ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第8講

理念の特殊な成果
南ヨーロッパと北方の芸術家について:

ラファエロ
デューラーとその他のマイスターたち

1917/1/17  ドルナハ 


 きょうは、これからスライド上映する機会を得た絵画を通じて、すでに上映した絵画を拠り所に私たちの魂を貫くことのできたいくつかのものの一種の反復再述[Rekapitulation]を行うことになるでしょう。引き続きスライド上映を行っていくこの機会に、いくつかのことに注意を向けていただきたいと思います、これもすでに申し上げたことに関連することではありますが。考察を続けるなかで私たちは、より南ヨーロッパ的な芸術の流れと、北方あるいは中部ヨーロッパ的な芸術の流れを区別し、両方の流れから特徴的なものを紹介しましたね。すでになされた上映を繰り返したいのではなく、ここでラファエロのいくつかの作品の複製を、まずは前に上映しなかったものを上映できるようになっていますので、他ならぬラファエロの個性に関連して、いわば一種の特別な成果 -- まさにラファエロに関しては特別な成果です-- のように、南ヨーロッパ的な芸術性に関する理念から展開されてくる言葉を、少しばかりお話ししておきたいのです。

ラファエロの作品を自らに作用させる人は、ラファエロにおいてはある種の芸術的集中に関して真に最高のものが達成されているのに気づくでしょう。ラファエロの作品を理解したいなら、それを自らに作用させるとき、彼の芸術作品に現れているものが普遍的な世界関連のただなかに立っているそのしかたについて、いわば自己自身のなかで問いかけることになります。ひとつこの観点から《セディアの聖母》のことを考えてみてください。


195  ラファエロ  セディアの聖母(マドンナ)

 この聖母の絵が根本においていかにあらゆる方向へと、偉大な世界展望[Weltperspektive]のなかに置かれているか、考えてみてください。この絵をまず、キリスト教的世界観の発露と捉えてみてください。キリスト教的世界観の衝動 -- 聖母との関連におけるキリスト・イエスの誕生-- があるのですが、理念、意図、衝動に従って表現されるべきもの、世界史的な意味にしたがって表現されるべきものが、凌駕され得ない手段をもって表現されている、と言えるようなありかたなのです。ある観点からすると、幼子イエスとともにある聖母というあのモティーフが人間の魂に引き起こしうるほどの印象の高揚は、この描写のほかには考えられません -- いかなる印象の高揚も考えられないのです -- 。このように、キリスト教的世界観の、諸理念のひとつ、諸観念のひとつが、ある意味で考えうる最高の手法で表現されています。

 この絵を、あたかもキリスト教的見解について何も知らないかのように、つまりヘルマン・グリムがかつてこの絵についてまさしく語ったように、そのように観察するなら、この絵は端的に、母と子の関わりの奥深い秘儀の表現と見なされるでしょう、子をともなう母 -- やはり表現の手段を通じて、われわれ全なる人間の物質体のなかに存在する宇宙という極めて神秘に満ちたモティーフのひとつに関して最高のものに到達しています。このように、あらゆる世界史的な出来事から遠く離れた、子を伴う母という純粋な自然画を取り上げるときでさえ、これもまた自己完結したものであり、その流儀において最高のものを描写するものなのです。

 ラファエロの場合は常にそうなのですが、モティーフの宇宙的意味[Weltbedeutung]を問うことができ、さらにその手法は、私たちが南方世界について述べることのできたあの流れから発し、自らの内で完結されたしかたでモティーフを表現します。けれどもこれがまさに特徴的なことなのですが、モティーフをある特定の宇宙的意味のなかで考えなければならない、ということです。モティーフをキリスト教的に見ると -- 前述の二つ以外にもさまざまな観点によってそれを考察することができるでしょうが-- 、モティーフをキリスト教的に見ると、それは大きな歴史的連関のなかに据えられており、個々の個人的ー人間的なものから切り離されています。第二の観点におけるように、これを自然連関のなかに据えると、それは人間たちから切り離されます。それはいわば、作品を生み出す際に活動していた人間的なもの、ラファエロの人間的なものが忘れ去られるかのようです。画家の背後には、画家のなかにその表現を見出す偉大な世界観的展望[Weltanschauungsperspektiv]が控えているのです。私たちがアトランティス後第四時代と呼んだまさに終わりつつある時代の画家として、ラファエロのような画家はこのことをよく心得ていました。このように終わりつつある時代が、あるいはその内面性において時代の限界をなおも凌駕しつつ、最高のものを表現するのです。

 同様にたとえばデューラーの個性を観察すれば、事態はまったく異なっているということを、私たちはのちほど見ていくでしょう、そこでは事態はまったく異なっているのです。今挙げた聖母について私たちが行ったのとまったく同様に、みなさんはシスティーナの聖母を観察することができるでしょう。


193-194 ラファエロ  システィーナの聖母(マドンナ)

 ここでもみなさんはこう言わざるを得ないでしょう、描写されているものはとりわけ、それがより大きな世界観的展望によって際立っている、ということによって興味深い、だから、より大きな世界観的展望という背景なしに、事は考えられない、と。

 ひとつこの観点から、きょう扱える限りのラファエロの絵画を眺めてみましょう、そして特徴づけられたこの観点そのものに注意してみましょう。特徴づけられたこの観点において創造するためには、まさにこの観点によって作品を偉大な世界展望から取り出すためには、ラファエロの魂においては何かが、宇宙的ー法則的なもの、とでも申し上げたいものも含めて、彼の実際最高度に特殊な人生のなかに現れるように作用しなければなりませんでした。ラファエロの創作が実際いかに規則的に-- すでにヘルマン・グリムが強調しましたが-- 周期的になされたか、ただ考えてほしいのです。二十一歳で彼は《マリアの結婚》(178)を制作、その四年後に《埋葬》(225-229)、さらにその四年後に彼は《署名の間》のフレスコ画を完成させ、さらにまた四年後に《タピスリーのための下絵》(231-233)と二つの聖母画(193-195)を制作、そしてまた四年後、三十七歳の時に、《キリストの変容》の制作に着手しますが、彼が物質界を去ったため、これは未完に終わります。正確に四年周期で、ラファエロのなかの宇宙的原理のような何かとでも申し上げたいものが、《世界展望から発してくるもの》を創造するのです。ですからラファエロの創作はあれほどきっぱりと彼の個人性から切り離されているのです。それで私たちは彼の場合にはいつも、今や世界史的モティーフであるモティーフ、彼が表現したいモティーフが、いかに完全に、いかに自らのうちに完結して表現されるのか、という問いを投げかけるよう導かれるのです。そして、今日までの芸術考察はすべて、ほかの何よりもまして、ラファエロがそのさなかにいる芸術そのものから取ってこられているので、今日顕教的な一般生活において支配的な芸術考察はすべて、多かれ少なかれ次のような形になっていることがわかります、つまり、なるほどもろもろの概念、観念、理念は、ラファエロがその最高の顕れである芸術、すなわちイタリア・ルネサンスの芸術を拠り所として学ばれるのだ、というわけです。したがって、この芸術を表すための、そして理想によって測るように、この芸術の表出によって他のすべての芸術を測るための、最良の概念が、外的生活において獲得されます。これととくに区別される何らかの別の芸術の方向を、そもそも単に口にするだけにしても、そのために私たちが意のままに使える言葉はほとんどありません、観念、理念もです。これは独特なことです。

