「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

2000.11.16登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳 

第3講


1905年5月17日、ベルリン

 親愛なる皆様、今日は私たちが探求に取り組んでいる難しい課題を続けて扱っていくことにします。その際、これまでの[二回の]講義でふれたさまざまな事柄にもう一度言及することが必要になるでしょう。その後で、2、3の基本的な概念に取り組みますが、それによって、最後の2講では、シャウテン氏のモデルを使って、[幾何学的な関係の詳細及び]神智学の興味深い実際的な観点の両方を十分に把握することができるようにしたいと思っています。

 お分かりのように、私たちが四次元空間の可能性を心に描こうとした理由は、いわゆるアストラル領域とさらに高次の存在形態に関して少なくともある種の概念を得る、ということでした。私はすでに、アストラル空間、アストラル界に入ると神秘学徒はまず恐ろしく混乱してしまう、ということを指摘しました。神智学やエソテリックな課題について綿密に探求したことがない人、それらを理論的なレベルにおいても扱ったことがない人にとっては、いわゆるアストラル界において出会う諸事象や諸存在の非常に異なる本性を表象するのはきわめて難しいことでしょう。この違いがいかに大きいかについてもう一度簡単に描写してみます。

 最も簡単な例として、私たちはすべての数を逆に読むことを学ばなければならない、ということを申し上げました。ここ物理的な世界において読まれるような方法でのみ数を読むことに慣れている神秘学徒は、アストラル界の迷宮のなかで道に迷うことになるでしょう。アストラル界では、例えば467という数は764と読まなければなりません。あなた方はそのような数を対称的に、それが鏡に映ったように、読むことに慣れなければならないのです。これが基本的な前提条件です。空間的な構造や数にこの原則を適用することはまだしも簡単です。時間的な関係を取り扱うということになると、それはさらに難しくなります。時間的な関係もまた対称的に、つまり、後のできごとが最初にきて、始めのものが後に現れるように見えると考えなければなりません。ですから、アストラル的な経過を観察するときには後ろ向きに、つまり最後から最初へと読むことができなければならないのです。このような現象の性質は、そこで何が起こっているかについて何の考えももたない人にはしばしばまったく奇怪に見えますから、暗示することしかできません。アストラル界においては、まず息子がいて、その後で父親がいます。まず卵があって、その後で鶏が続くのです。物理的な世界においてはその順序は逆です。まず誕生があり、誕生は古いものから何か新しいものが現われる、ということを意味します。アストラル界では逆のことが起こります。そこでは古いものが新しいものから現われるのです。アストラル界においては、父あるいは母的な要素であるものが息子あるいは娘的な要素であるものを呑み込んでいるように見えます。

 ギリシアにおもしろい寓話があります。ウラノス、クロノス、ゼウスという三人の神は象徴的に三つの世界を表わしています。ウラノスは天の世界、つまりデヴァチャン界を表わし、クロノスはアストラル界を表わし、ゼウスは物理的世界を表わしています。クロノスについては、クロノスがその子どもを食べ尽くすと言われます。ですからアストラル界においては子孫は生まれるのではなく、食べ尽くされるのです。

 しかし私たちが道徳的なものをアストラル平面で考察するとき、事はまったく複雑になります。道徳性もまたある種の裏返し、あるいはその鏡像において現われるからです。ですから、そこでの事象を説明するということが、物理的世界において慣れているような仕方で説明するのとはいかに大きく異なっているかを想像することができます。アストラル界において例えば凶暴な獣が私たちに向かってくるとします。その凶暴な獣は私たちを食い殺します。外的な出来事を説明することに慣れている人にはそのように見えるのですが、この出来事は物理的な世界においてそうするであろうように説明することはできないのです。本当のところは、凶暴な獣は私たち自身のなかにある性質であり、私たち自身のアストラル体のひとつの側面が私たちを食い殺している、ということなのです。食い殺すものとしてあなた方に向かってくるものは、あなた方自身の欲望に根ざすものです。ですから、例えばあなた方が復讐という考えをもっているとすれば、その考えは外的な形態を取って現れ、死の天使としてあなた方を苦しめることになります。

