教育について

〜シュタイナー教育を中心に〜


カルマ論と教育

カルマ論から●自己教育としての教育

芸術●教育●自由●ファンタジー

教育と伝統の「型」

シュタイナー教育の考え方

シュタイナー教育の実践

シュタイナー教育論

モンテッソーリの幼児教育から

「シュタイナー教育」はなかった?

教育の責任

やはり、自己教育

三種の善意

 

カルマ論と教育


(92/01/14 )

 

 現在の日本の教育という問題、もっと根本的に考え直さなければならないように思えます。

「精神」を取り戻すというか、一番大事な根本のところを考え直すことですね。そこらへんの問題をひっくるめて考えようとしたときに、シュタイナーの教育論というのは極めて重要なガイドになるような気がしています。

ちょうど、先日シュタイナーの「霊学の観点からの子供の教育」(イザラ書房)を読んだところなのですが、やはり本当の人間認識をしようという姿勢なしでは、教育どころかあらゆる人間の営為は結局、むなしいものとなってしまいかねません。

カルマ論にしても、これはシュタイナーがその人智学の成果として最終的に世に残そうとした考え方で、その死を悟ってから死のときまで、毎日のように書き続けた未完の大著こそがこの「カルマ論」だったようです。やはり、シュタイナーの思想は基本的にいって、霊性の進化論であって、その際の論点の核となるのは、輪廻転生ということと、このカルマの思想です。先日高橋巌さんにお会いしたときにも、この「カルマ論」の翻訳ということを少しずつでもやっていかなければならないようにおっしゃってたくらいです。何しろ4巻本の大著ということで、なかなかその実現は遠いようですけど。

 カルマということがいわれる場合、2つの観点があって、ひとつは、現在の運命の原因を過去に見いだして説明するという側面。もうひとつは、未来にあるべき存在様式を想定し、それを実現するための倫理的な生き方を考えるという側面ですが、ともすれば安易な前者だけの観点のみが強調されすぎるきらいがありますが、やはり、この後者を欠いては霊性の進化論としては無意味でありますし、教育ということを考えた際にも、その根本的な拠り所というのは、この倫理面としてのカルマ論というのが大きなポジションを占めるべきであろうと思います。

 今、インディアンやアイヌなどのアニミズム的な考え方を調べていますが、この古代的なアニミズムの復権という課題も、このカルマ論をベースとした未来展望型でなければ意味がないと思ってます。西川隆範さんの新著に「シュタイナーの宇宙進化論」というのがありますが、この「宇宙進化論」の根拠こそがカルマ論であると思います。

 先日、子安美智子さんのシュタイナー教育には大きく欠けているものがある、と示唆だけしておきましたが、この際いっておくと、一番欠けているのが、教育の意味としてのこのカルマ論に他ならないのです。ここをまったく無視しておいて、霊学=精神科学としてのシュタイナー教育を云々ということは、砂上の楼閣にすぎないとさえ思っています。

 シュタイナー教育の「形」ではなく、「精神」を取り入れるべきである旨、発言しておきましたが、まさにこの認識のベースの部分こそ検討されるべき価値の宝庫だといえるような気がします。

 少しだけ、引用を。出典は、シュタイナー:「霊魂の再受肉とカルマ」(人智学出版社刊・「カルマはいかに作用するか」(新田義之訳より)

外的な自然の領域における進化を云々する本当の資格は、同様の進化が霊性や心性の領域においても存在することを認める者のみに許される。この事実を認め、自然科学的認識を、自然の枠を越えて拡大するということは、単なる認識以上のものであるのは明かである。なぜならばこの観点は、認識をいのちあるものに転化するからである。この認識は、人間の知を豊かにするのみならず、人間にその生の道を歩み続けていく力を与えてくれる。この認識は、人間に自分がどこからやってきて、どこへ行くのかを示す。そして、この認識が自分に指し示す方向に向かって、しっかりとした歩を続けていくならば、この認識は、人間にその来し方ゆく末を誕生と死の境界を越えて示してくれるであろう。(中略)人間を高貴化するという目標認識を欠いた認識は、単に高等な好奇心を満足させるという以上のものではない。「認識を精神的霊的なものの把握にまで高めること、それによって認識が、生全体の力となること、」これが高次の意味において把握された「義務」なのである。そしてそれゆえに、魂の来し方ゆく末に関する理解を得ようと努めることが、一人ひとりの人間にとっての義務なのである。

 この「人間を高貴にする」という目標がなかれば、教育そのものも不毛になってきますし、「精神」のないロボット教育にならざるをえないような気がします。シュタイナーの霊学=精神科学の根本は、人間の存在を可能性に満ちたものと信じるそんな考え方だと思います。僕も、シュタイナーのそんな人間信頼ということにひかれているのかもしれません。

 

 

カルマ論から●自己教育としての教育


(92/01/17)

 

 先日、カルマ論と教育に関する考え方をほんの少しだけご紹介しましたが、今回は、そのテーマを「行」という観点から、少し角度を変えて述べてみたいと思います。

 シュタイナーは教育はすべて自己教育であるという言い方をします。また、カルマに関連づけて言うとするならば、カルマとの出合こそが教育の中の教育である、ともいえるでしょう。

ちょうど、高橋巌さんの「シュタイナー教育入門」(角川選書)の最終章に「シュタイナー教育の観点から見たカルマと転生」という章があり、こここらあたりのことについて、述べられています。ここには、ことあるごとに高橋巌批判のネタになっている箇所があります。

シュタイナー教育をオカルティズムの根底から自分の内部で築いていかないなら、シュタイナー教育にならないのです。

 というのですが、いきなりこの発言を聞くと、なんだか危なげなイメージをもってしまいかねないのですが、僕の考えるところでは、この「オカルティズム」というのは、別にクロウリーなんかのような魔術的な意味とは全然違っていて、極めて単純な言い方をすれば、自己認識をはじめとした「行」のことなんです。

 「高橋巌は教育にオカルティズムを持ち込もうとしている!」っていう感じで批判されてることもあったようですが、そうしたレッテルはシュタイナーの自己教育としての教育という考え方をまったく理解していないか、または単にこの「オカルティズム」という言葉にこだわっているだけのような気がします。別に僕は高橋巌さんの信者でも何でもありませんが(誤解する人がいるかもしれませんので念のため)、以前からこの点だけは気になっていたことでもありますし、カルマ論と教育というテーマに関連したことでもありましたので、あえて、コメントしておくことにします。

 さて、さて、「カルマとの出合い」ということですが、シュタイナーは1912年の講演「どのようにしてカルマを見ることができるか」で、ここらへんの問題について具体的に語っています。ちょっと長いですが、引用しておきます。引用は上記の書(P197〜200)。

カルマをどのようにして見ることができるのか、そのような観察ができるようになるには、内的体験を自分の中で深めていかなければなりませんが、それは決して容易なことではありません。けれども、だからこそ、それはどんな人にでも行なうことができるような種類の努力なのです。まずそのための第一歩として、通常の仕方の自己認識を少しやってみる必要があります。それは、自分の人生をかえりみて、次のように問いかけるところから始まります。いったい私はどんな人間だったのか、私は内省的な傾向の強い人間だったのか、それともむしろ外界のさまざまな刺激を好み、人生の何かをすぐに好き嫌いの観点から判断するようなタイプの人間だったのか。(中略)

このような仕方で人生を振り返るのです。特に次のように問うことが大事です。私はどんな素質をもっていただろうか。自分の知的な能力においても、情緒的なあり方においても、意志的態度においても、何が私にとって用意だったのか、何が私にとって困難だったのか。できたらそこから逃げたかったような運命の体験を今までしたことがあっただろうか。もしできたらそこから逃げたかったような運命の体験を自分は持たざるを得なかっただろうか。あるいはこうなることはよかったことだったと自分で納得できるような、そういう出来事が自分の過去にはあっただろうか。

そのようにして自分の人生をかえりみることは、自分の霊的な、あるいは魂的な存在の核心を、自分の魂や霊の一番中心になる部分を、これまで以上に親しく知るのに役立ちます。とりわけ人が本来あまり好んで望まなかったような事柄を、できるだけ心の中に思い浮かべるのです。

