「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


シュツットガルト 1920年3月7日

■最初の質問:光の絶対伝播の法則は正しいのでしょうか?

■第二の質問:アインシュタインによって仮定された時間の相対性には何らかの現実性があるのでしょ

うか? 

 最初の質問は、絶対空間中で光が一定の速度で進むかどうかに関するものであると思われます。ご存じのように、絶対空間中における光の伝播について語ることは実際不可能です。何故なら、絶対空間というものは存在しないからです。私たちが絶対空間について語る根拠とは一体何でしょうか? あなた方は、光の伝播は無限に大きく、光はその実際の伝播を媒体の抵抗から導き出してくると考えられる、と言いましたが、それは確かにそうです。そこで、お聞きしたいのですが、あなた方の観点から見て、他のあらゆる物体が移動する速度について語るのと同じ意味で、光の速度について語ることはそもそも可能なのでしょうか?

 ヘルマン・フォン・バラヴァル:絶対に不可能です。

 もし、私たちが光を他の何らかの物体と同等のものであると仮定しないのであれば、他の物体の速度を測るのと同じ方法で光の速度を測定することはできません。通常の物体、物質的な対象物が、ある速度で空間中を飛行していると仮定してみましょう。この物体は、時間のなかにおけるある特定の瞬間に、ある特定の場所にありますが、速度を測るための私たちの方法全体が、ふたつの異なる時間の間で、その物体の位置が出発点とどれほど異なっているかを考察することに依存しています。この測定方法は、移動する物体がその移動線上の各点から完全に離れるときにのみ可能となります。その物体がこれらの点から離れるのではなく、後に痕跡を残すと仮定してみましょう。もし、一定の空間中を移動する物体がその空間を離れるのではなく、その移動ラインを占め続けるとしたならば、この測定方法を適用することはたちまち不可能になります。しかし、それは私たちがその差異を測定できないからではなく、推進する速度が推進される物体を絶えず変化させるからです。空間を離れるときにはその空間を空にするものではなく、その空間を完全に空にするかわりに、後に痕跡を残すような実体を取り扱うとき、通常の測定方法は適用できません。このように、物質的な物体の速度について語るのと同じ意味では、一定の光速度について語ることはできません。それは、位置的な差異という速度計算の基礎を与えるべきものに基づく等式を形成することができないからです。 

 このように、私たちが光の伝播を扱うときには、光の外的な伝播速度についてのみ語らざるを得ないのが分かります。けれども、もし、私たちが光の伝播速度について語るとすれば、私たちは、その速度を測定するために、発散する光の源泉へと絶えず立ち返るように強いられることになるでしょう。たとえば太陽の場合、私たちは発散する光の起源へと立ち返らざるを得ないでしょう。私たちは光の発散が始まるところから測定を始めなければならず、その光が無限に複製されると仮定しなければならないでしょう。けれども、この仮定は正しくありません。何故なら、光が拡散していく最前面は単純にどこまでも大きくなるのではなく、ある種の弾性の法則に従うようになり、一定の大きさに達したときには、方向が逆転するからです。その地点では、私たちはもはや単純に拡散する光ではなく、戻ってくる光、同じ道を逆に辿りながら収縮する光を取り扱うことになります。つまり、この基盤の上に立てば、光に満たされた空間の中に存在すると仮定される単一の位置取り−つまり、ある地点から別の地点へと拡散する何か−についてではなく、ふたつの実在の出会い、ひとつは中心からやって来るもの、もう一方は周辺からやって来るものですが、それらの出会いについて取り扱うことになります。ですから、次のような根本的な問いかけをしないわけにはいきません。私たちが光の伝達について考察するとき、私たちは本当に通常の意味における速度を取り扱っているのだろうか?と。 