 本当は、[アストラル界においては]すべてが私たちから発するのです。アストラル界においては、私たちに向かってくるように見えるすべてを、私たちから発しているものとして観察しなければなりません(図18)。まるで無限の空間から私たちに押し寄せてくるかのように、あらゆる側の領域からこちらにやってきます。しかし本当は、それは私たち自身のアストラル体が外から送ってくるものに他なりません。

図18

 私たちが周囲のものを中心に運び、周囲のものを中心のものとして観察し、解釈することができてはじめて、私たちはアストラル的なものを正しく読みとり、[そのときはじめて]真実を見出すのです。アストラル的なものはあらゆる側からあなたがたへと向かってくるように見えますが、それは実際には、あらゆる側へとあなたがた自身から発しているものである、と考えなければなりません。

 ここで神秘学の(okkult)訓練において非常に重要な概念をご紹介したいと思います。それは幽霊のように神秘学の研究に関するさまざまな書籍にはよく出てくるのですが、ほとんど正しく理解されてはいません。神秘学的な進歩のある種の段階に至った者は、自分のなかにまだカルマ的に求めているすべて、歓喜、快楽、苦痛等をアストラル界のなかに見ることを学ばなければなりません。どのような楽しみ、悲しみ、苦しみ等々に出会うことが期待できるでしょうか?

 正しい意味で神智学的に考察するならば、あなたがたの外的な生と物理的な肉体は、今日現代において、反対の方向からやってきて互いに交差する二つの流れの結果、あるいは交点に他ならない、ということが明らかになるでしょう。過去から来る流れと未来から来る流れを思い描きますと、それは二つの互いに交差し、これらすべての点において互いに合わさる流れになります(図19)。ひとつの方向に向かう赤い流れと別の後方に向かう青い流れを考えてみましょう。今、それらの流れが合わさる4つの異なる点を思い描いて下さい。[それら四つの点すべてにおいて]この赤い流れと青い流れが相互作用します。これは連続する四回の受肉[の相互作用に関する図]であり、それぞれの受肉(Inkarnation)において、私たちは一方の側から来るものと別の側から来るもものとに出会います。ですから、あなた方はいつでもこう言うことができます。「あなた方を迎える流れがあり、あなた方がもたらす流れがある」と。それぞれの人間はそのようなふたつの流れの合流点なのです。

図19

 事態がどのようになっているかについての考えを得るために、次のように想像して下さい。あなた方は今日ここに座ってある一定の量の体験をします。明日の同じ時間には別のまとまった出来事が起こるでしょう。さて、明日あなた方に起こるであろう出来事がすでにそこにあると思い描いてください。それらに気づくようになるということは、あなた方に向かって空間中を近づいてくる出来事についてのパノラマを見るのに似た体験になるでしょう。未来からあなたにやってくる流れが今日から明日にかけてのあなたの経験を運んで来ると想像してください。未来がやって来てあなたと出会うとき、あなたは過去によって支えられているのです。

 あらゆる時間の断面において、ふたつの流れが合わさり、あなたの生を形成しています。ひとつの流れは未来から現在に、もうひとつの流れは現在から未来に向かって流れますが、それらが出会うところではどこでも堰き止め(Stauung)が生じます。人生のなかでいずれ直面することになるすべてがアストラル的な現象の形態で自分の前に現われます。この出来事は信じられないほど印象的な言葉で表現されるべきものです。

 神秘学徒がアストラル界をのぞき込むように意図された進歩の時点に至ると考えてみてください。彼らの感覚は開かれ、今の時期が終わるまでに体験しなければならないであろう未来の経験のすべてが、アストラル界において彼らを取り巻く外的な出来事として知覚されます。それは、すべての神秘学徒にとってまったく印象的な光景です。つまりこう言わなければなりません。神秘学徒が、第六根源人種の半ばに至ってもなお−−というのもそのときまで私たちの受肉は続くのですが−−体験しなければならないあらゆるもののアストラル的なパノラマを経験するとき、神秘修行におけるひとつの重要な段階が達成される、と。彼らにとっての道は開かれました。神秘学徒は、近未来から第六根源人種に至るまでに[いずれ]直面することになるすべてのものを外的な現象として経験するのです。

