「四次元」

数学と現実

多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答

GA324a

Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 

佐々木義之訳

 

多次元空間について


1908年10月22日、ベルリン

 今日のテーマは様々な困難を私たちに提示することになるでしょう。そして、あなた方のリクエストによるこの講義は一連の講義の一つとして見られなければなりません。単に形式的なレベルにおいてであったとしても、その課題を深く理解するためには、数学的な予備知識が必要です。とはいえ、その課題の現実を把握するためには、秘教主義へのより深い洞察が要求されるのです。今日は、この側面について、さらなる考察のための刺激を与えるとしても、きわめて皮相的な取り扱いしかできないでしょう。

 より高次の次元について語ること自体が非常に難しいことなのですが、それは、通常の三つの次元を越えたいかなる次元であっても、それを思い描くためには抽象的な領域に入っていかなければならず、もし、私たちの概念がきわめて正確かつ厳密に定式化されていないとすれば、その領域において、私たちは深淵へと落ち込むことになる、ということによります。私たちが知っている多くの人々、友人、敵を問わず、この運命を辿りました。より高次の次元空間についての概念は、私たちが一般に信じているほど数学にとって見知らぬものではありません。数学者たちは既により高次元の操作を含めた計算を実行しています。もちろん、数学者たちがより高次元の空間について語ることができるのは、きわめて限られた範囲においてであり、本質的に、彼らが議論できるのは、それが存在する可能性についてだけです。そのような空間が現実のものであるかどうかを決定するのは、実際にそれを見ることができる人たちでなければなりません。ここで私たちが取り扱うのは、もし、それが正確に定式化されたならば、私たちの空間に関する概念を本当に明確なものにするであろうような純粋な概念です。

 空間とは何でしょうか? 私たちは普通、空間は私たちのまわりにある、私たちは空間のなかを歩きまわる、等々と言います。空間に関して、より明確なアイデアを得るためには、私たちはより高いレベルの抽象化を受け入れなければなりません。私たちはその中で私たちが動き回るところの空間を「三次元的」と呼びます。それは上と下に、右と左に、そして、前と後ろに広がっています。私たちが物体を見るときには、私たちはそれを三次元空間を占めているものとして、つまり、ある一定の長さ、幅、そして高さを有しているものとして見ます。けれども、もし、私たちがより高度の明晰性を達成することを欲するのであれば、私たちは空間についての概念の詳細を取り扱わなければなりません。最も単純な立体である立方体を、長さ、幅、そして高さの最も明らかな例として見てみましょう。立方体の底面の長さと幅は同等です。この底面を、それが最初にあった位置から、その長さと幅に等しい高さにまで持ち上げると、立方体、すなわち三次元図形が得られます。立方体の境界を検証してみますと、

それらは平らな表面から構成されており、それらの表面は今度は同じ長さの辺によって境界づけられている、ということが分かります。立方体は六つのそのような平らな表面を有しています。

 平らな表面とは何でしょうか? ここまで来ますと、きわめて鋭敏な抽象性に耐えられない人たちはあらぬ方向にさまよい始めるでしょう。例えば、蝋でできた立方体の境界の一つを蝋の非常に薄い層の形で切り取ることは不可能です。と申しますのも、得られるのはいつも一定の厚みをもった層−すなわち、立体−だからです。この方法では、立方体の境界に到達することは決してできません。その本当の境界は長さと幅だけを有しているのであって、高さ−すなわち、厚み−というものがありません。こうして、私たちは、平らな表面は三次元図形の境界の一つであり、一つ少ない次元を有している、という公式に到達します。では、正方形のような平らな表面の境界とは何でしょうか? ここでも、それを規定するためには、高度の抽象性が要求されます。平面図形の境界は線ですが、それは一つの次元、長さだけを有しています。幅は取り除かれました。線分の境界とは何でしょうか? それは点であり、ゼロの次元を有しています。このように、私たちは幾何学図形の境界を見いだすために、いつも一つの次元を取り除くのです。

 とりわけよい仕事をしたリーマンを含めて、多くの数学者の思考の跡を辿ってみることにしましょう。ゼロ次元を有する点、一次元を有する線、二次元を有する平面、三次元を有する立体について考えてみましょう。純粋に技術的なレベルにおいて、数学者たちは、第四の次元をつけ加えることは可能か、と問います。もし、それが可能であったならば、ちょうど平面が立体の境界であったように、線が平面の、そして、点が線分の境界であったように、四次元図形の境界は三次元図形でなければならないでしょう。もちろん、数学者たちはそれからさらに進んで、五、六、七、あるいは、正の整数であるn次元について考えることさえできるでしょう。