 さてここで、私たちがラファエロでいくつかの例外を除いてまだ観察していなかった一連の画像を、私たちの魂に通過させてみましょう。これは《エゼキエルの幻視》です。

215   ラファエロ   エゼキエルの幻視

 エゼキエルの幻視 --ラファエロの時代にはまだあったそのような観念のうち、今日もはや生き残っているものはむろんありませんが -- が、生き生きと描き出されています。霊的世界での魂のこの遍歴を、人間の姿のなかにこれほど事態に即して思い描くことは、精神科学から遠く隔たっている人々にとって、今日では当然もはや不可能です。下の方に動物的なものがありますが、これは人間が自らから消し去ったけれども、エーテル体が物質体から離れるときに、そのエーテル体のなかにむろんまだよく見出されるものの顕れです。ここで天使の姿で描かれているようなしかたで無邪気さと結びつくこと、これはまったくリアルな観念(表象)に適合しています、実際の現実の観念(表象)に適合しているのです。あるがままの人間を完璧に観察するなら、こう言うことができるでしょう、《境域の守護者》について知らされたときに、語られねばならない三分割性、この三分割性が、物質体から解放された人間の霊的(精神的)なものが意味されるいたるところで現れてくるのだ、と。したがって、この三分割的なものは、象徴的な形式のなかにではなく、本来霊的(精神的)な現実に適合したきわめてさまざまな形式のなかに見出されます、ちょうどここで成長した人間の、子どもと動物との関係のなかに見出されるように。

76   ペルジーノ(工房)  マリアの結婚、ペルジーノの飾り台《聖母と聖人たち》のための(による)習作

 ここでお見せするのは、マリアの結婚のための習作である可能性があります。

75 ペルジーノ 結婚[Sposalizio]

75a ラファエロ 結婚[Sposalizio] 

 つまり、ラファエロの偉大な芸術家の軌跡が実際そこから始まるあの絵画、彼の芸術創造の全体を支配する四年周期の始まりである二十一歳のときに制作された絵の習作です。

230 ラファエロ ペテロの召命

216 ラファエロ  十字架を担うキリスト

 さてこれもまた、女性たちのキリスト哀悼のための下絵です。

226 ラファエロ 哀悼のための下絵

234 ラファエロ アテネでのパウロの説教

  さてここでもう一度、いわゆる《ディスプータ》の複製です。

197 ラファエロ ディスプータ

 その詳細図もあります、いわゆる三位一体です。

201 ラファエロ 三位一体

 それから《ディスプータのためのスケッチ》です。

199 ラファエロ ディスプータのためのスケッチ

 続いて、

196 ラファエロ 聖チェツィーリエ

これについてはすでに最初の講義でお話ししました。

 続いてはラファエロの肖像画芸術の試作です。

224 ラファエロ 枢機卿の肖像

 今度はヴァチカンの《タピスリー》の試作を二枚、

232 ペテロの漁り

これらは、これに向き合ったゲーテが、当時彼が知っていたものの偉大さという点で、これらに比較できるものはない、と思った絵画です。

 もう一枚が描き出しているのは

233 ラファエロ 不具者の癒し

 ここでお願いしたいのですが、みなさんの眼差しをきょうのラファエロの絵にもどしてごらんになるとき、これはたとえばきょうお見せしたスケッチを考慮しても言えることですけれども、これらの絵において、いかに力強い芸術伝統の残照が見出されるか、思い出していただきたいのです。それはひとつの芸術伝統の終結を形作る最後にして最高のものです。さらにお願いしたいのですが、たとえば《パウロの説教》(234)という絵や、別の、例えば《ディスプータ》(197-198)あるいはその他の絵のことを考えてみてください、それだけでみなさんがごらんになった絵画から、お望みのものを実際取り出すことができるでしょう、そしていたるところでみなさんはこう言うことができるでしょう、私は描写されているものを識別する、そして出来事あるいは描写されている人物をめぐって問いかけるが、描写されているものがあれこれの性質を持つ、とか、あれこれを表現している、といった答えを単に得るということではけっして充分ではないだろう、そうではなく、描写するものを高度の芸術理念に即して表現するということを芸術家は、どう考えているのか、という問いがいたるところで投げかけられなければならない、と。パウロが説教したとき、彼の両手はどのように上げられたか、と私たちは問うだけでよいわけではない、ラファエロの場合、両手が身体とともに形成すべき角度その他が、いかに芸術の均斉にのっとって表現されねばならないのか、と私たちは問わなければならない、と。いたるところで、特別な芸術的法則性の魔法の息吹とでも申し上げたいものが、あらゆるものに注がれているのです。ここの右の柱の傍らに立っている少年の場合、みなさんは単に、この少年の魂のなかに何が起こっているのか、と問うことはできないでしょう、そうではなく、みなさんは、特別な芸術的法則性にしたがって問いかけざるを得ないでしょう、同じ向きにあるなどする両腕の、両側への延長が、いかに絵の全体のなかに置かれているか、いたるところで調和の法則にしたがって問いかけざるを得ないでしょう。要するに、芸術的に際立っている、とでも申し上げたいものと、モティーフとしてその背後にあるものとを、私たちは厳密に区別することができるのですが、ただここでは芸術が、モティーフ的なもののすべてを芸術の領域へと追い込むほどに力強く現れているのです。したがって私たちは、このラファエロのような芸術家の場合、この言葉をそのもっとも本来的な意味そのままに刻印することができます、芸術的真実は他のものすべてを真となし、芸術的真実は他のものすべてを否応なくその圏内に導く、という言葉を。

