「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ドルナッハ 1921年4月7日

 

 質問:空間の三つの次元はその構造において異なると言われていますが、どこにその違いはあるのでしょうか?

 この質問は、「空間の三つの次元はその構造において異なる」、というような形で定式化されたことはありません。あなたが言及しているのは恐らく次のような考えについてでしょう。

 第一に、数学的な空間がありますが、私たちはそれを―いずれにしても、何らかの正確さをもってそれを本当に想像するならばですが―三つの直交する軸上の座標軸系によって規定される三つの直交する次元あるいは方向から成っているものとして想像します。私たちが通常の数学的な観点からこの空間について考察するときには、これら三つの次元をそれらがあたかも正確に同じものであるかのように扱います。私たちは、上下、左右、前後という次元の間の違いをほとんど問題にせず、それらはお互いに交換することができるとさえ信じています。単に数学的な空間の意味では、x軸とz軸がつくる平面(それらもまたお互いに直交していますが)に直角のy軸上の平面が「水平」であると言っても、「垂直」であると言っても、結局のところ違いはありません。私たちは、この型の空間が境界づけられているかどうかにも同様に関心を払いませんが、そのことは、私たちが通常はそれを際限がないものとして想像するところにまでは到達しない、ということを意味してはいません。私たちは単にその限界を気にしないだけです。私たちは、例えばx軸上のどの点からでも、終点に至ることなく、どこまでもその軸上を動き続けることができる、と想像しているのです。

 19世紀を通して、総合幾何学はこのユークリッドの空間概念に対立する多くの考えを提示してきました。例えば、少し思い出して頂きたいのですが、リーマンは空間に際限がないということと空間が無限であるといいうこととを区別していました。純粋に概念的な指向の観点からも、際限がないことと無限であることが同一であると仮定する必要はありません。結局のところ、皆さんが以前に描いた図を分割することはもちろん可能ですが、皆さんが球の表面に留まる限り、皆さんを立ち止まらせるように強いる境界に行き着くことは決してできません。ですから、球の表面は、皆さんの描画能力に関して言えば、際限がないと言うことができます。けれども、このことは、そのような表面が無限であると主張していることを意味していません。このように、純粋に概念的なレベルでは、私たちは際限がないことと無限であることとを区別することができるのです。

 ある数学的な条件下では、この区別はまた空間全体にまで拡張することができます。もし、私たちが、x軸あるいはy軸に線分を付け加え続けることによってそれを延長していくことを決して妨げられないと想像するならば、この空間の特徴はその際限のなさを証明していますが、それが無限であることを証明しません。私が線分を際限なく付け加えていくことができるという事実は、必ずしも空間が無限であるということを意味していません。それは単に制限がないということかも知れないのです。私たちはこれら二つの概念を区別しなければなりません。もし、空間が、制限はないけれども無限ではないものであるならば、それは、ちょうど球面がそうであるように、本来曲がっていて、何らかの仕方で出発点に戻ってくるものである、と仮定することができます。現代の総合幾何学におけるある種の考え方のいくつかはそのような仮定に基づいています。これらの仮定に異議を唱えるのは簡単ではありませんが、それは、空間に関する私たちの経験からは、それが無限であると結論づけることができないからです。それは曲がっているだけで、無限ではないとしても問題はないのです。

 もちろん、最近の総合幾何学のほとんどすべてを説明することなく、この一連の思考を結論にまで持って行くことは私にはできません。しかし、リーマン、ガウス、そして他の人々の論文は容易に手に入ります。そして、もし、あなたがこの種の数学的な考えに興味をお持ちであるならば、思考のための多くの材料をそれらは提供してくれるでしょう。これらは、ユークリッド幾何学の固定した中立的な空間概念に対する純粋に数学的な反論です。これまで私が触れてきた議論のすべては、純粋に、「制限がない」という概念に基づいています。けれども、あなたの質問は他のところにその根拠を持っています。つまり、その根拠とは、私たちの計算にかかる空間や分析幾何学において私たちが出会うような空間、例えば、私たちが三つの直交する座標軸上の配座システムを取り扱うときに出会うような空間とは何か抽象的なものである、という考えです。では、抽象的であるとはどういうことでしょうか? まず、この質問に答えなければなりません。