 ここまで来ますと、私たちが、点はゼロ次元、線は一次元、平面は二次元、そして立方体は三次元を有している、と言うとき、ある明晰性の欠如が入り込んできます。私たちは立方体のような立体を、あらゆる物質−蝋、銀、金、等々−から作り出すことができます。それらの物質は異なっていますが、もし、私たちが、それらをすべて同じ大きさにするならば、それぞれが占める空間の量は同じになります。そして、もし、私たちがこれらの立方体が含んでいるすべての物質を取り除くならば、私たちに残るのは、特定の空間部分、立方体の空間的なイメージだけです。これらの空間部分は、その立方体がどのような物質でできていたかによらず、すべて同じ大きさになり、すべてが長さ、幅、そして高さを有しています。私たちはそのような立方体の形をした空間が無限に広がり、結果として無限の三次元空間が生じる、と想像することができます。物体はこの空間の一部に過ぎません。

 次の質問は、私たちの概念的な思考様式は、空間を出発点として、より高次の現実へと拡張し得るか?というものです。数学者たちにとっては、そのような思考様式に包含されているのは数字を含めた計算だけです。これは許されることなのでしょうか? これからお示しするように、数字を用いて空間の大きさを計算するということは、非常な混乱のもととなります。何故そうなるのでしょうか? ひとつの例を上げれば充分でしょう。この平面図形は両サイドをどんどん広げていくことができます。そして、ついには、二つの線に挟まれた無限に広がる平面図形が得られることになります(図56)。

図56

 この平面図形は無限に広い幅を有していますから、その大きさは無限大です(∞)。さて、他の人々が、この二つの線に挟まれた領域は無限に大きい、という話しを聞くとしましょう。当然のことながら、これらの人々は無限大について考えるでしょう。けれども、もし、あなた方が無限大について触れるならば、彼らはあなた方が言おうとしていることについて全く間違った考えをもつかも知れません。それぞれの四角の側にもうひとつの四角をつけ加える、つまり、無限に多くの四角を有するもうひとつの列をつけ加えるとしましょう。その結果得られるのはやはり無限大ですが、最初の無限大のちょうど二倍とななる、大きさの異なる無限大なのです(図57)。したがって、∞=2∞ となります。

図57

 同様に、∞=3∞ ともなります。数字を用いた計算においては、無限は、何らかの限定された数字と同様、容易に用いることができます。最初のケースにおいて、その空間は無限大である、というのは真実ですが、それ以外のケースでも、空間が2∞、3∞、等々であるということもまた真実なのです。数字を用いて計算するときには、このようなことが起こります。

 お分かりのように、無限大の空間という概念が数字計算に結びつけられる限り、より高次の現実へとさらに深く貫き至ることは不可能となります。数字というものは、実際、空間とは無関係なのです。エンドウ豆やその他の物体と同様、空間に関して、数字は全体として中立なのです。ご存じのように、数字による計算が現実の状況を変える、ということは決してありません。もし、私たちがエンドウ豆を三個もっているとすれば、かけ算がその事実を変えることはありません。そのかけ算が正しかったとしてもです。三×三=九の計算が九つのエンドウ豆を作り出すことはないでしょう。このような場合、何かについて単に考えても何も変わりません。そして、数字計算は単なる思考なのです。たとえ私たちが正しくかけ算をしたとしても、手元に残るのは三個のエンドウ豆であり、九個ではありません。同様に、数学者たちが、二、三、四、あるいは五次元に関して計算を行ったとしても、私たちの前にある空間はやはり三次元です。あなた方がそのような数学的な考えを巡らしたいという誘惑に駆られるのは分かりますが、それらが証明するのは、高次空間に関する計算を行うことは可能である、ということだけです。数学によっては、高次空間が実際に存在することを証明することはできません。その概念が現実に有効であるということを証明できないのです。私たちはこの点に関して厳密に明確でなければなりません。

 この課題に関して数学者たちはその他の非常に巧妙な考えを巡らしてきましたが、そのいくつかを考察してみましょう。私たち人間は三次元空間のなかで、考えたり、聞いたり、感じたり、等々を行います。二次元空間中でのみ知覚することが可能な存在がいると想像してみましょう。彼らの体的な組織は彼らが平面のなかに留まることを強要し、そのため、彼らは二次元を離れることができないでしょう。彼らは左右と前後に関してだけ、動いたり知覚したりすることができるでしょう。彼らは、彼らの上と下に存在するものに関しては、いかなる考えももたないでしょう。

