「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳 

第4講


1905年5月24日、ベルリン

 最近の講義のなかで、私は四次元空間についての図式的な観念を発展させようと試みてきましたが、それは何らかの類比を用いて行うのでなければ非常に難しいことです。私たちは、私たちがさしあたりアクセスすることが可能なタイプの唯一の空間である三次元空間において、いかにして四次元の図形を表現するか、という問題に直面することになります。なじみのない四次元空間の要素を何か私たちが知っているものに結びつけるためには、ちょうど三次元の物体を二次元のなかにもち込むように、四次元の物体を三次元のなかにもち込むための方法を見いださなければなりません。ここでは、四次元空間をいかにして三次元のなかで表現するかという問題に対する答を示すために、ヒントン氏によって広められた方法を用いたいと思います。

 どうすれば三次元空間を二次元のなかで記述することができるか、ということについて示すことから始めましょう。この黒板は二次元平面です。幅と高さというその二つの次元に奥行きを加えれば三次元空間が得られます。では、この黒板の上に三次元の図形を描いてみましょう。

 立方体は、高さ、幅、奥行きを持っていますから、三次元の物体です。立方体を二次元に、つまり平面にしてみましょう。ひとつの立方体を取り上げ、その六つの正方形の面を平面上に広げます(図25)。そのとき、二次元においては、立方体を規定する面はひとつの十字を形成するものとして想像することができます。

図25

 これら六つの正方形を、正方形1と3が互いに反対側にくるように折りますと再び立方体にすることができます。正方形2と4、そして5と6もまた反対側にきます。これは三次元立体を平面に移し替える簡単な方法です。

 四次元を三次元空間のなかに描こうとしても、この方法を直接用いることはできません。そのためには別の類比が必要です。色を使うことが必要になるでしょう。反対側にくる正方形の色がどの組も同じになるように、六つの正方形の辺を異なった色で塗り分けることにします。正方形1と3については、一組の辺を赤に(点線)、もう一組の辺を青に(実線)にします。他の正方形のすべての水平の辺にも青の、そのすべての垂直な辺にも赤の色をつけることになりますね(図26)。

 

図26

 これら二つの正方形1と3を見て下さい。それらの二つの次元が二つの色、赤と青によって表現されています。そのとき、私たちにとっては、正方形2が黒板に対してフラットになっている垂直の板面上で、赤は高さを、青は奥行きを意味します。

 高さには必ず赤を、奥行きには青を使いましたから、第三の次元、つまり幅のために緑を加えて(破線)私たちの展開した立方体を完成させましょう。正方形5は青と緑の辺をもっていますから、正方形6も同じように見えなければなりませんね。さて、正方形2と4だけが残りました。それらが展開されたと考えますと、それらの辺が赤と緑になるのが分かります。

 これらの色がついた辺を視覚化してきたことからお分かりのように、私たちは三つの次元を三つの色に変換しました。高さ、幅、奥行きの代わりに、私たちは今、それらを赤(点線)、緑(破線)、そして青(実線)と呼ぶことができます。これら三つの色は空間の三つの次元に置きかわり、それらを表現しているのです。さて、その立方体が再びすっかり組み立てられると想像して下さい。第三の次元がつけ加えられるということは、赤と青の正方形が緑を通って動いた、つまり、それが図26において左から右に動いた、と言うことによって説明することができます。緑を通って動くということ、あるいは、第三の色の次元のなかに消えるということは第三の次元への移行を表現しているのです。緑の霧が赤−青正方形に色をつけると想像して下さい。そのために両方の辺(赤と青)に色がついて見えます。青の辺は青緑に、赤は暗い色合いになります。緑が止むところにきて初めて、再び両方の辺がそれ自体の色で現れます。正方形2と4についても同様に、赤−緑正方形を青の空間を通って移動させることができるでしょう。二つの青−緑正方形5と6の内のひとつを赤を通って動かすのも同じです。いずれの場合にも、正方形は一方の側で消失し、別の色のなかに潜り込むと、反対側から元の色で現れるまで、その色に染まります。このように、お互いに直角の位置関係にある三つの色は私たちの立方体を象徴的に表現しています。私たちはその三つの方向のために色を用いただけです。立方体の三組の表面が被る変化を視覚化するために、私たちはそれらが、それぞれ緑、赤、そして青を通過するものと想像します。

