「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳 

第6講


1905年6月7日、ベルリン

 今日は、空間の第四の次元についての連続講義を結論づけなければなりませんが、実際には、ひとつの複雑な系をより詳細に提示してみたいと思っています。そのためにはヒントンのモデルについて、もっと多くのことを提示する必要があるでしょうが、私にできるのは、彼の徹底的で洞察力に富んだ三冊の本をあなた方に紹介するということだけです。当然のことながら、これまでの講義で示されたような類比を用いることに消極的な人には、四次元空間についての心的な表象を獲得することは不可能でしょう。思考を発達させる新しい方法が必要なのです。

 では、テサラクト(四次元立方体/正八胞体)の真のイメージ(平行投影像)を得る試みをしてみたいと思います。私たちは、二次元空間中の正方形には四つの辺がある、ということを見てきました。三次元におけるその対応物は立方体ですが、それは六つの正方形の面をもっています。(図42)

 

図42

 その四次元的な対応物はテサラクトですが、それは八つの立方体によって境界づけられています。従って、テサラクトの三次元空間への投影像はお互いを貫く八つの立方体から構成されます。私たちはこれら八つの立方体を、三次元空間のなかで、どのように符合させることができるかを見てきました。ここでは、テサラクトの別の投影像を構築してみましょう。立方体を光に向けて差し上げることによってボード上に影が映るようにすると想像して下さい。そのとき、私たちはチョークでその影をなぞることができます(図43)。お分かりのように、それは六角形になります。もし、立方体が透明であると想像するならば、その平面上への投影図においては、立方体のこちら側の面三つと向こう側の面三つが合わさって六角形の図になるのが分かりますね。

図43

 テサラクトに適用することができる投影法を得るために、あなた方の前にある立方体を、こちら側の点Aが向こう側の点Cにちょうど重なるような位置に置くと想像して下さい。そのとき、もし、あなた方が三次元を取り除くとしますと、結果として得られるのはやはり六角形の影です。それを描いてみましょう(図44)。

図44

 立方体がこの位置にあると想像しますと、あなた方に見えるのはこちら側の三面だけで、別の三面は後ろに隠されています。立方体の表面は遠近法によって狭く見え、その角度はもはや直角には見えません。こうして、私たちは二次元空間のなかに三次元的な立方体のイメージを創り出しました。この投影法では辺が短くなり、角度が変化しますから、私たちは立方体の六つの正方形の表面をひし形として想像しなければなりません。

 さて、平面上に三次元的な立方体を投影する操作を、三次元空間のなかに四次元図形を投影することによって繰り返すことにしましょう。八つの立方体から構成される図形であるテサラクトを三次元のなかで表現するために平行投影法を用いることにします。この操作を立方体に施す場合には、三つの見える辺と三つの見えない辺ができます。つまり、実際には、それらは空間のなかに突き出しているのであって、投影面の上に横たわっているわけではありません。さて、立方体がひし形平行六面体に歪められると想像して下さい。そのような図形を八つ取り上げますと、あなた方はテサラクトを規定する構造を組み立てることができますが、それらの構造は、ひし形十二面体のなかで相互に貫入し、平行六面体と二重に合わさるような仕方で構築されます(図45)。

図45

 この図形は立方体に比べて一本多い軸をもっています。当然のことながら、四次元図形には四本の軸があるのです。その構成要素が相互に貫入しているときにも、四本の軸は残ります。このように、この投影図には平行六面体として示される相互に貫入する八つの立方体が含まれています。ひし形十二面体は三次元空間のなかに投影されたテサラクトの対象像あるいは影なのです。

 私たちは類比によってこれらの関係へと到達しましたが、その類比は完全に有効なものです。ちょうど立方体を平面上に投影することができるように、テサラクトもまた三次元空間のなかに投影することによって表現することができるのです。得られる投影図のテサラクトに対する関係は、立方体の影の立方体に対する関係と同じです。この操作は容易に理解できると思います。

 今ここで行ったことを、プラトンとショーペンハウアーが洞窟の比喩のなかで与えたすばらしいイメージに結びつけてみたいと思います。プラトンは、洞窟のなかに、鎖につながれているために首を回すことができず、後ろの壁しか見ることができない人々がいると想像するように

