「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

第二部

質疑応答 1904-1922


ハーグ 1922年4月12日

  質問:シュタイナー博士、肉体が空間的な体で、形成力体が時間的な体であるとはどういう意味ですか?肉体もまた時間の中で活動し、成長したり衰退したりしますが。

 

 それはそうですが、こう言ってよろしければ、あなたが言われることは不正確な思考に基づいています。それにもっと正確な基礎を与えるためには、あなたはまず時間の概念を分析しなければならないでしょう。このように考えてみてください。通常、私たちが出会う現実においては、空間と時間が入り交じっています。肉体を空間的なものとして、形成力体を時間的なものとして考えることができるのは、私たちが空間と時間を分離するときだけです。通常の客観的な認識においては、時間は所与のものとして存在しているわけではありません。お分かりのように、時間は空間の意味で測定されます。つまり、私たちは私たちが時間と呼んでいるものについて知るための手段として空間的な単位の変化を用います。しかし、今は時間を測定する別の方法を想像してみてください。皆さんが時間についての真の経験へと移行するときには、通常、人々が無意識に行っているように、もはや空間的な意味で時間を測定することはありません。私たちの思考は、イマジネーション的な認識を通して、実際に意識的なものとなります。

 例えば、もし、皆さんが、1922年4月12日4時4分と何秒でもいいのですが、そのときの皆さんの魂の生活を検証すれば、皆さんは時間についての真の経験を持っています。皆さんは魂の生活の時間的な断面を見ます。皆さんは、この時間的な断面は何らかの特別な空間的断面を含んでいる、と言うことはできませんが、それは皆さんのこの地上における過去のすべてを含んでいます。それを図式的に描くとすれば、皆さんの経験がaからbへと流れているとして、皆さんは断面ABを引かなければなりません(図67b)。皆さんは皆さんの経験の全体をこの断面の中に挿入せざるを得ませんが、それでも、その中にはひとつの展望があります。皆さんは、はるかな過去に遡って横たわるできごとは、より最近のできごとに比べて、より少ない強度をもって再現される、と言うことができます。けれども、これらのできごとのすべては、単一の断面の中に存在しています。その結果、それらの結びつきは皆さんが時間を分析するときのそれとは異なったものとなっています。私たちが時間を心的なイメージのレベルにまで上昇させることができるのは、私たちが物理学においてするように、空間を理解する方法にしたがって時間を分析しないようにするだけではなく、私たちの魂の生活について考察するときだけです。けれども、皆さんが抽象的な思考だけを有している限り、皆さんの魂の生活は時間体の中に付着したままに留まります。

図67b

 この時間体をひとつの有機体として見ることができる、ということが重要なのです。お分かりのように、皆さんが例えば消化不良を起こしているときには、皆さんの空間的な有機体の他の部分もまた悪い影響を受ける、ということが分かります。空間的な有機体において、個々の領域はそれぞれが空間的に離れているのに対して、私たちの時間的な有機体において―私たちが以前と以後とを区別するという事実にもかかわらず―、異なる時間は有機的に関連しています。私は時々次のような例を用います。ある非常に年取った人々がより若い人々、特に子供達に語りかけるとき、彼らの言葉は直ちにはね返ってくるように見えます。つまり、それらは子供達にとって何の意味もありません。別の年取った人々の場合にはそのようなことはありません。彼らが子供達に語りかけるときには、彼らの言葉は子供達の魂の中へとまっすぐに流れ込むように見えます。他の人々に祝福をもたらす老人たちの力の源泉を見いだすためには、皆さんはときとして彼らの幼い子供時代にまで遡らなければなりません。(私たちは、通常、このようなことがらについて研究することはありませんが、それは私たちが非常にまれにしか全体としての人間を見ようとしないからです。そのようなことがらを観察するために十分に長く注意を払うことはありません。現時点における私たちの観察力の範囲は不十分なものですが、それは人智学の仕事になります。)もし、皆さんが十分に遡るとすれば、皆さんは、老年になってから他の人々を祝福する特別な精神力を有し、その言葉が若い人々の中に祝福として流れ込むような人々は、彼ら自身が子供だった頃に、どのようにして祈るかということを学んでいたことが分かるでしょう。比喩的に言えば、子供の頃に祈るために組み合わされた手は、老年になってからの祝福する手になる、と言うことができます。

 お分かりのように、ある人が老年になってから及ぼす他の人々への影響と、その人物がまだ幼かった頃に存在していた敬虔な感情やその他のものとの間には結びつきがあるのです。以前の性質とその後の性質とは有機的に結びついています。それぞれの人には無数にそのような結びつきがあるのですが、私たちがそれを見るのは私たちが全体としての人間を理解するときだけです。今日、私たちの生活全体がこの現実から疎外されています。私たちは現実の中に浸っていると考えていますが、自分で自分を欺いているのです。今日の文化の中では、私たちは抽象主義者です。私たちは真の現実に何の注意も払わず、私が今述べたような性質を無視します。私たちはまた、私たちが子供、特に低学年の子供に教えるときには、明確に規定された概念を与えないようにしなければならない、という事実にも注意を払いません。そのような概念が後の生活に及ぼす影響は、手足を縛り、それらが大きくならないようにしたときの影響に似ています。私たちが子供達に伝えることはひとつの有機体でなければならず、柔軟でなければなりません。私は私が有機体と言ったときに何を意味しているかを皆さんが徐々に分かるようになることを望みます。もちろん、イマジネーションだけがこの意味を完全に把握することを可能にしてくれるのですが、単に、人間の生活においては、できごとの時間的な経過は空間的な有機体ではなく、むしろ時間的な有機体に関連している、ということに気づくことだけでも、有機体の性質についての考えを得ることは可能なのです。

 お分かりのように、時間はそれ本来の現実を有している、ということは数学からも推察できます。確かオズワルドによって―いずれにしても、人智学者ではなく、単に唯物論者ではないという人によってですが―、このテーマについてのすばらしい議論の中で指摘されているのは、機械的な経過とは異なり、時間の中で生じる有機的な経過は可逆的ではない、ということです。事実、通常の計算はいつも時間的な経過に対しては外的なものに留まり、私たちがそれにアプローチすることを許しません。例えば、もし、皆さんが月の満ち欠けを計算するために、式にマイナスの数字を入れたとしても、皆さんはより遠い過去の段階には至りますが、ものごとから離れることはありません。皆さんが動き回るのは空間の領域の中だけです。このように、私たちが実際の物理的な人体についての正しい考えを発達させるのは、時間的な要素を空間的な要素から分離することができるときだけです。人間に関しては、このことが根本的に重要なのですが、それは、もし、私たちが、人間の中の時間的な要素は独立した実体としてその経過を辿り、空間的な要素は時間的あるいはダイナミックな要素によって支配される、ということを知らないとすれば、私たちはいかなる人間理解にも到達することができない、という理由によります。けれども、機械においては、時間的な要素は空間中での活動のひとつの機能に過ぎません。そこが違うのです。人間においては、時間的な要素は現実の実体であり、一方、機械的な装置においては、時間的な要素は空間のひとつの機能に過ぎないのです。


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