そのようにして、本来自分は何になりたかったのか。しかし自分の本来のそのような意志に反して、今の自分は何になっているか、ということを明らかにするのです。(中略)つまり根本的に言えば、過去を振り返って、自分が望まなかったこと、そこから逃げたかったことが何であったかをはっきりさせるのです。このことをはっきりさせたら、次いで、人生の中で自分にとって最も気に入らなかった事柄をはっきりさせるということ、まさにそのことが大事なのです。そして非常に突飛な感じをもつかもしれませんが、次のような考えに没頭することが必要です。自分が本来望みも願いもしなかった事柄、そいて自分の今までの人生の中で生起していた事柄を、すべて一生懸命になって望み、そして願うのです。私が今まで願わなかったこと、気にくわないこととして片づけてしまったことを、もしも私が今激しく望んだとしたら、あるいは過去において私が一生懸命望んだとしたら、今の私はいったいどうなっていたであろうか、あるいはこれからの私はどうなるだろうか。そう考えるのです。

 これを読まれるだけではちょっとぴんとこないかもしれませんが、自己認識ということの一番の基本がここに述べられているような気がします。簡単にいうと、自分の感情のシミュレーションと、その感情がもっとも嫌っている感情のシミュレーションとを真剣にしてみること。一生懸命に自分がそうであるとしたらどうなろうかということを考えてみる。そして、自分と正反対のポジションにあるものをカルマとすれば、そのカルマとの出合こそ、自己教育としての教育に他ならないといえます。

 このようにカルマの問題を「行」という視点で見直してみることについては、あの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」において述べられているような「行法」とも密接に関連してくることでもあります。

 シュタイナー幼稚園や小学校では、先生というのは、教室に入る前に、自分の否定的な感情は全部外に置いて教室に入るようにしているそうですが、それが子供の肉体の成長力に大きな影響からそうしているということです。つまり、シュタイナー教育を実践するということは、そうした自己教育を実践することの中にあるのであって、決して、「形」を整えることではないでしょう。

 自己認識ということは「カルマを見る」ということであって、その「行」の実践を教育として展開したものこそがシュタイナー教育である。そういうふうに僕は考えたりしていますが、このことは誤解されやすいところでしょうね。

 

芸術●教育●自由●ファンタジー


(92/02/24 )

 

 「教育と芸術」(「霊学の観点からの子供の教育」(イザラ書房)所収)では、教育にとっての芸術の必要性について、こう述べられています。

芸術は、造形芸術も文芸や音楽芸術も、子供の本性を育てる上で非常に大切なのです。小学校に入学する頃の子供にも、すでにふさわしい芸術活動があるのです。しかし、芸術が人間の能力を育てるのに『役立つ』というような言い方を教育者がしすぎるのはよくありません。芸術は芸術そのもののためにあるのですから。けれども教育者が芸術に深い関心を持ち、芸術体験を子供にも与えたい、と心から思うことはとても大切です。そういう教育は成長しつつある子供が芸術体験によってどう変わるかをよく理解できるでしょう。『知育』も芸術と結びつくときはじめて、本当に生活感覚と結びつくのです。そして義務感も、子供の活動欲求が芸術的に、自由に、物質に働きかけるときにこそ、育っていくのです。教育者の芸術に培われた魂は教室の中へ芸術感覚をもたらします。それが教育者を深刻なときにも明るい存在にします。そして喜びのときには個性的にします。知性だけですと、自然を頭で理解することになりますが、芸術的な感性は自然を直接体験させるのです。知性を育てられた子は、知的理解力を発達させます。しかし芸術に導かれた子は『創造力』を発達させるのです。知的『理解力』を行使する人はその都度自分を消耗させます。『創造力』を行使する人はなにかを達成する度に大きくなります。また彫塑や絵画の下手な子も、芸術活動を通して自分の内なる魂的人間の存在を目覚めさせます。音楽や詩に親しむようになった子は、魂の理想的なあり方を予感することによって、人間本性を感動する力によって知るようになります。これまでの人間性に第二の新しい人間性が結びつくのを感じることができるのです。

 シュタイナーの神秘学が興味深いのは、すべてを「○○芸術」というようにとらえようとしているところにもあると思います。

 泰流社からでてる、高橋巌監修の「オイリュトミー/新しい人間創造のための言語音楽芸術」の冒頭には、高橋巌さんのこんな言葉が載せられています。

現実社会の中で、『まったく別様に生きる』ためにわれわれには芸術という、想像力を自由に展開できる感覚-超感覚的な美的仮象の世界が与えられている。もしこの芸術が、現実社会の単なる再現行為の中に終始してしまったらそれは芸術の自殺行使でしかない。一方、教育は今日、まさにこの現実社会の集約として存在している。教師も父母も子供たち自身もその教育環境の中で一切の社会問題を抑圧と管理と貧困と差別を、集約的に再生産している。しかし、ルドルフ・シュタイナーは社会問題をかかえたこの教育こそ芸術にならなければならないのだというーーーー『教育というこの偉大な人生芸術に必要な感情の火は大宇宙に観入し、大宇宙と人間との関連を感得することなしには決して点火されることがないのです』

 オイリュトミーということでいえば、シュタイナーとは直接関係しませんが、この間、武士道がらみで、「新体道は日本のオイリュトミーである」とかいうことで少しだけふれた青木宏之さんの「新体道」も、「武術」(技)・「宗教」(愛)・「芸術」(美)の統合としてとらえられていますね。やはり、武士には舞や詩歌、茶道などの伝統が「たしなみ」としてあったように「道」ということに「芸術」というのは欠かすことができないようです。

 さて、武士道ということで話しに度々上った「理想」ということでいえば、「理想」ということを描ける能力というものもイマジネーションを育てていくことのできる教育がなければその「種」の部分をさえ殺してしまいかねませんね。

 「芸術」というのは、「理想」を育くむという意味でも非常に大切な観点です。この「理想」ということは、人間本性の「自由」という方向性を前提としていてその事実を直接体験していくためにも、芸術ということの重要性は強調しても強調しすぎることはないと思います。

 この芸術を通じての「自由」への方向性を考えるときにどうしても考察しなければならない大テーマが「カルマと自由との関係」ですがこの「自由」との関連での「カルマ論」については、日本人智学協会発行のシュタイナー著「カルマ論/カルマ的関連の秘境的考察」というのが志賀邦瑞訳・高橋巌監修で第一講〜第三講がでてますので今度ぜひ紹介させてもらうことにします。

 教育と芸術、そしてイマジネーションというテーマはなかなかに興味深いものがあってミヒャエル・エンデなんかもそのテーマというのを、シュタイナーの「道徳的ファンタジー」ということでずっと追求しているように思います。エンデについては今後も何らかの形でコメントしていきたいとは思っていますが、最近になってようやくこの日本でも子供だけのためのファンタジーというのではなくもっとひろく子供から大人まで自由にその想像力を羽ばたかせてくれる児童文学というのが注目されるようになってきています。

 先日、ちょっとした興味から「絵本の会」というのに参加させてもらいました。参加者はほとんどが小学生から中学生の子供をもった主婦の方で、非常に居心地は良くなかった(^^;)のですが、少しは教育やファンタジーに興味を持っている「現場」のお母さんの実態を知る上でわりと参考になったように思えます。話題は、良質の絵本をいっしょに検討しあいながら、それと同時に「教育」の現実への討論、それからもっと広いテーマである生活環境・自然環境などの問題を話したのですが、話すうちに疑問に思うようになったのが、集まっているお母さん方の姿勢に関してでした。

 「会」の趣旨も、話されている内容も立派なのですが、教育や環境への「批判」はいろいろ話されるのですが、悲しいことに、その「批判」に対して、「こうすればいいのではないか」「こういうのが理想だ」「現実はこうだけど、もっとこういう方向性をとる必要があるのではないか」といった「提案」というか「理想」というのがほとんど感じられませんでした。身の回りのことから想像力が羽ばたかないのです。逆説的ではありますが、「絵本の会」にでて「想像力の貧困」というのを実感してしまうことになりました。これが「かなり意識的なお母さん方の集まり」というのですから、普通のお母さん方というのはどうなんだろう、と思ってしまいます。

 以前からわりと絵本やファンタジーは読んではいましたが、一度、ファンタジーについての視点をちゃんともつ必要からファンタジーの過去・現在・未来ということについて今後テーマに加えていきたいと感じるようになって、買った本があります。

●今江祥智:さよなら、ピーターパン/子供の国からの挨拶、また(福武文庫)

●清水真砂子:子どもの本のまなざし(JICC)

読んでみて面白い視点があれば、ご紹介させてもらうことにします。

 ということで、芸術、ファンタジーのあり方というのは 、神秘学をベースにした教育芸術にも欠かすことのできないテーマですので今後とも考えていきたいと考えています。

 

教育と伝統の「型」


(92/11/19)

 

