ルドルフ・シュタイナー

神秘学の記号と象徴

そのアストラル界と霊界との関係

第一講

シュトゥットガルト 1907年 9月13日

秘密(オカルト)の記号とアストラル界・霊界との関係。人間の記号としての五芒星(ペンタグラム)。叡智の像としての光。「叡智の働きかけ」によるアストラル体の変成と高貴化。地球の未来の進化。内的な光を獲得するための修練。叡智の光と天球の音楽。天球の調和(ハーモニー)と惑星運動。アトランティス人の知覚。人体の比率としての箱船。


 

 ここシュトゥットガルトでこれから行います四回の講演は、いくぶん内密な性格を持つことになると思います。何といっても皆さんの大部分は神智学協会に属され、すでに長年に亘って神智学の根本理念に親しんでこられ、従ってこの分野のより内密な題材に精通したいとお望みでしょうから。これらの講演で扱いますのは、アストラル界及び霊界と関連する秘密(オカルト)の形象と記号です。一連の秘密の象徴と形象のより深い意味を述べるつもりです。その際、初めの二回の講義で、いくらか奇妙に聞こえることがあっても、三回、四回と進みますと、完全な説明が得られるということにご注意いただきたいと思います。事の性質上、そういうことになるのです。神智学の講演は、いわば唯物主義的なやり方で単純な要素の上に組み立てられた他の講演とは違うのですから。最初はどうしても不明確な点があり、それが次第に明確に理解できるようになっていきます。

 形象や記号は、通常の世界のみならず、神智学的な世界においても、しばしばただひとつの《意味》を表す、多かれ少なかれ恣意的な何かであるという印象を与えますが、これはまったく正しくありません。皆さんもすでにそのような形象や記号について聞かれたことがおありでしょう。例えば、宇宙のさまざまな惑星が記号で示されることなどです。また、神智学のアレゴリーにおいてよく知られた記号は、いわゆる五芒星(ペンタグラム)ですね。さらに、ご存知のように、さまざまな宗教において、光というものは、叡智の、霊的な明澄さの意味で言及されています。さて、このような事柄の意味を問えば、これはしかじかのことを意味するといった表現を聞いたり読んだりなさるでしょう。例えば三角形は高次の三性を表す云々。神智学の著作や講演でも、たびたび神話や伝説が解釈され、「これはしかじかのことを意味する」と言われます。感覚の背後、この意味の本質の背後に至ること、このような形象の真実を認識すること、これを、この連続講演の課題といたします。これがどういうことか、ひとつ例を挙げて説明してみましょう。

 五芒星(ペンタグラム)を考察してみましょう。ご存知のように五芒星についてはあれこれ詮索され解釈されておりますが、神秘学においてそういうことは問題になりません。神秘学者が五芒星について語ることを理解するためには、まず人間の本質の七つの基本要素を思い起こさなくてはなりません。ご存知のように、人間の本質は、七つの基本要素−−物質体、エーテル体、アストラル体、自我、さらに霊我、生命霊、霊人(神智学文献では後三者はマナス、ブッディ、アートマ)−−から成ります。手で触ることのできる物質的なものである物質体は除外しましょう。ここでとりわけ考察の対象になるのは、エーテル体です。エーテル体はすでに物質的な感覚にとっては隠されたもの、いわゆる「オカルト的なもの」に属します。通常の目ではエーテル体を見ることはできないからです。エーテル体を知覚するには霊視的な方法が必要です。実際にエーテル体を見ることができたら、むろん物質体とは全然違うものです。エーテル体はたいていの人が想像するような希薄な物質的身体、一種の微細な霧の塊といったものではありません。エーテル体の特徴は、浸透してくるさまざまな流れから構成されているということです。エーテル体は実に物質体の建築家、形成者なのです。氷が水から形成されるように、物質体はエーテル体から形成されます。このエーテル体はあらゆる面に向かって、海のように流れに貫かれているのです。それらのうち主な流れが五つあります。両手両足を開いて立ってごらんなさい。人間の身体はこの絵のように表されます。