 私たちが空間についての抽象的な考えに縛られているかどうかを知るのは重要なことです。私たちは抽象的な空間だけを語ることができるのでしょうか? 言い換えれば、もし、この空間についての抽象的な概念が、私たちに語ることが許される唯一のものであるとすれば、ただひとつの反論だけが可能であり、そのひとつの反論というのは、リーマンの幾何学や他の総合幾何学の形態によって十分になされてきたものです。

 例えば、カントの空間についての定義は健全にも非常に抽象的な空間概念に留まっています。彼の概念は、さしあたり、制限がないか、あるいは無限であるかについて注意を払いません。19世紀を通して、この空間についての概念は―その概念的な内容に関しては、内的にも―数学によって粉砕されました。際限はないけれども無限ではない空間にカントの定義を適用することを想像することはできません。彼がその「純粋理性批判」の中で後に提示したところの多くのもの―例えば、彼の超越理論は、もし、制限がない、曲がった空間の概念で置き換えられなければならないとしたら、揺らぎ始めることでしょう。

 私はこの曲がった空間の概念がものごとを想像するときの私たちの通常の方法に問題を投げかける、ということを知っています。けれども、空間が曲がっているという仮定に対して、純粋に数学的あるいは幾何学的な観点からなし得る唯一の反論は、それが私たちを、さしあたり現実からは非常に隔たっているところの純粋に抽象的な領域へと移行することを強いる、ということです。この状況をもう少し詳しく見ますと、現代の総合幾何学の起源についての議論には奇妙な循環があるということ、つまり、空間の限界には無関心なユークリッド幾何学の考え方から出発してそれに至る、ということが分かります。その後で、私たちは球の表面に適用されるような派生的な考えに移行します。これらの派生的なものやそこから結果として導かれる形に基づいて、私たちはある種の置換に取りかかり、そして、それから空間の再説明をすることができるようになるのですが、私たちが述べるあらゆることがらは、ユークリッド的な配座幾何学を前提としているのです。この前提の下に、私たちは一定の曲率を得ます。私たちは派生的なものへと至るのです。この計算はすべてユークリッド幾何学を前提としています。しかし、ここで私たちはターニングポイントに来ました。曲がった形から得たものについての新しい見方や説明に導くことができる別の考えへと至るために私たちが使うのは、他ならぬユークリッド幾何学の助けを借りて発達させた曲率のような考えなのです。私たちの活動は本質的に抽象的なものから抽象的なものを導き出すことによって、現実から離れた領域においてなされます。この活動が正当化されるのは経験的な現実が私たちをそのような抽象から得られる結果に合わせるように強いるときだけです。ですから、その質問は、抽象的な空間は私たちの経験とどこで対応しているのか?そのようなものとしての空間、ユークリッドが想像したような空間は抽象的なものであるが、その知覚可能な経験的側面はどこにあるのか?ということになります。

 私たちは、私たちの人間としての空間の経験を出発点としなければなりません。私たちは、私たち自身の活動による経験の結果として、実際には、空間におけるたったひとつの次元、つまり、深さの次元だけを知覚します。この深さに関する能動的な知覚は、私たちがほとんど見逃している私たちの意識の中のプロセスに基づいています。けれども、この能動的な知覚は、平面についての思考、つまり、二つの次元における広がりについての思考とは非常に異なったものなのです。私たちが両の目で世界を見るとき、これら二つの次元は私たち自身の魂による活動の結果ではありません。それらは与えられたものとしてそこにあります。しかし、第三の次元は、通常は意識化されない活動の結果として生じます。私たちは深さ方向を認識するために、つまり、ある対象が私たちからどのくらい離れているかを知るためにそれに働きかける必要があります。私たちは平面の広がりに働きかけることはありません、それは直接的な知覚として私たちに与えられます。一方、深さ方向の次元には、私たちは二つの目を使って実際に働きかけます。私たちが深さを経験するその仕方は、意識と無意識の間の境界のきわめて近くに横たわっています。けれども、私たちがそのような過程に注意を払うことを学ぶとき、深さを推し量るという決して十全には意識的ではない活動―それはせいぜい半意識的あるいは1/3意識的なものです―が、対象を単に平面において見るときよりも、理性的な活動、つまり、活動的な魂の経過に対して、より近いところにある、ということが分かります。

