ルドルフ・シュタイナー

神秘学の記号と象徴

そのアストラル界と霊界との関係

第三講

シュトゥットガルト 1907年 9月15日

数の象徴論。分割不可能な神性の像としての1。開示の数としての2、3。自然と歴史の例のなかに見られる退化と進化−−無からの創造。神的なものと開示的なものを結びつけるものとしての三性。宇宙あるいは創造の記号としての4。悪の数としての5。人間の本性の第五の構成要素の進化とともに、人間は独立と自由を得る。しかし、同時に悪をなす可能性も得る。人間の病気と生涯に関連する5の数の意味。完全数としての7。ピュタゴラスの意味における一性の分割不可能性。


 今日取り上げてみようと思いますのは、数の象徴学と呼ばれているものについての考察です。神秘学の記号や象徴について語る時、数の中に表されている形象について、簡単ではあっても言及しておかなくてはなりません。

 一昨日お話ししたことを思い出してください。宇宙における数の関係、各惑星が運行する速度についてお話しました。数と数の関係は宇宙空間を貫いて波打つ天球の調和(ハーモニー)の中に表現されていること、それらは宇宙全体と宇宙の考察にとってある特定の意味を持っていることを見てきました。

 さて今日は、もっと内密な数の象徴学を取り上げてみましょう。もっとも、真にこの象徴学に沈潜するには、もっと細心に取り扱うべきことがまだ他にたくさん必要となりますので、ここではその意味を軽くなぞることができるだけですが…。ともかくも、例えば古代のピュタゴラスの秘教学院で宇宙への洞察力を得るためには、数と数の性質に沈潜せねばならないと言われた時、少なくともこれが意味することについて見当はつくだろうと思います。数について熟考すべきだというと、味もそっけもないように思われる方もおられるかもしれません。とりわけ、現代の唯物主義的教養に毒された人々にとって、数の考察によって事物の本質に関する何かを探求できるなどということは児戯にも等しいと思われています。しかしながら、偉大なピュタゴラスが、数の性質について知ることは事物の奥深い本質へと導く、と弟子たちに語ったことには、深い根拠があるのです。ただ、1ないし3ないし7といった数について熟考すれば十分であると考えてはなりません。真の秘学の教えは、魔法やおまじないなどではなく、何らかの数の意味についての迷信でもありません。その知恵はもっとずっと深い事柄に基づいているのですから。今日皆さんに受け取っていただきたい簡単な概略からおわかりになるとおもいますが、正しく数に沈潜する手がかりを持つなら、数は瞑想とも呼ばれる沈潜のためのひとつの拠り所を与えてくれるものなのです。

 まず1という数、合一の数から始めなければなりません。この1という数が私が申し上げますことをどれほど真に形象化しているかは、後ほど他の代数を考察する際にもっと明らかになるでしょう。あらゆる神秘学(オカルティズム)において、常に1という数により宇宙における神の分離できない元素が表されました。1で神が表されるのです。けれども、単に数としての1に沈潜すれば世界認識のために何らかのものを獲得できると考えてはなりません。どのようにしてこのような沈潜が起こるべきかおわかりになると思います。でも、まずはその他の数に移った方がずっと実り多い考察になるでしょう。

 神秘学では2は開示の数と呼ばれます。2という数でいわば私たちは両足の下に何か基盤を得るのですが、一方、1という数の場合、まだ基盤のないまま手探りで探し回っている状態です。私たちが2は開示の数であると言う時、これは、私たちが世界で出会うもの、ある意味で隠されたものではなく世界へ現れ出たもの、これらすべては何らかの形で二元性の状態であるということに他なりません。

 皆さんは自然の中のいたるところに、2という数が広がっているのを見いだされることでしょう。いかなるものも2という数に触れることなしには自らを開示するということはできません。光も決してそれ自身だけで一元的に自らを開示することはできません。光が開示される時、影あるいは闇もそのそばになければなりません。つまり、二元性が存在せねばならないのです。開示された光に満ちた世界というものは、もしそれに相応する影がないとしたら、決して存在することはできないでしょう。これはすべてのものごとにあてはまります。善は、その影としての悪を持たないなら決して自らを開示することはできないでしょう。善と悪の二元性は開示された世界の中では必然的なものです。このような二元性は無限に存在します。二元性は世界全体を満たしています。ただ、私たちはそれを正しい場所に探さなくてはなりません。

