「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


シュツットガルト 1920年3月11日

 

■最初の質問:
曲面や多岐管上の各点の関係を通して超虚数を規定しようとする私の試みは現実に即したものでしょうか?

■第2の質問:
虚数の領域についての生き生きとした観点を獲得することは可能なのでしょうか。そして、この領域には実際の実在が基盤として存在しているのでしょうか?

■第3の質問:
精神科学の線に沿ってさらに発達させる必要があるのは現代数学のどのような側面でしょうか、特に形式的な側面についてはどうでしょうか?

 第2の質問から始めることにしましょう。その答えを定式化するのは容易ではありませんが、その理由は、私たちがそれを行うためには、視覚化の領域から非常に大きく離れなければならない、ということによります。数日前にミューラー博士の質問に答えたとき、皆さんは、私が数学的な事例に具体的な関連を与えるために、長い骨から頭骨への移行に向かわなければならなかったとはいえ、それでもやはり図象的な例示は有効である、ということをご覧になりました。少なくともあの場合には、対象を視覚化すること、したがって、ひとつのものから別のものへの移行が可能でした。

 虚数の領域を精神的な現実として眺めようとするときには、私たちは、私が最近行った物理学についての連続講義において示したように、正から負へと移行する必要があります。私たちがいわゆる考え得るものと考え得ないものとの間の一定の関係を理解しようとするとき、この移行は私たちの考えを現実にとって真なるものにしてくれます。けれども、通常の領域を視覚化するときでさえ、私たちはそれらを図示するいつものやり方を超越する必要がある、ということが理解できます。ひとつだけ例を挙げてみましょう。通常のスペクトルを平面上に描く際には、赤から緑を経て紫まで直線を引くことができます。けれども、そのような描画方法は、赤を表示するために、多かれ少なかれこの(保存されていない図を指し示しながら)平面内に曲線を描くときにのみ包含されるところの関係するすべての側面を示してはいません。次に、紫を表示するために私たちは黒板に向かい、その裏側に廻るのですが、そうすれば、上方から見たとき、赤は黒板の前面にあることになります。紫を内側、すなわち化学的な作用に向かうものとして、そして、赤を外側、すなわち熱に向かうものとして特徴づけるためには、私は、赤に関しては、平面から出て、紫に関しては、その中に戻らなければならないでしょう。ですから、私はここで直線を拡張し、通常の仕方で描かれた私の図を実際に描くべきものの投影として見るように強いられます。

 高次の現実に関わるある種の現象について明確であるためには、正の物質的側面から負の物質的側面へと移行するだけでは不十分なのです。赤から緑を経て紫へと至る直線上を動くことが不十分であるように、それは正に不十分です。私たちが(正と負によってそれぞれ示されるような)空間的な領域から非空間的な領域へと移動するときには、私たちは空間と非空間のより高次の形態へと移行しなければなりません。この過程は、円周上を回って出発点に戻る代わりに、らせん上を移動するようなものです。

 私たちは、ちょうど、別の場合に、ふたつの異なるタイプが、両方を含むひとつの統合体として総合されるように、空間的であるとともに非空間的である何らかの存在を思い描くこともできます。私たちはこの第三の要素を探さなければなりません。より高次の現実の領域では、物理的な現実を正として記述するならば、私たちが空間を離れ、精神の領域に入り始めるところのエーテル的な領域を負として記述しなければなりません。けれども、アストラル的な領域に歩を進めるとき、正と負の空間はもはや十分ではありません。私たちは、正に、定型的な数学において、虚数が正と負の数に関連しているように、正と負の空間に関連する第三の要素に向かわなければならなりません。そして、次に、私たちがアストラル領域から自我という真の存在に歩を進めるとき、虚数との関係でいえば、超虚数的な概念が必要となります。ですから、私は超虚数の概念に対するアカデミズムの反感には決して満足しなかったのですが、それは、私たちが自我のレベルにまで上昇するためには、この概念が本当に必要なのであって、それは私たちの数学的な定式が現実の領域を離れることを望まない限り、省略することができないものである、という理由によります。単に、純粋に定式的な数学においてその概念をいかに正しく用いるかが問題なのです。