 さてこれから私たちの魂の前を通過させる次のような一連の絵に対しては、みなさんはこういう意味でのこの言葉を適用することはできません。

 ここで -- 1491年に死んだショーンガウアーをもう一度思い出すために -- 彼の《十字架を担うキリスト》を見ましょう。

252 ショーンガウアー 十字架を担うキリスト

 とは言えここでみなさんがごらんになるのは、正反対のものとでも申し上げたいものです。ここでまずいたるところでみなさんがごらんになるのは、この芸術家は彼が表現したいものを表現することに主要な価値を置いているということ、そして、より大きな伝統の終焉をうむであろうこのように特別に芸術的にして真なるものは、魔法の息吹のようにその上に漂っているのではなく、芸術的的手法の克服を通して芸術家にとって可能な限り、魂のなかにあるものを表現すべく努力がなされているということでしょう。ここでは世界が、偉大な芸術伝統を通してではなく、直接私たちに語りかけているのです。

 さて同様に今度は、まだスライド上映していない一連の絵画になかで、デューラーの個性を私たちの魂に作用させていきましょう。デューラーの場合 -- ラファエロの同時代人と言えるかもしれませんが -- 、私たちはまるっきり別の個性を前にしています。デューラーの場合、ラファエロの場合と同様に考えるのは不可能です。デューラーの場合、私たちは個性を、人間的なものを忘れることができる、などどいうことは容易に見出せないでしょう。私たちが常に無条件にそれを思い浮かべざるを得ないかのように、というわけではないにしても、絵そのものが人間の魂に直接親しみ深いもの、人間の魂に根本的に由来するものを示しているのです。そしてラファエロが根本において常に偉大な世界展望の背景に基づいて描くように、デューラーは、一方において、彼の魂のなかで、いわばキリスト教的天才そのものが描いているときのようにのみ考えられうるのであり、他方では、まさに偉大な芸術時代、弟子たちがその師のもとで、芸術的均斉であるものや、偉大な芸術の要求に合う特定のしかたでなされねばならないものについて多く学んだ時代、そういう時代の終わりに立っているようにのみ考えられます、ラファエロの場合、人はいつもこの前に置かれるのですが、デューラーの場合、背景のいたるところに、当時の中部ヨーロッパの生活のアウラ[Aura](オーラ)のような何か、ドイツの都市制度のアウラ、とでも申し上げたいものが見えるのです。これらの絵においては、都市文化の自由のなかに花開いたもの、宗教改革に対抗したものすべてが、目に見えないかたちで働いています。同時にデューラーはそもそも、何らかの偉大な世界展望が背景にあるというのではなく、聖書に歩み寄る通常の人間的なものとでも申し上げたいものが、隣人へと歩み寄り、自分の魂を表現する、というような具合で、したがってこの人間的なものを、申しましたように、決してそれから切り離すこちはできないのです。ラファエロの場合のような魂を貫いて宇宙的に働きかける何か、といったものは、デューラーにおいてはむろん求めることは許されません、それに対して、何か親しみ深いもの、しばしば充分に言い表すことはできませんが、人間の魂、その感情、探求、憧れ、努力と密に関連する何かが求められるのです。

294 デューラー 四人の魔女

277 デューラー メランヒトン

 これは、宗教改革の司祭的な担い手であったルターに対して、神学的な担い手であったメランヒトンの肖像です。

 これはプラハにあるいわゆる薔薇の花冠祭{の絵}です。

282 デューラー 薔薇の花冠の祭

 法王、皇帝、そしてキリスト教徒の代表が、マリア、幼子イエス、聖ドミニクスから薔薇の花冠を授けられています。この上の右でふたりの人物が樹に寄りかかっていますが、そのひとつはデューラーを描いていてそれをこの詳細図にごらんいただけます。

283 デューラー 薔薇の花冠の祭、部分 自画像

 続いてまたデューラーの肖像芸術の試作です、それは

275 デューラー デューラーの父

276 デューラー イムホフ像

 このような肖像をよくごらんになれば、当時の生活が生きたものになることができるでしょう、そして実際その点において、デューラーは第一級の歴史的個性であると言えます、と申しますのも、そもそも、デューラーが創作したものによって以上には、いかなる歴史的文献によっても、当時人々にとって何が存在していたのか、よく知ることはできないからです。

 これで私たちが使える絵画のスライドはすべて上映しました。今度は、デューラーの素描その他のなかから、デューラーをある程度特徴づけることができるものを上映したいと思います。まず始めに、彼が1498年に十五枚に仕上げた《黙示録[Apokalypse]》シリーズの木版画をいくつかお見せします。ごらんのように最初の画像は、

296 デューラー 黙示録の四人の騎手

 次の画像は

297 デューラー 太陽の女

298  天国における選ばれた者たちの讃歌

299  天使たちの解放

300  ミカエルと龍

 さて今度は、いわゆる《銅版画ー受難》からいくつか画像を見てみましょう。

302 デューラー ヴェロニカの汗拭き布

   続いて、この時代に繰り返し何度も登場するモティーフです。

303 デューラー 苦難の男(キリスト)

 さらに

304  デューラー  鞭打ち

305  デューラー  荊の戴冠

306  デューラー エッケ・ホモ[Ecce Homo](この人を見よ)

 今度は、小木版画の受難、全部で三十七の木版画を含む《小木版画ー受難》から、一連の画像を見てみましょう。これらのきわめて感情のこもった版画のいくつかを見ることになるでしょう。これは表紙です。

307 デューラー 荊の冠のキリスト

 この受難のなかの

309 デューラー 晩餐

310 デューラー 鞭打ち

 次は《嘲り》と呼ばれるものです。

 311 デューラー 十字架上のキリスト

312 デューラー ヴェロニカの汗拭き布

313 デューラー エッケ・ホモ

314 デューラー 十字架を担うキリスト

315 デューラー キリスト哀悼

316 デューラー 復活

 そして今度は

318 デューラー 昇天

295 デューラー 偉大なヘラクレス

 さらにハンス・バルドゥングの、十五世紀末と十六世紀初頭の二枚の木版画をお見せすることができます、彼はおそらく、少なくとも一定期間、デューラーの工房で働いていたようです。

