「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ドルナッハ 1920年10月15日

 

Q コペルニクスの第3法則についての質問

 このような短い時間の中でコペルニクスの第3法則についてお話しすることはできません。ですから、ただその歴史についてコメントさせていただきます。古いプトレマイオスの体系をひどく揺るがし、天体に関する私たちの見方を革命的に変えたコペルニクスの基本的な仕事を見てみるならば、それが三つの法則を含んでいる、ということがお分かりになるでしょう。これら三つの法則の最初のものは、太陽の周りを測心円状に回る地球の年周期について語り、第二のものは地球の自軸上の回転、第三のものは季節と歳差運動に関連した地球の年周期について語ります。天文学は発達しましたが、コペルニクスの第三法則をその全体性において考察することはできないままです。事実、コペルニクスの後継者達はそれを上手に取り除いているのです。この法則について言えることはそれだけです。それについて包括的な描写を行うとすれば、私たちはここに真夜中までとどまることになるでしょう。

 彼が手に入れることができた現象に基づいて、コペルニクスは、最初、太陽を巡る地球の周回運動から生じる日々の変化を、彼の第三法則が包含する季節、年、そして、より長周期の変化を考慮することなく計算しました。そして、彼は、もし、地球の位置にいて、日々の変化や太陽を巡る地球の周回運動に依存する変化を他の天体との関係で考察するならば、結果として、地球が太陽を周回しているという観点が得られる、と結論づけました。この観点は季節や歳差運動のような他の現象とは相容れないものであり、そのことは、実際、地球が太陽の周りを回っているという仮定を無効にするものです。

 地球と他の天体との相互作用を定量化し、計算することを可能にするために、私たちはそれを簡略化し、単に一年以上あるいは何世紀以上にもわたって観察することができる変化については無視するのですが、その理由はこれらの変化が太陽を周回する地球の運動に依存する日周変化を複雑にするからです。コペルニクスがその第一及び第二法則の中で表現した仮定に基づいて日周変化を計算すると、地球が太陽の周りを一年で周回しているという結果が得られます。コペルニクス自身が言っているように、もし、私たちが私たちの計算に第三法則を含めるならば、日周運動の計算のために用いた第一法則、つまり、地球の一年の動きを導き出した第一法則の中に含まれる要素を帳消しにし、そのような年周運動をほとんど排除してしまいます。いずれにしても、コペルニクスの第三法則は無視されてしまいました。人々は安易に、地球は24時間で自軸上を回転し、その間に、一年で太陽の周りを動くという仕方で前進する、と仮定する方を好んだのです。この解決法が容易なのは、太陽は全く動かないというコペルニクスの仮定に教条的にしがみつく限りにおいてです。けれども、私たちはずっと以前に、この仮定を放棄するように強いられました。そして、コペルニクスの第三法則は復権させられなければならなかったのです。

 この課題についてはただ簡単に概略を述べることができるだけですが−申しましたように、詳細な数学的、幾何学的な説明をしようとすれば数時間かかってしまうでしょう−、もし、私たちがコペルニクスの第三法則を本気で取り上げるならば、地球が太陽の周りを回っているという結論にはならないのです。太陽が動いているのです。つまり、もし、地球が太陽の周りを単に回転しているのだとすれば、太陽は地球を追い越してしまうでしょう。地球は太陽の周りを巡ることはできません。何故なら、その間に太陽は地球から遠ざかってしまうでしょうから。現実には、太陽が動き続けているのであって、地球やその他の惑星はそれを追いかけているのです。それはスクリューの軌跡のような線で、一方には太陽があり、別の端には地球があります。私たちが地球と太陽、そして、それらの前進するスクリュー状の動きに二重の焦点を当てることによって、地球が太陽の周りを回っているという幻想が生じるのです。このすべてにおいて興味深い点は、コペルニクスが今日の我々よりももっと進んでいた、ということです。彼の第3法則はコペルニクス以後の天文学上の発展から抜け落ちてしまいました。私たちが地球に関して計算する太陽を巡る年周期を無効にしてしまうようなその他の現象について記述するこの第3法則なしに、私たちの天文学は発達してきました。コペルニクスを正当に評価するために、この法則は再び導入されなければなりません。