 先代の聖徳太子から福沢諭吉になったころ、なぜ福沢諭吉なんだろう、なんて疑問に思ったことがありましたが、今になって考えてみると、他のお札の顔ぶれも併せて、なかなかの配役だなあと思えるようになりました。

 先日来、明治維新の志士たちの考え方を現代の生き方に生かすというテーマの原稿を頼まれた関係上、無知な私はあわてていろんな方々に関する資料を拾い読みしているのですが、やはりこの福沢諭吉と勝海舟という両者、特にこれまでよく知らなかったこともあって福沢諭吉が興味津々です。変な話ですが、この福沢諭吉の前生はあの朱子学の朱子だという話もあります(^^)。

 それはともかく、あの明治維新というのは日本が近代化するための産みの苦しみのような時代で、政治・経済を中心としてさまざまな模索があって、とにもかくにもあれによって日本は世界の仲間入りをしたわけなのですが、現代の日本ということを考えてみた場合、やはり世界維新前夜、ひいては宇宙維新前夜という状況を迎えているようにも思えます。政治・経済はもちろんのこと、「精神」の復古というかヴァージョン・アップがさらに大きなテーマとして浮かび上がってきているようにも思えるんです。

 だからといって、ではどうすればよいのかとなると、どうしてよいかわからずに右往左往してるだけなのですが、とにもかくにも、あの明治維新に比べてわれわれの抱える課題は、その視野においても、また対象領域においても比較にならないくらい大きいようだということはいえそうです。

 さて、「時代の気分」というのは恐ろしいものがあります。その気分は多くの場合、「そういうものだ」という偏向した常識によって支えられています。そして、その「そういうものだ」は決して意識的にとらえられない類のものですから、そこから視野が広がってくることも、新しいビジョンが構築されることもありません。新しいビジョンだといって歓迎されているものの多くは、「地球を守れ」「自然を守れ」といった、内容のない絵空言に過ぎません。それらのビジョンの多くは唯物論のなれの果てでしかありませんし、みずからの足元を忘れて(無視して)いるに過ぎない逃避論に他なりません。

 我々がしていかなければならないのは、地球レベル、宇宙レベルのビジョン構築であると同時に、みずからの依って立つ「伝統」の復権、およびその発展的なあり方の模索でもあります。

 ちょうど昨日、源了圓編「型と日本文化」(創文社)の書評を読んでまして、(高い本なので、まだ購入できないでいます(^^;))、そのなかに収録されている編者自身の論文「型と日本文化」の紹介に教育というテーマにつながる興味深い内容がありました。

(「創文338」所収、竹内明「伝統の再発見から再体験へ」)

源氏論文・・・には、「日本人の個々の型を通じての直覚の一つ一つは、相互に関連し合って、『宇宙意識』という根本的直覚に通じる」とある。そして、同論文が、教育に関わり指摘するごとく、真の型の教育は、児童の主体 性を拘束するものではなく、児童の自発性を尊重し、師弟の信頼関係を重視するものであり、近世日本の教育の実際においてもそうであったことは、小嶋氏論文が明らかにする通りである。(KAZE注/小嶋康敬「子育てにおける 型の基礎----近世日本」)ただ、しかし、教育は内容と価値において選択を必要とするから、しばしば主張される児童の自己活動のみに任せるごとき「 自由」教育とは似て非なるそれである。教育の真意はやはり「守・破・離」 にあるといってよいのである。

今日、日本人の意識の変化は確かに激烈であるが、永々として日本人に刻印されてきた国民性がその痕跡をも残さず拭い去られるとは考えられない。過去から連続して集積され、民族の体験としてその潜在意識に刷り込まれているはずであるからである。それ故、われわれは、人類同根の地球的視野に立ちつつも、改めて、歴史や伝統を顧みてその基層文化を確認し、自己の内面の世界の深層に焼き付けられている民族の伝統的遺産を再発見し、更にそれを再体験していかなくてはならない。

伝統とは再体験さるべき歴史的・社会的な「型」なのである。習慣は、われわれが、無自覚で怠惰である時、最大の力を発揮する。しかしながら、伝 統の力が最大となるのは、伝統を回復しようとするわれわれの自覚と努力においててである。歴史のなかには、埋もれるべくして埋もれているものが多い。しかし、日本人をして精神性に富んだ「高貴」な民族たらしめてきた伝統たる「型」はもとより単なる過去の遺物として葬り去られるようなことがあってはならない。・・・

 輪読会で、ちょうどシュタイナーの教育のところにさしかかっていますので、それと関連させて考えても、この「型」の問題は興味深いと思います。

 上記引用で、「教育の真意はやはり「守・破・離」にある」というところがありましたが、この考え方は、シュタイナー教育の考え方に近いものがあります。シュタイナー教育をそのまま日本という土壌に移植しようとする方も多いようですが、その移植にあたっては、「シュタイナー教育」の「シュタイナー」の部分が、ほとんど忘れ去られるまでに日本文化の「型」にとけ込んだものでなくてはその移植というのは、うわべだけの接ぎ木に終わることは目に見えています。

 「型」に則りながら、その「型」にとらわれず、¥新しい「伝統」を構築できるようなあり方が、これからの時代にも有効なのではないかと考えています。

 

 

シュタイナー教育の考え方


(92/11/23)

 

 シュタイナー教育についてですが、「シュタイナー教育の基本要素」には年齢に応じた教育についてのほんの概略しか描かれてませんので、やはりいまひとつ理解できにくいかもしれません。シュタイナー教育に関する書物もたくさんあって、ほんとうはこのテーマだけでもちょっとやそっとじゃ紹介しきれないのですが、そのいくつかをピックアップして、シュタイナー教育の考え方について理解を深めてみたいと思います。

 まず、年齢に応じた教育については、

●高橋巌「シュタイナー教育を語る/年齢と気質に応じた教育」(角川選書)*1

 に詳述されていて、最後には「母親の自己教育」についての考察もあったりして、テキストの内容をより深く理解するには最適だろうと思います。

 また、シュタイナー教育の具体的な方法については、

●高橋巌「シュタイナー教育の方法/子どもに則した教育」(角川選書)*2

 にいろんな角度から詳述されています。

 また、一般人間学という方向からシュタイナー教育をみていくのにいいのが

●高橋巌「シュタイナー教育入門/現代日本の教育への提言」(角川選書)

 で、ここにはヨーロッパにおける教育思想の源流から教師の理想像、一般人間学、カルマと教育の問題などが描かれています。

で、これらの本(*1と*2)の中から、シュタイナー教育の考え方をよりよく理解するための箇所を紹介してみたいと思います。

 

■シュタイナー教育は、他の教育のさまざまな方向とどのような関係にあるか。*1

・共通の立場についていいますと、何といってもペスタロッチ、フレーベルという中部ヨーロッパの教育者がシュタイナーと教育の基本的な考え方において同じ方向をたどっています。それから、イタリアのマリア・モンテッソリ女史の教育思想もイタリアだけでなく、特にカトリック文化圏で今日世界的に非常に大きな影響を与えていますが、シュタイナーと非常に共通した立場に立っています。

・ペスタロッチ、フレーベル、モンテソッリの考え方からすれば、人間は大きな運命の導きに従って、一人ひとり違った課題を背負ってこの世に生まれ、そして善なる意志の力でその課題に応えようとしているので、それぞれの子どもの中にすでに潜在的に存在しているそのような可能性をできるだけ傷つけないで、大事に育てていくことが教育だ、というのです。/性善説

・違う方はどうかといいますと、日本でも有名なアメリカのデューイやドイツのヘルバルトの教育学の方向はシュタイナーの立場とかなり違っています。同じようにマルクス主義の教育の考え方、ソ連で革命以後盛んだったような教育の方法ともかなり違っています。

・マルクス主義、デューイあるいはヘルバルトの考え方というのは・・・基本的には人間の子どもも生まれたときは他の猿や犬や猫と同じような動物にすぎない、というのです。ですからできるだけ外から枠をはめて、その枠内で子どもの人格を作り上げようとします。/性悪説

 

■教育芸術*1

・シュタイナー教育には、出来上がった教育尺度はない、といわれています。それはどういうことかといいますと、(シュタイナー教育の考え方で/KAZE)子どもを観察していくとき、その観察の中からそれぞれの子どもにとって何が大事かということが、そのつど見えてくるからです。そうしう個別的な方法を大切にするのです。けっして型にはまった方法論を子どもにあてはめるのではなく、一人ひとりの子どもに見合った方法論をそのつど見つけだしていくのです。そうしう手作りの教育なので、シュタイナーは教育学ではなく、教育芸術と言いました。絵描きが外へ出てキャンパスに向かうときに、どういう風景を描くか、そこにどういう色を塗るか、そのつど新しく問題にするように、教育も芸術としてそのような創造行為をそのつど行うのです。