 ご理解いただけたかどうか分かりませんが、私は通常の意味における伝播速度を取り扱っているのではありません。そして、通常の速度から光の速度へと踏み出すときには、弾性式に基づく定式を見いださなければならないのです。もし、物質の動きについてのイメージを用いるとすれば、そのような定式は、境界として固定された領域を有する弾性的に関連した空間部分が閉じた弾性系の中でどのように振る舞うか、というその方法を反映したものでなければなりません。ですから、光の挙動についての記述に移るときには、通常の定式を用いることはできません。この理由により、アインシュタインの仕事には根本的な誤り、つまり、通常の力学的な定式−と申しますのも、それが彼の仕事だからですが−を光の拡散に適用し、空間中を進む物質的な対象物と同じ方法で光を測定することができるものと仮定する、という根本的な誤りが見られるのです。光は、疾走する物質的、宇宙的な粒子から構成されているのではない、ということを彼は考慮していません。光とは輻射の痕跡を後に残すところの空間のなかでのできごとであり、そのため、それを測定するときには(保存されなかった描写についての言及あり)、単純に、まるである物体が遠くからやってきて後に何も残さずに離れていくかのようにして測定することはできません。そうではなく、光が伝達されるときには、いつもそこに跡が残るのであって、それはある一定の速度で伝達される、と言うことはできないのです。単に最前面だけが伝達されます。これが重要な点です。ここで扱っているのは、その拡散する要素によって分類された空間のなかにある特別な実体なのです。 

 そして、そのとき、第一の誤りに関係した第二の誤りが見られます。つまり、アインシュタインは、実際にはお互いに接近する点からなる力学的な系に適用される原則を宇宙全体に適用し、そのため、その全体をひとつの系としてみたときには、宇宙は単に機械的な過程の総体ではあり得ない、という事実を無視しているのです。例えば、もし、宇宙がひとつの有機体であるとするならば、その経過を機械的なものと仮定することはできません。私の手の中で機械的な経過が生じるとき、私の体全体が反応し始めるのであって、本質的に閉じた機械的な系によってそれが決定づけられることはありません。別の動きのための定式を光の動きに適用することは受け入れられますか?それとも、宇宙全体の反応が関わってくるでしょうか? 宇宙全体の反応なしに光のない宇宙を想像することはよけいに困難ですが、この反応の働きは、閉じた機械的な系における速度とは非常に異なったものなのです。

 私にはこれらがアインシュタインのふたつの主要な誤りであるように見えます。私は彼の理論をただ簡単に調べただけですが、私たちは皆、数学的に誘導されたものは経験的な結果と実際に一致し得る、ということを知っています。例えば、太陽の傍を通り過ぎる星の光が理論的な予測値と一致したからといって、アインシュタインの理論がたちまち証明されたというわけではありません。 

 アインシュタインの思考方法がいつも逆説的で抽象的な理由は、その背後に横たわるこれらふたつの主要な要因によるものです。この状況は皆さんが以前に用いたウィルヘルム・ブーシュによる例、すなわち、力を込めて腕を振り上げられたために、今にも顔をひっぱたかれるのではないかという感じを持つときの状況です。それは、時計が光速度で飛び去り、そして戻ってくるとしたら生じるであろうことからアインシュタインが結論を引き出すのにやや似ています。皆さんにお伺いしたいのですが、このような考えに何らかの現実性があるでしょうか? その考えを突き詰めることは絶対にできません。何故なら、時計に何が起こるかを考えざるを得ないからです。もし、あなた方が思考を現実だけに限定することに慣れているならば、あなた方はそのような思考を完結へともたらすことはできません。そのような考えを述べているアインシュタインの文章を読むと、彼の結論が今お話ししたような基本的な誤りに基づいているのが分かります。

 以上が私の最初のコメントです。時間の問題に関しては、通常の機械的な定式ではなく、弾性についてのある定式に基づいて考えることから始める必要があるでしょう。弾性理論の考えを借りる必要があるのです。最前面を形成する分散や拡散を、無限へと広がり続ける実体として拡張的に想像することはできません。それは一定の周縁部に至ると必ず自分自身へと戻ってきます。現実の状況を扱おうとするならば、太陽が放射する光は無限へと消え去る、と言うことはできません。そのようなことは全くないのです。拡張する弾性の力が尽き、それ自身へと戻ってくるようになる境界が必ずあります。拡散し、無の中へと消え去る、という条件を満たすような無限系などというものは存在しないのです。拡散する実体は、それが何であれ、まるで弾性体を支配する法則にある程度従っているかのように、境界に到達するとそこで向きを変えるのです。私たちが光について語るとき、私たちが扱っているのは、決してあらゆる方向へと際限なく拡散し続けるような何かではありません。そのようなものではなく、私たちがいつも見いだすのは波のうねりと比較できるような状況です。私たちが定式を探すべき場所はそこであり、通常の力学のなかではありません。 