 このテーマはそれほど大きな興味を引くことはありません。何故なら、もし、私たちが天文学に対して真に現象論的なアプローチを取るとすれば、私たちは第一に、そして、とりわけ、ブリーデ博士が既に触れたように、私たちが極端に複雑な動きを扱っているのだ、ということに気づかなければならないからです。そして、これらの動きを記述しようとするときに私たちが用いる幾何学上の構成は、単純な幾何学的な過程の記述にのみ適っている、ということにも気づくことになります。天体はそのような単純な過程には従っていません。ですから、いつも障害が出現し、そして、私たちはさらなる仮定を付け加えることによって補償しなければならなくなります。私たちがそのような仮定を越えていくとき、天文学は全く異なって見えるようになるでしょう。

 このことが起こるのは、私たちが、真に人間を含み、人間の中で生じる現象を観察する自然科学の形態へと進んで行くときだけです。これらの現象を考慮することは、私たちが宇宙空間におけるできごとや経過についての観点を発達させるための助けになるでしょう。ウンガー博士も触れたように、人間は人間的な要素を考慮しない今日の科学から本当に閉め出されているのです。相対性理論のような考え方、そして、それは確かに現実に対応していないのですが、そのような考え方が影響力を持つことができるのは、現代科学があまりにも完全に現実からかけ離れているために、人間の外側にあるあらゆるものを取り扱いながら、その内部で生じることは何ひとつ取り扱わないからである、ということに他なりません。人類は現実に即した方法で考えるという技術をもう一度習得し直さなければならないでしょう。

 ここに石があるとしますと(記録されていない図を指し示しながら)、皆さんはそれが独立して存在する、少なくともある程度は独立している、と見ることができます。すべては皆さんがどのような前提に立っているかにかかっているのです。私たちがその石の境界線の内側にあるものを見るとき、私たちはその石についてのある種の観点を発達させる、と言うことができます。けれども、今は石ではなく、つみ取ったバラについて考察するとしましょう。私たちは石にとっての現実性を石の境界の内側において割り当てるのと同じ仕方では、バラにとっての現実性を割り当てることはできません。その理由は、つみ取ったバラは独立して存在することができない、ということによります。それは何か別のものとの関連で発達しなければなりません。私たちは、石はその記述された境界の内側に一定の現実的な存在性を有している、けれども、バラはそうではない、何故なら、それはその根や茎との関わりの中でしか存在し得ないからである、と言わなければなりません。もし、私がそれをその根から引き離すならば、その存在にとっての前提条件はもはや存在しなくなり、維持することが不可能になるのです。

 私たちは、私たちの思考をものごとの中へと沈め、それらのもの自体を考慮する技術を学び直さなければなりません。私たちがこの技術を再び獲得したときにのみ、私たちは、当然の帰結として、例えば、天文学の健全な形態を有していることでしょう。私たちは相対性理論のような恐ろしく抽象的な考えを持たなくても済むようになります。本質的には、相対性理論は真の現実であるところの考えに基づいたものではありません。

 通常の定式 s=v×t(距離は速度と時間の積に等しい)はきわめて示唆に富んでいます。現実を記述するとすれば、ただ次のように書き表すことができるだけです。

                        v=s/t

 私たちが抽象的な方法で現実を把握するときには、現実の対象物の中に存在するあらゆるものを計算することができます。抽象的なレベルでは、多くの異なるものを把握することができるので、抽象性の中に留まったままで多くの異なる計算をすることができるのです。けれども、私たちはこれらの抽象性を現実的なものと信じるべきではありません。無機的な世界においては、速度だけが現実であり、時間と空間は単なる抽象です。ですから、私たちが時間と空間を含む計算を始めるときには、私たちは非現実的なものの領域へと入り込み、そして、ひとたび非現実的な意味で考え始めると、もはや現実へと戻ることはできなくなるのです。