 この五つの流れを人間はひとりひとり自らの内に隠し持っているのです。これらの流れが矢印に示された(図参照)方向にエーテル体を貫き、いわば人間のエーテル体の骨格を形成しているのです。絶え間なくこれらの流れはエーテル体を通過し、これはその人が動いているときも変わりません。どんな姿勢をとっていようと、常にひとつの流れが、額の中心、眉間の一点から発して右足へ下り、そこから左手へ、さらに右手へ、それから左足、そこから再び額へもどります。五芒星と呼ばれるものは、エーテル体の中で人間の物質体そのもののように内的に動いているのです。ですから神秘学者(オカルティスト)が五芒星について、人間の図形として語るとき、それはあれこれ思案して作り出された何かのことを言っているのではなく、解剖学者が骨格について語るのと同じなのです。この図形は、現にエーテル体の中に存在していて、ひとつの事実なのですから。

こうしたわずかのことからも、ある記号の実際の意味がどのようなものであるかがわかるのです。神秘学において皆さんが出会う記号や形象はすべてこのような真実に導いてくれるものです。五芒星は、エーテル体の動く《骨格》であり、それゆえ人間の図形なのです。これがこうした記号の本当の意味なのです。

 図形や記号を用いる正しい指針を少しずつ獲得すると、それらは人間をしだいに霊的世界の認識に導き、霊視力を獲得させる手段となります。瞑想において五芒星に沈潜する人にはこれらのエーテル体内の流れの道筋が見いだされます。これらの記号の恣意的な意味をあれこれ考え出すのが目的ではありません。瞑想においてこれらの記号と関わるとき、−−ただ忍耐強く行わねばなりませんが−−秘められた真実に導かれます。これは、あらゆる形象や記号と同じく、皆さんがさまざまな宗教的古文献の中に見いだすことのできるものにもあてはまります、こうした形象は、深く神秘学に根ざしているものですから。預言者や宗教家が光について語り、光によって叡智を表そうとするとき、このことを単に彼が思いついたとか、才気煥発であろうとしてこのような表現を用いたとか考える必要はありません。神秘学者は事実に立脚しているのであって、才知に富んでいるということは重要ではないのです。ただ真実であろうとするのみです。神秘学者として人は、無秩序な思考をする習慣を捨てねばなりません。すなわち、恣意的に結論を引き出したり、判断を下してはならず、一歩一歩霊的な事実を手がかりに、正しい思考を発達させていかねばなりません。

 こうした光についての形象にもきわめて深い意味があり、ひとつの霊的な事実です。このことを認識するために、再び人間の本質に目を向けてみましょう。ご存じのように人間の本質の第三の構成要素はアストラル体であり、喜びと悲しみ、歓喜と苦悩、衝動、熱望と激情といった人間の内的魂的な体験が有するすべての担い手です。植物にはアストラル体がなく、従って人間や動物のような喜びや悲しみは感じません。今日、自然研究者が植物の感情について語るとき、そもそも感情の本質について完全な誤解に基づいています。アストラル体の正しい表象は、時代の経過とともにアストラル体の遂げてきた進化を追求するときにのみ得られます。すでに以前、大宇宙での進化との関連における人間の進化を考察いたしました。その際、人間の物質体が人間本性の最も古く最も複雑な構成要素であること、エーテル体はそれほど古くなく、アストラル体はもっと若く、自我にいたっては人間本性のうち最も若いものであることを見てきました。その理由は、物質体はその進化においてすでに地球の四つの惑星状態を経てきたからです。私たちの地球が以前、土星状態と呼ばれる受肉状態にあったとき、すでに物質体は原基の状態で存在していました。その当時、はるか昔ですが、地球はまだ固体ではなく、人間はまだ今日の形態をとっていませんでした。ただ、その土星上には物質体の原基があったのです。けれどもエーテル体、アストラル体といった他の体はまだありませんでした。地球の第二の受肉状態、太陽上ではじめて人間にエーテル体が付与されました。当時、人間のエーテル体はきわめて明白に五芒星の形態を有していました。後にこの星の第三の受肉状態、月上でアストラル体が付加されることにより、これはいくらか修正されました。さらに月は、地球へと変わり、以上の三体に加えて自我が登場します。