 とはいえ、三次元空間中における私たちの状況も同じなのかも知れません。私たちは、私たちの体的な組織が三次元に適合しているために、第四の次元を知覚することができず、ちょうど二次元存在が第三の次元の存在を推論しなければならないように、それを推論しなければならないのかも知れません。人間にはただその方法しかないと考えることは実際に可能である、と数学者たちは言います。もちろん、その結論は正しいとしても、それは単に間違った説明であるかも知れない、と言うことも確かにできるでしょう。ここでもまた、より正確なアプローチが必要とされるのですが、この問題は、空間の無限性を理解するために数字を用いようとした最初の例ほど簡単ではありません。今日の私の説明は、わざと単純なものに限ろうと思います。

 この結論に関しては、最初の純粋に技術的、算術的な線に沿った理論づけとは状況が異なります。この場合には、何か本当に把握しなければならないものがあるのです。平面のなかで動く物体だけを知覚することができる存在がいるだろう、ということは十分に考えられます。そのような存在は上と下にあるものにはまったく気づかないでしょう。その平面内の点がその存在に見えるようになると想像して下さい。もちろん、その点が見えるのは、それが面内にあるからに過ぎません。その点が面内を動いている限り、それを見ることができますが、その面から外に出るやいなや、それは不可視となります。その平面存在に関する限り、それは消失してしまうのです。さて、その後、その点がどこか他のところに現れると想像してみましょう。それは再び見えるようになり、また消失し、等々です。その点が平面から出ていくとき、その平面存在は、それを追っていくことはできませんが、「その間、その点はどこか私には見ることができないところにいる。」と言うかも知れません。平面存在の心の中に入り込みながら、ふたつの可能性について考えてみましょう。それは、一方で、「三番目の次元があり、その物体はその中に消えたが、後でまた現れた。」と言うかも知れません。あるいはまた、それは「バカな奴が三次元などと言っているが、その物体はただ単に消えて、その度に再び現れたのだ。新しく創り出されたのだ。」と言うかも知れません。この場合には、その平面存在は論理的な法則に違反している、と言わなければならないでしょう。もし、それが、その物体は繰り返し解体され、再び創り出される、と仮定したくないのであれば、その物体は平面存在には見ることができない空間のなかに消えたのだ、ということを認めなければならないでしょう。彗星が消えるとき、それは四次元空間のなかを通過しているのです。

 さて、この問題に関する数学的な考察のなかにつけ加えられなければならないものを見てみましょう。私たちは、私たちの観察の場のなかに、繰り返し現れたり消えたりする何かを見いださなければならないでしょう。超感覚的な能力は必要ありません。もし、平面存在が超感覚的な能力をもっていたとすれば、その存在は第三の次元があるということを、推論によってではなく、経験から知っていたことでしょう。人間についても似たようなことが言えます。超感覚的な能力を有していない人は、「私自身は三次元に限定されているけれども、周期的に現れたり消えたりするものを観察するやいなや、四次元が関係していると言っても間違いではない。」と言うほかありません。

 ここまで述べてきたことはすべて完全に明白であり、それを肯定するということは、あまりにも簡単なことなので、現代の盲目状態にある私たちにはそのようなことは起こりそうもありません。「繰り返し消えたり、再び現れたりするものは存在するか?」という問いに対する答は非常に簡単です。ときとしてあなた方のなかに現れては再び消え、超感覚的な能力を有していない人にとってはもうそれを知覚できなくなるような喜びについてひとつ考えてみて下さい。それから、同じ感情が、何か別のできごとのために再び現れます。この場合、あなた方は、平面存在のように、二通りある方法のうちのひとつの方法で振る舞うことができます。あなた方は、その感情はあなた方がついていけないような空間の中に消えたのだ、と言うこともできますが、その感情は消え去り、それが再び現れる度に新しく創造されるのだ、と主張することもできます。