 ですから、これらの問題は私たちの時代の非常に重要な欠点に関連しています。今日では、自然を理解しようとするとき、人間は精神を完全に無視するようになり、私たちの魂は抽象性に向かうようになりました。ある意味で、抽象性を扱うのはきわめて気持ちのよいことです。何故なら、そのとき、私たちは私たち自身を対象やできごとに沈め込むことを学ぶ必要がないからです。空間や時間の意味で考えることは、定性的な側面に私たち自身を沈めたり、あるいは、何か別のことがらとの関連で、現実的なものとして考えることができるものであれば何であれ、それによって、現実的な意味で(編注:抽象的にではなく)考えることができる、ということに気づいたりすることよりも容易なのです。皆さんはこれから私が言おうとしていることを信じる必要はありませんが、いずれにしてもこれは本当のことなのです。思考する能力や現実を理解することへの願望を育てた人間にとって、アインシュタインの相対性理論を読むことは拷問なのですが、それは、アインシュタインが提示する考えのすべては、数学的に非常に首尾一貫したものであるにもかかわらず、多少なりとも現実感覚を持つものにとっては、文字通り考えも及ばないことだからです。そのような思考を追求しても何もなりません。誰かが箱の中に閉じこめられて高速で空間中を飛行し、戻ってみると新しい世代の人々や全く異なる状況があったということについて、アインシュタインが考えたあれこれのことを提示するとき、それには何を意味し、どういう種類の道理にかなっているのでしょうか? 私たちがそのような状況について考えるときには、私たちはもちろん空間と時間の意味においてのみ考え、その実験に供されている間に破壊されるかも知れないその人物や物体の外的な体的本性については無視しています。この反論は、相対性についての課題を狂信的に考える人にとっては素朴なもののように見えるでしょうが、現実との関連においては考えざるを得ないことです。現実感覚を持っている人であれば誰であれ、そのような思考を結論に至るまで見通すことはできません。

 例えば、車を運転しているとき、パンクしたと考えてみましょう。私が乗った車が地上を疾走していると考えるのも、車がじっとしている間に下の地面が動き出していると考えるのも同じだと仮定しましょう。もし、本当に違いがないのだとしたら、車だけに関係する小さな故障のために、地面が突然ぶつかってくるというようなことがどうして起こるのでしょうか? もし、それが同じことだとすれば、この状況をどのように考えればよいのでしょうか。その結果は外的な変化に影響されるはずがありません。前に申し上げたように、相対性の理論家に関する限り、そのような異論は恐ろしく素朴なものかも知れませんが、それらは現実というものを実際に反映しているのです。その思考が抽象性に−首尾一貫した思考を支えているのであれば、抽象性でもよいのですが―ではなく、現実に根ざしている者であれば誰であれ、そのような問題を指摘しないわけにはいきません。

 ですから、私たちは基本的には理論的な形態を取る天文学とともに生きているのです。ひとつの古典的な例は、私たちがコペルニクスの第3法則を無視していることです。私たちはそれが心地よくないので、脇へ押しのけているのです。それを研究すれば、私たちが慣れている計算を不快に感じることを学ぶことになります。私たちは何をやっているのでしょうか? 私たちはコペルニクスの第2法則を適用するのですが、私たちの計算は釣り合いがとれず、正午が間違った場所に行ってしまいます。そこで、私たちはベッセル補正として知られる日々の補正を導入します。けれども、もし、私たちが、それらの示唆するところのものに十分に気づくとすれば、コペルニクスの第3法則を考慮する必要性を理解するように−つまり、現実を扱い始めることになります。

