「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ドルナッハ 1920年3月31日

■質問:
通常の数学は形、表面、そして固体、液体、気体の力線を包含しています。熱、化学、そして生命の領域についての数学はどのようにイメージされるのでしょうか?

 第一に、今あるような数学の分野は、もし、私たちが数学に似たやり方で―とはいえ、それは類比以上のものではないのですが―より高次の領域を記述したいということであれば、適切に拡張される必要があるでしょう。皆さんも恐らくご存じのように、数学を拡張する必要性は既に19世紀には明らかになっていました。別の機会に−昨日もそうだったと思いますが−議論した点について少し触れさせていただきますと、19世紀の終わりには、ユークリッド幾何学を補い、より高次の次元を含む計算を遂行することができるような非ユークリッド幾何学が必要である、ということが明らかになっていました。当時の数学者たちは、数学は拡張されなければならない、ということを示唆していたのです。対照的に、通常の、重さのある物質について考えている限り、三つの通常のユークリッド次元以外の次元を適切に用いる、という必要はありません。

 けれども、今日の数学者たちにとっては、熱や化学的な影響、あるいは生命の要素についての領域に関して適切な観点を探求しようという傾向があまりにもないために、数学的な思考をこれらの領域に拡張することは、本当に大変な問題になります。数学者たちが今日提議している観点は、ものごとの本質を把握することはできない、という物理学の側からの告白に対して釣り合いを取るものには確かになりません。そして、物理学者たちが首尾一貫した立場を取るとすれば、物理学は光の本質を取り扱うものではなく、ゲーテが光の像と呼んだところのものを扱っているに過ぎない、ということを認めないわけにはいきません。当然のことながら、分別ある物理学者は、職業人として、ものの本質を探究することは拒絶するでしょう。その結果、事態は不幸な状態、すなわち物理学者たちがものごとの本質をいかなるレベルにおいても扱うことをしないという状態になる、ということを認めないわけには行きません。そして、通常の唯物的な物理学の観点から哲学をでっち上げる連中は、単にものごとの本質を探究するのを拒否するだけではなく、そのようなことは不可能であるとさえ主張するのです。その結果、私たちの今日の地球に関する観点は非常に一面的なものとなっています。何故なら、物理学は単に地学の問題なのでは決してなく、一般的な知識のためにそのような特殊な分野が産み出すことができるものの総体を扱うものだからです。こうして、私たちは物理学が時間の経過の中で発達させてきた機械論的で非数学的な世界観からくる不幸な結果に直面することになるのです。

 ゲーテが、私たちは光の存在や性質について語るべきではない、むしろ、それに関する事実、つまりその行為と苦しみ―それらは光の本性についての完全な記述となります―について知るように試みるべきである、と言ったとき、彼が意図していたのは、決して、光の本性の問題については原則として考えることを拒否する、ということではありません。彼が指摘したのは、正に、(昨日、ここで議論したような方法で構築される)真の現象学は最終的には問題になっているその存在のイメージを本当に与える、ということです。物理学は、それが真の現象学であるか、あるいはそうであろうとしている程度に応じて、現象の本質、少なくとも力学の本質についてのイメージを本当に与えるのです。

 ですから、私たちが単に物理学的な現象の力学的な側面を扱っているのではないとすれば、つまり、私たちが力学以外の分野を扱っているとすれば、力学的な観点は、ものごとの本質を認識しようとする私たちの能力を妨げます。そのとき、その程度に応じて、私たちは、ゲーテが意図していた現象学−それはゲーテ主義の中で涵養させられます−と、ものごとの真の性質に近づく可能性を排除するところの原則を有するあらゆるシステムとの間の根本的な違いを強調する必要があります。そのことは、自然をコントロールしたいという私たちの欲求にとっての力学的な方法の優位性とは何の関係もありません。技術や力学の分野―それはここ数世紀の間に大きな勝利を収めました―、そして、自然を理解するためのその力学的な基盤は、自然をコントロールしたいという私たちの欲求をある程度満足させるであろう、ということはよく理解できます。

 しかし、別の領域においては、この自然を理解し、コントロールしたいという衝動は、技術が希求したようなタイプの知識に向けて押し進むことを拒否したために、どれ程の遅れをとったのでしょうか? 技術あるいは力学と、物理学に始まり、化学から生物学へと続く学問との間の違いは、これらのより高次の分野は単に定性的であるか、あるいはそのようなものだけを扱う、ということではありません。その違いは、力学と力学的生理学が非常に基礎的で、簡単に把握できる側面であり、そのため、私たちのコントロールへの欲求を少なくともある程度は何とか満足させた、ということに過ぎません。