私たちに言います。彼らの背後で、別の人々が色々なものを運びながら洞窟の入り口の前を通過します。これらの人々と彼らが運ぶものは三次元的ですが、囚人たちは壁に映った影しか見ることができません。例えば、この部屋にあるものも、すべて反対側の壁に映った二次元的な影のイメージのように見えることでしょう。

 そして、プラトンは世界のなかにおける私たちの状況も同じだと言います。私たちが洞窟のなかに繋がれている人々なのです。他のあらゆるものがそうであるように、私たち自身は四次元的なのですが、私たちが見るものすべてが三次元空間におけるイメージの形で現れるのです。プラトンによると、私たちは事物の現実ではなく、その三次元的な影のイメージを見ることに依存している、ということになります。私は私自身の手を単に影のイメージとして見ますが、現実には、それは四次元的なものなのです。私たちは、四次元的な現実のイメージであるところのもの、私があなた方に示したテサラクトのイメージのような、イメージだけを見ているのです。

 プラトンは、古代ギリシャにおいて、私たちが知っている体は実際には四次元的なものであり、私たちはその三次元空間における影のイメージだけを見ているのだ、ということを説明しようとしました。この記述は全くの思いつきのものというわけではありません。それを簡単に説明します。もちろん、最初のうちは、それは単なる推測に過ぎない、と言うこともできます。壁の上に現れるこれらの姿の一体どこに現実性があると想像できるでしょうか? しかし、今、あなた方がここで一列に座っていて、動くことができないと想像して下さい。突然、影が動き始めます。あなた方は、壁の上の影が二次元から離れることなしに動くことができる、などとは結論づけられないでしょう。壁の上で像が動くときには、何かが原因で、壁の上にあるのではない現実の事物の動きが生じたに違いありません。三次元空間中にある事物はお互いにすれ違うことができます。もし、あなた方が二次元的な影のイメージをお互いに貫通することができないものとして−つまり、実質から成り立っているものとして想像するならば、すれ違うということはそれらにとっては何か不可能なことなのです。もし、私たちがこれらのイメージを実質的なものであると想像するならば、それらは、二次元を離れることなしに、お互いにすれ違うことはできません。

 壁の上のイメージがじっとしている限りは、壁から離れたところで、つまり、二次元的な影のイメージ世界の外で何かが起こっていると結論づける理由は私にはありません。けれども、それらが動き始めるやいなや、私はその動きの源泉を調べ、その変化は壁の外に、つまり、三次元のなかに起源をもつものであると結論づけるように強いられます。このように、イメージにおける変化が、二次元に加えて三次元がある、ということを私たちに伝えたのです。

 単なるイメージといえどもある種の現実性ときわめて特殊な属性を有していることは確かですが、それは現実の事物とは本質的に異なるものです。鏡像もまた単なるイメージである、ということを否定することはできません。あなた方は、鏡のなかのあなた方自身を見ますが、鏡の外、こちら側にもあなた方は存在しています。第三の要素の存在−つまり、動くところの存在ですが−なしには、あなた方はどちらがあなた方なのかを本当に知ることはできません。鏡像はオリジナルと同じ動きをします。それは自分で動くことができず、現実の事物、すなわち存在しているものに依存しているのです。このように、私たちがイメージと存在を区別できるのは、存在しているものだけが自分から変化し、あるいは動きを生じさせることができる、と言うことによってです。私は、壁の上の影のイメージは自ら動くことができない、したがって、それらは存在しているものではない、ということに気づきます。存在するものたちを発見するためには、私はイメージを越えていかなければならないのです。

 ここで、この一連の考え方を世界一般へと適用してみて下さい。世界は三次元的ですが、もし、あなた方がそれを思考のなかで把握しながら、それをそれ自体で考えるならば、あなた方はそれが本質的に動かないものであることを発見するでしょう。たとえあなた方が、それをある時点で凝固したものとして想像するとしても、それでもなお世界は三次元的です。現実には、世界は時間のなかのどの二点を取ってみても同一ではありません。それは変化しています。では、これらの異なる瞬間がなかったとしたら、何があるか、何が残るかを想像して下さい。もし、時間がなかったとしたら、世界は決して変化しないでしょう。しかし、たとえ時間、あるいは変化がなかったとしても、世界はやはり三次元的です。同様に、壁の上のイメージは二次元的なままですが、それらが変化するという事実は、三次元が存在している、ということを示唆します。世界が絶えず変化しているということ、たとえ変化がなかったとしても、それは三次元的なままであるということは、その変化は四次元のなかに求める必要がある、ということを示唆します。変化の理由、変化の原因、変化の活動は三次元の外に求められるべきなのです。この時点で、あなた方は四次元の存在とプラトンの比喩の正当性を把握します。三次元世界全体が四次元世界の投影像である、ということを理解するのです。残る問題は、いかにしてこの四次元の現実を把握するか、ということです。