 ここでのポイントは、そのような問題の背後にある原則を認めるということです。現在、私たちがそのような原則を取り扱う方法は私たちをあらゆる方向にさまよい出させていまいます。シュテッフェン氏の仕事は、認識の特別な領域において、三つのそのような耐え難い道を提示した、という点ですばらしいものです。今日、そのような間違った道に出会うことは珍しくありませんが、それらは現実の生活に影響を及ぼします。私たちは現実を欠く数学から導かれる方法で考えるように訓練されていますが、この型の思考は次第に天才の試金石と言ってもいいようなものになっています。実際、現実感覚というものは、ときとして、天才よりもずっと役に立つのですが、その理由は、もし、皆さんが現実感覚を持っているならば、皆さんは現実の状況の側に留まらなければならない、ということによります。皆さんは物体やできごとの中に皆さん自身を沈め、それらとともに生きなければなりません。もし、皆さんが現実感覚を持っていなかったとすれば、皆さんは、単に数学的な定式や手法を操作することによって、あらゆる種類の抽象性を、最も天才的な方法で、空間と時間に課すことができます。皆さんは真に驚異的なレベルの抽象性へと上昇することさえできるのです。

 これらの抽象性は、ときとして、きわめて説得力のあるものとなり得ます。私は現代のセット理論のことを考えているのですが、それは無限を説明するための基礎として用いられてきました。セット理論は数学の正に原則であるところの数を解消するのですが、その理由は、数を通常の数ではなく、単に人為的に選んだセットを別のセットと比べることによって、個々の実体をそれらの質や順番とは無関係にクラス分けすることによります。セット理論は無限について一定の理論を発達させることを可能にしますが、その間ずっと抽象性の中を泳ぎ回っているのです。具体的な現実の中では、そのような操作を遂行することは不可能です。私たちは徐々に私たち自身を現実の中に沈める必要性を無視することに慣れるようになった、という点に注意することが重要です。この関連で、精神科学は本当に誤解を解く必要があります。

 さて、これからふたつの対極を示すことにします。これは理論とは無関係のように見えますが、実際には大いに関係があります。何故なら、これらのことがらすべては理論以上のものを取り扱っているのであって、それは、もし、私たちのそれについての思考が健全なものであれば、正され得るものであるからです。現実に問題となるのは健全な思考、単に論理的ではない思考を発達させる必要があるということなのですが、その理由は、論理は数学にも適用される、ということによります。私たちは論理を数学の中に取り込むことができるのですが、その結果、完全に首尾一貫した構造、つまり、首尾一貫しているにもかかわらず、現実に適用される必要が全くない構造が得られるのです。私たちがこれまでに到達したのは、ものごとはいかなる真の現実感覚をも欠いている行儀の悪い思考方法をいかに当てにしていることか、ということを示すことができる地点です。

 一方で、ここに現代科学が提供すべきあらゆるものを要約しょうと試みる本があります。この有名な本は、何万という部数―恐らく7、8万部−が既に売れていると思われます。オズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」ですが、ご承知のように、このことはその4、5倍の数の人々がこの本を読んだということを意味しています。このことからも、それが、単にある意味で現代の思想から現れたというだけの理由で、いかに現代の思想にとてつもない影響を及ぼしたか、といいうことが分かります。この本の著者は、現代思想が究極的に行き着く先の結果を定式化する勇気を持ち合わせていたのです。シュペングラーはこの本の中で、天文学、歴史、科学、そして芸術が提供すべきあらゆるものを眺望します。彼が大量の証拠を集めたということは私たちも認めざるを得ないでしょう。シュペングラーが真に現代的な天文学者、生物学者、美術史家等の考え方から究極的な結論を引き出す勇気を持っているのは、実際にこのような仕方で考えるからです。例えば、シュペングラーの本は、熱力学の第2法則を明確に証明することができるのと同じくらい明確に、三千年紀の始まりには、西洋文明は完全に野蛮な状態へと堕落しているであろう、ということもまた証明します。