 しかし、無意識のなかに消えるいかなる思考も、消えて再び現れるものがある、ということの証拠になる、というのは本当です。もし、この考えがあなた方にとってありそうなことのように見えるならば、次のステップは、唯物的な観点から持ち出されそうなあらゆる異議を定式化してみる、ということです。私は今、最も手強そうな異議に触れてみようと思います。その他の異議はすべて簡単に反駁することができます。人々は、この現象は純粋に唯物的な言葉で説明することができる、と主張するかも知れません。私はあなた方に物質的なプロセスという文脈において消えたり再び現れたりするものの例を提示したいと思います。作動している蒸気ピストンを想像して下さい。ピストンに力が加わっている限り、私たちはその動きを感知します。さて、反対方向に働く同様のピストンでその動きに対抗すると想像して下さい。その動きは止み、機械は静止します。動きが消えるのです。

 同様に、人々は、喜びの感情とは脳のなかの分子の動き以上のものではない、と主張するかも知れません。分子が動いている限り、私は喜びの経験をもちます。何か別の要素が分子に反対の動きを生じさせると仮定してみましょう。喜びは消えます。この線に沿って考えをずっと先まで追求しない人は誰でも、実際、これは先に示された考えに対する非常に重要な反論である、と考えるかも知れません。しかし、この反対意見を詳しく見てみましょう。ちょうどピストンの動きが反対方向の動きの結果として消えるように、分子の動きに基づく感情は反対方向の分子の動きによって打ち消される、と言われます。ひとつのピストンの動きが別の動きに対抗して作用するとき、何が起きているのでしょうか? 最初の動きと二番目の動きの双方が消えるのです。第二の動きは、自分をも除去することなしに、最初の動きを除去することはできません。その結果は動きの完全な不在です。いかなる動きも残りません。このように、私の意識のなかに存在するいかなる感情も、それ自身をも除去することなしには、別の感情を除去することはできません。ですから、ひとつの感情が別の感情を除去することができるという仮定は全くの間違いなのです。その場合には、いかなる感情も残らず、感情の完全な不在が生じることになります。それでもなお言うことができるのは、最初の感情は第二の感情を無意識のなかに追いやるかも知れない、という程度のことです。けれども、そう言ってしまえば、私たちの直接的な観察の網にはかからないけれども、それでも存在する何かがある、ということを認めたことになります。

 今日は、超感覚的な知覚については全く考察せず、純粋に数学的な考えについてのみお話ししてきました。四次元世界が存在するという可能性を認めたところで、私たちは、超感覚的な能力なしに四次元物体を観察することは可能か、と問うかも知れません。その種の投影が私たちにそれを可能にします。私たちは平面図形の向きを変えて、それが落とす影が直線になるようにすることができます。同様に、直線の影は点に、三次元の立体的な物体の影のイメージは二次元の平面図形になり得ます。こうして、四次元の存在を認めてしまえば、三次元図形は四次元図形の影のイメージである、というのは全く当然のこととなります。

 これは四次元空間を想像するひとつの純粋に幾何学的な方法です。けれども、幾何学の助けを借りてそれを視覚化する別の方法もあります。二つの次元を有する正方形を想像して下さい。今、その境界を構成する四つの線分がまっすぐに延ばされてひとつの直線を形成すると思い描きましょう。あなた方は正に、二次元図形の境界をまっすぐに引き延ばして、それらが一つの次元のなかに横たわるようにしました(図58)。このプロセスをもう一歩前に進めてみましょう。ひとつの線分を想像して下さい。ちょうど正方形に関して(一つの次元を取り除くことで)行ったように、その図形の境界が二つの点へと倒れ込むようにするのです。私たちは一次元図形の境界を正にゼロ次元において表現しました。私たちはまた立方体を展開して、それを六つの正方形へと広げることができます(図59)。私たちは立方体の境界を広げて、それが平面のなかに横たわるようにしました。こうして、線は二つの点として、正方形は四つの線分として、そして、立方体は六つの正方形として表現することができる、と言うことができます。一連の数字:二、四、六に注意して下さい。

図58

図59

 次に、私たちは八つの立方体を取り上げます。ちょうど、前の例で、幾何学図形の境界が展開されたように、八つの立方体は四次元図形の境界を構成するのです(図60)。それらを並べると、結果として正四次元図形の境界を示す二重の十字架が得られます。ヒントンはこの四次元立方体をテサラクトと呼んでいます。

図60

 この作業はテサラクトの境界についての心的なイメージを与えてくれます。この四次元図形についての考えは、二次元存在が立方体の境界を平坦化して、つまり、それらを展開して、立方体についての考えを発展させることに比肩されます。 

(了) 


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