 さて、私たちは次のように問うことができます、これらの体は人間本性に受肉する前にはいったいどこにあったのか。例えば、太陽上でエーテル体として物質体の中に組み込まれられたものは、古い土星上ではどこにあったのか。エーテル体というものもどこからかやってきたのに違いないのだから、と。エーテル体は、土星の周囲にあったのです、ちょうど今日、地球の周囲に大気があるように。後になって人間に組み入れられたものは、すべて古い土星の周囲に、気圏内にすでにあったのです。同様に、太陽においては、月上ではじめて組み入れられるアストラル体が周囲にありました。古い太陽を次のように表象することができます。太陽は今日の地球のような岩石、植物、動物から成り立っているのではなく、太陽上に存在していたのは二つの自然領域でした。太陽上に見いだせる存在、人間は、どうにか人間的な植物といったところで、こうした存在とともに、古い太陽上には、一種の鉱物もありました。けれどもこの古い太陽を現在の太陽と混同してはなりません。古い太陽は厚い流動するアストラル的な外被に取り巻かれていました。古い太陽はいわば、アストラル的な空気の覆いに囲まれていて、このアストラル外被は光輝いていました。古い太陽上の舞台はこんなぐあいだったのです。

 今度は再び、物質体、エーテル体、アストラル体と自我を有する今日の人間を考察してみましょう。さてこの自我がアストラル体へと働きかけて、これをよりいっそう知的、道徳的、霊的な関連において浄化すると、このアストラル体から霊我ないしマナスが生じます。はるかな未来、今日ほとんど始まっていないこのことが完了されたときには、このアストラル体が「物質的に」輝きを発することでしょう。植物がすでに自らの内に新しい生命の萌芽を宿しているように、アストラル体もすでに光の萌芽を宿しています。いつか人間が自らのアストラル体をもっともっと純化し、浄化しきったあかつきには、この萌芽が宇宙空間へと光を発することでしょう。この地球は、別の惑星へと変容するでしょう。今日の地球自体は暗いのです。外部から観察することができたとしたら、地球はただ太陽の光を反射して明るく見えるだけだということがわかります。けれども、いつか地球自体が光輝くようになるでしょう。そのときには、自らのアストラル体全体を変化させてしまっている人間によって光輝くのです。すべてのアストラル体の総計が光となって、宇宙空間に光を放つことでしょう。

 古い太陽の場合もそのような状態でした。古い太陽の住人は、現在の人間たちよりも高次の存在たちで、これらの存在は光輝くアストラル体を持っていました。聖書において非常に正確に光の霊あるいはエロヒムと呼ばれたこれらの存在は、そのアストラル本性を宇宙空間に放射していたのです。

 さて、人間が自らのアストラル体に組み入れたものは何なのか、と問うならば、答えは、それは私たちが善、聡明さと呼ぶものだ、それを通して人間は自らのアストラル体を高貴にする、ということです。私たちがまだ食人種の段階にあり、すべての激情に盲目的に従う未開の人を観察するとき、そしてその人は何によって高度に進化した人間と区別されるのかと問うとき、こう言わざるを得ません、文明人はすでに自らのアストラル体に働きかけてきたが、未開の人はまだそうしていないという点で区別される、と。自らの激情や衝動を、これには従ってよい、別のはいけないと自らに言い聞かせるほどに把握している人は、道徳的な概念や理念を形成しています。つまりこれがアストラル体を変化させ高貴にするということなのです。人間は受肉を重ねつつアストラル体に働きかけることにより、ますますいっそう前述の光輝く存在へと自らを高めていきます。これは《叡智の働きかけ》と呼ばれます。アストラル体の中に叡智が増せば増すほどアストラル体は光輝を増します。あの太陽上に住んだ存在、エロヒムたちは全き叡智に貫かれていました。私たちの魂と肉体との関係は、ちょうどこの光と叡智の関係なのです。光と叡智の関係は考案されたイメージではないということがお分かりいただけたでしょう、これはひとつの事実に基づいており、ひとつの真実なのです。光は事実叡智の身体なのです。こうして私たちは、宗教的な古文献が光について叡智の形象化として語っていることを理解できるようになります。