 この境域にまで進むと、ある問いが歩み寄ってきます。おまえはこれらすべてを考えうる限り短い時間で経験しようとするのか?と。秘儀伝授を受けようとする者にとってはそれが問題となります。この問題について熟考するとき、あなた自身の未来の生全体がある瞬間において、アストラル的な観照の特徴である外的なパノラマとしてあなたに現れることになります。「いや、私はそのなかには入らないことにする」と言う人もいれば、「私は入らなければならない」と思う人もいます。「境域(Schwelle)」あるいは決定の瞬間として知られるこの神秘的な進歩の時点において、私たちはまだこれから体験し、体得しなければならないものすべてとともに自分自身を経験することになります。「境域の守護者」との出会いとして知られるこの現象は私たち自身の未来の生に直面することにほかなりません。境域の向こうに横たわっているのは私たち自身の未来の生なのです。

 これに対して、アストラル的な現象世界のユニークな特徴のひとつは、ある予見できない出来事によって−−人生にはそうした出来事があるのですが−−アストラル界が突然開かれる人が、さしあたり理解できそうもないものの前に立たなければならなくなるときに見られます。そうしたことが起こるとき、この恐ろしい光景以上に混乱させるようなものは何もないほどです。従って、肉体とエーテル体の間、もしくはエーテル体とアストラル体の間がゆるむというような病的な現象の結果として、アストラル界があなたに突然押し寄せる場合に備えて、それについて今何が言われているのか、何が問題とされているのか、ということを知っていることは、最もすばらしい意味で良いことなのです。そのような現象によって、人は思いがけずアストラル界に入り、アストラル的な生をのぞき込む状態に置かれることがあります。そのような人々は、こう見えるとか、ああ見えるとか言いますが、見ても理解して読み解くことはありません。対称的に見なければならないことや、自分に向かってくるすべての凶暴な獣を自分のなかにあるものの鏡像として理解しなければならないことを知らないからです。実際、アストラル的な諸力や人間の激情はカマローカにおいてはあらゆる多様な動物の形態を取って現われます。

 カマローカにおいては、最近になって肉体を離れた人を見るときも、まったく美しくは見えません。その瞬間には、あらゆる激情、衝動、願望、切望そのものをまだ有しているからです。カマローカにいるそうした人々は、なるほどもう肉体もエーテル体もないのですが、そのアストラル体のなかには、彼らを物質界に縛り付けるものや肉体によってのみ満足することができるものすべてがまだ保持されているのです。過去の生においても大したことはせず、宗教的な発展に向けて努力したというのでもない現代の普通の平均的市民を思い浮かべてみてください。それは理論的には宗教を否定していないかも知れませんが、実際上は否定しているような−つまり、彼ら自身の感情に関する限り−それを窓から放り出しているような人々です。宗教は彼らの人生においては生きた要素にはなりませんでした。そのようなとき、そのアストラル体には何が含まれるでしょうか? そこにあるのは、例えば美味しい食べ物を楽しもうとする欲望のような肉体器官によってしか満足させられることのできない熱情だけです。しかし、それを満足させるためにはその欲望が満足させられるための味覚がそこに存在していなければなりません。あるいは肉体を動かすことで満足させられる別の楽しみを求めているかも知れません。肉体がなくなった後もそうした欲望がアストラル体のなかに頑として生き続けると想像してみてください。もし、アストラル的な純化や浄化をしないまま死んだとすれば、そのような状態になります。食べる楽しみやそのほかのものを求める欲望はまだもっているのですが、それらを満足させる可能性はもうありません。それらはカマローカにおいて恐ろしい苦しみを生じさせます。そこでは最初にアストラル的な浄化をせずに死んだ人々の欲望が取り去られなければなりません。もはや満たされることがない欲望や願望を放棄することを学ぶときにのみアストラル体は解放されるのです。

 アストラル界において衝動や激情は動物の形態をとります。人間が肉体をもっている間は、アストラル体は多かれ少なかれその肉体の形態に順応しています。けれども、外的な体がなくなると、衝動、欲望、激情のような動物的な本性はそれ自身の形態をとって現われてくることになります。ですから、アストラル界において、人はその衝動や熱情の模像となります。このアストラル存在は別の体を利用することもできますから、悪を退けることのできる霊視者がいないときには、霊媒をトランス状態に入らせるのは危険なことなのです。物理的な世界におけるライオンの形態は特定の激情を決まった形で表現し、虎は別の激情の表現であり、猫はさらにまた別の表現です。それぞれの動物がどのような特定の激情や衝動の表現であるかを知ることは興味深いものです。