■シュタイナー教育とは何か*2

・「シュタイナー教育とは何か」という問いに対する答えは、いろいろな観点から出すことができますが、ごく一般的に、「発達期に応じた身体と心の調和によって社会における個人の自己実現を可能にしようとする教育思想、あるいは教育運動」だと言うことができます。

 ・その場合、子どもだけではなく、あらゆる年齢における身体と心の関係をどうとらえたらいいか、という点について、ルドルフ・シュタイナーは一生をかけて、いろいろな角度から重要な提言を行いました。彼は、医学、治療教育学、一般教育学、心理学、さまざまなジャンルの芸術----舞踏芸術、音楽芸術、造形芸術、舞台芸術等々、さらには人類の発達史、人間の一生の意味、人間と死者との関係、人間とより高次の存在たち----天使、神々、聖霊のような目に見えない存在たち----との関係、あるいは物質、鉱物、植物、動物、人間の存在のあり方ならびにそれら相互の関係、その他あらゆるそうした人生にとっての基本的な問題について驚嘆に値するほどに深い洞察を示した人物でした。しかもその際の彼の態度は、今の私たちから見ますと実に誠実で、私たちが小学校以来高等教育を受けるまでの過程で身につけた知性とその批判的な判断力とに、どこまでも誠実に関わろうとする姿勢をとりながら、今言いましたような基本問題を、具体的に認識の問題として明らかにしようとしたのです。

■教育者の祈り*2

(ルドルフ・シュタイナー「霊学的人間認識の観点からの教育実践」より)

 教育は科学であってはならない。それは芸術でなければならない。そして常に感情が生きているのでなければ、いったいどうして、芸術を学ぶことができるだろうか。しかし教育に必要な感情は、教育というあの偉大な人生芸術をいとなむに必要な感情の火は、大宇宙に観入し、大宇宙と人間との関連を感得することなくしては、点火することができない。

 教育者は、将来自分と同じような人間になる子どもだけではなく、自分よりもはるかに偉大な存在になるべき子どもを正しく教育していかなければならない。このことが達成されるためには、子どもを教育者が自分と同じようなものにしようとする考え方を、まったく切り捨てなければならない。教育者が学校、幼稚園において、無私な態度に徹しようと決心し、自分の人間的な好悪の感情、個人的な感情を排除して、子どもが----もちろん無意識に----語る言葉に傾聴しようとするとき、どんな未来の天才をも、どんな愚者をも、まったく正しく教育できるであろう。このことは同時に教育者の心の中に、正しい意識がはじめて生じたことになる。

 どんな教育も基本的には人間の自己教育である。

 基本的には成長のどの段階においても、自己教育以外の教育はありえない、このことの深い意味を探ろうとすれば、どうしても霊学に到達せざるをえない。なぜなら霊学は輪廻転生についての本当に認識可能な立場をつらぬこうとしているからである。教育者としての私たちは、自己教育を行う子どもの単なる環境にすぎない。子どもが自己の内的運命をとおして自らを教育していかなければならないとすれば、私たちは私たちのもとで子どもがそのように自らを教育できるように、そのふさわしい環境を提供しなければならないのである。

 教育者の子どもに対する正しいあり方は、このような意識を絶えず自分の中に育てていくことによってのみ獲得される。一般に人間のためにはいろいろな祈りが存在するであろう。教育者にはそのようないろいろな祈りの他に、次の祈りが存在する。

「神よ、私の個人的な意向や抱負を、一切、私の中から取り除くことができますように」「キリストよパウロの言葉『私ではなく、私の中にいるキリスト』を真に私の中に生かせてください」

 今言ったように、他の人にはいろいろな祈りが存在する。しかし教育者にはまさにこの祈り、遍在する神と人格神としてのキリスト神への祈りがある。これによって聖霊が教育の中に本当に降臨することができるのである。これが教育者にとっての三位一体である。

 子どものそばでこのように考えることができるとき、そのときはじめて教育行為が同時に社会的行為であることができるであろう。社会的行為としての教育は特に問題として取り上げる必要がある。

 いったい現代人は、社会的向上という言葉で何を考えているのであろうか。現代人は外的制度の向上にすべてをかけている。人類の幸福を外的制度の成果の中に求めようとしている。どんな種類の体制をつくるべきか、ということが社会進化にとっての問題なのだ、と考えている。

 しかしこれは社会進化の中で、もっとも非本質的な部分にすぎない。なぜなら、君主制、共和制、民主制、社会主義体制など、それがどんな体制であろうとも、常に大切なのは、その体制の中にいきる人間がどんな人間であるか、ということなのだから。社会で働く人間にとって、二つの事柄が問題になる。

 第一に、自分自身の行為に愛をもって専念すること。

 第二に、他人の行為に理解をもって相対すること。

 この二つの態度から流れてくるものを、一度よく考えてみる必要がある。人間同士が社会的に、力を合わせて仕事をすることができるのは、もっぱらこの態度からのみ可能なのである。子どもの環境としての私たちは、子どもが思春期になって、社会意識を目覚めさせるとき、この二つの社会性が持てるように、教育者としての態度をとることができなければならない。すなわち、子どもが私たちのそばでもっともよく自己教育できるように子どもの傍らに立つためには、私たちはいったいどのようにあるべきなのか。

■教育者に必要な四箇条*2

(1919年、シュタイナー学校創設前のゼミナールにおけるシュタイナーの挨拶)

 第一に、教師は全体としても細部においても、職務を意識的な態度で遂行し、どんな言葉を発するときにも、どんな考え方、感じ方をあらわすときにも、生徒たちの魂に深い影響を与えるということをよくわきまえておく必要があります。どうぞ考えてください。教師は先導者なのです。決していい加減な態度をもってはなりません。学校での行動、特に生徒に対する態度において、まったK意識的でなければなりません。これが第一です。教師は全体においても、細部においても、先導者なのです。

 愛する皆さん、第二に私たちは教師として、世の中のこと、人間に関することならどんなことでも、そのすべてに対して興味を持たねばなりません。どんな世俗的なことにも、どんな人間くさいことにも、私たちは教師として、興味をもたねばなりません。人間にとって興味のある何かに対して心を閉ざすことが教師の場合に生じたとすれば、それはこの上なく残念なことです。私たちは人類社会のどんな大事件にも、どんな日常の些事にも興味を抱くべきです。私たちは子どもひとりのどんな大事件にも、どんな些事にも興味を抱くことができるべきです。これが第二です。教師はすべての世俗的、人間的な事柄に興味を抱く存在であるべきなのです。

 そして第三に、教師は心の中の虚偽に対しては決して妥協しない人間でなければなりません。教師は心の奥深くで、真実の人でなければなりません。そうでないと、多くの通路を通って、特に授業方法の中に虚偽がしのび込んできます。私たちの授業は、私たち自身の中で、真実への努力が十分なされているときにのみ、真実の刻印を受けることができるでしょう。

 そして最後に、教職にとっての黄金律であり、行うよりも言う方が容易であるのは、教師の心は枯れてもならず、すえてもならない、ということです。瑞瑞しい、新鮮な魂の気分を保つべきなのです。枯れてはなりません。すえてもなりません。これが教師の努めるべき事柄です。

 

 

シュタイナー教育の実践


(92/11/23)

 

 シュタイナー教育の考え方に引き続いて、シュタイナー学校ではどういうふうな教育がおこなわれているのかということについて少しばかり紹介してみようと思います。

 できるだけ、全体をイメージしてもらいやすいものとして、

●ルネ・ケリードー「シュタイナー教育の創造性」(小学館)

 という、現在カリフォルニアのルドルフ・シュタイナー大学の学長でもあるルネ・M・ケリードー氏による、サンフランシスコのシュタイナー学校での「教師と父母のための講演」をまとめたものから、その概略を紹介します。

■ルドルフ・シュタイナーがはじめた教育方法が、実践にうつされるとき、教育という営みは、ひとつの芸術となります。幼稚園から高校まで、子供はさまざまな発達段階をへて成長していきます。芸術家としての教師の仕事には、その時どきの子どもの発達にふさわしい内容と方法で、教えることがふくまれています。ここで言う、子どもの発達とは、たんに知的な発達だけではなく、子どもの全人的な成長を意味しています。もしも、ほんとうに子どものすべての能力を引きだそうとするなら、わたしたちは、子どもの、「手」と「心」と「頭」をつうじて子どもを教育しなければならない----シュタイナー教育の実践は、このような確信にもとづいて、おこなわれています。

