ルドルフ・シュタイナー

神秘学の記号と象徴

そのアストラル界と霊界との関係

第五講

ケルン 1907年 12月26日

人間の環境への態度。事物の背後にある魂的・霊的なものの開示としての世界。動物、植物、鉱物の魂的・霊的なもの。アストラル界にある動物の集合自我、その基本要素は叡智。人間・自我の根本要素としての愛の養成。植物界、鉱物界の苦痛と喜びの感情。秘学の修練においては単に形象を観照するだけでなく、内的に体験せねばならない。卍と五芒星の隠された意味。


 今回の連続講義では、いくつかの秘学(オカルト)的記号や形象についてお話するつもりですが、その際、これらの象徴や記号の意味、意義が単に知性だけではなく、感情や心情と親密になるようにしていこうと思います。

 皆さん全員がご存知のように、神秘学(オカルティズム)や神智学(テオゾフィー)においては、さまざまな形象や記号が使用されています。そして、このような記号や形象を解釈するのに、しばしば多大な機知と思弁が費やされていることも周知の事実です。さて、今回の連続講義は、こうした機知や思弁の多くが不適切であり、そもそも思弁や機知というものは、秘学的記号や象徴の本当の意味に近づく力を有していないということを示してくれるでしょう。神秘学者(オカルティスト)にとって、決して単に一般的な手引き書や著作で言及されているようなものが記号や象徴であるのではなく、通常はほとんど予測しもしないようなところに、非常にしばしば秘学的記号や象徴が見いだせます。やはり、民族に根ざす神話や物語の中に深い秘密の(オカルト的)真理が隠されているのです。このような神話や伝説を解釈する際に通常犯されている過ちは、端的に言って、あまりに多大の機知、思弁が費やされていることです。あまりにも分別的、理性的に深い意味が追求され過ぎていると言っていいほどです。4回の連続講演では、このテーマを汲み尽くすことはできず、警句的に扱うことができるのみですが、それでも、ここで取り扱うことを、秘学的記号や象徴の高次の世界に対する関係、つまりアストラル界及びデヴァチャン界ないし霊的世界と呼ばれるものに対する関係について表象を形成することができるように描いてみたいと思います。

 ご存知のように、日常の言語においても、何か高次のものを解釈しようとするとき、非常にしばしば特定の具象的な比喩が用いられます。例えば、認識や洞察に比喩を用いようとする時、「光」とか「認識の光」という言い方をします。私たちの言語のこういう単純な表現の背後に、時折、何か途方もなく深いものが潜んでいます。このような表現を用いるひとは、しばしばその起源をまったく意識しておらず、従って例えば光という比喩がどういうふうに認識や洞察と関係づけられているのか、全然考えてもいないのがほとんどです。彼らは、今日詩人が比喩を用いるように、それを比喩とみなしてるのです。もし神秘学(オカルティスム)においてこのような比喩的な意味のことだけを考えるとするなら、まったく道を誤ることになります。物事はもっとずっとずっと意味深いのです。今日の言語において、象徴的と言われているもの、比喩的と言われているもの、あるいはアレゴリーという表現で示されているもの。これらはたいてい間違った道に導くものです。ある記号は恣意的に何かあるもののために選ばれたのだと、安易に考えられています。神秘学において、記号は決して恣意的に選ばれることはありません。神秘学(オカルティスム)において、ある記号がひとつの事柄に用いられるときは、常に深い関連がそこにあるのです。

 けれども、人間が神秘学の観点から見て、自らの環境に対してどのように位置づけられているかについて、少し立ち入ってみければ、神秘学の記号・形象と高次の世界とのこうした関連について真に明確にすることはできないでしょう。神秘学、あるいは今日神智学として知られている神秘学の基礎的な部分が、いつかより深い意味で、世にその使命を果たすときには−−これはまだやっとはじまったばかりなのですが−−、いつの日にか、私たちの生活と文化のあらゆる支脈が神秘学の真理と衝動に貫かれるようになった時には、人間の感情、感覚生活全体、過尿への位置づけ全体が本質的に変化してしまっていることでしょう。今日の人間が外界に対してどのように位置しているか示そうとすれば、次のように言わなければなりません。この数世紀以来、人間はますますいっそう外界に対して非常に抽象的、合理的、唯物的な関係をつくりあげてきた、と。今日野原を行く人は、春でも、夏でも、秋でも、たいてい眼前に現れるもの、感覚が受け取ることのできるもの、知性が感覚知覚から結合できるものを見ています。その人に美的な天分があれば、何か詩的な感受性があれば、彼はその知覚を感覚、感情で満たし、ある自然の出来事の場合には悲しみや苦しみを、また別の場合には高揚、喜び、楽しみを感ずるのです。