 学びつつある人、高次の視力、霊視力を発達させつつある人にとって、たとえば次のような修行をすることは大きな意味があります。すなわち、真っ暗な空間に身を置き、外からの光を完全に遮断して−−夜の暗闇であっても両目を閉じることでもよろしいですが−−、それから徐々に自分自身の内的な力によって、光の表象に突き進もうとするのです。人間がその表象を十分な強度をもって形成できるようになると、その人は次第に明敏になり、そして光を見るようになります、それは物質的な光ではありません、その人が今や自ら創造し、内的な力によって自らの内に生み出した力です。これは叡智に貫かれた光です、この光の中で人間には創造する叡智が現れます。これがアストラル光と呼ばれる光なのです。瞑想を通じて人間は内的な光を生み出すことができるようになります。この光は、人間がいつの日か−−物質的な目ではなく、もっと精妙な感覚器官によって−−見るであろうものの先触れなのです。それはエロヒムたちのような実際に存在する霊存在たちの衣装となります。人間がこの修行を正しいやり方で行うと、それはこれらの高次存在と関係を結ぶ手段となります。自らの経験から霊的世界について何かを知るひとたちは、このようなことを行なってきたのです。

 後でお話しします別の方法によって人間は、自らの内的な力により、空間が光に照らされ、叡智に取り巻かれるのみならず、空間がいわば音を発し始めるという事態にまで到達することができます。ご存知のように、古代ピタゴラス哲学では、天球の音楽について語られていました。この《天球》という言葉で、ここでは宇宙空間、つまり星々が運行する空間が意味されています。これはあれこれ考えたあげく作り上げられたイメージなどではなく、詩的な比喩でもない、ひとつの真実なのです。人間が秘密の導師の指示に従って十分に修行を積むと、明澄な、光輝に満たされた空間、叡智の顕現である空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間にみなぎる天球の音楽を聞き取ることを学びます。空間が鳴り響き始めるこの時、人間は天上的な世界、デヴァチャンにあると言われるのです。まさしく空間が鳴り響くのですが、これは物質的な音ではありません、これは霊的な音、空気中では生きるのではなく、ずっと高次の精妙な実質、アーカーシャ実質の中に生きる音なのです。空間は絶え間なくこのような音楽に満たされています、そしてこの天球の中にある種の基調音があるのです。

 さて、ここでもう一度天球の音楽というものにおいて理解したことを考察してみましょう。今日の数学的天文学者たちが、神秘学において惑星について語られていることを明らかな妄想と見なすであろうことは、私にはよく分かっております。けれどもそれは問題ではありません、やはりこれは真実なのですから。

 お話してきましたたように、この地球はだんだんと進化してきました、私たちは地球の諸々の受肉について語ってきたのです。地球は最初、土星、それから太陽、さらには月、そして現在は地球であり、後に木星、金星、ヴルカンとなっていきます。さて、皆さんは次のように問うことができます、そうは言っても今も空に土星というものがあるではないか、この今日の土星は地球の最初の受肉状態であった土星とどういう関係にあるのか、と。今日、星空を観察すると、私たちが公によく知っている諸惑星が見えます。これらの惑星の名称は恣意的に選ばれた、つまり近年、慣例になっているように、特定の人物、例えばその星の発見者の名前にちなんでつけられたというようなものではありません、そうではなく、星々の本質に関する深遠な知から与えられた意味深い名前なのです。今日人々はもはやそのようなこととは関わりなく、例えばウラヌス(天王星)は後になってはじめて発見されたためこのような正しい名前を持っておりません。今日皆さんが天に土星として観ているものは、私たちの地球がまだ土星の状態にあったときと同じ段階にあるのです。公の土星は地球に対していわば少年が老人に対するような関係にあります。老人がそのかたわらに立つ少年から育ってきたのではないように−−老人自身かつては少年だったわけですから−−、この地球も今日ある土星から進化してきたものではありません。今日空にある土星もまたいつか《地球》となってゆくのであり、現在は一種の青年期の段階にあるわけです。他の天体の場合もこれと同様です。太陽はかつて地球がそうであったような天体ですが、ただそれがいわば《前進した》[avanciert]状態なのです。人間の場合に、老人のかたわらに少年がいるといった具合にさまざまな年齢層がともにあるように、天においてもさまざまな惑星がさまざまな進化段階にあって並存しているのです、その一部は、現在その第四の受肉状態にあるこの地球がすでに完了した進化段階であり、また一部はこれからとることになる進化段階です。これらの惑星は、お互い正確に一定の関係にあります。神秘学者はこうした関係を今日の天文学者が行うのとは別のやり方で表現するのです。