 このように、私たちが三次元空間の中のひとつの次元を能動的に獲得するということは、私たちの客観的な意識を代表するものです。そして、私たちは、私たちの直立姿勢が深さ方向の次元―つまり、前方と後方―に貢献しており、そのことがその次元を他の次元と交換不可能なものにしている、と言わざるを得ません。個々の人間にとって、深さの次元は他の次元とは交換不可能なのです。2次元性についての私たちの知覚は、これら二つの次元、つまり上下左右が私たちの目の前にあるときでさえ、脳の他の部分に関連づけられています。この知覚は見るという知覚プロセスに本来備わったものであるのに対して、第三の次元が私たちに生じるのは、理性の活動に関連した脳の中心にきわめて近いところに位置する部分においてです。ですから、私たちの経験という意味においても、第三の次元は他の二つの次元とは非常に異なった仕方で生じるのです。

 けれども、私たちは、イマジネーションのレベルにまで上昇するとき、第三の次元についての経験を置き去りにし、二つの次元において見ることになります。ちょうど通常の意識において、前後を経験するためには、私たちが十分には意識していない働きが必要とされるように、このレベルにおいては、私たちは左右を経験するための活動をしなければなりません。そして、最後に、私たちがインスピレーションのレベルにまで上昇するときには、上下の次元についても同じことが言えるようになります。私たちの通常の知覚であるところの神経に関連した知覚に関する限り、私たちは第三の次元を経験するために働きかけを行わなければなりません。けれども、私たちがこのシステムの通常の活動を排除し、直接リズム系に向かうときには、私たちは第二の次元を経験します。ある意味で、これは私たちがイマジネーションのレベルにまで上昇するときに起こることです。私はこのことを非常に正確に表現してきたというわけではありませんが、今のところはそれで問題はないでしょう。そして、私たちが第一の次元を経験するのは、私たちがインスピレーションのレベル、つまり、私たちの人間としての有機体を構成する第三のものにまで上昇するときです。

 私たちが抽象的な空間の中で出会うものは正にそのように見えるところのものである、ということが分かります。しかし、それは私たちが数学的に達成するものはすべて私たち自身の内部からやって来る、という理由によります。数学的に導かれる三重の空間とは、私たちが私たち自身の中から導き出すような何かなのです。私たちが超感覚的な知覚レベルを通って下へと赴くとき、結果として得られるのは、三つの同等の次元を有する抽象的な空間ではなく、むしろ、前後、左右、上下という三つの異なった次元ごとに得られる三つの異なった価値です。これらの次元は相互に入れ替えることはできません。

 そのとき、私たちは、x、y、そしてz軸が同じ強度を有していると想像する必要もないという結論に至ります。しかし、それは、ユークリッド空間においては、それら三つの次元に本質的なものとして想像されていることです。もし、私たちが分析幾何学の式に忠実であろうとするならば、私たちは、x、y、そしてz軸をその強度において同じものとして見なければなりません。もし、私たちがx軸を、まるでそれが弾力を持っているかのように、ある一定の強度で引き延ばしながら大きくするならば、y軸とz軸も同じ強度で成長しなければなりません。言い換えれば、ひとつの次元を拡張するために、ある一定の強さを適用するならば、その拡張する力は三つの軸すべて、つまり、ユークリッド空間の三つの次元すべてに対して同等のものでなければなりません。私がこの型の空間を「固定された空間」と呼ぶのはそのためです。

 固定された空間は現実の空間が抽象化されたものですが、それは人間の内部から発達してくるものであり、同じ強度でという原則は現実の空間には当てはまりません。現実の空間について考えるときには、拡張する強度は三つの次元すべてにとって同等であるとはもはや言えないのです。そうではなく、それは空間的な拡張強度の結果として生じる人間の比率に依存しています。例えば、y軸、つまり上下の方向を見てください。私たちはその拡張強度を、左右の方向に対応するx軸のそれよりも大きいものとして想像しなければなりません。現実空間の抽象的な表現である定式は―私たちはこの定式もまたひとつの抽象であるということに注意しなければなりませんが―三つの軸に関して楕円を描きます。