 今日、私が会った人物は確率の問題を議論していましたが、この問題は数学的な操作を現実に関連づけることの大いなる難しさを非常に明確に示すものです。保険会社はある人がいつ頃死にそうかを計算することができますが、その数字は集団に適用されたときには非常に正確なものです。しかし、保険会社の出した数字から、特定の個人が予測された年に確かに死ぬと結論づけることは不可能です。このように、これらの計算は現実を欠いているのです。

 その計算結果は定式的な関連においてはしばしば正確なものですが、それでも現実には対応していません。私たちは、また、ある場合には、数学の定式的な側面を、そのような超経験的な現実についての結果に一致させるように、矯正しなければならないかも知れません。例えば、a×b=0が成り立つのは項のひとつが零であるときだけである、というのは正しいでしょうか? aかbが零に等しいときには、その答えは確かに零でしょう。けれども、両項とも零でなくても、答えが零に等しくなる可能性があるのではないでしょうか? 実際、現実の状況が私たちを超経験的な現実に対応するところの超虚数に向かうように強いるとすれば、それは可能かも知れません。私たちは本当に、現実と虚数の関係、超虚数と虚数や実数との関係を明確にしようとすべきなのですが、同時に、計算を支配する法則を変更しなければならなくなるでしょう。

 最初の質問に関していえば、私たちが人間の中に見て取ることができるのは、あるレベル以上に横たわっているもの、そして、あるレベル以下に横たわっているものだけです。これをほとんどの方が理解できるように説明しますと、人類の代表として中心に位置するキリストが両端にアーリマンとルシファーを従えたドルナッハにある木彫を見る人にはいつも説明するのですが、私たちは、私たちが出会うような人間を、均衡状態の中にあるものとして本当に想像しなければならない、ということになります。片方には超感覚的なものが、他方には感覚以下のものがあります。個々の人間は、超感覚的なものと感覚以下のものとの間で、絶えざる均衡状態にあるものとしてだけ表現されます。

 もちろん、人間は兎にも角にも小宇宙であり、そのようなものとして大宇宙に関連づけられています。ですから、私たちは人間の各細部とそれらに対応する大宇宙における現象との間の結びつきを説明できなければなりません。そのことを次のように図示してみましょう。これが(保存されていない図を指し示しながら)バランス面であるとして、人間の中の感覚以下の要素を閉じた曲線として想像し、そして、超感覚的な要素、もしくは人間がその意識の中に有しているところのものを開いた曲線として想像するならば、得られる形態は、下方において結び目を有し、上方において外側に開いたものになります。この図はまた、人間がどのようにして大宇宙に組み込まれているかを表現しています。この下方にある取手のような領域は私たちを大宇宙から引っ張り出す一方、この上面にある開いた曲線は私たちを大宇宙へと組み込みます。人間の自由意志による決定の領域はおよそこのあたりに位置しています。自由意志のレベルより上では、人間の力は大宇宙に出て行くのに任されます。このレベルより下にあるものはすべて大宇宙の力を包み込んでいますが、それによって私たちは特定の形姿を取ることができているのです。

 この曲線によって形成されるいくつかの平面図形の内部に、私たちが探求できる宇宙的な思考を表現する一連のデータをXとして書き込みましょう。ここには私たちが探求し得る宇宙的な力があり、ここには宇宙的な動きがあります。もし、私が、上部にあるこれらの数字を含む式を立てるとすれば、下部の人間の中にあるものに対応した式が得られます。X、Y、そして、Z要素についての式が必要になります。

 けれども、私がこの関係を表現する数を見つけようとしても、この平面上で手に入る数システムの領域の中でそれらを見つけることはできません。超感覚的な人間と感覚下の人間を結びつけるためには、曲面上に横たわるシステムに属する数を含む式に頼らなければなりません。これらの面は、放物線を対称軸の周りで回転させてできる図形の表面、つまり、三角錐の各点が絶えず速度を変化させるような仕方で回転するときに生じる表面としてより正確に定義できます。もっと複雑な放物線の回転体もありますが、その各点は、お互いの関係を固定的に保持するのではなく、ある法則性の範囲内で変化することができます。このように、私の目的に役立つ表面とは、生きた放物線の回転体なのです。