 けれども、今日の人間の場合、無味乾燥な感覚的知覚が詩的、芸術的な感情に転ずるときでも、それは本来、神秘学によって今や理性や知性、頭脳にではなく、魂と心に与えられねばならないものの端緒にすぎません。神智学が単に物質界、アストラル界、デヴァチャン界のあらゆる出来事の思索的な要約を与えてくれるだけでなく、私たちの魂に深く親和的になり、魂が前とは違ったふうに受け入れ、感じ、学ぼうとするようになった時、はじめて神智学は人生における重要な要因となるのです。とりわけ私たちが明確にしておかなければならないのは、神智学と神秘学を通じてすでに昨日の記念講演で強調したことが現実にますます起こってくるということです。つまり、人類は感覚に現れてくる外界において表現されているもののなかに、事物の背後に魂的、霊的なものとしてあるものが自らを開示する顔貌、身ぶり、表情を見てとるようになるのです。私たちは、地球の外部で起こっていること、つまり星々の運動の中にも、霊的、魂的なものの表現を見出すことを学んでいくでしょう。例えば、ある人の手の動きやまなざしの中に何か魂的なものが見出せるように。このようにして私たちは例えば晴れていく大気の中に、空気、水、土を真に浸透している霊的諸存在の内的な経過の外的な顕現を見ることを学んでいくのです。

 さて、私たちの回りに生きている魂的、霊的なものに関して理解に達したなら、周囲の自然がどのように見えるか、ここでちょっと想像してみることにしましょう。まず、理想的にこれにとりかかるなら、次のように問わなければなりません。物質界で周囲に生きている被造物の魂、つまり動物、植物、鉱物の魂はいったいどういう状態なのか、物質的に感覚に現れているものの他にこの自然の三つの領域には何があるのか、と。動物の領域を観察しますと、これは霊的、魂的に、人間とはまったく根本的に区別されます。私たちが個々の人間の皮膚を境に閉じた内部に有しているもの、こういうものは個々の動物の中にはありません。個々の動物は私たちにとってむしろ人間の各部分に比較されます。同じ形態を持つ動物はすべて、つまりすべてのライオン、すべてのトラ、すべてのカスタマス、すべてのハエ、その他動物界において同じ形姿を有するものはすべて、人間の一部分、例えば手の指に比較することができるのです。人間の十本の指を考えてみてください。十本の指の一本ずつにそれぞれひとつの自我を有した魂を与えられているとは思えないでしょう。十本の指は全部、一個の人間に属しているわけですから。人間ひとりひとりに自我−魂が与えられています。人間ひとりひとりに自我−魂が与えられているように、これを集合魂と呼ぶか群魂と呼ぶかは問題ではありません。問題なのは、物事をぼやけさせ、流動的に考えることです。このように、同じ形姿を持った動物のグループの場合、個々の人間のそれと同じ自我−魂が基礎になっていると認めなければなりません。けれども、この動物グループの魂は、人間の自我−魂が探索される場所を探しても見つかりません。人間のこの自我−魂が誕生と死の間に存る場所は、物質界です。これをもって、この自我−魂がその性質と本質により物質界のみに属するということが言われているのではありませんが、人間の自我−魂は物質界で生きています。動物の集合−自我の場合はそうではないのです。同じ形姿を有する個々の動物の集合自我の場合、個々の動物がいる場所は問題になりません。ライオンがアフリカにいようとここの動物園にいようと、まったく同じなのです。個々の動物は同じ集合自我に属し、この集合自我はアストラル界にあります。ですから、同じ形姿を持つ動物のグループから自我を見出そうとすると、霊視的にアストラル界にまで赴かなくてはなりません。アストラル界では、当の動物の集合−自我はこの物質界での人間の独立した個性です。もし人間が十本の指を伸ばした時、ここに仕切り壁を立て、壁の十個の穴から十本の指を突き出すと、壁の外側にいる人には十本の指しか見えません。十本の指の自我を探そうとすれば、壁の後ろ側に行かねばなりません。このように、個々のライオンには、すべてのライオンの集合自我の一部を見なければならないと考えねばなりません。アストラル界へ行くと、すべてのライオン属の個性あるいは個体を見出すことができます。ちょうど壁の後ろ側に人間の十本の指が属する個体が見出せるように。同じ事が、同じ形姿を持つ他の動物の種類にも当てはまります。もし皆さんがアストラル界を「散歩する」なら、アストラル界にはこれらの動物の集合自我が居住しているのがおわかりになるでしょう。そこでは、この物質界でひとりひとりの人間に出会うように、この動物の集合自我と出会うのです。ただこれらの集合自我は、ちょうど十本の指を一本ずつ壁から突き出しているように、物質界へ、それぞれ分化した動物個体を差し伸ばしているのです。