 それから、まだ時間そのものの問題があります。実際、時間はこれらすべての変容を通過して行く、と言えるのではないでしょうか? この力学の領域においては、いわゆる時間というものは現実的なものではありません。s(距離)=c(速度)×t(時間)という最も単純な式を取り上げてみましょう。通常の乗法にしたがえば、sは本質的にcと等価でなければなりません。何故なら、そうでなければ空間sは時間に等しくなりますが、そのようなことはあり得ないからです。この式のなかの空間については、いずれにしても数学的にはcに等しいものとして考えることしかできません。 

 リンゴやなしを乗ずることは不可能です。そうではありませんか? 一方を他方に換算しなければなりませんから。数式のなかでは、時間は数でしかあり得ないのですが、そのことは現実の時間が数であることを意味しません。私たちがそのような数式を書くことができるのは、私たちが取り扱っている数には色がついていないと仮定するときだけです。 

 式c=s/tは別です。ここでのsは数tの大きさに関係するような一定の大きさを持った空間です。それによって速度cが与えられます。これは、特定の知覚し得る量の空間を占めているものが原子や分子であると想像するにしても、あるいは物質であると想像するにしても、現実の状況です。私は、私が経験的に直面するいかなるものも一定の速度を有していると想像しなければなりません。これ以上の結論は抽象にすぎません。時間は移動距離と除数から私が導き出したもの、私が被除数から導き出した何かですが、これらは抽象的なものです。現実的なものとは−そして、これは力学系にのみ適用可能なのですが−各物体に内在する速度です。例えば、物理学者たちが別の理由付けのために原子理論を受け入れるとすれば、原子が内在的な速度を有することなく存在すると仮定すべきではありません。速度が本当の現実なのです。ですから、私たちはこう言わなくてはなりません。いわゆる時間とはできごとや過程から抽出されたものである、と。私たちが出会うもののなかでは速度だけを現実のものとして見ることができるのです。 

 このことを完全に理解するならば、私が時間と呼ぶところのものは現象の結果として現れるのだ、と結論づけることをもはや避けることはできません。それは現象のなかで共同的な役割を演じるので、私たちはそれを何か相対的なものであると見なして無視するべきではありません。この抽象化された要素の共同作業が産み出すのは、例えば、ある有機体のライフスパンというような一定の現実性を持った基本的な概念なのですが、その過程は内的なものであり、それを外的に測定することはできないのです。いかなる有機体もその有機体内部で起きているあらゆる経過の結果として生じ、かつその経過に組み込まれているところのライフスパンを有しています。有機体のサイズについても同様のことが言えます。それはその有機体にとって本来的なものであり、何か他のものと比較して測定すべきものではありません。ライフスパンとか生体の大きさといったような概念は私たちが通常仮定しているような仕方では有効に機能しない、というのが適当な結論です。 

 人間には特有の大きさがあります。今、私たちの通常の宇宙に非常に小さな人間が存在していると仮定してみましょう。他のすべての目的にとっては、他の対象物と比較したときの人間の大きさは重要ではありません。ところが、人間にとっては、その典型的な大きさが重要なのです。何故なら、その大きさは本来的なものだからです。これが重要な点です。人間をより大きなものとして、あるいはより小さなものとして勝手に想像することは全宇宙に対して罪を犯すことです。例えば、どこかの科学的な思考家が、私たちの太陽系よりも遙かに大きな、あるいは遙かに小さな太陽系にはどのような生命がいるだろうか、と想像します。このような疑問はナンセンスです。私たちが現実に出会う実在がどれほど大きいか、そしてその寿命はどれほどか、というのは内的な必然性の問題なのです。 