 けれども、この時点で、私たちがより高次の、より非力学的な分野に移行するとき、コントロールしたいという私たちの欲求をどうやって満足させたらよいのか? という疑問が生じます。私たちは、将来、自然を単なる技術を超えた方法により、少なくともある程度は支配できる、ということに頼らざるを得なくなるでしょう。私たちは、技術的な分野においてさえ、自然を理解しコントロールすることに失敗することがよくあります。もし、誰かが力学の法則に関する十分な知識なしに鉄道橋を造るとしたら、その橋はいつかはその上を列車が通っているときに崩壊するでしょう。

 私たちは間違った情報に基づく不十分な制御に対してはすぐに反応します。しかしながら、力学に基づくのではなく、現象学を発達させるプロセスから導き出されるより複雑な領域に基づく制御のときには、それはいつもそれほど簡単に証明されるというわけにはいきません。三番目の列車が通っているときに崩壊する橋は、関連する力学を理解するには不十分に動機付けられた誰かによって造られたに違いない、と言うことはそれほど差し支えありません。患者を死なせる医者の場合、その開業医の理解への欲求と彼あるいは彼女の自然に対する制御との間に同様の結びつきを確認するのはそれほど簡単ではありません。医者が、病気は治したけれども、患者を殺した、と言うとすれば、それは技術者が、欠陥のある橋を設計した、と言うほど簡単ではないのです。要するに、私たちの自然についての力学的な観点が、単に力学的な技術の領域において、この欲求を満足させることができることを証明したからといって、自然を制御したいという私たちの欲求の重要性を性急に強調することには慎重であるべきです。

 自然に対する別の見方も、制御したいという私たちの欲求を別の仕方で満足させることができるでしょう。昨日、確か別の観点から触れたことについて、もう一度指摘させていただきますと、私たちは真の現象学的なアプローチを適用することなしに、世界についての力学的な観点と人間との間の溝に橋を架けることは決してできません。ゲーテの色彩論は、色の物理的、生理学的な現象を提示するだけでなく、色の感覚的、道徳的影響を探索することによって、その課題全体を人間に適ったものとします。私たちは、精神科学の仕事をする中で、ゲーテによって指摘された色の影響から人間存在全体を理解するというより幅広い課題、そして自然全体を理解するというさらに幅広い課題に移行することができます。

 私たちが今日、西洋文化の中で経験するところの退廃の大部分は、制御したいという私たちの欲求を力学的な観点からのみ満足させることに関連している、ということに繰り返し人々の注意を引くのは何らかの意味で有意義なことでしょう。この点で、私たちは非常にうまくやりました。私たちは鉄道、電報、電話、そして、無線や複合電信さえも発達させたばかりではなく、この大陸の多くの部分を舗装し、そして破壊しました。私たちの制御への欲求を完全に満足させるということが破壊へと導いたのです。

 制御したいという私たちの純粋に技術的な欲求から始まった発達を直線的に追求するということが破壊へと導きました。この破壊的な側面は、私たちが病的に拡張する物理的な現象についての機械論的な観点を別の観点、すなわち物理現象の詳細を単に機械論的な考え方で包み込むことによって根こそぎにしてしまうことのない観点で置き換えるとき、完全に取り除かれるでしょう。機械論的な観点は、確かに非常に良好な生理学的説明を産み出しましたが、私たちは物理的な現象の詳細に対する機械論的な観点から離れていくことでしょう。私たちの新しい観点、そして、それについては一時間でその最後の結論に至るまで議論することはできませんが、それはまた現実に基づく数学の拡張へと導くことになるでしょう。

 私たちが気づかなければならないのは、過去30年か50年にわたって、混乱した機械論的な考え方が、いわゆるエーテルに関するあらゆる種類の意見を可能にした、ということです。以前、別の文脈で触れた物理学者プランクは、多大な努力の後、次のように記述するに至りました。もし、我々が、物理学の中で、とにかくエーテルについて語りたいのであれば、それにはいかなる物質的な性質をも帰属させるべきではない。それを物理的な意味で想像するべきではないのだ、と。プランクは物理学がエーテルに物理的な性質を帰属させることを控えるようにさせたのです。エーテルについての考えや概念が本来的に有している間違いは、あまりにわずかの数学しか含まれていなかったとか、あるいはその種類のことがらが原因ではありません。それらのことがらが生じたのは、エーテル仮説の支持者たちが、物理学の個々の問題をカバーするために数学を拡張しようとする傾向によって、完全に消費されてしまったからです。彼らの数学が間違っていたのは、エーテルの効果が役割を演じる定式の中に数を持ち込んだとき、まるで重みのある物質を扱っているかのように振る舞ったことによります。私たちがエーテルの領域に踏み込んだことを知るやいなや、数学的な定式の中に通常の数を持ち込むことはもはやできないのですが、私たちは数学そのものを本当に拡張することを求める必要をも感じるようになるでしょう。