 しかしながら、動物の集合−自我の本性、内的な特性と個々の人間の特性であるものとの間には、著しい相違があります。この違いは、皆さんには非常に逆説的に思われるでしょうが、現に存在しています。つまり、ひとつの特異な事実があるのです。アストラル界での動物の集合自我の知力と叡智を、ここ物質界での人間の知力、叡智と比較してみるなら、動物の集合自我の方が、根本的に賢いということがわかります。動物の集合自我がなすべきことは、最高度の自明性をもって行われます。人間は、進化を遂げていく中でようやく、その自我を動物の集合自我がアストラル界ですでに有している叡智にまで至らせなくてはなりません。むろん、この動物の集合自我には、人間がこの物質界で地球進化全体を通して養成してきたものが欠けています。この特殊な要素は、動物の集合自我にはまったく見出せないものです。これは、愛という要素、愛であるもののすべて−−血縁関係にある人間の血族的な愛という最も単純な形から、普遍的な人類愛の最高の理想の愛まで−−です。この要素は、他ならぬ地球進化の内にある人類によって養成されてきたものです。感情、感覚、意志衝動は、動物の集合魂も有しています。愛を発展させること。これがまさしくこの地球上での人間の使命なのです。これが動物には欠けています。動物の集合自我の基本要素は叡智であり、人間自我の基本要素は愛なのです。

 私たちを取り巻いている自然そのものの内部で、この動物の集合自我の顕現をどのように感じとるべきか深く知ろうとするなら、ここで私たちを取り巻いているものすべてが、霊的な秘密と霊的な諸存在の顕現なのだとうことを思い起こさなければなりません。霊視的能力を備えていない人は、もちろんあのアストラル界での「散歩」をすることはできません。アストラル界では、この地球上で物質的な人間−自我に出会うように、そこに住んでいる動物の集合自我と出会います。けれども、霊視をしない人でも、この集合自我がなしている行為、作用をこの物質界で知覚することができるのです。毎年、秋が近づくと、鳥たちが北東から南西の暖かい地方へ向かって飛翔し、夏が近づくと再びまったく決まった進路を通って帰ってくるのが認められます。各々の鳥の属に対してその進路のひとつひとつを高度と方角に従って比較してみると、これらすべての中に、叡智が、深い叡智が存在することをひとは予感し始めます。この全体を導いているのは誰なのでしょう?それを導いているのは動物の集合自我です。さまざまな動物の属がこの地球上で成し遂げていることはすべて、動物の集合自我の行為であり、作用なのです。動物の集合自我のこれらの行為を追求すると、本質的に、これらの動物の集合自我は地球の周囲に広がっていて、地球の周囲で力となって展開しているということがわかります。地球は、多種多様な力、さまざまにうねり、直線や曲線、蛇行線をなして地球を取り巻いている力に囲まれているのです。これらの力をここではその作用、その顕現の中にのみ見ることができます。人間がこれらの顕現を実感すると、霊視による場合に、動物の集合自我のところへ彼を導いていくものが何なのか予感することができます。このように、動物界で起こっている叡智に満ちた事に踏みいっていくすべてを学ぶことができます。動物の属や種がおこなっていることは、動物の集合自我の行為のいくばくかを垣間みせてくれるのです。

 植物界では事情は異なっています。植物界でも神秘学の観察者に対して一連の自我が現れてきますが、この植物界に現れる自我は動物界のそれよりもずっと少数なのです。その数は限られているのです。植物のグループ全体がやはりひとつの共通の自我に属していて、それを探すとするなら、それらはもっと高次の世界に在ります。動物の集合自我がアストラル界にあって、この地球を取り巻いて流れるアストラル的なものの中で生きているのに対し、植物の集合自我はデヴァチャン界下部、私たち神智学に親しい者たちがデヴァチャン界のルーパ部分と呼びならわしている所に見出せます。そこでそれらは完結した個性として生きています。ちょうどこの物質界での人間のように、そこでは植物の集合−自我が逍遥しているのです。物質体というものをそもそも有していない他の存在たちと共に植物の集合−自我は低位デヴァチャン界に住んでいます。