 私が記述している関係はきわめて困難なものです。今まで、何人かの人がそれについて想像してきました。そして、その必要性が見いだされてきたのですが、公式的な計算が可能になるのは、秘教的、精神的な科学と、数学との共同作業が可能になったときだけでしょう。今日、あなたが私たちのために概要を示してくれた道は、ひとつの始まり、すなわち、頂点が一点で接するふたつの回転する放物線(ひとつは下方で閉じており、ひとつは上方に開いている(訳注?))上の数システムに適用される関数の組み合わせに対応するものを見いだす、という課題に対する最初の可能な答えとなっています。お話ししたように、私たちに必要なのは、これらの現実の状況に実際に対応した表面上にある数を見いだす、ということに他なりません。

 形態数学の将来の発展に関して言えば、やるべきことが多く残されている、多くのことが可能である、ということを認めなければなりません。私が次に述べることは形態数学への不当な扱いになるかも知れませんが、それは、近年、それについて行くことが私にはより難しくなっているからです。私がこの分野で何が起きているかを十分に承知していたのはずいぶん前のことですから、事態は変化しているかも知れません。けれども、世紀の変わり目より以前には、私はいつも、形態数学の分野で公表される論文は、それらの計算や働きがとにかく実際に可能であるのかどうか、あるいは、それらは何らかの現実の状況に合わせて、いずれかの点で変更される必要があるかどうかについて恐ろしく無関心である、という感じを持っていました。例えば、一次元の多様性に二次元の多様性を乗じたときには何が起こるか、と問うことができます。そのような問いに答えることは可能ですが、それでも、私たちは、このような操作がそもそも現実に対応しているのか、少なくとも想像することが可能な何かに対応しているのか、と問わなければなりません。どこかに行き着くためには、「単に計算が可能である」ということがどういうことなのかをはっきりと規定する必要があるでしょう。

 ひとつの例として、私は昔、ピタゴラスの定理を、視覚的な助けを借りることなしに、純粋に数の見地から証明しようと試みました。幾何学の中にうっかり迷い込まないように、純粋に算術的な要素をできるだけ厳密に定式化することが重要になります。私たちが数の計算をするとき、私たちが常数の範囲内にとどまる限りは、それらは単なる数であって、特定の空間領域における数システムについて語る必要はありません。皆さんはこれが可能であることをご覧になりました。しかし、私たちは私たちの通常の空間を離れなければなりません。純粋に形式的な数学が単に象徴的に表すことができるだけの数―そして、ある意味で、抽象化とは追加的な対応する点を特定の空間領域に適用することなのですが―を設定する前に、そのようなより高次の数を幾何学の助けなしに想像することはいかにして可能なのかを、つまり一連の数を通してリニアな関数を表現することができるという意味で、可能なのかを検証しなければならない、と私が感じているのはこの理由によります。

 私たちは、正と負の数の関係を純粋に基本的なレベルで想像するにはどうしたらよいかという質問に答えなければならないでしょう。私はその課題に取り組んできたわけではありませんし、それについて十分に知っているわけでもないので、はっきりとした答えを提供することはできませんが、ガウスの解法―つまり、正と負の違いを純粋に概念的なものと仮定すること―は、私には不十分のように見えます。負の数とは、被減数のない引き算以上のものではないというデューリングの説明も同様に不十分のように見えます。デューリングは虚数(−1の平方根)も同様の方法で説明しますが、この数は、その表記法こそ存在しますが、現実においては実行できない操作を遂行しようという試み以外のものではありません。もし、私が3と、そこから差し引くべき何ものも持っていないとしたら、3が残ります。その操作に関する表記法は存在しますが、何も変化はありません。デューリングの観点では、微分して得られた商は表記された操作に過ぎず、他のいかなるものにも対応しません。私には、デューリングのアプローチもまた一方的なもののように見えますが、解決の方法は恐らくその中間にあるのでしょう。けれども、これらの問題が解決されない限り、私たちは、形式的な数学において、どこにも行き着くことはないでしょう。

(了) 


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