 この本は現代文明の没落を示しただけではなく、今日、どのような科学的記述であれ、それを明確に証明することができるのと同様の明確さで将来のできごとをも証明した、ということを認めなければなりません。現代科学の方法論という意味で、シュペングラーの西洋の没落に関する証明は、いかなる天文学的な証明やその種の証明と比べてみても、確かに有効なものであり、いかなるものであれ相対性理論に関する証明よりははるかにましなものです。彼の結論の抜け道を探すことができるのは、シュペングラー自身が見ていない要素を見る人たち、つまり、将来、人類にとって全く新しい衝動を提供することになる人たちだけです。それは人間の最も内奥の核から生まれ出る衝動、現代の思想だけに立脚しているいかなる科学にも見ることのできない衝動です。

 とはいえ、シュペングラーの考えとはどのようなものだったのでしょうか? 相対性論者とは異なり、オズワルド・シュペングラーは、現実に対応した範疇の中で考えます。けれども、彼が考えることすべてがお互いに整合性がとれているというわけではありません。彼が、天文学、生物学、歴史、建築、彫刻等々について発達させる概念がいつも噛み合っているわけではないのです。それらが形成する構造は、共に成長したいくつかの結晶に比肩できるようなものです。それらはすべて混乱しており、お互いに破壊し合っています。もし、私たちが、シュペングラーの本を読んでいる間、現実感覚を維持しているとするならば、彼の概念は溢れかえっている、ということが分かります(保存されていない描画を参照しながら)。オズワルド・シュペングラーは確かにどのように考え、どのように概念を発達させるべきかを知っているのですが、それらはお互いを破壊し合っています。お互いを吹き飛ばし、お互いを切り離しているのです。ひとつの概念がいつも別の概念を無効にするため、全体としては何も残りません。展開するシュペングラーの考え方に私たちの現実感覚を適用するときに見ることができるのは、ひどい破壊活動なのです。

 シュペングラーは現代的な思考におけるひとつの極、異なったあらゆる分野から導き出される概念からひとつの統一を構築する極を代表しています。この傾向に加担する哲学者達は、個々の科学から彼らが導き出すすべての概念が集められ、一点に集約しようとする試みの中で、いわばひとつのシステムへと統合されることができるほどの抽象的なレベルにおいて、あらゆるものを明確に規定します。ところが、それらは一点に集約するかわりに、お互いに粉砕し合い、無効にし合うのです。シュペングラーは現代科学の哲学者として、他の多くの哲学者達に比べてはるかに優れています。他の哲学者達の概念はお互いに破壊し合わないのですが、それは彼らの系統立てがそれらを十分正確に規定する勇気に欠けているからです。他の哲学者達の科学哲学においては、彼らがいわば虎の爪と猫の足とをいつも取り違える結果、個々の科学的な探求における哲学的な帰結と称されるコミカルな構築物が生じてきます。これらの哲学者達をまじめに考察してみるならば、シュペングラーが哲学の習慣にしたがって結果として生じることができるあらゆる科学的なものについてのすべての科学及び認識についての経験を有している、ということが分かります。

 他の極もまたひとりの哲学者、つまり、シュペングラーほどの評価は受けていませんが、それでも人気のある哲学者、ヘルマン・カイザーリンク卿によって代表されます。カイザーリンクがオズワルド・シュペングラーと異なるのは、彼の概念のどれひとつとして、いかなる内容も有していないという点においてです。シュペングラーの概念が脂ぎっているのに対して、カイザーリンクのそれは空疎です。後者の概念は決してお互いに矛盾しません。何故なら、それらは、基本的には、中身のない籾殻のような仕事に過ぎないからです。カイザーリンクの唯一の考えと言えるのは、これもまた空の籾殻ですが、精神は魂と結びつかなければならない、というものです。カイザーリンク卿は激しく人智学を攻撃します。例えば、「未来」という雑誌の中で、人間を様々な構成要素―エーテル体、感覚体、感覚魂等々―へと分解した咎で私を責め立てたのですが、実際には、人間はひとつの統一体であり、そのようなものとして機能しています。