332 ハンス・バルドゥング 三人のパルカ(運命の女神)

 もうひとつは

331 ハンス・バルドゥング エッケ・ホモ

 次は、ハンス・ゼーバルト・ベハムの木版画です。

333 ハンス・ゼーバルト・ベハム 苦難のキリスト

 さて、次のように付け加えたいと思います、通常手に取られる一般的な歴史の手引き書から知ることができる以上に、実際十二、十三、十四、十五、十六世紀の生活全体のなかには、アトランティス後第四時代から第五時代への移行と関連するものが現れている、と。つまり考慮しなければならないのは、時代の境界に立たされるこのような時期にあっては、時代の生活において、大きな飛躍を表す数多くのものが実際に感受されうる、ということです。歴史というのは、手引き書によって信じられているように、いつも原因から結果へ、そして何度も繰り返し原因から結果へ、などというふうに経過するのではなく、きわめてさまざまな領域において、特徴的な時代の転換点に、やはりまったく特徴的な出来事が起こるのです。悟性魂ー心情魂の時代から意識魂の時代への移行に際して、きわめてさまざまな手段のさまざまな現象が起こりますが、これらは、意識魂の発達と関わる衝動がやってきたときにどう感じられたかを示すのです。この意識魂の発展と関わっているのが、人間がアトランティス後第五時代に、純粋に物質的な世界のために特に養成しなければならない、状況の分離です。人間は特に物質界につなぎとめられなければなりません。もちろんそれと同時に今度は、あらゆる反動現象、それに抗うあらゆる現象が起こります。かつての時代からまた入り込んでくるもの、枝分かれし、分離してくるすべてのものも現れてくるのです。

 こうして私たちは、この時代のさまざまな徴候のもとに、集中的なしかたで死という現象と人間が関わり合うということが起こるのを見ます。きわめてさまざまな領域において -- それはすぐにも証明できます -- 死への思いが人間に迫ってくるのです。死はいわば秘儀の性質において魂に歩み寄ります、まさに魂が何にもまして物質界へと歩み出ていくことにとりかかるべき時代にです。けれどもこれに加えて、アトランティス後第四時代の諸現象が、第五時代のなかに入り込んできています、つまり、純粋な権力衝動と化したローマの教皇制の肥大と、それに関連するすべて、古い階級制や高位階級の増加する富、高位階級の高慢といった行き過ぎ、一方においては高位階級の皮相化と宗教的モティーフの浅薄化、他方においては、内面性に向かう人々が、霊的世界の物質的世界への侵入について熟考する、といった現象です。そのためには必然的に、注意は霊的世界へと向けられます、なにしろ、頽廃の芽と衝動は、まさにこの時代に、物質的世界のなかへと甚だしく入り込んでいたからです。それはヨーロッパの広い地域で、ペストが、恐るべき死が、猛威を奮った時代でもありますね。死は、恐ろしい姿をした目に見える現象として、人々のところにも直接近づいてきました。このように、芸術においても、死がその意味を研究されているのを見ることができます。それはとりわけ、名高い《死の行進》において、ピサの教会堂附属墓地外壁に見られる最初の現れのひとつ、とでも申し上げたいものとして、私たちに向かってきます。さらに私たちは、死がどのようにして人間に近づくか、死がどのように運命の法則のもとに人間のどの階級にも近づくか、という死の描写を見出します。描写としての《死の舞踏》、すなわち、世界を通過する死の行進、あらゆる人間の境遇への死の到来は、非常にしばしば描かれるテーマとなります。そしてこうした気分全体から、今やホルバインも彼の《死の舞踏画集》を制作しますが、そのなかの三枚を映しましょう。

 このホルバインの死の舞踏画集のより大きな課題は、死がどのように富裕な人々に近づくか、上であれ下でされ、あらゆる階級の人々に近づくか、しかも公正な審判者として近づくか、ということを示すことでした。死が生に接近するあらゆる可能な状況を、ホルバインはまさに彼の死の舞踏画集のなかに描き出そうとしたのです。まず《死は王に近づき》、彼を王の生活から引き離します。

319 ホルバイン 王

 続いて《死は修道僧に近づき》、

320 ホルバイン 修道僧

 当時、民衆はこのような描写を好んでいました。それは宗教改革が、宗教制度の世俗化、皮相化、浅薄化のすべてと、当時《教会と聖職者の堕落》と呼ばれたものすべてと手を切ろうとする時代ですね。

 続いて、《どのように死は金持ちの男に近づき》、そして金の山のそばに彼を見出すか、です。

321 ホルバイン 金持ちの男

 さて私たちは、ドイツの芸術が、重要な諸現象において、とりわけそのもっとも重要な現象であるデューラーという現象において、十五世紀末と十六世紀初頭に存分に展開するようすを見ました。そもそも、この特殊な芸術潮流の発生、発展についてはどうなのか、という問いは、ますますいっそう興味を引き起こさざるを得ません。そして今、この発展についていくつか申し上げるためには、要因はいかなるものであるのかを特徴ある瞬間に私たちに示してくれる二、三の画像が上映されるのが望ましいのです。

 まさに中部ヨーロッパの、ドイツ、しかも十五世紀初頭の南ドイツの芸術の発展ということで、私たちは独自の研究論文を作成することができます。もっとも、私たちが見ていく画像は、最初は比較的長い発展の結果をお見せしようとするものですが、この結果は、これらの画像において特徴的に私たちの前に現れてくるでしょう。たしかに、諸現象の大まかな輪郭を特徴づけなければならないとしたら、多くを要約せざるを得ません、そして誠実であろうとすると、その特徴的な絵として選ぶものが、個々の場合にはもしかしたら現実化されなかったかもしれないけれども、全体としてはやはり現実化された、というふうにこれを要約しなければなりません。とりわけ明確に理解しておかなくてはならないのは -- 中世の芸術の成立、アルプスの斜面に沿って南ドイツへと入り込む、南部バイエルン地方、シュヴァーベン地方におけるドイツ中世芸術の成立が特徴的に示されているのですが -- 、ここで二つの要因が合流している、ということです。