 アストラル界、つまりカマローカでは、人間はその激情に従って動物の本性にほぼ似たものとなります。この事実は、エジプトやインドの司祭、そして叡智の教師によって説かれる魂の輪廻の教えに関して、よくある誤解が生じてくる原因となっています。動物に生まれ変わらないように生きなさい、と教えは説きますが、この教えは物質的な生についてでは全くなく、より高次の生について言っているのです。教えが意図していたのは、死後カマローカで動物的な形態をとる必要のないような生活を地上において送ることを勧める、ということに他なりませんでした。例えば、猫の性格をつくりあげた人は、カマローカにおいて猫として現われます。カマローカにおいても人間の形態で現われるようにする、というのが魂の輪廻の教えが目指しているものです。本当の教えを理解し損ねている学者たちがこの教えについてのばかげた考えをもっているのです。

 こうして、私たちが数や時間の領域、そして道徳生活の領域においてアストラル空間に入るときには、ここ物理的世界のなかで習慣的に考え、行なっているものの完全な鏡像に関わることになる、ということが分かりました。私たちは対称的に読みとる習慣を身につけなければなりません。それはアストラル空間に入るときに必要となる技能です。これまでの講義で示唆したような、またこれからの議論でさらにもっと知ることになるような基本的な数学的表象に結びつけるときには、対称的に読みとることを学ぶのが最も容易になります。まずまったく単純な表象、つまり正方形の表象から始めましょう。ひとつあなた方が見なれているような正方形を表象してください(図20)。私はその四つの等辺を四つの異なった色で描くことにします。

図20

 これは正方形が物理世界においてどのように見えるかを示しています。ここで私は正方形をデヴァチャン界において見えるように黒板に描いてみたいと思います。まったく正確にとはいきませんが、少なくともメンタル界では正方形がどのように見えるかについての表象を与えたいと思います。[正方形の]メンタル的な対応物はほぼ十字のようなものです(図21)。

図21

 概略的には、垂直に重なって交差している二つの軸、互いに交差する二本の直線と言ってもいいでしょう。物理的な世界における対応物は、これらの軸のそれぞれに垂直な線を引くことによって構成されます。メンタル的な正方形の物理的な対応物は、[二つの互いに横断する流れを]堰き止めるものとして最もよく表象できます。これらの互いに垂直な軸線を、それらの交点から外に向かって働く力あるいは流れとして表象するとともに、反対側から、つまり外から内に向かって働き込んでくる対抗的な傾向がある、と考えてみてください(図22)。そのとき、正方形はこれら二つのタイプの流れ、あるいは力−−一方は内から、他方は外からやってくる力−−が互いに堰き止めあうようなものとして表象されることによって物理的世界のなかへとやってきます。つまり、力の流れが堰き止められるところに境界ができるのです。

図22

 この像はあらゆるメンタル的なものが物理的なものにどのように関係しているかを表しています。あなた方はあらゆる物理的なもののメンタル的な対応物を同じようにしてつくることができます。この正方形は考え得るもっとも簡単な例です。もし、二つの交差する垂直な直線が正方形に対するのと同様の関係において、何らかの物理的な物体の相関物を構築することができれば、それぞれの物理的な物体のデヴァチャン的あるいはメンタル的な像が得られます。もちろん、その過程は正方形以外の物体に関しては非常に複雑なものとなります。

 では、正方形のかわりに立方体を思い浮かべてみましょう。立方体は正方形とよく似ています。立方体は六つの正方形で境界づけられている図形です。シャウテン氏は、立方体を表す六つの正方形を示す特別なモデルを作りました。さて、正方形の四つの境界線の代わりに、境界を形成する六つの面を思い浮かべてください。そして、堰き止められた力の境界が垂直な直線ではなく垂直な面から構成されていると、そしてさらに二つではなく三つの互いに垂直な軸を想定してください。そうすれば、正に立方体を規定したことになります。立方体のメンタル的な対応物がどういうものなのか、もうだいたいのところを表象することができますね。ここにもお互いに補完する二つの図形があります。立方体は三つの互いに垂直な軸とその面に対する三つの異なった方向性をもっています。この三つの面の方向のなかに、堰き止める作用を考えなければなりません(図23)。先に述べた正方形の場合には二つの軸の方向と四つの直線があったように、三つの軸の方向と六つの面はある特定の種類の対立として表象することができるだけです。

