ルドルフ・シュタイナー

「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension

 1999.6.29.登録/KAZE訳 → 2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳

第1講


1905年3月24日、ベルリン

 私は今日、第4の次元についての基本的な側面についてお話ししようとしているので、今からお聞きになることについて失望されるかも知れません。しかし、この問題についてより深く洞察しようとする人は、数学の高次の概念を厳密に知っておく必要があるのです。私はあなた方にまったく基本的で普遍的な若干の概念を提供したいと思います。私たちは4次元空間の現実とそれについて考えることができる可能性とを区別しなければなりません。4次元空間は、私たちが感覚的現実的なものとして知っているものを超えてはるかに広がっている現実と関わっています。その場所へと赴こうとするならば、思考を作り変えなければなりません。あなた方は少しばかり数学へと事象を遊ばせて、数学者の思考方法のなかに入らなければならないのです。

 数学者が歩を進めるときには、その一歩一歩が理論全体の流れにどのようなインパクトを与えるかについて説明しなければならない、ということをはっきりとさせておく必要があります。しかし、私たちが数学に関わろうとするならば、数学者ですら 4次元の現実の中には 一歩も踏み込むことはできないのだ、ということにも気づいていなければなりません。 彼らは単に思考可能な、あるいは思考不可能なものから結論へと達することができるだけです。 私たちが扱おうとしている課題はさしあたり単純なものですが、第4の次元の概念へと近づくにつれてより複雑なものになります。私たちはまず次元というものが何を意味しているかについて明確にしておかなければなりません。さまざまな幾何学的構造をその次元性ということで吟味するときにもっともよくそのことが明らかになります。そのとき、それは 世紀になってはじめてボルヤイ、ガウス、リーマンのような偉大な数学者によって着手された考察へと私たちを導くことになります。

 最も単純な幾何学的対象は点です。点はまったく広がりをもっていません。それは想像することができるだけです。点は空間におけるひとつの位置を指し示すものです。点はゼロに相当する次元をもっています。第一の次元は線によって与えられます。直線はひとつの次元をもっているのです−長さです。太さをもたない線をそれ自身動かせば、第一の次元を離れて、面になります。面は長さと幅という2つの次元をもっています。面を動かせば、これら2つの次元から離れます。その結果、立体が得られますが、立体は高さ、幅、奥行きという3つの次元をもっています。(図1)

図1

 しかし、ある立体 たとえば立方体]を空間のなかで動かしても、結果はやはり単なる3次元の立体です。立体は単に動かしただけでは 3次元の 空間から離すことはできないのです。

 さらにいくつかの概念を見ていきましょう。線分を考えてみますと、それは2つの境界、A点とB点という2つの末端をもっています。(図2)

図2

 A点とB点を合わせようとすると考えてください。それをするためには線分を曲げなければなりません。そのとき何が起こりますか? A点とB点を合わせとうとすると、 1次元の 直線のなかにとどまっていることはできません。これらふたつの点を結合するためには、直線それ自体から外に出なければなりません。つまり、第1の次元から出て、面という第2の次元に移行しなければならないのです。このようにして、その末端が重なることによって、直線から 閉じた曲線、つまりもっとも単純な場合 円が成立します。(図3)

図3

 線分を円に変化させることができるのは第1の次元から離れることによってのみです。同じ操作を 長方形の形をした 面で行うことができます。しかしこれができるのは、2次元のなかにとどまらないときだけです。長方形を管、筒に変化させるためには第3の次元に入らなければなりません。この操作は前に第1の次元を離れることによって2つの点を重ねたときと全く同じ仕方で行われます。私たちはここで 面の場合 、面の2つの端を重ねるために、第3の次元に入っていかなければなりません。(図4)

図4

 すでにそれ自体で3次元を有している空間構造で、同様の操作を行うことができると考えられるでしょうか? 2つの合同の立方体が3次元の直方体の境界をなしていると考えてみて下さい。そのひとつの立方体を別の方にずらして重ねることができます。さて、ひとつの立方体の一方の面が赤、 その反対側の面が青に 塗られていると想像して下さい。この立方体を、 幾何学的には まったく同じですが赤と青の色が逆に塗られているもうひとつの立方体に一致させるための唯一の方法とは、一方を回転させ、そしてそれらをスライドさせて重ねることです。(図5)

 