 ひとつの要因は、ローマ教会制とでも申し上げたい教会の発展の波にのって南からもたらされたすべてのものです。私たちがぜひとも思い描かなくではならないことは -- たとえ歴史的文献にはそれについてほとんど記載されていないとしても、やはり事態がそうであることは真実なのです-- 、教会とその担い手による迂回路を通って、芸術的なものを通じても、とりわけ今挙げた地方のなかへと、きわめて多くの衝動がやってきた、ということです。聖職者である人物が、良い画家であれまずい画家であれ、画家となったこともたしかで、彼らは南からの、ローマ教会制度からやってくる教会制度の発展全体と関わっていました。このとき彼らは、伝統としてそこにあったものすべてを携えてきたのです。その頂点に到達できたのはもちろん天才においてのみにだったにしても、不器用な人たちのもとでも伝統としては学ばれ、存在していた芸術的伝統、この伝統は、とりわけイタリアにおいておなじみのものでした。そこでは、北方に赴く司祭たちも、修道士たちもこの伝統を受け入れます、そしてローマ的・教会的なものから得るほかのすべてのものとともに、芸術的にどのように創造しなければならないかという概念をも伝えます、つまり芸術的調和についての、芸術的均衡についての概念、ひとつの絵のなかに人物たちをどのようにグループ分けするべきか、さもなければどう線を引くべきか、といった概念を伝えるのです。ミケランジェロや、とりわけラファエロのそれのような作品にその頂点が見られるようなものすべて、これが広く分岐した芸術教説から生じてきたわけですね。それはまったく素朴な[naiv]作品などというものではありませんでした。ラファエロも素朴に創造したのではなく、私が申しましたように、まさに広汎な芸術的伝統から創造したのです。当時、ここあるいはあそこに人物たちをどう配置すべきか、ひとりの人物を、それが芸術的に正しく立つなどするようにどう置くべきか、よく知られていました。当時はもう -- これは前回にも言及しましたね-- 、遠近法の法則も、高度に完全な程度にまで達していました。

 これらすべてが北へと伝えられました。このような事柄は、芸術的に活動する才能のあった人々とともに、自らも芸術教育を受けていた修道士たちや司祭たちによって、論議されました。けれども、今日のオーストリア、今日の南部バイエルン、シュヴァーベンといったドイツの地方、こういう地方出身の人々は、まったくいやいやながらこうした芸術的法則を受け入れたことはたしかで、いわば理解できずに多くに対峙していた、と言わなければなりません。彼らが、これをこのようにしなければならない、と聞いたとしても、それは彼らに、これをそのようにしなければならない、というふうに理解されていたわけではありません。彼らは自分自身のなかに、こういう事柄を見る力をまだ育てていなかったからです。したがって、もはやあまり得るもののない時代に、ほかならぬあの地域から受け入れなければならない作品は、ローマ的南方の偉大な芸術伝統にふさわしいものすべてを、不器用なしかたで促進していた作品でした。そのための資質をじゅうぶん持ち合わせてはいなかったために、人々はそれを正しく理解することはできませんでした。人間の資質はまさしくこの地域においては異なっていました。そして私が、一方においてローマの司祭制を通じて北へともたらされたものすべてがやってきた、と言うなら、 -- 私がこれを、一方の要素と呼んだとすれば --、私はもうひとつの要素を、こう呼びたいのです、この地方で何らかのしかたで画家として活動するのに適していることを示した人々自身の心情の基本をなす(エレメンタルな)根源性、と。この人々には、南では芸術的なものの最高の要求と見なされていたものに従う、という資質は本来ありませんでした。遠近法に対しても、彼らには最初まったく見る目がありませんでした。ひとりの人物を前に、前方に置き、もうひとりの人物をもっと背景に置く、というように絵のなかに表現するということ、これを遠近法に従って理解することが彼らには非常に困難でした。多くの関連でドイツ芸術の出発点であるこれらの地域にとって、こうした地域にとって、空間の見方は、十五世紀前半を通して、まだ何か閉鎖したものでした。遠近法の法則を、自身の感じ取ったものとしてほんとうに感じるということに到達することができないのです。せいぜいのところ、ひとつは前に、もうひとつは後ろにある、重なっていくものは前に、重なられたものは後ろにある、というように、重なりによって表現しなければならない、と感じる程度です。このようにしていくつかの空間秩序を絵のなかにもたらそうとするのです。このようにして、空間の法則のなかに自己を見出し始めます。

 けれども、十五世紀後半から特徴あるしかたで登場してくる、まだ稚拙さの残る絵画、まさにこういう絵画から見て取ることができるのは、人間の心の根本をなす[elementar]諸力から直接形成しようとするあの発展にとって、自主的に芸術的創造の法則に至るのがいかに困難であるかということです。こう申し上げたいのですが、私たちは今、ほかならぬこの地域からの実例を手がかりに、伝えられたものとの、つまりいわばいやいやながら受け入れられた伝統との正しい関係が結ばれていないこと、そして自分自身で理解して空間の法則を追求する可能性はまだないということを示したいのです。

 ここでまずみなさんにごらんに入れたいのは、十五世紀前半の芸術家ルーカス・モーザーです。

334 ルーカス・モーザー
    ティーフェンブロンのマグダレーナ祭壇

335  ルーカス・モーザー
            聖人たちの航海   334 の部分

 ここでは、この芸術家にとって、ひとつの平面から抜け出すことが困難でほとんど不可能になっていること、何かを遠近法の法則によって追求する能力がないことをごらんになることができるでしょう。彼は心情の根本をなす力から創造しているのですが、すべての人物が含まれる平面をどのようにしてもほとんど超えることがありません。それにも関わらず、これほどに素朴なものを一度見るのは興味深いことです。

 ルーカス・モーザーは、南からもたらされていた芸術法則のいくつかがむろん生きている社会秩序のなかで制作する芸術家たちのひとりです。すでに南方のスタイルがいくらか入り込んでいます。けれども同時に、その人自身が見るものを絵に付け加えようという試みもなされています。それでいわば一方は他方に矛盾しているのです。と申しますのも、芸術法則が表現するものはどうしても自分では見ることができないからです。