■シュタイナー学校では、子どもたちは、一年生から八年生まで、おなじ学校担任に受け持たれます。先生は最初、子どもたちを自然の驚異へとみちびき、この驚きと感動の体験をもとにして、のちに、自然科学へと進みます。このような「外なる世界」の探求とバランスをとるのが、「内なる世界」の探求、つまり、さまざまな生きた人間の物語である“歴史”の学習です。これら二冊の、偉大な書物とも言うべきもの、すなわち「自然という書物」と「人間(文明)という書物」から学ぶという方法は、子どもたちが自己と世界についての意識を深め、拡大することを、あますところなく保証し、養い、刺激するものです。専門科目の先生たちも、これに協力します。小学校一年生から、「音楽」「オイリュトミー」「手仕事」「二つの外国語」が教えられのちに「体育」と「園芸」と「木工」が加わります。

 高等学校(訳注/九年生から一二年生までの四年間。日本の中学三年から高校三年)では、生徒たちは、自然科学と人文科学の専門の教師たちから学び、はばひろい経験を身につけて発達する機会を与えられます。専門への分化が進んでいく時代にあっては、さまざまな能力を、子ども時代に目覚めさせられた場合にのみ、ひとは完全な存在となりうるのです。思春期以後は、責任感にうらづけられた真の自由を拡大していくことが目標となります。

■子どもの生活の創造的なリズム

・幼い子どもは運動と意志のなかに生きており、その意志は本能として表現される。

・わたしたちは、子どもの「手」と「心」と「頭」をつうじて教育しなければならない----「手」の教育のたいせつさ。

・「心」の教育----子どもは日々の生活実践にもとづいて。よろこびと悲しみの感情体験を通して学ぶ----早期の知的教育は子どもを弱める。

・子どもの意志はリズムのある生活のなかで発達する----おとなは子どもの意志の変容を助けなければならない。

・幼児は環境のすべてをアンテナのようにキャッチする----模倣こそ幼児の学び方。子どもの心は世界にむかって完全に開かれていて、それゆえ、傷つきやすい。

・子どもは人類の意識の発達過程をくりかえす----文字の教育を絵を描くことから、はじめることの、たいせつさ。

・子どもの欲望を教育する----芸術こそ欲望の世界の偉大な教育者----世界への関心と他者への共感が子どもを利己的な欲望から救う

■子どもの個性を理解するための四つの気質

・子どもの四つの気質は四季と色環であらわすことができる----子どもがもつ独自の「精神」と両親から「遺伝」したものが混じり合って「気質」となる。

(以下に述べられている季節と気質の関係は、その季節生まれというのではなく、気質のイメージを表現したものです/KAZE注)

・ゆううつ質の子ども−−−−メランコリックな秋の子どもは、人生の意味を知りたいと願っている。

・多血質(たけつしつ)の子ども----風のようにかろやかな春の子どもは熱中するが忘れっぽく、陽気で社交的だが軽はずみ、ゆううつ質の子どもと対照的である。

・胆汁質(たんじゅうしつ)----情熱的な夏の子どもたちは威勢がよくて活動的。夏の子どもは未来に関心をもち、秋の子どもは過去に、春の子どもは現在に関心をむける。

・粘液質(ねんえきしつ)----冬の子どもは気楽さと、ひとつのことを続けることを好み、感情が穏やか。気質を変えるのではなく、極端なところに調和をあたえる。

・気質とたたかうのではなく、気質とともに働く----子どもの気質にふさわしい活動を用意し、それぞれの気質のすぐれた面を引き出して、気質を高貴なものへと高める。

・バケツがひっくりかえったら?----気質によって子どもたちの状況への反応はどうちがうか。

・子どもの気質にあわせた演劇の配役、算数の計算、楽器の選び方。

・クラスのなかで、異なる気質が互いに足りないものをおぎないあって、子どもたちは個人になる準備をする。

・異なる気質を知ることで、世界と子どもを新鮮な目で見ることを学ぶ----心理学の新しいステップとしての気質論

■シュタイナー教育はどのように子どもたちに人生への準備をさせるか?

・子どもにとって教育は人生への準備----おとなにとって人生全体が終わりのない教育。

・芸術を重視した教育方法の主眼----それは、学習をやさしく、楽しくすることではなく、多くの芸術的修練をつうじて、子どもの意志を、徹底性を育てることになる。

・教育は、人生に対する三つの偉大な問いを子どもたちに投げかけなければならない----子どもは伝記を学ぶことで、自己と人生に目覚める。

・「私たちは何者なのか?」という問いに、歴史と神話学によって答える----演劇を上演して、子どもたちは他者の人生を深く体験し、自己をうつす鏡にする。

・「他者との関係についての問い」に答える----学校で、クラスで、子どもたちは自己を信頼し、たがいに信頼しあい、助け合う人間関係を学ぶ。

・子どもたちは情熱をもって自己探求の旅へと向かう----「人生の意味とは何なのか?」という偉大な問いの答を求めて。

・人生の偉大な謎に迫ろうとする教育は、子どもたちを全身で感動させる。

 あと、「地理教育と私たちの地球に対する責任」、「歴史は子どもたちを自己探求の旅へとみちびく」、「シュタイナー教育は、子どもの驚き、感謝、責任感をどのように育てるか?」「外国語への創造的なアプローチ」などといった講演が続きますが、項目だけではよくわからないものばかりですから、省略します。

 

 

シュタイナー教育論


(92/11/26)

 

 シュタイナーが教育に関して述べていることはあくまでも、観点であって、それを杓子定規になんでもかでも当てはめればいいというわけでもありません。

 ただ、「叱る」ということがどうしても必要であるとしても、「そんなことをしてはいけません」と叱る際に、たとえば幼児が模倣してはいけないことを環境として与えていないかを、まずわれわれ自身が考えている必要があるのだと思います。教育というのは、教育する側にとってもされる側にとっても「自己教育」であるということを忘れてはならないのだと思います。

 7歳ごろまでの幼児には、模倣することのできる手本が必要ですし、それから思春期頃までの子どもにとっては、「傾向、習慣、良心、性格、記憶力」といったエーテル体の育成、発育のための、自然な権威が必要なのです。

 「習慣が性格を貫いている」というのは、自然な「権威」が気質に正しい方向づけを与えているということでしょう。この第二の7年期の子どもに必要なことを、シュタイナーは「人智学的な教育の特質」で次のようにいっています。

第二の7年期の子供はもはや模倣だけでは不十分な生活を営みはじめていますが、まだ自分と他の人びととの関係を知的に判断したり、それを意識的に思考したりはできません。それができるようになるのは、性的に成熟して、魂的組織の一部分がエーテル体組織の対応する部分から独立するようになってからです。7歳から14、5歳までの子供は、周囲の人間との関係を自分で判断し決定しながらではなく、権威を持った人に従いながら、作っていきます。

 ですからこの時期の子供を教育する者は、おのずと子供の受け入れられるような権威を十分に身につけることができなければなりません。教育者は子供の知的判断力に訴えかけることなく、尊敬する教育者が正しい、善い、美しいと見なしているというだけの理由で、もっぱらそれだけで、自分も正しい、善い、美しいと思おうとしている子供の気持ちをよく理解することが大切です。

 ですから教育者の為すべきことは、真なるもの、善なるもの、美なるものを子供の前に提示するだけでなく、本当にそうなのだという実感を伝えることです。彼の存在そのものを子供に流していくのです。彼の教える内容をではありません。すべての教えは本質的に範例となって子供の前に提示されね ばなりません。教えるということは芸術創造の行為です。理論の内容なのではありません。

 このような自然な権威にふれられなかった子供は、エーテル体のいきいきとした力がしぼんでしまうといいます。正しい働きかけによって育った子供の心情は、知的、道徳的な力を呼び覚ますための準備をしているのです。それができた子供は、以後、自分に対しても、周囲の社会に対しても、進んで適応しようとする内的衝動をもつことができるといいます。その反対に、それができなかった子供は、成長するにつれて、感覚体験が喜びと結びつくことができず、そこから生じてくる知的な判断力も内なる喜びが得られないものとなってしまうのです。現代の病として度々取り上げられる登校拒否や自殺、家庭内暴力なども、そういうところに原因があるようなのです(^^;)。

 子供の判断力を形成させようとしないよう、比喩をとおして教えるように配慮するということは義務教育の内容上非常に難しいですから家庭教育において、童話などを使って、イマジネーションの働きを高めることなども必要です。