図5

 別の3次元の対象物について考察してみましょう。左手の手袋をとってください。左手の手袋を右手にはめることはできませんね。しかし、お互いが鏡像体である一組の手袋について考え、そしてAとBの末端をもった線分について考えれば、その手袋がいかにお互いに属しているかが理解できます。それらは中心に境界 つまり鏡の面 を有する単一の3次元像を構成しています。このことは人間の外皮の2つのシンメトリックな半分についても言えます。お互いが鏡像体である2つの3次元構造をどのようにして重ねることができるのでしょうか?それはちょうど前の例で第1および第2の次元を超えたように、第3の次元を離れるときにのみ可能なのです。4次元空間を通っていくことによって、私たちは右の手袋を左手に、あるいは左の手袋を右手にそれぞれはめることができます。 観照空間の第3の次元、つまり奥行きの構築に関しては 私たちは右目から来る像を左目から来る像に重ねています、つまり、ふたつの像を融合しています。

 ここでツェルナーによるひとつの例を考察することにしましょう。ここに円があり、その外側に点Pがあります。どのようにして円を横断しないで点Pを 円の中に 入れることができるでしょうか? 面の内部にとどまっているときには、それはできません。正方形を立方体に移行させるときには第2の次元から第3の次元へと超えていかなければならないように、ここでも第2の次元から出ていかなければなりません。同様に球の場合にも、 球の表面を突き抜けるか、または 第3の次元を超えていくことなくしては、 内部に 入っていく可能性はありません。(図6)

 

図6

 これらは概念的な可能性ですが、認識論に関しては、 特に知覚内容の客観性の認識論的な問題に関しては 直接に実際的な意味をもっています。私たちはまず第1に人が実際どのようにして知覚するのかを明確に理解していなければなりません。私たちはどのようにして感覚を通して対象物についての認識を得るのでしょうか? 私たちは色を見ます。目がなければ私たちは知覚することができないでしょう。そのとき物理学者は言うでしょう。空間の外には色と名づけられるようなものは何もなく、純粋に空間的な運動形態があるだけだ。それが私たちの目を通り、視神経によって把捉され、脳へと送られ、そこでたとえば赤が生まれるのだ。次に、こう問うこともできます。知覚がそこにないとしたら、赤ははたしてそこにあるのか?と。

 赤は目がなければ知覚することはできないでしょう。鐘が鳴るのも耳がなければ知覚することはできないでしょう。私たちのすべての知覚は、運動形式が私たちの肉体的魂的器官によって変換されることに依存しているのです。しかし、次のように問うとき、事態はもっと複雑になります。いったい本当にこの固有の性質である赤はどこにあるのか?と。それは私たちが知覚する対象物の上にあるのでしょうか? あるいはそれは振動過程なのでしょうか?私たちの外部に発した一連の振動過程は目の中に入ってきて、脳そのものにまで伝達されます。いたるところに振動の そして神経の 過程がありますが、どこにも赤という色はありません。目そのものを調べてみても赤を見つけることはできないでしょう。それは私たちの外にも、また脳のなかにもありません。私たちが自らを主体としてこの運動過程に相対するときにのみ、私たちは赤を有するのです。では、いかにして赤が目と出会い、嬰ハが耳に出会うのかについて論じることは不可能なのでしょうか?

 問題は、この種の内的な 心的表象とは 何か、それはどこで生じるのかということです。 世紀の哲学的な著作には、この問いがすべてを貫いて流れているのがわかります。たとえばショーペンハウエルは、次のような定義を行っています。「世界は我々の心的表象である」と。しかし、その場合、外的な物体にはなお何が残っているのでしょうか?  色の心的な表象が運動によって<生じる>ことができるように 、私たちの内部における運動の知覚も、何らかの運動していないものの結果として生じることができます。動いている 馬の姿のスナップ写真を、その間に細いスリットのついた筒の内側に貼りつけると考えてみましょう。私たちが回転している筒を横から見るとき 、常に同じ馬がいて、ただ足を動かしているという印象を持つでしょう。同様に、何かが 実際には まったく動いていないときでも、私たちの 体ー組織 を通じて、運動の 印象 が引き起こされるのです。こうして、私たちが運動と名づけているものは無へと解消されます。

 しかしそのとき物質とは何なのでしょうか? 物質から色の輝き、動き、 形態、そして感覚的な知覚によって媒介されるあらゆる性質 を取り除いてください。そうすれば何も残らなくなります。私たちが 色、音、熱、味、匂い といった 外的世界の過程によって個人的な意識のなかに呼び出される副次的な、つまり<主観的な> 知覚を私たちの内において求めなければならないとしたら、私たちは形や動きのような基本的な、つまり「客観的な」知覚も私たちの内に求めなければなりません。外的世界は完全に消えてしまいます。しかしこの事態は 認識論に関する 重大な困難を引き起こします。

