「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ドルナッハ 1920年3月30日

■質問:
人智学は化学のさらなる進歩にどのような影響を及ぼすのでしょうか?

 私たちがコリスコ博士によって述べられた型の現象学に取り組んでいると仮定すると、この質問は非常に包括的なものですから、答えは単にヒントを与えるだけのものになるでしょう。私たちは、第一に、そしてとりわけ、適切な現象学を発達させなければならないだろう、ということに気づくべきです。現象学は単に現象や実験結果を思いつきで集めたものではありません。真の現象学とは、ゲーテがその色の理論の中で試みたような現象のシステム化なのです。それは単純なものから複雑なものを導き出し、基本的な要素や現象がそこから現れる基盤へと立ち返らせます。

 もちろん、私は、何人かの全く知的な人々が、定性的な現象と元型的な現象との間の結びつきを上手に提示したとしても、複雑な幾何学的関係が定理から数学的に導かれるときの方法とは比べものにならないと主張するであろう、ということを十分に承知しています。この理由は、幾何学的な関係が本来的な構造に基づいてシステム化されているためです。私たちはこれらの定理から数学がさらに発達するのを数学的なプロセスの本質的に必然的な継続として経験します。しかし、他方で、私たちは、現象あるいは元型的な現象を体系づけるときには、ものごとの物理的な状態を観察することに依存しなければなりません。

 この議論は、幅広い支持を得ているのですが、正当なものではなく、単に不正確な認識論、特に経験についての概念をその他の概念とやみくもに混ぜ合わせた結果であるに過ぎません。この混乱は、部分的には、人間の主観がそれ自身の経験を形作ると間違って考えることから結果として生じます。何らかの対象物が人間の主観に結びついているところを想像しなければ、経験という概念を発達させることは不可能です。私がゲーテ的な元型のイメージの前に立っていると想像してください。私がそれをより複雑なものにするとき、それから派生する現象が結果として生じますが、私は、その結論を支えるために、外的な経験を頼りにしているように見えます。この主観−客観の関係と、私が三角形の頂角の和が180゜であることを数学的に示すときやピタゴラスの定理を認識論的に証明するときに起こることとの間に原理的な違いがあるでしょうか?本当に何らかの違いがあるのでしょうか?

 実際、数学というものもまた結局のところいわゆる認識の科学がその意味で用いているところの経験というものの上に成り立っているのだ、ということに気づいた19世紀あるいは20世紀の非常に才能ある数学者たちによる研究から明らかなように、それらの間に違いはないのです。これらの数学者たちは、当初はユークリッド幾何学の単なる補足でしかなかった非ユークリッド幾何学を発展させました。理論的には、三角形の三つの頂角の和が360゜であると幾何学的に考えることは実際に可能なのですが、それは空間が異なる段階の曲率を有していることを前提としている、ということを認めないわけにはいきません。私たちの通常の空間は規則的なユークリッド的尺度つまり次元と零度の曲率を有しています。単に空間がより曲がっている、つまり、その曲率が1より大きいと想像することによって、私たちは、三角形の三頂角の和は180゜より大きい、という結論に至ります。

 この分野では、このテーマについてより詳細に研究したオスカー・シモニーが行ったような興味深い実験がなされていますが、そのような努力によって、ある観点から言えば、私たちが数学的あるいは幾何学的な定理に関して述べる結論は、あらゆる現象論的な結論と同様に、認識論的な検証を必要としていると述べることが既に必要である、ということが示されるのです。

(了) 


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