 もちろん、私たちは、四次元が直接三次元に入ってくることは不可能である、ということを理解しなければなりません。それはできないのです。四次元は三次元のなかに単純に落ち込むということができません。ここで、私は、三次元を超越するという概念をいかにして獲得するか、ということをあなた方に示してみたいと思います。(私は、以前ここで行った講義のなかで、同じような考えをあなた方のなかに目覚めさせようとしました。)ここに円があると想像して下さい。この円がどんどん大きくなって、そのどの部分もますます平らになると思い描くならば、結局は直径が非常に大きくなり、その円は直線へと変化させられます。直線は一つの次元だけを有していますが、円は二つです。どうすれば私たちは二次元のなかに戻ることができるでしょうか? 直線を曲げて、再び円にすることによってです。

 あなた方が円盤を曲げると想像するならば、それはまずボウル状になりますが、もし、あなた方がそれを曲げ続けるとすると、最終的には球になります。曲げられた直線は二次元を獲得し、曲げられた平面は三次元を獲得します。そして、もし、あなた方が球をさらに曲げることができるとすれば、それは四次元へと曲がっていかなければならないでしょう。その結果得られるのは球状のテサラクトのはずです。球面は曲げられた二次元図形と考えることができます。自然においては、球は細胞の形態で、つまり、最も小さな生きた存在として現れます。細胞の境界面は球状です。生きたものと生きていないものの違いがここにあります。鉱物は結晶の形態においては、いつも平面、つまり平らな表面で境界づけられていますが、生命は細胞から構築され、球状の表面で境界づけられています。ちょうど結晶が平らに延ばされた球面、もしくは平面から構築されるように、生命は細胞、もしくは隣接する球から構築されます。生きているものと生きていないものとの間の違いはその境界の特徴にあるのです。八面体は八つの三角形によって境界づけられています。私たちがその八つの面を球として想像するとき、結果として得られるのは八つの細胞からなる生き物です。

 三次元図形である立方体を「曲げる」とき、結果として得られるのは四次元図形である球状のテサラクトです。けれども、もし、あなた方が空間全体を曲げるとするならば、そのとき得られる図形の三次元空間に対する関係は、球の平面に対する関係と同じです。三次元物体としての立方体は、あらゆる結晶と同様、平面によって境界づけられています。結晶の本質は、それが平らな境界面によって構築されるということです。生命の本質は、曲げられた表面、つまり細胞から構築されるということですが、さらにより高次の存在レベルにある図形は四次元構造によって境界づけられることでしょう。三次元図形は二次元図形によって境界づけられ、四次元的な存在−つまり、生き物−は三次元的な存在、つまり、球や細胞によって境界づけられます。四次元的な存在は五次元的な存在、つまり、球状のテサラクトによって境界づけられます。こうして、私たちは、三次元存在から四次元存在へ、さらには五次元存在へと進む必要がある、ということを理解します。

 四次元的な存在に関しては、何が起こる必要があるのでしょうか?変化は三次元の内部で生じなければなりません。言い換えますと、あなた方が二次元的なものである絵を壁に掛けるときには、それらの絵は一般的には固定されています。二次元的なイメージが動いているのを見るとき、あなた方は、その動きの原因は壁の外にしかあり得ない−つまり、空間の第三の次元がその変化を促しているのだ、と結論づけるに違いありません。三次元の内部で変化が生じているのを見いだすとき、あなた方は、その三次元空間の内部で変化を経験する存在たちに影響を及ぼしているのは四次元である、と結論づけなければなりません。

 私たちが植物をその三次元においてのみ知るとき、私たちはそれを本当には認識していません。植物は絶えず変化しています。変化は植物の本質的な側面、存在のより高次の形態の証しです。立方体はそのままです。つまり、その形態が変化するのは、あなた方がそれを打ち壊すときだけです。植物は自分でその形態を変化させますが、そのことはその変化が三次元の外に存在し、四次元において表現される要因によって引き起こされているに違いない、ということを意味しています。その要因とは何でしょうか?