 童話のなかには、人間のエーテル体をいきいきと甦らせるイメージに満ちているものがたくさんあります。イメージといえば、その対極にあるのが「概念」で、その両者を人間の意識活動の二大領域であると考えると、現代の教育は概念とそれに関連した知性の教育に偏っています。この概念による思考作業は魂の力を消耗させてしまいますが、その反対にイメージの力は、魂の力を強めてくれるといいます。つまり、生命力を活性化させてくれるわけです。

 幼児期にあまりに知性を重視した教育をやらされすぎると、幼児期の肉体形成に必要な力が知的作業のために消費されて、その結果、中年期になって身体上の欠陥として現れてくることもあるそうです。やはり、幼児期にはファンタジーを十分に享受できるようにして、いつまでも若々しい魂を保ち続けるような教育を心がけたいものです。

 でも、こうしたことを現代の義務教育に求めてもむずかしいと思われますので、家庭教育においてだけは、せめて童話などを使って、イマジネーションの働きを高めてあげなければならないのではないでしょうか。

 ちなみに、シュタイナーはロマン主義的に見た童話には次の3つの基本的な特徴があるといっているそうです。

 まず、「誠」(真実であることと誠実であること)の意味づけがあり、それを持って生きることが私たちの魂を美しくすること。次には、魂が透明で、心が純粋であるときにはじめて幸せがやってくるという考え方。第三に、魂の内部からさす光が貧しさの中ではじめて輝きでるという「貧しさ」の考え方で、総合的にみて、「美しい魂への参加」が童話であるというのです。

 こうした考え方についての概略については、高橋巌さんの「シュタイナー教育の方法」(角川選書)の中の第五章「童話とファンタジーの力」にまとめられていますので、もし興味があれば、参照してみてください。また、童話についてのシュタイナーの考え方は「メルヘン論」というのがああります。

 唯物論に支配されている社会機構の中でどこまでそれに即して教育が行えるのかということがもっとも重大な問題ですよね。どうかんがえてみても「それに即して」いけばいくほど、いわゆる「主知主義」的な傾向性は強まっていきます。そして、子供たちは「全人」になることから遠ざけられ「片人(変人)」へとなっていきます。

 ただ、この主知主義的な教育は、本能生活から脱皮するための近代における通過点だと、シュタイナーはいっています。そして、その知性に導かれた明るい意識のなかで、やはり霊的存在と魂的存在についての認識を獲得していくというのです。現状をみる限りにおいては、それを信じることは困難ですが、やはり、その方向性を信じて、ひとりでも多く、教育についてもっと深く考える方をふやしていくことしかないのでしょう。

 

 

モンテッソーリの幼児教育から


(94/06/26)

 

 先日、相良敦子さんの「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!/モンテッソーリの幼児教育」(講談社)という本をいただいたのですが、いろいろ考えさせられることがありました。

 モンテッソーリの教育の考え方というのは、「自分ひとりでできるように手伝ってください!」という子供の声にならない叫びを理解し、それに応えようとするものだそうですが、その教育法を生み出したのはマリア・モンテッソーリ(1870〜1952)という、ローマ大学の医学部に女性としてはじめて入学し医学博士となった方で、その教育法は、子供達が生活している場でのさまざまな観察から、子供達自身から学んだものなのだということです。

 モンテッソーリはこう言っているそうです。

すべての逸脱した発育の発端には、ただ一つの事実があると想定される。すなわち、子供が自分の発育の元来の計画を実現しえなかったことだ。そうなったのは、人格形成にとって決定的な時期に、環境が影響を与えたからだ。

  また、その人格形成を「手伝う」ためには、ちゃんと子供の発育を伸ばしてやれば子供はかならずいい方向に向かうと信じることが大切だといいます。

どんなに目の前の子供たちが騒ぎ回り、無秩序で乱雑で手に負えないように見えても、やがてその子の奥底から、あのすばらしい子どもが現れてくるのを信じなければなりません。そこにはまだいないけど、その子の中にはもうひとりの新しい子どもがいるのです。そこにはまだいないけれど、必ず現れる子どもの高い資質を信じ続けねばなりません。

 結局、その人格形成のためには、精神的エネルギーと肉体的エネルギーがうまく統合されていなければならず、そのバランスが崩れるといろんなマイナスの現象が現れてくることになります。その「統合」のために、子供は次のような4つに区分される一連の道筋をたどることが必要だといいます。

第一段階/自分が自由にとりかかること。

第二段階/やり始めたことに続けてとり組むこと。

第三段階/そのことに全力を傾けること。

第四段階/以上の過程を通って、「済んだ」とか「できた」というほっとした表情で自分からやめること。その後に喜びが内面からあふれてくること。

 こうしたプロセスを阻害してしまう大人の典型的な態度というのはつぎのような5つの代表的なケースだと著者の相良さんはいっています。

・大人がせきたてる

・大人が先どりする

・大人が中断させる

・大人が肩代わりする

・ほったらかす

 教育について大事なのは、最初にもご紹介したように、「自分ひとりでできるように手伝って」あげるということ以外にはないようです。シュタイナーがいう教師そして生徒の「自己教育」という考え方も、わかりやすくいえばそういうことなんだと思います。

 こういう考え方からすると、忘れ物をしたら立たす先生はもちろんのこと、そうさせないために「お尻ひっぱたいて、寝る前に用意させてる」お母さんも、「自分ひとりでできるように手伝って」あげるのとは、まったく反対のことを子どもに対して平気でしているということになります。そういう意味では、その先生もお母さんも同じ考え方を共有している、ということになりますよね^^;。

 現在にみられる心の病は、教育の軽視にあるように思います。教育を軽んじ、子供を軽んじているわけです。つまりは、大人自身が自分を軽んじ、心の病にあることですよね。子どもが自己教育できないようにする大人の怠慢(過保護もふくめて)は、大人が「自分を見る」ことができなくなっていることと同じ事です。「せきたてる」「先どりする」「中断させる」「「肩代わりする」「ほったらかす」というような精神エネルギーと肉体エネルギーの分裂要因は、大人自身が自分のなかで行っていることと同じなんです。もちろん、大人と子どもではその在り方は異なっている部分も多いでしょうが、そのどちらも自己教育の必要性ということでは同じことだと思うのです。

 「愛」ということがいわれますが、それは他は自己教育できるように手伝ってあげること。そして、それを通じて自分自身も自己教育していくことなのでしょう。またそれこそが「利自即利他」ということであって、人間の人格の発展の原動力なのだという気がしてます。

 先の本では、3〜6歳までの「敏感期」での感覚の発育について「見る」「聴く」「触れる」「かぐ」「味わう」ということの大切さをいろいろ例を挙げながら説明されてますが、その中から「さわられる対象になったとき」の例を少し(^^)。

Tちゃんは、パパのあごをなでて「ザラザラ」、ママのあごをなでて「つるつる」、そうつぶやきながら、何度も何度もパパとママのあごを触り続けました。Tちゃんは、一回触れば分かるのに、何度も自分の指で触ってみて、その感触を確かめているのです。パパにとってもママにとっても「うるさいわね。いいかげんにやめなさい」とか、「分かりきってるじゃないの。パパはひげをそっているからよ。ママは、ひげがないからよ」と、子どもをはねつけることだってできるでしょう。でも、子どもは指先に抵抗感のある感触を確かめながら、 触覚に刺激を受けると同時に大脳にも生き生きと刺激を受けているのです。

 

「シュタイナー教育」はなかった?