 対象におけるすべての性質が外にあるとすれば、それらは外界からどのように私たちのなかに入ってくるのでしょうか?  外的なものが内的なものに移行する 点はどこにあるのでしょうか? 私たちがすべての 感覚的な知覚内容を 外的世界から取り去るとすれば、それはもはや存在しなくなります。こうして認識論は、自分の髪の毛で自分を自由に高みへと引っ張ろうとするミュンヒハウゼンに見えてきます。私たちの内に生じる知覚を 解明 するためには、外的世界の存在を仮定しなければならないのですが、ではどのようにしてこの外的世界の諸側面は私たちの内部へと入り込み、私たちの心的な表象の形で現れることができるのでしょうか?

 この問題は別の形で定式化される必要があります。まずいくつかの類似性について考察してみましょう。このことを把握しないならば、 外的世界と内的知覚の間の 関係を見出す可能性をもつことはできません。AとBの末端をもつ線分に戻りましょう。私たちは、端の点を重ねるためには第1の次元を超え出て、線を曲げなければなりません。(図7)

図7

  この直線の 左端の点Aを右端の点Bにそれらの点が下でふれるように重ねると考えてください。そうすれば、 重なった端の点を超えていき 起点へと戻ることができます。線分が短い場合は、それに対応する円も小さくなります。 最初に与えられた 線分を円にして、それからますます長い線分を円にするとすれば、端の点が出会う点はさらにますます はじめの 線から遠くなり、無限に離れていきます。そのとき、曲率はどんどん小さくなり、そしてついには肉眼ではもはや円周を直線と区別できなくなります。(図8)

図8

 まったくそれと同じように、地球もまた、私たちがその上を歩くときには、それが丸いにも関わらず、直線の 平らな 部分のように私たちには見えます。直線の両方の半分が無限に広がると考えると、円は実際に直線と同じになります。そのとき、直線は直径が無限である円としてとらえることができます。さて、もし私たちが 直線に沿ってずっと遠くまで走り、そしてそのとき 線のなかにとどまっているとすれば、私たちはついには無限を通って 再び 反対側から戻ってくるだろう、と想像することができます。

  幾何学的な 線ではなく、現実と結びつけることができる状況について思い描いてください。 円周上の 点Cが円周に沿って進むにつれて冷たくなると同時に その最初の場所から ますます遠く離れると表象してください。(図9)その点が下方の境界A、Bを通過して反対側を戻るときには、温度が再び上昇します。こうして、点Cは帰路においては往路とは逆の状態に遭遇します。暖かくなる傾向は、出発した元の温度に到達するまで続きます。この経過は円がどれほど大きくなっても同じです。つまり暖かさは最初は減少し、次に再び増加します。 無限に広がる直 線の場合にも、温度は 一方の側でますます 失われ、他方で上昇します。(図9)

 

図9

 これは私たちがいかにして生と運動を世界へともたらし、そして、より高次の意味で<宇宙の理解>と名づけることのできるものに近づくかについての例のひとつです。ここには自らを生み出し、互いに依存しあっている2つの状態があります。しかし、 感覚的に 観察できるものすべてに関して言えば、そうですね、右の方に向かう過程が左から戻る過程とは何の関係もなく、それにもかかわらずそれらが相互に条件づけあっている、ということなのです。

 さて、外的世界の物体を冷たくなる状態に、そして、それとの対比で、私たちの内的知覚を暖かくなる状態に関連づけてみましょう。 外的世界と内的知覚は直接には感覚的に知覚可能なものを共通には何ももっていないにもかかわらず 、お互いにある関係にあり、 今お話しした過程と同様に 、相互に依存しています。このことを裏付けるために、 印章と封蝋(ふうろう)の関係についての イメージを外的世界の 私たちの内的世界との 関係に適用することもできます。印象は、印章が封蝋のなかに残ることなく、そして印章の物質的なものが封蝋のなかに移ることなく 、封蝋のなかに正確な刻印、印の正確な複写を残します。外的世界と内的知覚の関係の場合にも同じ対応関係があります。本質的なものだけが 移されているのです 。一方の状態の 形が 他方のそれを条件づけているのですが、しかしその場合 物質的なものは 何も移らないのです。