 お分かりのように、あなた方は、この立方体をどの時点において描いたとしても、それはいつも同じである、ということを見いだすでしょう。けれども、あなた方が植物を描き、三週間後にオリジナルの植物をあなた方の絵と比べてみるとき、オリジナルの方が変化していることでしょう。ですから、私たちの類比は十分に正当なものです。どの生き物もその真の存在がそのなかに生きているところのより高次の要素を指し示しているのです。そして、時間はそのより高次の要素の表現です。時間とは、生命(あるいは四次元)の徴候的な表現、物理空間という三次元のなかにおける顕現です。言い換えれば、時間がそれらにとって本来的な意味をもっているところのあらゆる存在は、四次元的な存在のイメージなのです。三年、あるいは六年経ったとしてもこの立方体はやはり同じでしょう。しかし、百合の実生は変化します。何故なら、時間がそれにとって本当の意味をもっているからです。私たちが百合のなかに見るものは、四次元的な百合存在の三次元的なイメージに過ぎません。時間とは、四次元の、あるいは有機的な生命の、物理世界という三つの空間的な次元のなかへの投影、もしくはイメージなのです。

 連続するそれぞれの次元がひとつ前の次元とどのように関連しているか、ということを明確にするために、次のような一連の思考を追ってみて下さい。立方体は三つの次元を有しています。三番目の次元をイメージするために、あなた方はそれが二番目に対して直角であると自分に言い、そして、二番目は一番目に対して直角であると言います。それら三つの次元の特徴は、それらがお互いに直角であるということです。私たちはまた第三の次元を次の次元、つまり、第四の次元から生じるものとして考えることもできます。立方体の表面に色をつけ、その色を、ヒントンが行ったように、特別な方法で取り扱うと思い描いて下さい。あなた方が引き起こした変化は、正に三次元的な存在が時間上で発展し、それによって四次元に移行するときに被るところの変化に対応しています。あなた方が四次元存在のどこかを切り取るとき−つまり、それから四次元を取り去るとき−あなた方はその存在を破壊することになります。植物に対してこれを行うということは、ちょうど植物の姿を石膏に刻印するようなものです。あなた方はそれがもつ四次元、つまり時間の要素を破壊することによって、それをしっかりと所持しますが、結果として得られるのは三次元的な姿です。いかなる三次元的な存在であっても、その存在にとって、時間すなわち第四の次元が決定的に重要であるときには、その存在は生きていなければなりません。

 そして今や、私たちは五次元へとやってきました。あなた方は、この次元は第四の次元に対して垂直な別の境界をもっているはずだ、と言うかも知れません。私たちは、第四と第三の次元の間の関係が第三と第二の次元の間の関係に似ている、ということを見てきました。五次元についてイメージするのはより困難ですが、ここでもそれについて何らかのアイデアが得られるような類比を用いることができます。次元というものはどのようにして生じるのでしょうか? あなた方が線を引くとき、その線が単に同じ方向を保っている限り、さらなる次元が現れることはありません。次の次元がつけ加えられるのは、二つの相反する方向あるいは力がある点で出会い、中和すると考えられるときです。新しい次元とは力が中和させられることの表現としてのみ生じてくるものなのです。私たちは新しい次元を線の追加として、つまり、その線のなかで二つの力の流れが中和させられているところの線の追加として見ることができなければなりません。私たちはその次元を右から来るものとしても左から来るものとしても想像することができますが、最初の場合にはポジティブなものとして、第二の場合にはネガティブなものとして想像します。ですから、私はそれぞれの次元を力たちの対極的な流れ、正負の両方の構成要素をもつところのひとつの流れとして把握します。対極を構成する力の中和(どちらでもなくなること)が新しい次元なのです。