 このいわゆる《聖人たちの航海》をよくごらんになってみてください、ここに見える船-- 前景に見えるとはほとんど言えませんね-- の浮かぶ海 、この海は前方まで来ています。波は、もう少し明るい波頭を作ることで表現されています。けれどもみなさんが視点、そこから全体が見られていると想定できる視点を現実化しようとすると、みなさんはたちまち当惑なさるでしょう。もちろんみなさんは、ある種の俯瞰がなされているかのように高い視点を考えざるを得ないでしょうが、そうすると今度は下の聖人たちのなかに中心人物として現れているものがそれとつじつまが合わないのです。他方では、私たちが見た後世のドイツの芸術家たちのもとで、彼ら本来の偉大さとして後に現れてくるものが、すでに目指されているのを、いたるところでごらんになるでしょう。つまり、自然主義的なもの、表情の再現をこの聖人たちにごらんになるでしょう、この船のなかで、わずかに風が当たっただけで確実に水中に転落してしまいそうなようすで縁に腰掛けている聖人たちに。けれどもみなさんは逆に、それにも関わらず表現の緻密さ、魂的な表現の緻密さが徹底して現れているようす、芸術法則・調和法則のぎごちない観察すべてと並んで、写実的であろうと試みられているようす-- 聖マキシミンの司教冠において、内的真実とは反対に、と申し上げたいようなしかたで観察したものを表現しようと試みられているのをじっくり眺めてみると -- をごらんになるでしょう。と申しますのも、この体勢では顔をこの位置にもってくることは当然不可能でしょうから。同様にこの絵のなかには誤りがまだ夥しくあります。したがって、芸術家は、一方ではのちのドイツ芸術の偉大さとなるものを目指して苦心すると同時に、次のような印象のもとにあるわけです、つまり、お前は、正面向きに[en face]かんばせ[Antlitz]を見せる顔を中心にしなければならない、横顔[Profile]はそれとは反対にしなければならない、という印象です。教えられた特定の法則、絵のなかの特定の配置、こうしたすべてを彼は観察しようとするのですが、彼がそうできるのは基本的な見方の標準に従ってのみであり、それはまだ、何らかの遠近法や何らかの空間法則観察に従うところまで練り上げられたものではなかったのです。

 小さな丘を思い描き、しかもその全体を、絵のなかに実際の後退が一切ないように思い描くとすると、みなさんはどれほど大きな進歩があるかおわかりになるでしょう。この時代を取り上げてみて -- これは十五世紀前半の祭壇画です-- 、デューラーとホルバインまでの時代がいかに短いか注意なさると、南からもたらされた芸術伝統を克服しつつ -- その伝統は望まれていなかったからですが、それに対抗するようすが見られます-- 、伝統を克服し、必要としたものを自ら見出しつつ、自律的で根本をなす衝動から発した力がここで強く働きかけたこと、比較的短い時間にそこまで到達したことがおわかりになるでしょう。

 ルーカス・モーザーのまた別の絵です。

336 ルーカス・モーザー 眠る聖人たち

 この絵をよく見てください、一方では、この芸術家は、自然観というものを、直接的な自然物に対するまったく罪深いものと一致させているのですが、そのようすを実際に示すものを彼が創り出しているのがおわかりですね。この瓦屋根、ここの教会の塔、このアンサンブル全体はもちろん、この芸術家がどこにも見出し得なかったものですが、彼はそれを組み合わせています。彼がそれを組み合わせるのは、《空間のなかの人物たちの配分について》ある程度の法則を獲得したからです。ここで、彼が個々の事物を自分の見方にしたがって仕上げているのがおわかりでしょう、まったくもって自然主義的な発端がすでにこのなかにあるのです。同時にみなさんは、彼が自然主義的であろうと努めながら、その際それでもやはり、自分が感じるものを表現しようとしているのをごらんになります。彼は眠っている聖人たちを組み合わせますが、彼はそれを、ぜひともふさわしく組み合わせようとして組み合わせるのです、司教冠をつけて眠っているセドニウスをまず向こうの左側に、姉の膝で眠るラザロを右に、という具合に。

337 ルーカス・モーザー 姉の膝で眠るラザロ

 全体はやはり平面に置かれているようになっています。けれどもひとつのことにすでにお気づきでしょうが、ここではもう、投影によって空間作用を生み出そうとする試みが登場しているのです。ルーカス・モーザーは、遠近法の法則とはきわめて危機を孕んだ関係にある一方、投影および光と影の分割全般によって、空間性を生み出そうと試みています。これまでの機会にみなさんに特徴をお話ししましたが、これがまさに、ドイツの芸術潮流の独自性なのです、つまり光を捉えることによって、光の空間性によって、光の空間作用によって、空間性を感じ取ることです。つまりここでは、線的な遠近法の法則から、遠近法における線描の法則から出発するのではなく、光の作用を探し出すことによって、空間を前と後ろに拡大することから出発するわけです。

338  ルーカス・モーザー  自画像
        マグダレーナ祭壇のティンパヌムから

 自然の真実をすでに求めてはいるけれども、基本的にはこのモーザーと同様に特徴づけられるべき芸術家、つまりハンス・ムルチャーの場合に、このことはとくに意味深く見えます。

339 ハンス・ムルチャー キリストの誕生

 これはごらんのとおりキリストの誕生です。ここでもまた、私が前に申しましたような、南からやってきたという意味での空間法則は本来皆無であり、その反対に、すでに光の空間作用における始まりが見られます、多大な注意深さをもって創造しつつ、光の作用から空間となるもの、とでも申し上げたいもののなかに見られるのです。この絵、シュテルツィングの祭壇画は、1437年に描かれました。

 まさしくモーザーとムルチャーの絵のなかに、ドイツ南部の自然から生み出された真の芸術衝動が見られます。ここにあるのは、結局のちにデューラー、ホルバインその他の芸術のなかに開花したものです、ただ彼らは、ネーデルラント、フランドルから影響を受けていましたが。そしてケルンの人々もまたこの同じ衝動に根ざしています。みなさんはいたるところに、このような衝動の発展の当初において、特徴的な事柄がすでに奇妙に現れてきているのをごらんになるでしょう。いたるところに、さまざまな人物の魂の内なるものを表現しようとする苦心が見られます。けれども同時にみなさんは、何か別の、自然の真実という事柄と、まさに緊張関係にあることもごらんになるでしょう。みなさんが、よろしいですか、この後方に向かって置かれている群衆のなかに入り込んで考えてみると、-- 顔の近さを取り上げてみてください、顔と顔が時折とる距離の近さにしたがって思い描くと、人物たちは、左と右で腕を切り落とさないことには、並んで立つことはできません。つまり空間分割というような事柄については顧慮されていないのです。人物は別の人物のなかに入り込んでいます。