 超感覚的な知覚はこの三軸空間が三つの非常に異なる拡張の可能性を有していることに存しています。私たちの物質体は三つの軸に関する直接的な経験を提供しますが、そのような経験が私たちに告げるのは、この空間もまたその内部に存在する天体の影響における相互関係を表現している、ということです。私たちはまた、このようにして空間を視覚化するとき、三次元宇宙に存在するものとして私たちが考えるものすべては、ユークリッド空間における場合のように、x、y、そしてz軸の拡張強度が同じであるとするならば、説明することができない、ということを考慮しなければなりません。私たちは宇宙を、三つの軸を持つ楕円に対応させながら、それ自身の配置を有するものとして想像しなければなりません。ある種の星の配置は、この考えが正しいことを示唆しています。例えば、私たちは普通、天の川はレンズのような形をしていると言います。それが球状であるとはとても想像できません。もし、私たちが物理学的な事実に適合したいのであれば、それを別様に想像する方法を見つけなければなりません。

 私たちが空間を取り扱うその方法は現代の思考と自然との一致がいかに貧弱なものであるかを示しています。太古の時代と文化においては、固定された空間の概念が生じる、などということは誰にも起こりませんでした。本来のユークリッド幾何学が三つの等価な拡張強度と三つの垂直軸からなる固定された空間についての明確な考えを取り入れていた、と言うことさえできないのです。空間に関する抽象的な概念は、抽象性が私たちの思考の本質的な特徴となり、ユークリッド空間に計算を適用し始めたかなり最近の時代になってから現れたに過ぎません。太古の時代の人々にとって入手可能な知識は、今日、超感覚的な洞察に基づいて、再び発達させられることができるところのものに非常に似たものでした。お分かりのように、私たちが今日、深く寄りかかり、当然のものとしている概念が非常な重要性を持っているのは、それらが現実とはかけ離れた球の中で働くものであるからに過ぎません。今日、私たちが取り扱う空間とはそのようなひとつの抽象なのです。それは現実の経験が私たちに教えるところのいかなるものからも遠く隔たっています。今日、私たちはしばしば抽象的なもので満足します。私たちは経験主義についてくどくどと語りますが、抽象的なものに言及しながら、それに気づいてさえいない、ということが非常に多いのです。私たちは、現実の世界において現実のことがらを取り扱っている、と信じていますが、この関連で、私たちの考えがいかにひどく矯正を必要としているかが分かります。

 精神科学者は、彼らが出会う考えごとに、それが論理的であるかどうかを単に問うことはありません。空間に関するリーマンの概念は完全に論理的なのですが、それはある意味でユークリッド空間に依存しています。それを結論に至るまで考え抜くことはできません。それは私たちのアプローチがきわめて抽象的な思考によるものであり、私たちが導き出す結論のひとつによって、この過程における私たちの思考が逆転するからです。精神科学者は、ある考えが論理的であるかどうかを単に問いかけたりはしません。彼らはまたそれが現実に対応しているかどうかを問います。ひとつの考えを受け入れるか拒絶するかを決めるとき、彼らにとっては、それが決定的な要素になるのです。彼らがひとつの考えを受け入れるのは、それが現実に対応しているときだけです。

 現実への対応は、私たちが相対性理論を正当化するものとしてそのような考えを適切に取り扱い始めるときにも、ひとつの評価指標として用いられるでしょう。この理論は、それ自体、この上なく理論的なものですが、その理由はそれが純粋に論理的な抽象性の領域において理解されているからです。相対性理論ほど論理的なものはありません。けれども、私たちがその上で活動できるかどうかは別の問題です。皆さんは、単にこの理論を補強するために示される類比を眺めるだけで、それらが現実とは非常にかけ離れていることがお分かりになるでしょう。それらは単なる思考の遊びです。相対性理論の擁護者は、これらの考えは単に象徴的なものであって、問題を視覚化するのに役立てるためにあると私たちに言います。けれども、それらは単なる象徴ではありません。それらなしでは、その過程全体が宙に浮いたものになってしまうことでしょう。ですから、あなたの質問に関して私が言おうとしたのはこのようなことです。お分かりのように、そのような領域に関わる質問に対する簡単な答えはありません。

(了) 


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