 どのようにしてこの植物の集合自我を知覚するすべが得られるのでしょうか。知覚それ自体はつまるところ霊視能力の発達と結びついています。この発達は低い段階から次第の高次のものへと進んでいきます。そもそもこれらの能力を得るために最初に発達させねばならないのは、物事に対する感情と感受性です。実際の、真に霊視的な能力は常にまず第一に感情と感受性の養成に基づいています。ただし、浅薄な利己的な感情ではなく、深く敬虔な感情です。これはまったく違うものです。

 皆さんが植物を観照する時、何よりもとりわけ植物がその根を地中に発達させ、茎を上方へ伸ばし、葉を上へ向けて広げ、それが次第に萼葉、花冠へと形を変え、その内部で実を結ぶという経過に注意を向けるに違いありません。人間と次のような比較はできないということが重要です。つまり、人間の頭部、頭を植物の花冠と、人間の足を植物の根と比較してはならないということです。この比較はまったく間違っているのです。神秘学の学院では、常に以下のように指示され、語られてきました。お前たちは植物と人間を比較しなければならない。けれども、人間の頭を植物の根になぞらえるような仕方で比較しなければならない、と。植物が根を地球の中心に向けているように、人間は頭を宇宙の方へ向けています。そして、植物がその花と結実器官を控えめに太陽に向けているように、人間はその生殖器官を恥じらいつつ、植物が根を向けている方向、つまり下部へと向けているのです。従って、神秘学では、「人間は逆立ちした植物である」と言われます。植物は、逆立ちした人間のように見えます。動物は両者の中間にいます。

 通常植物と呼ばれているものの中には、単に植物の物質体とエーテル体があるのみです。けれども、植物もアストラル体と自我を有しています。それでは植物のアストラル体はどこにあるのでしょう?私たちはその場所を問うことができます。というのも、植物の集合−自我は低位デヴァチャン界にあると言うのは、単にものごとの一般的な定義に過ぎないからです。植物のアストラル体と自我がどこにあるのかをまったく精確に示すことができます。植物のアストラル体、しかもこの地球上にあるすべての植物のアストラル体は、地球のアストラル体と同じものなのです。従って、植物は地球のアストラル体の中に浸されているのです。その場所によると、植物の自我は地球の中心にあります。私たちは、神秘学的な観点から、地球をひとつの大いなる有機体として、アストラル体を有する生きた存在としてとらえることができます。そして、この地球上にある個々の植物はその一部です。植物は個々に独立したものとしては物質体とエーテル体のみを養成しました。個々の植物、つまりユリやチューリップ、その他の一本一本は意識を有しません。地球が植物の意識、アストラル体、自我を担っているのです。けれども、そこには植物の自我だけが存在するわけではありません。まだその他に別の霊的存在がいるのです。けれども、その存在たちみんなに場所があるのかという問いを発してはなりません。それらは混じり合い、そこで非常に仲良く暮らしていくことができるのです。このように個々の植物を観察すると、それらに物質体としての特性は認められるかもしれませんが、個々の存在としての意識が植物にあるとはいえないのです。けれども、植物は意識を持っています。その意識は地球の意識と結びついていて、地球の意識の一部なのです。私たち人間が喜びと悲しみを張りめぐらし、これを互いに浸透させあう意識をもっているように、植物の個々のアストラル体が地球のアストラル体に浸透し、植物の自我は地球の中心点を貫いているのです。生きている植物は、動物の有機体組織の中で牛乳が占めているのと同じ位置を、この地球の有機体組織の中で占めています。植物が地球から芽吹き、緑に萌え、花咲く時も、牝牛が乳を与える時も、同じ種類のアストラル的な力が基礎になっているのです。皆さんが植物の花を摘み取っても、それは地球にとって何ら不快な感情ではありません。地球はアストラル体を有し、そのアストラル体で感じとります。植物を摘み取ると、植物は子牛が乳を吸う時に牝牛が感じるのと同じ感じを持ちます。つまり、一種の快さを感ずるのです。地面から生えているものを引き離しても、地球−−個々の植物ではなく−−は快さを感じます。それに対し、植物の根を引き抜くと、それは地球にとってちょうど動物の肉をもぎとるのと同じようなもので、地球は一種の痛みを感じるのです。