 ムルチャーの別の絵です。

340 ハンス・ムルチャー オリーブ山のキリスト

ここで注意を払っていただきたいのは、彼がいかに風景のなかに、風景の描写のなかに入り込もうと試みているかということです。後に残された三人の使徒の姿がいかに心のこもったであるか、けれどもこの芸術家は、前景と背景とを実際に区別することにいかに成功していないか、ごらんください。どのようにであれ空間法則を追求することがほとんどできないことを、みなさんはこの絵においてとりわけ鮮明に見て取とることができるでしょう。これに対してまた、彼が光の作用によって空間性を表現しようと努めていること、その結果ドイツ芸術においてその後とりわけ偉大になっているもの、そうしたものもこの絵において感じ取ることができるのです。

ムルチャーのまた別の絵です。

341 ハンス・ムルチャー 埋葬

 まさにルーカス・モーザーとハンス・ムルチャーのなかに、この両者のなかに、わずかしか含まれていないにしてもほかのものとならんで -- こういう事柄は本来教会においていたるところで見出さなくてはならないのですが -- 、私たちはドイツ芸術の直接の始まりを見なければなりません。あらゆるぎごちなさ、あらゆる稚拙さをともないつつも、私たちがのちの時代から引き合いに出した絵画のなかにすでに偉大な結果を表したもののまさに始まりが、ここで稚拙なものから出発して -- 南からやってくる伝統のなかに入り込んで自己を見出すことが直接できないまま-- このように直接できないまま描いているのを私たちは見ます。私たちはまさに内面性が、法則としてもたらされるものに抵抗するのを見るのです。

 今度はヨハネス・ムルチャーのまた別の絵です。

342 ハンス・ムルチャー 復活

 この絵をじっくりとごらんになってください、そうすれば、このふたりの芸術家に関連して言われたことすべてが、この絵のなかにまったく特別に明白に現れているのがおわかりでしょう。石棺 -- たぶんこれをそう呼んでもよいでしょう -- とともに人物たちがそこから見られている一点を探そうとするなら、みなさんはその点を上の高いところに探さざるをえないでしょう、つまり本来は全体を俯瞰しているのです。これは俯瞰図です。けれどもみなさんが木々を眺めると、これらの木々は、前から見られていることがわかるでしょう。したがってこの絵のための一貫した視点はありません。木々は正面図で表されていますが、絵全体は俯瞰図で、つまり一貫した空間法則の観念がないのです。そしてみなさんがふつうこの絵にごらんになるもの、いわば遠近法において見るものは、もし空間の内的な分割が光の作用によってこれほど明白な程度で存在していないとしたら、すっかり脱落していることでしょう -- そこでは、目は非常にたやすく欺きます -- 。このなかに線遠近法をさがすことはまったく無駄でしょう、そしていたるところに誤りを見つけるでしょう、当然犯されうるような誤りではなく、絵そのものを不可能にしかねない誤りです。けれども私たちはいたるところに、空間性としての光を生み出すものによって、単なる線遠近法を克服しようとする努力を見ます。同時に、中部ヨーロッパにおけるこの芸術家が、自己自身からアンサンブルを感じ取るようにならざるを得ないことも見ます。これらの絵画にはもちろんほとんど現れていませんが、興味深いことに、ムルチャーの場合ほかならぬこの祭壇画の別の部分を見ると、彼がまさに細やかな光感覚をすでに持ち合わせていることによって、例えば実際に顔の表情をうまく出すことができているのに気づきます。けれども彼はほとんど -- ここではいくらかは現れているにしても顕著ではありませんが -- 正しく、芸術的に正しく、耳をまったく度外視して目を形成する状態にはないことにも気づきます、彼はまだこれらすべてのための発達した独立した感覚を持っていないので、目をまだまったく教えられた通りに作り上げているのです。彼は一方においては、彼に語られたものを観察していますが、芸術的な理解はじゅうぶんでなく、伝統に合ったように行ってはいますが、よくできてはいません。これに対して、のちのドイツ芸術のなかにまさに完成されて登場してくるものが、まだ稚拙なしかたではあってもすでに見られるのです。しかし奇妙なことに、モーザーとムルチャーのほぼ同時代人であるハンブルクのマイスター・フランケの場合、今やこれらのものすべてが、すでに大きく完成した状態で、ドイツ芸術のなかに見出されうる完成状態で、登場してきます。

343  マイスター・フランケ エッケ・ホモ(この人を見よ)

 つまりこのエッケ・ホモ、苦難のキリストの場合、実にごらんのとおり、その後際立ってくる表現が -- キリストの頭部のための表現、と言いたいのですが -- 、ここですでに高度な完成に至っています。この頭部を、ちょうど少し前にムルチャーによって見られた頭部と比較してごらんになれば、そこには当然顕著な進歩を認められるでしょう、人物の形成全体においても同様です。のちにデューラーの場合に画家としても、銅版画家としても、木版画家としても認められたように、芸術手法がより完全なしかたで扱われることによって生み出されたような独特のものは、むろん不足していますが。

 このマイスター・フランケの絵をもうひとつ

344 マイスター・フランケ 復活

 全体においてこう言わなければなりません、これらの始まりにあって、次いでデューラー、ホルバインなどに至った芸術進化は、やはりある意味で結局のところ途切れているのだ、と。のちに、ローマ的なもの、ローマ原理に再び向かうことで中断があります。そして、十九世紀は明らかに逆向きの進化のなかにありましたね。これは確かに人類進化の重要な内的法則と関連しています。これは、根本において明暗から作り出し、色彩的なものと明暗との関連を発見する -- 私はこれをレンブラントにおいて説明いたしました、説明しようと試みました -- 芸術進化全体のなかにありますが、こういう芸術は同時に、ある種の文化史的な必然性から、自然主義を目指して努力します。ただし、この芸術はその頂点を自然主義のなかに獲得することはできません。なぜなら、事物の内面性、単に魂の内面性のみならず、事物の内面性に対する特別な天分、ゲーテはその色彩論において色彩の秘密を理論的に表現しようと試みますが、その色彩の秘密を自らのうちに含む明暗の空間法則、この明暗の空間法則に見られるような事物の内面性に対する天分、霊的(精神的)な秘密を描き、描写する可能性につながるのは、この事物の内面性への特別な天分においてだからです。したがって、この、色彩付与の内的なものから、明暗の内的なものから、霊的な秘密を描くということは、進化においてまだ未決定のままなのです。これはさらに、ほかの芸術にも広がっていくでしょう。