 これらの色のついた線の代わりに正方形を、そして空の空間の代わりに、いたるところに正方形を思い描いて下さい。そうすれば、図形全体をさらに別の仕方で描写することができます(図27)。他の正方形が通過する正方形は青の色がついています。それを通過する二つの正方形は、その移行を行う前後で、その側面に引き寄せられています。ここではそれらは赤と緑になっています。第二段階においては、青−緑の正方形が赤の正方形を通過し、第三段階においては、二つの赤−青正方形が緑を通過します。

図27

 これは立方体を平面に展開するためのもうひとつ別の方法です。ここに並べられた九つの立方体のうち、上段と下段の六つの正方形だけが立方体そのものの境界を形成します。中段にあるそれ以外の三つの正方形は移行を表現しています。それらは単に他の二つの色が第三の色のなかに消えることを意味しているに過ぎません。ですから、移行の動きに関しては、私たちはいつも一度に二つの次元を取り上げなければなりません。何故なら、上段と下段にあるこれらの正方形のそれぞれは二つの色からなっており、それに含まれない色のなかに消え去るからです。私たちはこれらの正方形が第三の色のなかに消え去り、反対側から再び現れるようにします。赤−青正方形は緑を通過します。赤−緑正方形は青の辺をもっていませんから、青のなかに消え去るのに対して、緑−青正方形は赤を通過します。お分かりのように、私たちは私たちの立方体を、このように二次元の正方形、つまり二色に塗られた正方形を第三の次元、あるいは色を通過させることによって構築することができるのです。

 次の段階は明らかに、正方形の代わりに立方体を想像し、ちょうど二色の線から正方形を構築したように、三色(の次元)からなる正方形から構成されているものとしてこれらの立方体を視覚化する、ということです。三つの色は空間の三つの次元に対応します。ちょうど正方形の場合にそうしたような方法で先に進もうとするならば、私たちは四つ目の色をつけ加えて、それぞれの立方体が自分にはない色を通過しながら消えることができるようにしなければなりません。そこには三つの移行正方形の代わりに、単に四つの異なる色−青、白、緑、そして赤−をもった移行立方体があるだけです。正方形に正方形を通過させる代わりに、今度は立方体に立方体を通過させるのです。シャウテン氏のモデルはそのような色のついた立方体を用いています。

 ちょうどひとつの正方形に第二の正方形を通過させたように、今度はひとつの立方体にそれ以外の色をもつ立方体を通過させるようにしなければなりません。こうして、白−赤−緑の立方体は青の立方体を通過します。一方の側でそれは第四の色のなかに沈み込み、別の側から元の色で再び現れます(図28.1)。ですから、ここには三つの異なる色の表面をもつ二つの立方体によって結びつけられたひとつの色、もしくは次元があるのです。

図28

 同様に、今度は緑−青−赤の立方体に白の立方体を通過させなければなりません(図28.2)。青−赤−白の立方体は緑の次元(図28.3)、青−緑−白の立方体は赤の次元(図28.4)を通過しなければなりません。つまり、それぞれの立方体は自分に欠けている色のなかに消え去り、別の側から元の色で現れなければならないのです。

 これら四つの立方体は、先の例における三つの正方形と同様、お互いに関連しています。ひとつの立方体の境界を表現するためには六つの正方形が必要でした。同様に、四次元の対応する図形、テサラクトの境界を構成するためには八つの立方体が必要なのです。立方体の場合には、単に残りの次元を通過して消え去ることを意味する三つの付属の正方形が必要でしたが、テサラクトには全部で12の立方体が必要です。それらは平面における9つの正方形と同様の仕方でお互いに関連しています。ここで行ったことは、前の例において正方形に関して行ったことと同じです。新しい色をひとつ選ぶ度に、ひとつの新しい次元を加えました。私たちは四次元図形によって組織化された4つの方向を表現するために色を用いました。この図においてそれぞれの立方体は三つの色をもち、四番目の色を通過していきます。次元を色で置き換えるポイントは、三次元そのものは二次元平面のなかに取り込むことができない、ということにあります。三つの色を用いることで、それが可能になります。四次元についても、三次元空間のなかにひとつのイメージを創り出すために、四つの色を用いて同じことを行います。これは、そうでなければ複雑になるはずの課題に導くためのひとつの方法です。ヒントンは、いかにして四次元図形を三次元のなかで表現するかという問題を解決するためにこの方法を用いました。