 この点についてはふたつのことがらだけをはっきりさせておく必要がります。物理学者のプランクは、もし、我々が物理学の中でエーテルについて語りたいのであれば、少なくともそれに物質的な性質を帰属させることは控えなければならない、と言いました。そして、アインシュタインの相対性理論は―あるいはその種の相対性理論であれば何でもそうですが―私たちにエーテルから完全に離れることを強要します。ここでは、簡単な示唆を与えることができるだけですが、主な点は、私たちがエーテルに移行するときには、物理学の定式、つまり物理的な現象に適用される数学的な定式に負の数を持ち込まなければならないということだけです。これらの数は負でなければならないのですが、それは、ちょうど形式物理学において正の数から負の数へと移行するときのように、正の物質からゼロを通って反対側に移行するときには、エーテルにおいて私たちが出会うところのものは(アインシュタインが信じているように)無でもなければ、(プランクが言っているように)純粋な負でもなく、ちょうど負の数が正の数の反対であるように、何か正の物質の反対の性質を有するものとして想像すべきものであるからです。負の数とは何であるかを議論することになるかも知れませんが、数列を負の数にまで純粋に数学的に拡張することは、私たちが負の数の性格を明確に理解する前であっても、現実にとって意義深いものとなります。

 もちろん、私は、19世紀における重要な数学論争、正と負の記号の中に質的な側面を見た人々と負の記号を単に負の被減数を欠く減数として見た人々の間の論争をよく承知しています。この論争は特に重要というわけではありませんが、物理学が、質的な効果からエーテル的な効果へと移行するときには、私たちが正の数から負の数へと移行するときに形式数学において辿る道筋と同じ道を辿ることを強要される、ということに気づくことは重要です。私たちが数をこのような方法で取り扱うと決めたならば、式の結果をチェックする必要があります。形式的な虚数の概念を正当化するために、形式数学において多くのよい仕事が為されました。物理学においても、私たちは、ある地点においては、正負の数を虚数で置き換えることを強いられることになります。この地点において、私たちは自然に適した数と相互作用することを始めます。

 私は、私がこれらのことすべてを非常に簡潔に描写し、わずかの言葉でそれを総括した、ということを知っていますが、皆さんには可能性ということについて意識しておいていただかなければなりません。私たちが重さのある物質から生命の力へと移行するときには、私たちは、物質の量的な側面の反転を示すために、私たちの式に負の数を持ち込まなければなりません。そして、私たちが生命を越えていくやいなや、私たちは負の数から虚数へと移行しなければならないのですが、それは単に形式的な数なのではありません。それは、ちょうど虚数列が正と負の整数の数列に関連しているように、正や負の数からではなく、質的かつ本来的に、エーテル的な側面もしくは負の物質と、質的な側面もしくは正の物質の両方に関連する実質的な側面から導き出された性質を有する数なのです。このように、形式数学とある種の現実の領域との間には、本当に結びつきがあるのです。

 もし、自然を制御したいという人間の欲求を満足させることにおける真に理性的な申し出が単なる機械論、物理学、あるいは生理学よりも効果的ではないというつまらない思いこみのために、私たちの考えを現実に近似させ、あるいはそれを現実の中に沈めようとする試みが失敗するとしたら、それはとても残念なことでしょう。実際には、それらの考えは私たちがあれほどまでに栄光あるものとしたところのテクノロジーに機械論的な世界観を適用するよりもさらに効果的であるはずです。この機械論的なテクノロジーは、確かに人類の文化的な発展にとって偉大な結果をもたらしました。けれども、通常の物理学的な計算の結果としての自然科学の栄光ある発達についてとめどもなく語る人たちは、私たちの関心が全く技術的な領域に向けられた結果としてその他の領域が被った苦しみを心にとどめておくべきです。単なる技術的な理解や自然の制御によってもたらされた退廃から逃れるためには、私たちの機械的、機械論的な知識とは異なり、ものごとの本質的な性質を認めることを拒否できない生理学や物理学を頼りにすることができるかも知れません。

 お分かりのように、この機械論的な領域はものごとの本質的な性質を簡単に退けてしまうのですが、それは正に、この本質的な性質が、我々の周囲の空間すべてに広がり、入手可能であるからに他なりません。物理学の分野全体が、機械論の分野が発達したような仕方で発達するのはそれほど簡単ではありません。ものごとの本質的な性質を認めようとしない議論のすべてはこのことから来ています。物理学者が純粋に機械論的な観点から考えることを選ぶときには、存在を理解することを安易に拒絶するかも知れません。今日、数学的な言葉で機械論を表現するために用いられる定式の背後には存在は存在しません。存在が始まるのは、私たちがもはやこれらの式を単に適用するのではなく、数学そのものの本質的な性質へと探求を進めるときだけです。これが、重さのないものをカバーするように数学の分野を拡張するためにはどうしたらよいか、という質問の答えになっていればよいのですが。

(了) 


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