 このことは精神科学的世界観によってはじめてもたらすことができますので、この芸術の始まりにあるもの、つまり内的な光から創造すること、光の形成からの、光の形態付与からの創造、こうしたものが、いつか未来に統合されなければならないのです。しかしこのような創造、さらには存在の内なるものからも創造する、そのような創造は、当然スピリチュアルな[spirituell]創造でしかありえません。したがって、聖人たちの物語の描写に関しては、この芸術はもちろんあの高みには到達できないことがいつもわかるでしょう -- 私たちが知るに至ったひとりの画家の場合は多くの点で完成に達していたにもかかわらず -- 、たとえばラファエロの場合に描写が到達していたような完成には到達できなかったのです。それに対して、この芸術から脈打つものと霊的生命との関連、そこではイマジネーションとファンタジーがひとつになり、イマジネーション的な芸術を創造するだろう、と申し上げたいのですが、そういう関連のみを見出すならば、この芸術のなかにそれでもやはり描写において生きているもの、霊的なものそのものが働いているのです。

 このことはわずかながら、ここ私たちの建築においても当初から試みられていたわけですが、この建築は新たな芸術衝動のひとつの始まりとなるかもしれません。むろんどんな始まりも、まだ稚拙なものを含むのはいたしかたありません。けれども、ここではきわめてさまざまな分野において、より大きなスタイルにおいて新たなものを目指す試みがなされました。さて、もしかすると、後にいつかここで目指されていたものが理解されるときには、この芸術と、先行する時代と同時代の彫刻のなかに -- これらの彫刻も見ましたが -- すでに現れていたある芸術衝動、この芸術進化のなかに、なぜいわば中断が起こらざるを得なかったのか、ということも理解されるでしょう。と申しますのも、その後十九世紀において、たとえばカウルバッハ、コルネリウス、オーヴァーベックその他の芸術に現れるもの、これはまた、この芸術のなかに衝動として生きているものとなんとかけ離れていることでしょう!カウルバッハ、コルネリウス、オーヴァーベックなどに私たちが見るのは、南方の要素がまったく反復発生させられている[rekapituliert]、とでも申し上げたいようすですが、他方でここでは内部のいたるところに、ローマ的なものに対するきわめてラディカルな反抗が見られます。けれどもさらに正確に見ようとする人は、深い関連を見出すでしょう。みなさんにお見せしたムルチャーの四枚の絵のことをよく考えてみてください。これらはいわば、シュヴァーベン的な芸術傾向とでも申し上げたいものを表していますね。そうです、私たちがここに見出すのは、世界の平面的な把握、光を用いて平面から造り出すことなのです。

 より繊細な関連について感受性のある人は、やはりシュヴァーベン的な才能から生み出されたヘーゲルの哲学や、シェリングの哲学 -- これまたシュヴァーベン的なものから生み出された -- 、そしてヘルダーリンの芸術のなかにも、同様なものを感じ取ることができるでしょう。平面的なもののこういう把握、ただし平面的なものから光を用いて創造することの把握ですが、こうした把握は、単に素朴な初期段階のこういう芸術にのみ見出されるのではなく、ヘーゲル哲学のなかにすら見出されます。ですからヘーゲルの哲学は、世界の理想的ないし理念的な絵画のように、いわば平面的に作用するのです、その絵画は平面から働きかけ、そしてこの立場からすればこれもまた、完全な現実性のなかに、つまり単に現実性の平面への投影ではなく、完全な現実性のなかに入り込んで働きかけなければならないものの哲学的な始まりを示すことができるのみなのですが、そういう絵画のようにです。そしてこれもまたスピリチュアリティ[Spiritualitaet]でしかあり得ないのです。ものごとは関連しています。そして私が申し上げたいのは、ヨーロッパの文化発展に関連して私が今この時代において他の分野について示そうと試みたもの、それはこれほど見事に芸術のあらゆる個別部分のなかに保存されている、ということです。そしてみなさんは、私たちが一昨日ヨーロッパのさまざまな地域にひとつの衝動として生きているのを認めたすべてのもの、これを追求することができるでしょう、みなさんが西の芸術を追求するなら、私たちが芸術のなかにネーデルラント地方からやってきてドイツ西部に入り込むのを見たものを追求するなら、さらに今私たちが、きわめて独自のしかたでドイツの精神そのものから育ってくる、とでも申し上げたいものを観察することができたなら、これを追求できるでしょう。と申しますのも、ルーカス・モーザーとハンス・ムルチャーのための基礎として私たちがきょう上映できたもの、これはやはり、ドイツ精神の領域、ドイツ精神のもっとも中心的な領域だからです。これは、ドイツ的なものがもっとも根源的に、さらには真にもっともふさわしく、発展してきた場なのです、なぜならここでは一方において、ドイツ的心情のスピリチュアルなものとの親和性によって、キリスト教が内的に習得されたからです。この地域でのキリスト教習得のプロセスは、ずっと内的なものでした。ですからドイツの本質の根源的な、基本的才能も、ここで芸術のなかにもたらされます。すでにローマ化されてキリスト教を南からもたらすものではなく、キリスト教そのものが、心情のなかから芸術的に働きかけるでしょう。

 このようなことはもちろん北方ドイツにおいては、南からの刺激がやってくることなくして同程度に起こることはできませんでした、ちょうどヘーゲルの哲学も南から刺激され、シェリングの哲学も南から刺激されていたようにです。一方カントの哲学にまったくもって見て取ることができるのは、それがきわめて重要な意味で北ドイツの産物であり、その独自性は、そもそもこの根本的にプロイセン的な地域は比較的長期にわたって異教的であり続け、ある種の外的なプロセス、南ドイツの地域よりもはるかに外的なプロセスを通じて、比較的のちの時代にキリスト教へと導かれた、ということと関連している、ということです。と申しますのも、プロイセン、本来のプロイセンは、は非常にのちの時代になるまで、異教的であり続けたからですね。

 私たちが通常歴史発展のなかに見る物事が、まさに芸術の発展と思考生活の発展のなかでも立証されているのを見出すことができます。この理由から私はきょう、ほかならぬルーカス・モーザーとハンス・ムルチャーを、私たちの考察の結びに置きたいと思ったのです。


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