 次に、もう一度立方体を展開して平面のなかに置いてみたいと思います。黒板にそれを描きましょう。さしあたり、図25の底面に相当する正方形を無視してください。そして、あなた方が二次元のなかでのみ見ることができると、つまり、黒板表面上で出会うことができるものだけを見ることができると想像してください。この例では、5つの正方形を、ひとつが真ん中にくるように配置しています。内部の領域は不可視のままに留まります(図29)。外側をぐるっと巡ることはできますが、2次元のなかでのみ見ることができるあなた方は決して正方形5を見ることはないでしょう。

図29

 さて、立方体の6つの面の内、5つを取り上げる代わりに、テサラクトの境界をなす8つの立方体の内の7つについて同じことを行い、私たちの四次元図形を空間のなかへと展開してみましょう。7つの立方体の配置は黒板の平面上に置かれた立方体の表面の配置に似ていますが、ここにあるのは正方形ではなく、立方体です。こうして得られる三次元図形はその構造において正方形からなる二次元の十字と似ています。それは三次元空間におけるその対応物となっているのです。7番目の立方体は正方形のひとつと同様、どこからも見ることができません。いかなる三次元的な視覚能力だけを有する存在もそれを見ることはできません(図30)。展開された6つの正方形を立方体へと組み立てたようにしてこの図形を組み立てることができるとすれば、私たちは三次元から四次元へと移行することができるでしょう。色によって示された移行は、この過程がどのようにして視覚化されるかを私たちに示します。

図30

 私たちは少なくとも、私たち人間が三次元空間だけを知覚することができるにも関わらず、四次元空間を視覚化するにはどうすればよいかということを紹介しました。この時点で、あなた方は、いかにして真の四次元空間の表象を獲得することができるか、ということについての疑問をもたれるかも知れません。そこで、いわゆる錬金術的な秘儀について紹介したいと思います。と申しますのも、四次元空間に関する真の観点は錬金術師たちがいうところの「変容」に関係しているからです。

 

[第一のテキストバリエーション]

 もし、私たちが四次元空間についての真の観点を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練を行わなければなりません。まず第一に、私たちは私たちが水と呼ぶところのものについての非常に明晰で奥深い視覚像[ヴィジョン]−心的な表象[イメージ]ではありません−を育てなければなりません。そのような視覚像を達成するのは難しく、長々と瞑想することが要求されます。私たちは大いなる正確さをもって水のなかに沈潜しなければなりません。私たちはいわば水の本性の内側に忍び込まなければならないのです。第二の訓練として、私たちは光の本性についての視覚像を創造しなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで、どのようにして生じるかを知っていますが、私たちは自分で何か光のようなものを造りだすことができるようになります。瞑想を通して、ヨギあるいは秘儀の学徒は光を造りだす能力を獲得します。私たちが純粋な概念について真に瞑想するとき、つまり、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念が私たちの魂に働きかけるようにするとき、その概念から光が生じるのです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。秘儀の学徒は自分で涵養した水の視覚像をその光の視覚像に「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。とはいえ、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちが純粋な概念に自ら働きかけて光を生じさせる能力を目覚めさせた後、水銀はこの光と私たちの水に関する視覚像とが混じり合ったものとして生じます。私たちは、アストラル界の1要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。

 第二の要素は、ちょうど私たちが以前に水の視覚像を涵養したときのように、空気の視覚像を涵養するときに生じます。私たちは精神的な過程を通して、空気の力を抽出するのです。そのとき、ある種の方法で感情の力が濃縮されることによって、感情に火がともされます。あなた方が空気の力をいわば感情によって点火された火に化学的に結びつけるとき、結果として生じるのは「火の空気」です。ご存じかも知れませんが、この火の空気はゲーテの「ファウスト」のなかで触れられています。それには人間の内的な参加が必要です。ひとつの成分は存在している要素、空気から抽出されますが、私たちはもうひとつの火、もしくは暖かさを自分で造りださなければなりません。火プラス空気から産みだされるのは錬金術師たちが硫黄と呼んだもの、もしくは輝く火の空気です。聖書が言うところの「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」が本当に意味しているのは、水の要素のなかにこの火の空気が存在している、ということなのです。