図23

 この問題についてとりあえず考えてみようとする人であればだれでも、これらの図形を表象するためには、まず最初に作用と反作用の対立、あるいは堰き止めの概念に至らなければならない、と結論づけるに違いありません。この場合、対立という概念が入ってこなければならないのです。ここでは事象はまだ単純なものですが、幾何学的な概念に関連して修練を積むことによって、もっと複雑なもののメンタル的な対応物をも事象に即してつくりだすまでに至るでしょう。この活動は私たちがある程度までより高次の認識へと至るための道を指し示すことになるでしょう。しかし、私たちはすでに、別の立体のメンタル的な対応物をさがそうとするときにも、いかにとほうもない複雑さが生じるかを想像することができます。そこにははるかに複雑なものが現われてきます。ひとつ非常に複雑な空間形式と作用を伴った人間の形態とそのメンタル的な対応物を考えてみて下さい。それがどれほど複雑なメンタル的な構造になるかを想像することができます。ほんの概略ではありますが、私は私の著書「神智学」のなかで、メンタル的な対応物がおおよそどのように見えるかについて述べました。

 立方体には、三つの次元、あるいは三つの軸があります。ひとつの軸の両側にはその軸に対して垂直な二つの平面があります。ですから、立体のそれぞれの面を考えるときには、先ほど私が、人間の生は二つの流れの交差したものとして成立する、と述べたのと同様の理解が必要である、ということを明らかにしておかなければなりません。中心から外に向かう流れを表象することができます。これらの軸方向のひとつを考えて下さい。空間はその一つの方向のなかで、中心から外へ向かって流れるとともに、別の方向から、つまり無限のかなたから中心に向かって流れています。そしてこれらの流れを、一方は赤、他方は青の色として思い描いて下さい。その二つの流れが出会う瞬間、それらは合流してひとつの面を創り出します。このように立方体の面は二つの対立した流れの表面における出会いとしてとらえることができるのです。このことは、立方体が何であるかについての生きた視覚的表象を与えてくれます。

 つまり、立方体は三つの互いに作用する流れの交差なのです。それらの相互作用を総合的に考えれば、三つの方向ではなく、前−後、上−下、右−左という六つの方向が関係しているのが分かります。実際には六つの方向があるのです。そして、一方には点から出る方向、他方には無限から返ってくる方向の二種類の流れがあることによって、事態はさらに複雑になります。このことは、より高次の理論的な神智学を実際に適用するときのひとつの観点を与えてくれるでしょう。空間におけるどの方向も二つの対立する流れとしてとらえなければなりません。そして、物理的な立体はこの二つの流れが融合した結果なのです。さて、この六つの流れ、六つの方向をa、b、c、d、e、fとしてみましょう。この六つの方向、あるいは六つの流れを表象し−−次回の講演では、この表象をいかに形成するかについてお話しすることになります−そして、最初と最後のaとfをそこから無いものと考え、消して考えるならば、そのとき4つが残ります。この残った4つとは、あなた方がアストラル界だけを見るときに知覚できる4つの流れである、ということに注目して下さい。

 私はあなた方に3つの通常の次元と、本来それに対立してふるまう3つのさらなる次元に関する何らかの表象を提供することを試みてきました。物理的な立体はこれらの次元が互いに対立的に働く結果としてて成立します。ここで物理的なレベルにある次元のひとつとメンタル的なレベルにある次元のひとつをないものと考えるとならば、4つの次元が残りますが、そのときこれは、物理的世界とメンタル界との間に存在するアストラル界を表わします。

 世界についての神智学的な観点は、実際、通常の幾何学を越えたより高次の幾何学に従って働かなければなりません。通常の幾何学者は立方体を6つの正方形で表されるものとして記述します。私たちは立方体を6つの相互に貫入する流れの結果として、つまり、動きとそれに対抗する動き、あるいは対立する力の相互作用の結果として把握しなければなりません。

 ここでは、そのような一組の対立を体現している概念のひとつ、世界進化の奥深い秘密のひとつを私たちに示す概念のひとつを外なる大自然からとった例で示したいと思います。ゲーテは「蛇と百合のメルヘン」のなかで「開示された秘密」について語っていますが、それはこれまでに話された言葉のなかでも最も真実で賢明な言葉のひとつです。自然のなかにはまだ見たことはないけれども全く手に取るようにわかる秘密が、多くの倒置プロセスを含めて存在している、というのは本当のことです。そうした例のひとつを紹介したいと思います。