(94/07/16)

 

 僕の理解する範囲では、シュタイナーは木を説明しながら、同時に森を見る必要性を強調していたように思います。で、木の種類やその発育の仕方、育て方などをけっこう詳しく説明していたのですが受け取る側はその両方が視野に入りにくくて、シュタイナーの木の説明を図式的に理解するのがやっとだったのかも。

 ちょいと出典は今思い出せませんが^^;、シュタイナーはある説明をした後に、これを図式的にとらないでください、ということをよく言っていたようです。シュタイナーの講義録を複数お読みになればわかるのですが、シュタイナーの話はレジュメがきわめてつくりにくいのです。というのも、そういう図式的な説明からもっとも遠いからです。僕も仕方ないから説明はどうしても図式的にならざるを得ないのですが、説明するたびに、なんか違うんだけどなあ、という感覚は拭えないでいます。

 僕の知る範囲の日本のシュタイナー教育は、確かに図式的なシュタイナー理解が多くて、教師の自己教育ということなどにしてもあまり考慮されてないような・・・。

 前々から言ってますが、僕も日本でわざわざシュタイナー教育などというものをしなくてもいいのになあという気がしてます。そもそも、「シュタイナー教育」という名称にしても、僕の読んだ範囲では、シュタイナーがそう読んだのは知りません。ヴァルドルフ教育、ヴァルドルフ学校というふうに言ってたんですよね。ですから、日本の神戸だったら、神戸学校でもいいわけです。シュタイナー教育という名称を一度なくしてしまって、そのキーとなる認識の部分を理解し取り入れるようにしたらいいのではないでしょうか。

 

 

教育の責任


(94/12/25)

 

 最近は自分を差別化したいがために弱者を作り上げてしまうような構造があり、その原因は不当な抑圧と非個性化あって、その非個性化の反動として、個性を潰す事だけでなく、変な個性化を産む結果をも招くわけですが、そういうのはじつのところ「個性化」ではなくて、ほんのわずかの「差」を大きく見せたいという浅薄さなんじゃないでしょうか。いじめる者といじめられる者というのは、容易に役割転換するケースもあるようで要するに、集団の力学として「差」を無理矢理つくりださないとあまりに平板でやっていけないという部分もあるんじゃないかと想像します。

 本当の個性というのは、あれこれ示威行動しようなんてしないはずですし、示威行動しないとわからない個性なんて個性でもなんでもない。いまのイジメというのは「非個性化」の成れの果てのような気がします。

 最近の子供はちっとも子供らしくないんですけど^^;、なぜこうなってしまったかというと、おそらくは、頭でっかちのせいじゃなんじゃないでしょうか。本来ならば、身体を作り上げ、いい意味で健全な権威にふれて育つべきときに早期教育なんかで、すべてを頭でっかちのシミュレーションにしてしまう。テレビゲームや雑誌の特集なんかを「ほんとう」だと感じているから、現実にぶつかると、そのシミュレーションどおりにしかできない。「ゲスな中年男」ってのも、すべてをわかった風にしてパターン化する傾向があります^^;。

 さて、ちょうど、先日読んだ小倉千加子「女の人生すごろく」(ちくま文庫)の最後に「まあじゃんほうろうき」なんかを描いている漫画家の西原理恵子さんとの対談があって、その高校生のときのひどい話がありました。高校三年生のときにスナックでお酒を飲んでいて二回目の補導をされ、強制退学になったときの話なんですが、学校側の態度がこれはひどい^^;。

西原 当時はまだ人権問題とはよくわかんなかったけど、明らかに学校側がおかしいと思ったので、後日裁判を起こしたんです。この時の学校側の態度もひどいものだった。あの人たちにも生活があって、ローンがあって、裁判に負けたら中途採用もしてもらえないから、必死だったんです。だから、私たちが過去に十数回の補導歴があって、薬物まで乱用している、どんなひどい子供たちだったとか、絶対殴ってないとかぜーんぶ嘘の資料を一人につき山ほどだしてきたんです。その時、初めて泣きました。

小倉 西原さんの味方になってくれた先生は井取りも一人もいなかったんですか。

西原 (きっぱりと)一人もいません。

小倉 ほんまにペテンやね。

西原 六年間の担当の先生六人が、それぞれ私の悪口を書類にしているんです。中に、ものすごく優しい女の先生がいたんですね。私の母は再婚してるんで、前の父方のおばあちゃんが学校に訊ねてきたことがあったんですけど、その時、先生は「大変ねえ」って涙ぐんで優しい言葉かけてくれたんです。それが裁判のための資料では、複雑な家庭環境で妙に醒めたところがある、ってことになっていた。裁判の途中に、その先生にスーパーで会ったことあるんです。一緒にいた退学になっていない友だちが、「先生、りえちゃんここにいるから声かけてあげて」ってずっと言ってくれても、絶対こっちむいてくれなかった。ああこれが世間かなって、思いましたね。

小倉 世界が違って見えるようになったしもたでしょ。

西原 ええ。この話を笑って言えるようになるまで、やっぱり三年、四年、いや五年くらいかかりましたね。しばらくは夢見たりとかしたし、制服みただけで苦しくなるとか。

小倉 可哀想に・・・。まわりの目は変わりました?

西原 いえ、それはなかったです。友だちとか母親とか実態を知っていて、 みんなえらい怒っていたから。でも、やはり直接抗議できないから、署名集めてくれたりとか。ひどすぎましたからね。学校側が全校生徒の親に、私たちのことを「度重なる犯罪を起こした子供で」とか書いた手紙を送ったり、それと理事長が地方財閥の大物なので、マスコミにも、ものすごく悪い子のように報道されました。

小倉 新聞も嘘を書くんだなってその時初めて気がついたわけですね。

西原 ええ。もういろんなことがあって、人間不信になりました。受験しようとしたら、裁判をとりやめないと受験のための書類を出さないと言われたり、そのくせ水面下では、お金はいくらでも払うから裁判やめてくれとか、そういうのいっぱいあったんです。

 かなり引用が長くなりましたが、こういう学校の先生がその後も先生面して偉そうに学校で教えてるというのが信じられないですね。それから、通常からそういうことばかりしているとはいえ、報道機関の責任はどうなるのでしょうね。

 こういうのは、かなり特殊のように見えて、多かれ少なかれ、いまの学校などというものはこういうものなんでしょうね。きれいごとはいうけれど、ほとんど保身だけしか考えてやしない。

 こういうのはごく最近のことかといえば、さにあらずで、明治36年に内村鑑三は、教育についてこういうことを述べています。

すでに虚偽に始まったる日本の教育の虚偽の結果を御覧なさい。教員は誰も真面目に児童を教育せんとは為さず。教育をもって一種の職業と見故し、教育家が地位を探るに当たってまず第一に探るものは俸給の高であります。…それのみではありません、かの書肆(しょし)の教育運動を御覧なさい。世にいう「腐敗屋」なるものはなんでありますか。これは学校長または教授、教諭、さては視学官などを、あるいは金銭をもって、あるいは酒食をもって買収せんがためにわが国の書肆が使役する運動員の名称ではありませんか。…この世界に児童の教育が始まって以来何百人という教育家が収賄の嫌疑のために一時に縛られて牢獄に投げ入れられたという例はいつの世、いずれの国にありますか。…明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熱祷熟思(ねっとうじゅくし)の結果として得た教育を盗み来たって、これに勝手の添削を加えて施した偽りの教育であります。 神のない、キリストのないキリスト教的教育(日本今日の教育はそれであります)の終わるところは教育家の入牢であります。知事、博士、学士の捕縛であります。

  (山本七平編「勝利の生涯(上)内村鑑三評論集」(山本書店)より)

要するに、能書きだけ西洋から取り入れて、内容が伴わないで、教師の利益のために運営されてきたのが、明治以降、今日までの教育機関の実態なのではないでしょうか。そういえば、灰谷健次郎さんの新刊「林先生に伝えたいこと」(新潮文庫)でも教育基本法に明記されている能書きと実態とのあまりにも大きな差についての実際の例が紹介されていますが、引用ばかりになりますので、そのご紹介は省略。

 イジメの話ですが、「盗んでもお金を持ってこい」と言われ、親の財布から抜き取っていて、いじめた側はそのお金を使ってゲームセンターで遊んでいたという話があって、それは確かに腹立たしいことですが、その怒りを理解へと変容させることもまた必要なことではないかと思います。もちろん、そうしたイジメを許すことは決してできませんし、それの引き起こしたことに対する責任は一生背負っていかなければなりません。ただ、そこで必要なのは、怒ることではなくて、どうやったらそのイジメた人間がその罪を理解し、それを背負いながら自分を変容させていけるかということのような気がします。そして、そういう子供を作りだした親や学校や社会の責任についてももっと深く見つめていくことではないかと思うのです。

 引用ばかりになりますが、先の灰谷健次郎さんの「林先生に伝えたいこと」に「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の犯人の少年たちについて、灰谷さんはこういうことを述べています。

この事件のことについて何かを語ることはあまりにもつらく、救いのない絶望を覚えて筆がにぶる。

しかし、どうしてもいっておかなくてはならないことがある。(略)