 ご存知のように、諸惑星は一定の速度で太陽の回りを運動しております。けれどもこれらの惑星は神秘学的天文学者たちによって精確に探求されている惑星運動でもある、また別の運動もしているのです。その探求によって明らかにされたのは、太陽はある霊的な中心点の回りを運動しており、従って諸惑星の軌道はその正中線が太陽の軌道となる螺旋を描くということです。各惑星がその軌道を運行する速度は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この音響としての比例関係が聞く者にとって、ひとつのシンフォニーへと構成されるのです。これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされていたのです。この共鳴、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、何ら頭をひねって考案されたものではないのです。古代の神秘学的天文学者たちはこう語りました。一見静止しているように見えるこの星天は実際は動いている。霊的な中心点の回りを、百年ごとに一度ほど前にずれていく速度で回転しているのだ、と。

 さて、各惑星の速度は、お互い次のような関係になっています(編集者註 ☆1)。

  

土星の速度=木星の速度の21/2倍

木星の速度=火星の速度の5倍

火星の速度=太陽、水星、金星の速度の2倍

太陽の速度=月の速度の12倍

 

この場合、土星の速度は金星天の速度より1200倍早く、年に12度前進します。

 物理学上の音楽的調和が成立するとき、これは、例えばさまざまな弦が、あるものは速く、あるものは遅く、異なって振動することに基づいています。一本一本の弦が振動する速度に従って、高い音や低い音が響き、こうしたさまざまな音の共鳴が音楽として鳴り、調和を生むわけです。皆さんが弦の振動から、この物理学的なものの中に、音楽的印象を得るのと全く同じように、デヴァチャン界の霊聴の段階にまで上昇した人は、天体の運動を天球の音楽として聴き取るのです。さらに、諸惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球のハーモニーの基調音が生じます。ピタゴラスの学院では、まさしく天球の音楽について語られているのであり、それは霊的な耳で聞くことができるのです。

 以上の考察から、私たちはさらにまた別の現象も暗示できます。例えば、薄い真鍮板に微細な粉末をできるだけ均等にまき散らし、ヴァイオリンの弓でこの板をこするとします、すると音が聞こえるばかりでなく、粉末の粒子が一定の線上にきちんと並びます。音に応じてあらゆる図形が形成されます。音が作用して物質、素材が配置されるのです。これが有名なクラドニの音響図形です。

 霊的な音が宇宙空間を貫いて響いたとき、音は互いに比例関係にある諸惑星を天球のハーモニーへと組織しました。宇宙空間に広がって見えるものを、この創造する神性の音が配列させるのです。このような音が、宇宙空間の内部へと響きわたったことにより、物質が、ひとつの系へと、太陽系、惑星系へと形成されたのです。ですから《天球の音楽》という表現も、才気あふれる比喩などではありません、それは現にある事実なのです。

 さて、また別のことがらに移りましょう。この地球が常に現在のようであったわけではないことはお分かりですね。相当長い間神智学に携わってきた方は、現在の受肉状態にある地球がさまざまな進化段階を経てきたことをご存知でしょう。はるかに遠い過去、地球は火で溶融したような状態でした。今日の石や金属であるものは、かつてはこの火で溶けた状態の地球に溶けこんでいました。そのような熱の中では、人間もその他の存在も生存できたはずはないという非難に対しては、次のように答えねばならないでしょう、当時の人間の肉体は当時の諸条件に適合したものであったのだ、と。当時の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できたのです。この地球の火の時代に続いて、私たちがアトランティス時代と呼ぶ水の時代がやってきます。ちょっとこのアトランティス時代を考察してみましょう。アトランティス大陸は、今日のヨーロッパとアメリカの間の大西洋の中心に広がり、私たちの先祖が住んでいました。むろん彼らは今日の人間とは全く異なった状態にありました。彼らの視力は私たちのそれとは異なっていました、彼らはある意味で霊視を行っていたのです。アトランティス人の進化においては、この視力にさまざまな段階がありました。アトランティス末期の最終段階は、はるかに高次の段階の一種の余韻のようなものでした。例えば、アトランティス人は外的な対象をアトランティス末期になってようやく見ることができるようになったのです。それ以前、アトランティスには厚い水を含んだ大量の霧が充満していたので、対象物は空間的にはっきりとした輪郭で分けられていませんでした。こうしたアトランティス進化の初期においては、知覚のしかたが全く異なっていました。古代アトランティス人がある物や存在に近づくとき、最初に見たのはある人物や対象の輪郭や骨格ではありませんでした、それどころか、外界とは何の関係もない、ある内的な魂の状態を再現するような色彩像が、彼らの内に浮かび上がったのです。色彩像は、こちらに向かってくる存在が彼にとって有益なのか危険なのかを語るものでした。例えば、こちらにやってくる者が他に対して抱いているのが復讐の感情であったなら、それに応じた色彩像が彼に示され、彼はそこから走り去りました。野生の獣が近づいたら、彼は同様に識別し、それから逃れることができたのです。アトランティス人は、自分の周囲の魂の状態をこの霊視の最終段階で知覚していました。その状態から今日の視力が徐々に発達してきたのです。非常に霧のかかった日のことを考えてみてください、対象はそういうとき、ぼやけています。考えてごらんなさい、こんな日には、街灯も点のように浮かび上がっているだけでしょう。それからだんだんと輪郭が判別できるようになってきます。こうして徐々にアトランティス人は見ることを学んだのです。人間が以前に見ていたものは、一種のアストラル的な色彩でした。最初のうち、この色彩はまだ自由に漂っているように見え、それからいわば事物の上に置かれたのです。