 人間が生きていく中でたびたび考慮することのできる重要な二元性は次のようなものです。昨日私たちは人間が今日の地球の住人となる前に経てきたさまざまな状態を考察いたしました。人間は土星と太陽ではある種の不死性を保っていて、自らの肉体を外から管理し、肉体の一部がくずれ落ちると新たな部分が再び付与されたため、人間は死や消滅については何も感ずることがなかったわけです。人間の意識は当時、今日の意識とは違って、おぼろげな夢うつつの意識でした。この地球になってはじめて、人間は自己意識と結びついた意識を獲得したのです。ここではじめて人間は自己自身について何かを知り、対象から自分を区別できる存在となったのです。そのためには、単に外から肉体を管理するだけでなく、この肉体の中に−−交互に−−入り込んで、自らの内で「自我」が語りかけるのを感じとらねばなりませんでした。人間はその肉体に完全に入り込むことによってのみ、完全な意識を獲得できたのです。そして、今や人間はこの肉体と運命を共有します。以前、まだ上方にいた時、人間はこういうことはしませんでした。人間がこの程度の意識を獲得したことによってはじめて、彼は死と関係を結ぶようになったのです。肉体が崩壊する瞬間、人間は自分の自我が停止するように感じます。自我と肉体を同一視してきたからです。少しずつ霊的な進化を経てようやく、人間は再び太古の不死性を取り戻します。肉体は意識して不死性を獲得するための修行場として存在するのです。人間が死によって不死性をあがなわないなら、生と死の二元性を認識しないなら、決して高次の段階で不死性を獲得することはできないでしょう。人間が死を知らなかった間、まだ世界は人間に開示されませんでした。生と死の二元性は開示された世界に属することだからです。このように至る所に生における二元性を指摘することができるでしょう。物理学におけるプラスとマイナスの電流、磁気における引力と反発力など、すべては二元性の中に現れています。2は現象の数、開示の数なのです。

 けれども背後で神的なものが働くことなしには、いかなる開示も存在しません。従って、どんな二元性の背後にも一元性が隠されているのです。3という数は、それゆえ2と1、つまり開示とその背後に存る神性に他なりません。1は神の一元性の数、3は自らを開示する神性の数です。神秘学(オカルティズム)には次のような原則があります。2は決して神性を表す数ではあり得ない、というものです。1は神的なものを表す数、そして3は神的なものを表す数です。というのも、神的なものが自らを開示するとき、それは2において顕現し、その背後に1があるからです。世界を二元性において見る人は、世界を顕現において見ているのです。ですから、外的な諸現象においては二元性が存在すると言う人は正しいのです。しかしながら、この二元性がすべてであると言う人は、常に正しくありません。このことを少し例を挙げて明らかにしてみましょう。

 神智学の話題となっているところでさえ、「2という数は単に顕現の数であって、充溢の完全性の数ではない」という、この真の神秘学(オカルティズム)の原則はしばしば守られてはおりません。この原則を本当には知らない人々による通俗的オカルティズムにおいて、しばしば皆さんは、進化発展はすべて退化と進化の中で起こると言われているのを耳にされると思います。これは本当はどいうことなのかおわかりになるでしょう。けれども、まずは進化と退化とはどういう意味なのかを少し調べておきたいと思います。ひとつ植物を観察してみましょう。根、葉、茎、花、実、要するに植物が持つことのできる部分をすべて備えた完全に成長した植物です。これがひとつです。今度は小さな種子、植物が再び生えてくる種子を観察してください。種を見つめる人は小さな粒を見ているだけですが、この小さな粒の中にはすでに植物全体が含まれています。いわば粒の中に閉じこめられているのです。なぜその中に入っているのでしょうか。種子は植物から取られたから、植物はその力のすべてを種子の中に注ぎ込んだからです。ですから神秘学(オカルティズム)においては、この二つの過程、つまり、ひとつは、種子がほどけていって植物全体へと展開する−「進化」と、もうひとつは、植物が収縮しその形態がいわば種子の中にもぐりこむ−「退化」とが区別されるのです。従って、たくさんの器官を持つ存在が、これらの器官のどれももはや見えなくなり小さな部分に萎縮してしまうように自らを形成するなら、これは退化と呼ばれ、分岐すること、自己展開することは進化と呼ばれるのです。生命においては、至る所にこの二元性が交替しています。けれども、常に顕現においてのみそうなのです。単に植物の場合のみ、このことを追求できるのではなく、生のより高次の領域においても事情は変わりません。