わたしがいっておきたいことというのは、この非道な犯罪を犯した少年にも、 学んで変わるという能力があるという動かしがたい事実である。

この少年の可能性を引き出し得なかった学校と社会の責任はいったい誰が背負うのか。

いうまでもあるまい。わたしであり、あなたである。

この事件の判決が下りた数日後、量刑は軽すぎるという一般の声が多数をしめるという新聞を見、わたしは深い絶望を感じた。

日本人の退廃をいやでも思わざるを得なかった。

少年だけが罰せられればそれでよいのか。

独房で独り本を読む少年を思うと、ことばが、ない。

 この「日本人の退廃」という言葉で思い出したのはラフカディオ・ハーンの「心」の最初にある「停車場で」という明治26年にあった事件についての、「罪人が自分も人の親であるという観念、どんな日本人でも、その精神のうちの大部分をしめている、わが子に対するこの潜在的な愛情、これに訴えて、罪人の悔悛を促した」という警官とそれに静かに聞き入る見物人の話です。

 さきの「コンクリート詰め殺人事件」の弁護人の次のような言葉は、この「停車場にて」にある警官に通ずるところがあるように思います。

被告人にいま最も必要なことは、人間的な感情を育てることである。人間的な感情が育ってこそ、被告人は被害者や被害者の遺族らの悲しみが理解できるよ うになるはずだからである。

被告人が人間的に豊かな感情を持つようになれば、被告人はいまよりも遥かに被害者や被害者たちの遺族らに対して苦しむようになるはずである。 私たち弁護人が望んでいるのは、まさにこの苦しみである。いま、被告人は必死に考え始めている。

言葉を、人間を。

いまは、ひとりで堂々巡りをしているが、被告人のこの意欲を枯らしてはならない。

 

やはり、自己教育


(95/01/31)

 

 これは、教育について得たぼくの基本的な視点でもあるのですが、やはり、「教育はすべからく自己教育でなくてはならない」ということだと思います。教育をする教師や親は、みずからを自己教育すべきであるし、子供が自己教育できるような環境づくり、働きかけをしなくちゃならない。子供が何を受け取るのかということについてもっと真剣に考えなければならない。

 教育というのは、ドイツ語では「引き出す」という意味の言葉ですが、その言葉の通り、子供のなかに埋もれている宝を探り当て掘り出すということを教師や親はみずからの言動などを自己教育することからはじめなければならない。

 おそらく、子供の中にある宝は、教師や親がみずからの中にある宝を掘り起すことで子供みずからがそれを掘り出すようになるのだと思うのです。

 その子供のなかにある宝を掘り起こすということについて林竹二さんは「教育の再生を求めて/湊川でおこったこと」(筑摩書房)のなかでこう述べています。

授業というものは、本来、子どもがもっているそれぞれの個性的な、固有のたから(可能性)を、引き出す作業である。そのための「道具」が教材である。その道具をつかうには方法があり、技術があるだろうが、何よりも大事な、教師の条件は子供の心の見えること−−子供のうちにかすかに動いているものやことばにならないおもいを感じとる人間的な資質であるだろう。それが感受性であるわけだが、それはやさしさと別のものではない。教師がそれを欠けば、子供のうちにある、表面には姿を見せない大事なたから(可能性)は切りすてられる外ない。子供のもっている豊かな可能性の貴重な愛惜すべき部分は、遠慮会釈なく学校教育の中で無惨に切り捨てられてゆく、この「切りすて」に抵抗すると、今度は子供自身が容赦なく切り捨てられるのである。(P12)

 さて、日本人というのは一種の蟻塚であって、そこには明確な個人というのではなく集合化したシステムがあるという傾向がある。

 そのシステムはおそらく世界でもまれにみる高度なシステムなのですが、現代ではやはりそのシステムを個人が内的に獲得しなかればたちいかなくなってしまいかねない部分があります。

 つまり、集合的な自我の部分を個人の自我のほうまで降ろして個の自覚の方向にもっていくということです。その意味でも「差」ということをなくすのではなく、それを認め合っていくというのがまずは大事なのですが、どうにもその方向性はまだあまりないように思います。

 官僚に関してですが、彼らはとても優秀な、いわゆるエリートです。けれど、その優秀さと言うのは「機械的」なんですよね。問題はその「機械的」だということにありそうです。先に述べたように「集合化したシステム」としては有効なのだけれども「個」のそれぞれが自覚していることが求められる状況では無能だということ。官僚というのは、いってみればその象徴のようなものなのでしょう。そして何か前代未聞のことが起こってしまうと、決まりきった「集合化したシステム」は重すぎて身動きがとれないし、そのシステムを臨機応変に変えていくような「個」がいない。これは「官僚が無能だ」というよりも、日本人そのものの行動パターンを根本から変えていかなくてはどうしようもないことかもしれません。

 そのためにも、「自己教育」がテーマにならなくてはならないように思うのですが、政府など批判する向きも、自分が変わろうという前提で言っている場合はほとんど見受けられません。

 マスコミもその象徴のようなもので、自分は無責任なくせに、ターゲットを見つけると執拗に攻撃をしかけて、ネタにしようとします。やはり、「自分で考える力」というのは

「自己教育」でしかでてこないように思うのです。

 「声だけが大きい進歩的文化人」についてですが、彼らは明らかに大馬鹿ものではありますが、もっと悪いのは「善良な人々」なのかもしれません。右を向けと言われれば右を向き、左を向けと言われれば左を向く。そこには「なぜそうしなければならないというのか」という自覚が欠如しています。やはりそこにも「自分で考える力」がないということがいえます。そういう意味では「善良」は「最悪」なのかもしれないとも思います。結局は、その「善良」が「そういうものだ」をつくりだすのですから。

 

 

三種の善意


(95/03/12)

 

 善意の出発点は「相手を思いやること」ですから、そういう事のない「善意」は「善意」と言うよりは「偽善」と言うべきなのかもしれないということについてですが、善意というのを分けてみますと、次の三つになるでしょうか。

 まず、善意の押し売りというような相手の気持ちを無視した素朴で無自覚な善意。それから、相手から感謝されることを強要するような善意、つまり偽善。そして、相手がどう受け取るかを配慮しながら、見返りを期待しない真の意味での善意。

 そういえば、少し前に、神戸でのボランティアの話を聞きました。被災者たちが、ボランティアの協力を辞退しはじめていることについて、ボランティアたちが当惑しているという話です。

 「相手を思いやること」というのがボランティアの基本だとしたら、決して当惑するべきではないと思いますから、ボランティアという行為に対しては感謝しながらも、「ボランティアって何のためにやってるのか」をちゃんと考えておかないと、それが自己目的化してしまうなと思いました。

 ところで、林竹二さんの「教育亡国」(ちくま文芸文庫)という新刊が出ました。もちろん林竹二さんは10年前に亡くなっていますから、これは1983年に出された本の文庫化なのですが、非常に重いテーマを扱いながら、教育のよみがえりのための非常に重要なプロテストになっているように思います。

 この本の解説「魂の共振を求めて」を書いている栗原彬氏は、この本について、そして林竹二氏について次のように述べています。

『教育亡国』は三つの重層的な行為の次元から構成されている。第一=政治・教育行政に発する教育の病理の構造への臨床的な分析の次元。第二=制度の 病理の構造を人間に還元して、責任のありかを問う次元。第三=読者に、教育を取り戻す行為へ、共振を呼び起こす発話行為の次元。『教育亡国』という行為は、教育の現実という汚濁の底から、「教育=魂の 世話」という美しい珠を拾い上げてくる。(中略)

林はなぜ子どもたちへの授業巡礼に魅せられたのだろうか。林は対話を通して輝き出す子どもの魂に魅せられたのだ。起きあがってくる子どもの魂と共振しつつ、自らの魂を燃焼させていった。林は年をとるほどに成熟して悟りの境地に入ったなどとはどこを探しても言えない。自他の魂の解放を阻害する制度や権力との闘いはいっそう激越なものとなった。

ぼくは、いまだに公務員と銀行員と教師にはならなくてよかったと思っていますが公務員と銀行員というのはそのままの「ならなくてよかった」ですが、教師についてはほかの二つとは違っていまして、教師ができるほど魂が成熟できないという理由です。教師になるというのは、それほどの覚悟がいるのだと思いますし、そうでなければなってはいけないものなのだと思うのです。

 友人たちとやっている読書会で、先日やっと、シュタイナーの「シュタイナー教育の基本要素」(イザラ書房)を読み終えたところなのですが、あらためて思ったのは、教育というのはすべての総合力が要求されるということです。

 つまりは、子どもだけを云々するのが教育ではなくて、総合的な人間学の探求としてとらえなければならないということです。シュタイナーのほかにも、林竹二さんをはじめとして、いろんなすばらしい教育者の著作などにふれる機会がありましたが、ほんとうにいろんなことを学ばせてもらった感が強くあります。

 そういえば、鳥山敏子さんの編集の「賢治の学校」という雑誌も、2号がでたようで、今回の特集は「いじめ・家族・学校」でした。


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