 これを私たちの出発点として、五次元に関する心的なイメージを発展させてみましょう。私たちは四次元が時間の表現であることを知っていますが、最初に四次元のもつ正と負の側面を想像してみなければなりません。それらにとって時間が意味をもっているところの二つの存在が衝突するところを思い描いてみましょう。その結果は、先ほど私たちがお話しした対抗する力の中和に似たものであるはずです。二つの四次元存在が結びつくとき、結果として生じるのはそれらの五次元です。五次元とは対極的な力の交換、あるいは中和の結果もしくは帰結であり、そこでは、お互いに影響を及ぼし合う二つの生きたものが、空間に関する三つの通常の次元においても、あるいは第四の次元、すなわち時間においても共有することのない何かを生み出しているのです。この新しい要素はその境界をこれらの次元の外に有しています。それは私たちが感情移入あるいは知覚活動と呼ぶところのものですが、その能力はある存在に別の存在についての情報を提供します。それは他の存在の内的な(魂的、精神的な)側面についての認識です。より高次の、つまり、第五の次元が付け加えられることがなければ−すなわち、知覚活動の領域に入ることなしには−いかなる存在も、時間と空間の外に横たわる他の存在の側面について知ることは到底できなかったでしょう。当然、私たちは知覚活動を、この意味においては、五次元の物理世界における単なる投影あるいは表現として理解しています。

 同様の方法で六次元を構築しようとしても、あまりに難しくなってしまいますから、今はそれが何であるかをお話しするだけにしておきましょう。もし、私たちがこれまでの線に沿って考えを進めるならば、私たちは、三次元世界における六次元の表現は自我意識である、ということを見いだすでしょう。三次元存在としての私たちは、私たちの姿形という特徴をその他の三次元存在と共有しています。植物はもうひとつの次元、四次元を有しています。したがって、植物の究極の存在が三次元空間のなかで見いだされることは決してないでしょう。あなた方は四次元、つまりアストラル領域にまで上昇しなければなりません。もし、あなた方が知覚能力を有する存在を理解したいのであれば、五次元、つまり低次のデヴァカンもしくはルーパ領域にまで、そして、自我意識を有する存在−つまり、人間−を理解しようとすれば、六次元、つまり高次のデヴァカンもしくはアルーパ領域にまで上昇しなければなりません。私たちが現在において出会うような人間は、本当に六次元存在なのです。私たちが知覚能力(感情移入)、自我意識と呼んだところのものは、それぞれ五次元と六次元の通常の三次元空間への投影です。たとえほとんどの場合は無意識的にとはいえ、人間はこれらの精神的な領域にまでずっとのびているのです。その本来の特徴を認識することができるのは、そこにおいてだけです。六次元存在としての私たちが、より高次の世界を理解するようになるのは、より低次の次元に特徴的な属性を放棄しようと試みるときだけです。

 なぜ私たちは世界を単に三次元的なものと信じているのか、ということについて、私には示唆する以上のことはできません。私たちの観点は、世界をより高次の要因の反映として見る、ということに基づいています。あなた方が鏡のなかに見ることができるのは、あなた方自身の鏡に映った姿に過ぎません。実際には、私たちの物理世界の三つの次元は、三つのより高次の、原因となる、創造的な次元の反映、有形の像なのです。このように、私たちの物理世界は、それにつづく三つのより高次の次元グループ、つまり、第四、第五、そして第六の次元のなかにその対極となる精神的な対応物を有しています。同様に、第四から第六にかけての次元は、その対極となる対応物を、さらにもっとはるかな精神的な世界のなかに、つまり、私たちにとっては推測の域を出ない次元のなかに有しているのです。

 水と、凍ることを許された水について考えて下さい。いずれの場合も実質は同じですが、水と氷とでは形態において非常に異なっています。人間における三つのより高次の次元についても、同様のプロセスが生じていると想像することができます。人間を純粋に精神的な存在として想像するときには、彼らが自我意識、感情、そして、時間という三つのより高次の次元だけを有し、そして、それらの次元が物理世界における三つの通常の次元のなかに反映されていると考えなければなりません。