 第三の要素は私たちが地の力を抽出し、それを音のなかにある精神的な力に結びつけるときに生じます。その結果生じるのは「神の精神」と呼ばれるところのものです。それは雷とも呼ばれます。活動する「神の精神」は雷、地プラス音です。このようにして、「神の精神」はアストラル実質の上を漂っていたのです。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら4つの力の連なりはアストラル空間の4つの次元としてアストラル的な視界の前に現れます。これがそれらの本当の姿です。アストラル空間は私たちの世界とは非常に異なって見えます。多くのアストラル的な現象と思われているものは単にアストラル世界の側面が物理世界に投影されたものに過ぎません。

 お分かりのように、アストラル実質は半主観的なもの、つまり、主体に対して受動的に与えられるもの、半分の水と空気です。一方、光と感情(火)は客観的なもの、つまり、主体の活動によって現れるようにされたものです。アストラル実質の一部だけが外部に見いだされ、周囲の環境のなかで主体に与えられることができます。その他の部分は、個的な活動を通して、主観的な方法によってつけ加えられなければなりません。概念と感情の力は、私たちが能動的な客観化を通して与えられるものからその他の側面を抽出するようにさせます。ですから、アストラル界においては、私たちは主観的−客観的な実質を見いだすことになるのです。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。主体に対して与えられるだけのいかなる客観性ももはやそこにはありません。

 ですから、私たちはアストラル界において、人間によって創造されなければならないひとつの要素を見いだします。私たちがここで行ういかなることもより高次の世界の、つまりデバチャンの象徴的な表現に過ぎません。この連続講義のなかであなた方にお話ししてきたように、これらの世界は現実的なものです。これらの高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、視覚像への新しい可能性を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。

 

[第二のテキストバリエーション]

 もし、私たちが四次元空間に関する真の見方を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練をしなければなりません。まず第一に、私たちは水についての非常に明晰で奥深い視覚像を涵養しなければなりません。そのような視覚像は通常の方法では達成されません。私たちは大いなる正確さをもって水の本性のなかに沈潜しなければならず、いわば水の内側に忍び込まなければならないのです。第二に、私たちは光の本性についての視覚像を造りださなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで生じるかを学ぶのですが、それによって、私たち自身が光を造りだすことができるようになります。私たちがこれを行うことができるようになるのは、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念をして私たちの魂に本当に働きかけるようにさせることによってです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。次に、私たちは私たちが涵養した水の心的な表象を光のそれと「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。けれども、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちはまず光の概念から水銀を造りだすための私たち自身の能力を目覚めさせなければなりません。そのとき、私たちは水銀を、つまり、アストラル界の1要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。

 第二の要素は、私たちが空気についての生き生きとした心的な表象を涵養し、そして精神的な過程を通して空気の力を抽出するとともに、それを私たちの内の感情に結びつけることによって、暖かさ、もしくは火の概念を点火するときに生じます。ひとつの要素は抽出されますが、もう片方は私たち自身が造りだすのです。これらのふたつ−空気プラス火−は、錬金術師たちが硫黄と呼んだところのもの、すなわち輝く火の空気を産み出します。水の要素とは、本当は聖書の言葉「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」のなかで言及された実質のことなのです。

 第三の要素は「神の精神」、もしくは音に結びつけられた地です。それは私たちが地の力を抽出し、それを音に結びつけるときに生じます。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら4つの力がアストラル空間の4つの次元を構成しています。

 お分かりのように、アストラル実質は半分主観的なものです。つまり、アストラル実質の一部だけが周囲の環境から獲得され得るのです。その他の部分は概念的かつ感情的な力から客観化を通して獲得されます。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。つまり、そこには客観的なものは存在していないのです。私たちがそこで行うところのいかなることもデバチャン世界の象徴的な表現に過ぎません。これら高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、私たちのなかに新しい知覚方法を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。

(第4講・了) 


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