 例えばアウグスティヌスから中世を経てカルヴァンに至るヨーロッパの精神生活の発展を思い浮かべて追求してみてください。この時代の精神生活に視線を漂わせてみるなら、アウグスティヌスの場合ですらある種の神秘的な親密さを見いだせるでしょう。この人物の感情生活がいかに深く親密であったか感じとることなしに、誰も彼の著作、とりわけ「告白」を読むことはないでしょう。さらに時代を辿っていきますと、スコトゥス・エウリゲナのような驚くべき現象を見いだします。彼はスコットランド出身の修道士で、そのためスコットランドのヨハネスと呼ばれ、カール禿頭王の宮殿で生活していました。彼は不幸なことに教会で切りつけられました。伝説の語るところによれば、修道士仲間たちが彼を留め針で死に至るまで拷問したということです。これはむろん言葉通りには受け取れませんが、彼が拷問により殺されたことは事実です。すばらしい書物が彼によって著されました。「デ・デヴィジオーネ・ナトゥラエ」、すなわち「自然の区分について」で、これは途方もない深みを示している書物です。さらに私たちは、いわゆるドイツの坊さん横町、ここではこの親密な感情が民衆全体をとらえたのですが、この坊さん横町の神秘家たちを見いだします。彼らは、単に精神性の頂点にある人々であったばかりではなく、民衆でもありました。畑や鍛治場で働いていた人々、彼らは皆、このように時代の傾向として生きていたあの親密な感情にとらえられていたのです。さらに私たちは1400年から1464年に生きたニコラウス・クザーヌスを見いだします。このように私たちは中世の末期まで時代をたどることができますが、至る所にその環境全体に広がっているあの深い感情、あの親密さが見いだされるのです。この時代を、後のこれに替わる時代、つまり16世紀に始まり現代にまで入り込んでいる時代とを比較してみるなら、決定的な相違に気づきます。出発点に、包括的な思考により精神生活の革新を引き起こしたコペルニクスが立っています。彼はこの思考が人類と一体化するほど注ぎ込んだので、今日、別のことを信じている人は馬鹿者とみなされるのです。それからガリレオ、彼はピサで教会のランプの揺れから振り子の法則を発見します。このように一歩一歩時代の経過をたどっていきますと、至る所に中世との厳しい対立が見いだせるでしょう。感情はどんどん衰えていき、親密さが消えていきます。知性、理知がしだいに現れ出てきて、人間はますます利口に、分別的になっていきます。このように、まったく正反対の性格を持つ二つの時代が前後して続くのです。精神科学は私たちにこの二つの時代の説明を与えてくれます。これは、そのようにならなければならないという神秘学(オカルト)の法則があるのです。アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代においては、神秘主義の進化と理知の退化という時期であり、その後私たちは理知の進化と神秘主義の退化の時代に生きているのです。これはどういうことなのでしょう?アウグスティヌスから16世紀までは神秘的生の外的な展開の時代であり、それは外に現れていました。けれどもその当時、別のものも萌芽として存在していたのです。つまり、理知的生の萌芽があったのです。これは、いわば種子のように霊的な地中に隠されていて16世紀以降少しずつ展開していくのです。このように理知的生は、当時ちょうど植物が種子の中にあるように退化(内展)の状態だったのです。宇宙においては、このような退化(内展)の状態が前もって存在しなければ何も生じてくることはできません。16世紀以来、理知が進化(外展)の状態となり、神秘的生は退いて退化(内展)の状態となります。そして今や、この神秘的生が再び現れて来なければならない時代が到来しました。神智学運動によってそれは再び展開と進化へと導かれねばなりません。