 より高次の世界についての認識へと上昇することを望むヨギ(秘儀の学徒)は、反映であるところのものを徐々に現実で置き換えなければなりません。例えば、植物について考えるときには、彼らはより低次の次元をより高次の次元で置き換えることを学ばなければなりません。植物の空間的な次元のうちのひとつを無視し、対応するより高次の次元−つまり、時間−で置き換えることを学ぶことによって、彼らは動く二次元存在を理解することがきるようになります。この存在を単なるイメージに留める代わりに、現実に対応づけるために、秘儀の学徒は何をしなければならないのでしょうか? もし、彼らが単に第三の次元を無視し、第四の次元をつけ加えるだけであったとすれば、その結果は何らかの想像上のものであるかも知れません。次のように考えれば、私たちが答に向かって進むための助けとなるでしょう。つまり、生き物をフィルム撮影することによって、確かに本来は三次元的であったできごとから第三の次元を差し引くことになったとしても、連続的な映像が時間の次元をつけ加えることになります。そして次に、私たちがこの動くイメージに知覚能力をつけ加えるとき、私たちが行っていることは、私が三次元図形を四次元のなかに曲げ込むこととして記述した操作に似たものとなります。この操作の結果得られるのは四次元的な図形ですが、その次元には私たちの空間的な次元のなかの二つ、そして、二つのより高次の次元、つまり、時間と知覚能力が含まれています。実際、そのような存在が本当にいるのですが、私たちの次元に関する探求が真の結論へとやってきた今となっては、私はあなた方のために彼らの名前を告げたいと思います。

 二つの空間的な次元−つまり、平面ですが−を想像し、この平面が動きを付与されていると推測して下さい。それが曲がることによって感覚存在となり、その前にある二次元平面を押しているところを思い描くのです。そのような存在は私たちの空間中にいる三次元存在とは非常に違って見えますが、その振る舞いも非常に異なっています。私たちが構築した表面存在はひとつの方向に完全に開かれているのです。それは二次元的に見えます。それはあなた方の方にやってきますが、あなた方はその周りを回ってみることができません。この存在は放射するものであり、ある特定の方向における解放性以外の何ものでもありません。そして、秘儀参入者たちは、そのような存在を通して、火の炎のなかで彼らに近づく神の使いとして彼らが記述したところの別の存在をよく知るようになります。シナイ山頂で十戒を受けるモーゼの記述は、正に彼がそのような存在の接近を受けたということ、そしてその次元を知覚することができたということを示しています。この存在は、第三の次元を差し引かれた人間に似ていましたが、感覚と時間のなかで活動していました。

 宗教的な文献中の抽象的なイメージは外的な象徴に過ぎません。それらは、私たちが類比を通して理解することを試みてきたところのものを自分のものにすることによって学ぶことができるような圧倒的な現実なのです。あなた方がそのような類比について、より熱心に、そして精力的に考えてみればみるほど、そして、より熱心にそれらのなかに沈潜すればするほど、それらの類比は、より高次の能力を解放するために、ますますあなた方の精神に働きかけるようになります。このことは、例えば、立方体の六角形に対する関係とテサラクトのひし形十二面体に対する関係との間の類比についての説明にも当てはまります。ひし形十二面体はテサラクトの三次元的な物理世界への投影です。これらの図形を、それらがまるで独立した生命を有しているかのように視覚化することによって−つまり、立方体がその投影である六角形から、テサラクトがその投影であるひし形十二面体から生長してくるのにまかせることによって−あなた方のより低次のメンタル体は、私が今記述した存在を把握することができるようになります。あなた方がただ単に私の提言に従うだけではなく、秘儀の学徒がそうしたように、しっかりと目覚めた意識のなかで、この作業を生きたものにしたならば、あなた方はあなた方の夢のなかに四次元的な姿が現れ始めるのに気づくでしょう。そこまで来れば、それらをあなた方の目覚めた意識のなかにもたらすことができるようになるのも、それほど遠いことではありません。そのとき、あなた方は、あらゆる四次元的な存在のなかに、第四の次元を見ることができるようになっていることでしょう。

 *

アストラル領域は第四の次元である。
ルーパまでのデヴァカンは第五の次元である。
アルーパまでのデヴァカンは第六の次元である。

 これら三つの世界−物理世界、アストラル世界、天界(デヴァカン)−は六つの次元を包含しています。もっとさらに高次の世界はこれらの次元の対極にあるものです。

鉱物

植物

動物

人間

アルーパ

自我意識

ルーパ

感覚能力

自我意識

アストラル平面

生命

感覚能力

自我意識

物理平面

形態

生命

感覚能力

自我意識

形態

生命

感覚能力

形態

生命

形態

(第6講・了) 


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