 もちろん、こうした別種の知覚は、当時の人間は今日とは全く違った様相をしていたことと結びついています。例えば、アトランティス時代の末期には、人間の身体の額ははるかに後退していて、その上方にエーテル体が大きな球のようにせりだしていました。額の後ろ側の点、両眼の間を少し後退したあたりで、物質体とエーテル体はまだ一致していませんでした。それから物質体とエーテル体が収縮し、物質体とエーテル体両者の点が一致したのは、人間進化において、重要な瞬間でありました。今日では肉体の頭部はエーテル体の頭部にほぼぴったりと収まっています。馬の場合は、まだそうではありません。けれども人間の場合、この頭部が変化してきたように、四肢も変化してきたのです。徐々に現在の肉体の形姿が形成されてきたのです。アトランティス時代末期へと思いを馳せてみてください。そもそも当時はどんな状態だったのでしょうか。人間はある種の霊視力で自分の周囲の魂的状態を知覚していました。もう一度この厚い霧の大気、水蒸気をたっぷり含んでずっしりと重い空気を思い浮かべてください。太陽や星々、皆さんの周囲のあらゆる対象物は当時、この厚い水を含んだ空気の中ではよく見えなかったことでしょう。虹は当時はまだありませんでした、虹はまだ生じていなかったからです。すべては厚く重い大量の霧におおわれていました。それゆえ、伝説はニヴルヘイム、ネーベルハイム(霧の国)について語っているのです。徐々に、空気の中に厚く拡がっていた水が凝縮していき、「かくて大洪水の水が地上に降り注いだ」(☆2)。これは厚い大量の霧が水へと凝縮し、降水、雨となって落下したということを言っているのに他なりません。水が空気から分離されたことにより、空気は透明になり、それに伴って、今日のような視力が形成されてきました。人間は、自分の周囲の対象を見ることができるようになって初めて、自分自身を見ることができたのです。

 さて、人間の物質体は深い意味を持つ多くの規則性を示しています。そのうちのひとつは次のようなものです。皆さんが、高さ、幅、長さが、3:5:30の割合となる箱をこしらえるとします。そうすると、これと同じ割合が人間の肉体にも見出せるのです。換言すれば、これによって人間の肉体の規則的な構成の割合が示されているわけです。人間がアトランティスの洪水から出てきたその当時、人間の肉体は3:5:30という割合に従って形成されていました。このことは、聖書においては次のような言葉でたいへんみごとに表現されています、「そこで神はノアに命じて、長さは三百エレ、幅は五十エレ、高さは三十エレの箱(舟)を作らせた」(☆3)と。人体の調和の寸法比は、このノアの箱船の寸法比とぴったり適合しています。

 神秘学の記号や形象は、事物の本質そのものから取り出されたものです、従って、それらを通じて私たちがいかにして霊界の関係をのぞき込むことができるかを示すものなのです。

 


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