 このように、生の至る所で進化と退化が顕現して交替しています。けれどもそこにとどまる人は、ただ外面だけを見ているのです。全体を見ようとするなら、この両者の背後にある第三のものをさらにつけ加えねばなりません。この第三のものとは何でしょうか?今あなた方が外界の現象に向かって立ち、それについて思索すると考えてみてください。あなた方が存在します。外界が存在します。そしてあなた方の中に思考が生じます。この思考は以前には存在していませんでした。たとえばあなた方が薔薇について思考を形成する時、この思考はあなた方が薔薇と関係を結ぶ瞬間に初めて生じるのです。あなた方が存在し薔薇が存在していました。そして今、あなた方の中に薔薇についての思考、薔薇の像が現れでてくる時、何かまったく新しいもの、まだ存在していなかったものが生じるのです。これは生の他の領域でも同様です。創造しているミケランジェロのことを思い浮かべてみてください。ミケランジェロは、実際ほとんどモデルを使って製作したことはありませんでした。けれどもちょっと彼が一群のモデルを集めたと想像してみてください。ミケランジェロが存在し、モデルたちが存在していました。けれどもミケランジェロがこのモデルの一群から魂の中に得た像、この像は新しいものなのです。これは完全に新たな創造なのです。これは進化及び退化とは何の関係もありません。これは受け入れることのできる存在と与えることのできる存在との交流から生まれた完全に新しいものなのです。このような新たな創造は、常に存在と存在との交通を通して生まれます。昨日、ここで考察したことを思い出してください。思考がいかに創造的で魂を気高くすることができ、後には肉体の形成にも働きかけるのだということを。ある存在が一度考えたこと、思考創造、表象創造は働き続け、作用を及ぼし続けるのです。それは新たな創造であると同時に始まりであり、しかも結果を導きます。今日皆さんがよい考えを持つなら、この考えは遠い将来実りを結びます。皆さんの魂は霊的世界で独自の道を歩むからです。皆さんの肉体は再び元素に帰り崩壊します。けれども、思考を生み出したすべてのものが崩壊しても、思考の作用は残り、思考は働き続けるのです。もう一度ミケランジェロの例を取り上げましょう。彼の卓越しに絵画は何百人もの人々を高揚させてきました。しかし、これらの絵画もいつかは塵となって崩れ、もはや彼の創作物をまったく見ることができない世代も出てくることでしょう。ミケランジェロの絵画が外的な形態を取る前に、彼の魂のうちに生きていたもの、まず最初に新たな創造物として彼の魂のうちにあったもの、これは生き続け、存続します。そして、未来の進化段階に出現し、形を得るでしょう。どうして今日、雲や星が私たちに現れてくるのかおわかりでしょうか。なぜなら、太古の昔に雲や星を思考していた存在がいたからです。すべては思考・創造活動から生まれ、思考は新たな創造なのです。思考からすべてが生まれ、宇宙の偉大なものは神性の思考から出現したのです。

 ここで私たちは第三のものを得るのです。顕現性においては事物は進化と退化の間を交替しています。けれども、その背後に第三のもの、初めて充溢を与えるもの、無から生じた完全に新たな創造たる創造が深く秘されているのです。このように三つが互いに関係しています。無からの創造があり、それからこれが顕現して、時の中で経過していくとき、顕現における形、つまり進化と退化という形をとるのです。

 ある宗教的な体系が、宇宙は無から創造されたということについて語る時、それは以上のような意味なのです。今日、それが嘲笑されるなら、それは人々がこれらの古文献にあることを理解してないからです。顕現においては−−もう一度まとめてみますと−−すべては進化と退化の間を交替しています。その根底には、無からの創造が秘されていて、この二元性と一致して三元性となるのです。三元性は、神的なものと顕現との結びつきです。

 さて、このように、3という数についてどのように考えられるかおわかりになったと思います。ただ、ペダンティックに理屈をこね回してはいけません。至る所で出会う二元性の背後に、三元性を探さなくてはなりません。2の背後に3を求める時、ピュタゴラス的な意味における正しい仕方で、数の象徴が考察されるのです。すべての二元性のために、隠された第三のものが見いだされ得るのです。