 精神は魂と結びつかなければならない、という考えは悪魔的なまでに巧妙ですが、実際、賢いという点では、スーツはひとつの統一体であり、個別の構成要素、例えば、ベスト、ズボン、靴、等々に分解すべきではない、と言う以上のものではありません。それは全体でひとつの統一体ですから、仕立屋に上着とズボンを別々に作らせ、それに合うように靴屋に靴を作らせたりはしません。これらのすべてはそれを身につけている人間の上でひとつの統一体を形成する、というのは当たり前のことです。カイザーリンク卿がその抽象的な理想主義の中でそれらはひとつの統一体であると主張したからといって、上着とズボン、それから多分靴も一着の洋服として縫い合わせるというのはナンセンスです。これが反対の極です。

 一方には、お互いを破壊し合う概念のシュペングラーがいて、他方には、全体として空虚な概念のカイザーリンクがいます。多少なりとも現実感覚を有している者にとって、シュペングラーを読み、彼の概念のすべてがお互いにぶつかり合い、お互いを粉砕しながら、お互いの中へと押し進むのを見るのはひとつの拷問です。皆さんはこのすべてを本当に経験させられます。いくらかでも芸術的な感受性を持っている人であれば、特にそうなります。シュペングラーの本は完全に非芸術的な構築物のです。ところが、皆さんがカイザーリンクの本を読むときには、1ページ読むごとに立ち止まって息を吸い込まなければなりません。彼の概念はその内部に空気を有していないのです。思考を形成しようとしても、そこには何もないのです。しかし、正にそのために、これらの概念は人々にとってきわめて理解し易く、心地よく感じることができるものとなっています。この不能な無思索家がまた人々に、精神科学によって確認される事実の中にはなにがしかの真実が含まれているかも知れない、しかし、自分は霊感を持っているという連中のひとりではないので、それについて確認することはできず、したがって、それらが真実であると仮定することもできない、等々のことがらを告げるときには、特にそうなのです。

 もちろん、この種の話しは、特に人々が自分自身で必要な証拠を提示することができないときには、折りたたまれ、片づけられてしまいます。そのような人たちが、今日、特に好んで読むのは、自分で確かめるのに苦労するような作家ではなく、そのような事実は確認できませんと認めるような作家なのです。特に、カイザーリンクが芸術について書き散らかしていることがらは皆さんの髪の毛を逆立たせるのに十分なものですが、非常に人気があります。このテーマに関して申し上げるべきことはこれだけです。

 「何を」を考えるべきではあるが、「いかに」をもっと真剣に考えるべきである、とゲーテが言うとき、それが何を意味しているかについての感覚を、皆さんはこれまでの議論から発達させているかも知れません。シュペングラーを読むとき、皆さんは「何を」を考えることができますが、それは彼が提示すべき多くの「何を」を持っているからです。しかし、ゲーテは、世界観というものは全体をその配置と組織、そして思考の本来的な調和において、いかに見るかということにかかっているのだ、ということを知っていました。このことは、シュペングラーに関しては、「何を」を考えることになる、と私たちが言う理由です。シュペングラーは確かに「何を」を、それが考えられるべきであるような仕方で、考えるのですが、「いかに」を考えるのには完全に失敗します。ゲーテは、とりわけ、思考はいかに配置されるべきであるかを考えるように促します。カイザーリンクに関しては、彼は「いかに」を有しているように見える、と言うことができるでしょう−実際、彼の仕事は「いかに」を束ねたものなのですが、「何を」が、つまり、内容がないのです。

(了) 


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