 人間を植物と比べてみましょう。これは最初は遊び半分のようにも見えるでしょうが、そうではなく、深い秘密を示しているのです。植物は土のなかに何を有しているでしょうか?根です。そして上方には茎、葉、花、実が育ちます。植物の頭である根は大地のなかにあり、その生殖器官は地上に、太陽に近いところに発達しています。これは純潔な仕方の生殖と呼び得るものです。植物全体を逆にして、根を人間の頭と考えてみてください。するとそれは上に頭があり下に繁殖器官のある人間、逆転した植物となります。動物はその真ん中にあり、ひとつの堰き止め(Stauung)となっています。植物を逆転させた結果が人間なのです。神秘学者たちはいつの時代でもこの現象を3つの線を使って象徴的に表現してきました(図24)。

図24

 植物を象徴する1本の線、人間を象徴する別の線、そして動物の象徴としての対立する第3の線が合わさって十字架を形成します。動物は水平の位置をとっていて、私たち人間が植物と共有しているものを横断しています。

 ご存じのように、プラトンは全体魂(Allseele)について語っていますが、全体魂は宇宙身体(Weltenleib)にかけられて、つまり、宇宙身体という十字架に縛りつけられています。世界魂(Weltenseele)を植物、動物、人間として表象すると、それは十字架になります。世界魂はこの3つの領域のなかに生きることで、この十字架に縛られているのです。ここでは力の堰き止め(Stauung)の概念が拡張されているのがお分かりでしょう。植物と人間は二つの互いに補い合いながら分岐し、しかし交差する流れを表している一方、動物は上方と下方への流れの間に割り込みながらそれらの間に現れる堰き止め(Stauung)を表しています。同様に、カマローカ[アストラル領域]はデヴァチャンと物理的世界の間に位置しています。互いに鏡像の関係にあるデヴァチャンと物理的世界の間に堰き止めの表面(Stauungsflaeche)、つまりカマローカの世界があるのですが、そのカマローカ界の外的な表現が動物界なのです。

 この世界を知覚するためには力が必要なのですが、その知覚に適した器官を既に有している人は、これら三つの領域の相互関係において見なければならないものを認識することになるでしょう。動物界を堰き止めから現れたものとして把握するならば、植物領域と動物領域の関係、動物領域と人間領域の関係を見出すことになるでしょう。動物は、互いに補い合い、貫入する他の二つの領域の方向に対して、垂直の位置にあります。低次の領域はより高い次の領域に食物として奉仕します。この事実は、人間と植物の関係は動物と人間の関係とは異なっている、ということに光を当てます。動物を食べる人は堰き止めの状態との関係を発達させているのです。真の活動は対立する流れが出会うところにあります。このように申し上げることで、私は一連の思考のきっかけを与えているのですが、それは後になって不思議な仕方で、まったく別のかたちで再び現われることになるでしょう。

 要するに、正方形は2つの軸が線によって切られることで生じる、立方体は3つの軸が面によって切られることで生じる、ということを見てきたわけですが、では、4つの軸が何かによって切られる、ということを想像できるでしょうか? 立方体は4つの軸が切られるときに生じる空間構造の境界なのです。

 正方形は3次元の立方体を境界づけています。次回は、立方体そのものが4次元図形の境界を形成するとき、どのような図形が生じるかについて見ていくことにしましょう。

 

■質疑応答

 6つの流れを思い描き、そして2つを消す云々とは何を意味しているのでしょうか?

 6つの流れは、3の2倍として考えなければなりません。つまり、3つの軸に規定される方向に沿って中心から外に働く3つの流れ、そして無限からやってきて反対方向に働く別の3つの流れです。ですから、それぞれの軸方向に関して、一方には内から外に向かい、他方にはこれとは逆の外から来て内に向かうような2つのタイプがあるのです。これらふたつのタイプにポジとネガ、あるいはプラスとマイナスをつけると、こうなります。

+a −a

+b −b

+c −c

 アストラル空間に入るためには、内向きの流れと外向きの流れを有するひとつの方向全体を消し去らなければなりません、例えば+aと−aのような。

(第3講・了) 


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