 ここで、私は、ひとつの全体として考え得るいかなる実体もそれ自身の時間をその内部に担っている、ということを申し上げなければなりません。一片の無機的な物体は他のいかなるものからも独立しているものとして見ることができますが、一枚の葉については、その持続する存在が木に依存していますから、そのような見方はできません。ですから、考えなければならないのは、観察している実在がひとつの全体、総体、あるいは自己充足した系であるかどうか、ということです。とはいえ、私が観察するいかなる全体的なものもひとつの内在する要素として時間を取り込んでいますから、それぞれの物体やできごとに本来備わった時間に加えて、物事の外部に抽象的な時間が存在する、という概念についてはあまり考えません。時間を始まりから終わりへと過ぎ去るものとして見るのは、個々の馬に基づいて、「馬」という抽象的な概念を発達させるのに少し似ています。個々の馬は空間という外的な現実のなかに存在していますが、概念というものは何かそれ以上のものを要求します。時間についても同じことが言えます。時間というものは本来変化するものなのか、という質問は本質的に意味がありません。何故なら、それぞれの全体システムはそれ自身の内在する存在のなかにそれ自身の時間と速度を有しているからです。いかなる無機的あるいは生命的な過程の速度もこの内在する時間というものを遡って指し示しています。 

 ひとつの軸座標系を別の系に関連づけることはいつも可能である、と仮定する相対性理論ではなく、私たちが全体としての有機体に向かうのと同じ方法で対処することができるような全体システムはどこに見いだされるかを明らかにするために、むしろ絶対性理論を確立したい、と私が思うのは以上の理由からです。私たちは、例えば、地球進化におけるシルリア期の全体性について語ることはできません。何故なら、ひとつの全体としての系を構成するためには、シルリア期は別の進化期と結びつけられなければならないからです。人間の頭部をひとつの全体として語ることも同様に不可能なのですが、それはそれが体の他の部分とともに人間に属しているものだからです。 

 私たちは地質学的な年代を、それがまるで現実の状況であるかのように、他の年代から独立して記述します。しかし、そうではありません。ひとつの年代とは、ちょうど生きた有機体が、それからは何も差し引くことができないようなひとつの現実であるように、地球進化全体との関連においてのみひとつの現実なのです。経過を座標軸に関連づけるのではなく、それらの過程をそれら自身の本来の現実に関連づけることによって、その全体システム、あるいはその総体を見ることができるようになる、ということの方がずっと適切です。その時点で、私たちはある種の単子論に立ち返らなければならなくなるでしょう。私たちは、相対性理論を克服し、絶対性理論に到達することになるのかもしれません。 

 そのとき、アインシュタインの理論は抽象化に向けた努力の最後の表現である、ということが私たちに明らかとなるでしょう。アインシュタインは抽象的なもののなかで機能しますが、彼の抽象化は、彼の仮定が非常に基本的なことがらに適用されるとき、ときとして耐え難いものとなります。例えば、私自身が音速で移動するときには、音はどのような働きを及ぼすでしょうか? もし、私が音速で移動すれば、もちろん音は決して聞こえないでしょう。何故なら、音は私と共に移動することになるからです。現実の言葉で、つまり全体性において考える人にとっては、そのような概念を用いることは不可能です。何故なら、音を聞くことができるいかなる存在も、音速で(原注:空気中を)移動したならば、バラバラになってしまうであろうからです。そのような概念は現実の世界における観察に基づいたものではありません。 

 時間とは本来変化するものなのか、と問うときも同じです。もちろん、抽象的な時間においてであれ、絶対的な時間においてであれ、何らかの変化を確認することはできません。それは「先験的」に想像されなければならないのです。しかしながら、私たちが時間の変化について語るときには、時間の現実を把握しなければならないのですが、それは、一時的な経過が世界のなかに存在する全体系に本来どのように結びついているのかを考慮することなしには、不可能なことなのです。

(了) 


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