「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ハーグ 1922年4月12日

 相対性理論についての質問

 

 相対性理論についての議論には際限がありません。三次元空間における宇宙的なできごとに対する観察者としての私たちの視点からこの理論に反対することはできません。つまり、知覚される空間に基づいて相対性理論に反対することは不可能なのです。もちろん、私たちの知覚に関する限り、球が平面化していたとしても、空間全体が球の平面化の方向に内的に拡張していたとしても同じことです。ですから、私たちが三次元空間からの見方を扱っている限り、アインシュタインの相対性理論は完全に正しいのです。この理論が現れたのは、人間進化と科学の歴史において、私たちが最初に純粋に空間的な意味で考えることができるようになった、つまり、非ユークリッド空間の意味においてであろうが、相対性理論の意味においてであろうが、ユークリッド空間を私たちの出発点として捉えながら、何とか考えることができるようになった正にその瞬間でした。三次元空間の中では、アインシュタインの相対性理論に異を唱えることは不可能なのです。

図67a

 この理論に対する反論の可能性を議論し始めることができるのは、いかにしてエーテルの領域へと移行するか―つまり、三次元空間の体からエーテル体への移行ですが―を見いだすときだけです。エーテル体は遠心的というよりも求心的に形成されます。皆さんは、皆さんのエーテル体の中で、空間の全体性において生きています。例えば、AとBの間の距離についての皆さんの知覚は、あるときはこのようであり、またあるときはこのようになります(図67a)。この現象に気づけば、皆さんは、これらの点の内、どちらかが絶対的な意味で動いていなければならない、と言うことができますが、それを行うためには、皆さんは皆さん自身が空間の全体性の中に立っていなければなりません。その時点で議論が可能になるのです。このようなわけですから、私は相対性理論に関する現在の概念を巡る私たちの議論のすべては次の質問で終わらざるを得ないと確信しています。「それで、どうしてそれが分かるというのですか?」と。それとは対照的に、私たちが内的な知覚―絶対的なるものが見いだされる領域―へと移行するやいなや、私たちは、相対性理論のような問題はニーチェが観察者の立場と呼んだところのもの−そして、その最も極端な例が相対性理論なのですが−へと私たちが行き着いたことを示している、ということに気づくように強いられます。この立場を受け入れる人にとっては、それが誰であれ、相対性理論は単に事実であり、それに対するいかなる反論も不可能です。しかし、それは実際的な考察からは除外され得ます。かつてシュツットガルトの狂信的な相対性論者は、いかに私たちがある一定の方向に動くのも、その反対の方向に動くのも同じことであるかを説明しました。もし、私たちがマッチ箱を一方の手に、マッチをもう一方の手に持っているとすれば、マッチをマッチ箱にこすりつけるのも、マッチ箱をマッチにこすりつけるのも結果は同じです。もちろん、そのような場合には、相対性理論は完全に正しいのですが、私は次のように叫びたくなるのです。「箱を壁に釘付けしてからもう一度やってみてくれ!」と。

 これは相対性理論の価値を打ち消すものでは決してありません。それは単に、ちょうど私たちが二次元空間から深さの次元へと移行することができるように、世界のどこからでも精神的な要素の中へと移行できる、ということを示しているに過ぎません。そのときには、そしてそのときにだけ、相対性理論は有効であることを止めるのです。相対性理論についての議論が永遠に続く傾向があるというのはそのためですが、それは、観察者の立場からはそれに反論できない、という理由によります。その理論に反対するいかなる議論にも反論が可能なのです。

 皆さんは、観察者としては、皆さんが観察しているものの外側に立っています。つまり、そのとき、皆さんは主観と客観を厳密に区別しなければならないのですが、皆さんがより高次の認識へと上昇するやいなや、主観も客観もなくなります。このテーマに関しては、恐らくQ&Aの文脈からお話しできることがら以上のお話ができるのですが、さらなる思考へと促すものとして、もうひとつのアイデアを述べておきたいと思います。私たちが観察者の世界に、つまり空間の世界に留まる限りにおいて、相対性理論自体に反論の余地はありません。私たちは、この世界から逃れ出て初めて、単なる観察者としてではなく、対象を経験する、例えば痛みを共有する世界へと入っていくのです。皆さんが他の存在との単なる関係性から―そして、相対性理論が関係性の内部でのみ可能であることは十分理解できることです―共有された内的経験としての痛みへと移行することを学ぶやいなや、例えて言うならば、この経験が相対的なものかどうかについてあれこれ考える余地はなくなります。こうして、皆さんは、矛盾を作り出したり、矛盾が存在するのでその状況は現実的なものではないと言ったりすることができなくなります。生活の中では、矛盾は現実なのですが、それは生活を構成する存在たちが、異なってはいるけれども交差している領域に属しているからです。皆さんが現実的なものへと移行するやいなや、存在するいかなる矛盾も解かれなければならない、と言うことはもはや許されないのです。もし、それが現実であるならば、それを解くことはできません。私がここで言いたいのは、相対性理論が関係性の世界において発達するのは自然なことである、ということです。もし、観察者の立場が唯一可能な観点であるとすれば、この理論に対するいかなる反論も不可能です。けれども、私たちが存在達の中に、そして、痛みや楽しみの中に巻き込まれるようになるやいなや、相対性理論を維持することはもはや不可能になるのです。


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