合します、意味されているものは、地上的なものから取り出されているからです。イエスの表現は、いっそう自然主義的なものに移行していくことで、親密なものとなります、なぜならここでふさわしいものは、まさに物質界からキリストに向き合うもの、つまり自然の存在と関連するものが、自然の手段によってもそのなかに最良の表現を見出すことのできるようなものだからです。


 

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