 外的世界と私たちの印象との間にそのような関係があるということを表象するならば、私たちは次のことに至ります。空間における 幾何学的な 鏡の像は、左と右の手の手袋のようなものですが、この像を直接的に、そして連続的に一致させるためには 、私たちは新しい空間の次元を利用する必要があります。 今、外的世界と内的印象が幾何学的な鏡の像に似たものであるとすれば、それらを直接一致させるためには、同様に追加的な次元を用いてそうするしかありません。 今、外的世界と内なる印象との間に関係を成立させるためには、私たちは同様に第3の次元にいながらにして第4の次元を通っていかなければならないのです。そこでは私たちは 外的世界そして内的印象と]ひとつになりますが、私たちがそれらに共通のものを探すことができるのはそこにおいてのみなのです。私たちはこの鏡の像について海を漂っているように表象することができますが、その内部ではそれらの像を重ねることのできるのです。こうして私たちは まずは純粋に観念的にですが 何か3次元空間を超えたもの、それにもかかわらず現実性をもっている何かへと至ります。そのためには、私たちは私たちの空間表象を生き生きとさせ、それに生命を与えなければなりません。

 オスカー・シモニーは、この生きた空間構造をモデルで表現しようとしました。 これまで見てきましたように 、0次元の考察からはじめて徐々に4次元空間を表象する可能性へと 至ります 。 鏡のシンメトリーをもった物体の考察により、つまり シンメトリーの関係を使って、私たちはまず 最も容易に この4次元空間を認識することができます。 4次元空間との関係で3次元空間の経験的な特質を研究する別の方法を提供してくれるのは、結び目のある曲線と2次元の帯です 。シンメトリーの関係とは何を意味しているのでしょうか?空間構造を相互に関係づけるとき、一定の複雑さが生じます。この複雑さは3次元空間に特有のものであり、それは4次元空間では生じません 。

 若干の実際的な思考練習をしてみましょう。環状の帯をまん中に沿って切れば、そのような環がふたつできます。こんどは端を 度ねじって貼った帯を同じように切ると、一本のねじれた環になり、2本には分かれません。貼り合わせる前に帯の端を 度ねじると、切った際に2つのねじれた輪がつながったものになります。最後に帯の端を 度ねじると、同じプロセスによって結び目ができます。自然の過程について考える人であれば、そうしたねじれが自然のなかで生じていることを誰でも知っています。 実際 、そのようなねじれた空間構造というのは特別な力を有しています。たとえば、太陽のまわりの地球の運動、そして地球のまわりの月の運動を取り上げてみましょう。月は地球のまわりを円を描いていると言いますが、 正確に見るならば 、それは 地球の軌道に沿って ねじれた線、つまり円周のまわりの螺旋なのです。そして太陽はとても速く宇宙空間を進んでいるのですが、月はさらにそのまわりで 付属的な 螺旋運動をしています。ですから、空間のなかを広がっているその力の線は非常に複雑なものとなっているのです。私たちは、それをピンで留めようとするのではなく、それらが流れるに任せるときにのみ把握することができるような複雑な空間概念に関わっているのだ、ということに気づかなければなりません。

 もう一度、今日お話したことをおさらいしてみましょう。0次元的なものは点であり、1次元的なものは線であり、2次元的なものは面、3次元的なものは物体です。この空間概念は互いにどのような状態にあるのでしょうか?  あなた方が直線に沿って動くことができるだけの存在であると考えてみてください。1次元存在の空間表象とはどのようなものなのでしょうか? そのような存在は自分自身の次元である1次元性を知覚するのではなく、点のみを表象することでしょう。というのも、私たちがそのなかで何かを描こうとしても、直線には点だけしか描きようがないからです。2次元の存在は直線と出会うことができ、従って1次元的な存在を識別することができるでしょう。たとえば立方体のような3次元存在は2次元存在を知覚することができるでしょう。けれども、人間は3次元を知覚することができます。私たちが正しく結論づけるとすれば、こう言わなければなりません。1次元存在が点だけを知覚することができるように、2次元存在が一次元だけを知覚することができるように、そして3次元存在が2次元だけを知覚できるように、3次元を知覚することができる存在は4次元存在に違いない、と。人間は外的な存在を3次元に従って境界づけることができ、3次元空間を 処理することができる わけですから、私たちは4次元存在でなければなりません。そして立方体が2次元だけを知覚でき、それ自身の3次元を知覚できないのと同様に、人間はみずからが生きる4次元を知覚することができない、というのが本当のところなのです。


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