 今度は4という数です。4は宇宙(コスモス)ないし創造の記号です。すでに以前お話したことですが、私たちの地球は−−追求しうる限りで−−第四の受肉状態であるということを思い出していただければ、なぜ4が創造の数と呼ばれるのか、ご理解いただけると思います。この地球上で私たちが出会うすべてのもの、人間における第四の原理も、この創造がその惑星進化の第四の状態にあるということを前提にしています。これは出現しつつある創造のひとつの特別な例にすぎません。いかなる創造も四元性のの記号の下にあります。神秘学(オカルティズム)において、「人間は今日鉱物界にある」と言われています。これはどういう意味なのでしょう?今日人間は鉱物界だけを理解していて、鉱物界だけしか支配できないのです。人間は、鉱物的なものを組み合わせて家を建てたり時計を作り上げたりできますが、それはこれらのものが鉱物的世界の法則に従っているからです。例えば、人間は自らの思索から植物を形成することはできません。それができるためには、彼自身が植物界にいなければならないのです。いつか後になってそうなるでしょうけれども、今日、人間は鉱物界における創造者なのです。この鉱物界には、三つの元素界と呼ばれる三つの領域が先行しています。鉱物界は第四の領域なのです。全体としては、このような七つの自然領域があります。人間は今日その第四の領域にいて、そこで外へ向かう自分の意識を獲得したのです。月では、人間はまだ第三の元素界、太陽では第二の、土星では第一の元素界で活動していました。木星上で人間は植物界で活動でいるようになり、今日時計を作るのと同じように植物を創造することができるようになるでしょう。創造において可視的に現れでたものはすべて4という記号(しるし)のものとにあります。皆さんが肉眼では見ることのできない惑星も数多くあります。これらの第一、第二、第三の元素界にある惑星は物質的な眼では見えないのです。惑星が第四の領域、つまり鉱物界に入った時はじめて、皆さんはそれを見ることができるのです。それゆえ4は宇宙(コスモス)ないし創造の数なのです。第四の状態に入ることではじめて存在は目に見えるようになり、外的なものを見ることができるようになります。

 5は悪の数です。再び人間を考察すると、このことを一番はっきりさせることができます。人間は四元性へと、創造性の存在へと進化してきましたが、地球上で彼に第五の要素、霊我が現れます。人間が単に4にとどまっていたとしたら、彼はいつも上から、神々によって善へと統制されていたことでしょう。すなわち、決して独立した存在へと進化することはなかったでしょう。人間は地球上で第五の要素、霊我への萌芽を手に入れたことにより自由になったのです。これによって人間は悪をなす可能性を得ましたが、しかしこれによって独立性も手に入れたのです。5において現れない存在は、いかなるものも悪をなすことはできません。そして、私たちが悪と出会う所ではいたるところで−−そして実際それはそれ自身から有害な作用を及ぼすのですが−−、五元性が関わり合っています。これは至る所、外の世界でもそうなのです。人間はただそれを見ないだけなのです。しかも、今日の唯物主義的世界観は、世界をこのように見ることができるということについて、まったく理解できません。ひとつの例で、5と出会うところではどこでも、何らかの意味で阿育について語る正当性が出てくるということがわかります。医師がちょっとこのことを採用して、病気の経過をこれに従って研究してみれば、たいへん実り多い結果が得られるでしょう。つまり、病気がその発病から第五日までどのように進展するか、一日の中であれば真夜中から五時間めに、さらには第五週めにどうであるか調べるのです。というのも医師が最も効果的に介入できる時は、いつも5という数字が支配しているからです。それ以前は自然の経過にまかせる以外はあまり多くのことはできません。しかし、5という数の法則に気づくなら、助ける処置ができるのです。5という数の原理は事実の世界に流入しているからです。この原理が害を与える、悪の原理と呼ばれるのももっともなことです。このように多くの領域で5という数が外的な出来事にとって大きな意味を持つことを示すことができます。

 人間の生には七つの時期があります。第一の時期は生まれる前の時期、第二の時期は歯の生え替わる頃まで、第三は性的成熟まで、第四はおよそその7〜8年後まで、第五はおよそ30歳頃と続いていきます。人々が、これらの時期に何が問題となるの、ちょうど第五の時期に人間に何を近づけ、何を遠ざけるのか、知るようになれば、いかによい年齢を準備することができるようになるかについても、いろいろとわかってくるでしょう。その時、残りの人生全体に対して善いことあるいは悪いことの作用が及ぶでしょう。初めのいくらかの時期の場合、これらの法則に従って、教育を通して多くのことを行うことができます。けれどもそれから、人生の第五期に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってきます。この人生の第五の転換点は、少なくとも人間がいわば完全に確信をもって人生へと送り出される前に超えられねばなりません。今日主流をなしている、人間をあまりに早く人生に送り出してしまう原則は、たいへん害のあるものです。このような古い神秘学的原則に注意を向けることには、大きな意味があります。ですから、以前は、そのことについて知っていた人々の命により、人は親方と認められる前に、いわゆる修業時代と遍歴時代を卒業しなければならなかったのです。

 七は完全性の数です。このことをまた人間自身を手がかりに明らかにすることができるでしょう。人間は被造物として四の数の中にいます。そして、善か悪の存在でありうるという限りで、五の数の中にいるのです。人間が萌芽として自らのうちに有しているものをすべて造り上げてしまったら、色の世界、虹においても、音の世界、音階においても、七という数が支配しています。生のあらゆる領域のいたるところで皆さんは七という数を一種の完全性の数として示すことができます。七の背後には迷信もおまじないもありません。

 さて、もう一度一元性に注目したいと思います。他の数も考察したことにより、一元性について語るべきことが正しい光の中に現れるでしょう。一元性の本質的なものは、不可分性です。実際のところ、むろん、一であることをさらに、例えば1/3や1/2分というふうに、分けることはできません。けれども、皆さんが思考の中で承認することのできる非常に意味深い重要なものがあります。つまり、霊的世界においては、2/3を除くと、1/3はあくまで一に属するものとしてあり続けるということです。何かが神から開示として分割されても、残り全体はやはり神に属するものとしてあり続けるのです。ピュタゴラス的な意味で「一を分割せよ。ただし、ひとえにおまえの思いの底で、残りのものが一のためにあるように一を分割せよ」。

 本来、一を分割するとはどういうことなのでしょうか。例えば、金の小板を考えてください。皆さんがこれを通して見ると、世界は緑色に見えます。つまり、金は、その上に白い光が当たると黄色い光線を反射するという特性をもっているのです。それではまだ白の中に含まれていた他の色はどこに行くのでしょう。それは、対象の中に入り込み、それを通過します。赤い対象は、赤い光を反射し、他のものを自らのうちに取り入れるから赤いのです。他のものを残しておくことなしに赤をしろから取り出すことはできません。こうして、私たちは大いなる世界の秘密の緑に触れるのです。皆さんはこのことをある特定のやり方で観ずることができます。例えば、光がテーブルにかけられたテーブルクロスに当たると、私たちは赤い色を感受します。太陽光線に含まれている他の色は「吸い込まれ」ます。例えば、緑色はテーブルクロスに吸収され反射されません。私たちが赤い色と緑色を同時に私たちの意識の中に受け入れようと努めるならば、私たちは再び一を回復したわけです。私たちはピュタゴラス的な意味で一を分割したのです。そうすると、残りのものは、そのまま維持されます。分けられたものを常に再び一と結びつけるということを瞑想的に成就すると、それは、人を高みへと進化させうる意味深い営みとなります。数学においてもこれを表す式があります。秘密(オカルト)の学院ではどこでも通用するものです。

 1=(2+x)−(1+x)

 これは、1をどのように分割するか、分けられた部分が再び1となるようにどのように提示するかを表しているとされる秘密の公式なのです。神秘学者(オカルティスト)は、一の分割を、部分が常に再び一へと連結されるように考えねばなりません。

 以上のように、今日は、数の象徴学と呼ばれるものを考察に委ね、世界を瞑想的に数の観点の下に動かすと世界の秘密の内奥に迫ることができるということを見てきました。

 補足としてもう一度述べておきたいことは、第五週め、五日め、あるいは五時間目においては、何かをしくじったり良くしたりできるということに気づくことが大切であるということです。七週め、七日め、あるいは七時間めには−−あるいは相応する特定の数の関係、たとえばその中に7もあるので、31/2においては−−常に何かが、そのこと自体を通じて起こります。たとえば、熱はその病気の七日目に一定の性格を示すでしょう。あるいは14日めにも、世界の構造を示す数の関係が常に根底にあるのです。

 ピュタゴラス的な意味で、「数を探求せよ」と言われることに、正しい仕方で沈潜する人は、この数の象徴学から生と世界を理解することを学びます。このことについて、今日はみなさんに概略的にご理解いただけるようお話した次第です。


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