 単に集合自我についての抽象的な概念の中でではなく、空虚な抽象概念を感情と感受性へと変化させるように、この中に沈潜すると、私たちは自然の出来事とともに生きることを学びます。私たちの自然観察は生き生きとした感受なのです。秋に野を行き、鎌で穀物を収穫している人を見る時、私たちは鎌が茎を通り、茎を切り取るのにぴったり合わせて、畑の上に何か霊的な風のように快い感情が吹き渡っていくという予感を得ます。霊視者が地球のアストラル体の裡に見るものは、ここで描写されたことの霊的な根本原因なのです。このことを見抜いている人にとって、穀物の収穫はどうでもよい出来事なでではありません。ちょうど人間の場合、何かある体験の際に、まったく決まった種類のアストラル的形成物が立ちのぼってくるのが感じられ、見えるのと同じように、秋には畑の上を地球の快い感情のこのようなアストラル的表現がかすめていくのが見られるのです。鍬が地面に畝を立て、植物の根に手を加える時には、事情は異なってきます。鍬での畝起こしは地球に苦痛を与えます。この時、苦痛の感情が立ちのぼってくるのが見えるのです。ここで言われたことに対しては、容易に反論できるでしょう。つまり、状況によっては、牧場へ行って役に立たないということからあらゆる花々を摘み取ってしまうよりは、植物を根ごと地面から引き抜き、移植する方が良いではないかと。このような非難は、道徳的な観点から考察すれば的を得たものであるかもしれませんが、ここではまったく異なった解釈が提示されているのです。たしかに、状況によっては、白髪になり始めた人にとって、これを美的な理由から正しいと見なすなら、最初の白髪を抜く方が良いと言えるかもしれません。それでもやはり引き抜くのはその人にとって痛いことなのです。花を摘むことは地球にとって心地よく、植物を根から掘り起こすと地球にとって苦痛であると言う時、これらはまったく別の観点なのです。[欠落]生はそもそも苦痛を通して世に現れます。生まれてくる子供は、出産する母親に苦痛を起こさせます。これは環境の中で単に認識するのみならず、自然の中に感情移入するすべをいかに学ばねばならないか、ということのひとつの例です。

 鉱物界にもこのことはあてはまります。鉱物も自我を有しています。ただ、この鉱物の自我はさらに高次の所にあります。つまり、神智学文献が、アルーパ・デヴァチャンと呼びならわしている、デヴァチャン界の高位の部分にあるのです。この鉱物の集合自我は、物質界における人間の自我、低位デヴァチャン界における植物の集合自我、アストラル界における動物の集合自我と同様、それ自体部分として完結した存在です。物質界においては、単に鉱物の物質体のみが存在しますが、鉱物にはアストラル体もエーテル体もあるのです。霊視者は生きた連関を視ています。採石場に行って、鉱夫たちが石を切り出しているのを見ると、霊視者たちにはちょうど生体の肉に食い込む時のような感じがそこに生じているのがわかるのです。そして、鉱夫たちがそこで働いている間中、アストラル的な流れが岩石界を貫いています。アストラル体として鉱物が有しているものは、デヴァチャン界の低位部分に見出され、鉱物の自我はデヴァチャン界の高位部分に見出されます。岩石の自我は苦痛と喜びを感じます。岩石をたたき落とすと、鉱物の集合自我は喜び、満足を感じます。これは最初逆説的に聞こえますが、実際そうなのです。単に類推で考える人は、岩石を打ち砕くと、ちょうど生き物を傷つける時のように、岩石にとっては痛いことだろうと思うかもしれません。けれども、岩石を砕けば砕くほど、鉱物の自我は満足を覚えるのです。さて、「それではいったい鉱物の自我はいつ苦痛を感ずるのか」と問うことができます。鉱物の自我にとっての苦痛を皆さんは次のような例で知覚することができます。食塩を溶かしたコップ一杯の水を想定してください。コップの中の水を冷やしていって塩が固い結晶となって分離されてくると、鉱物的な実質が再び固体化してきます。この個体の分離において苦痛が生じるのです。同様に、砕いた岩石を全部合わせてまた一個の岩石に戻すとしたら、やはり苦痛が生じます。鉱物の集合自我においては、鉱物が溶解する時はいつも喜びの感覚が生じ、固体化する時には苦痛の感覚が生じます。温めた水に塩を溶かすと満足感が生まれ、水を冷却して塩の結晶を析出させると、痛みの感覚が生まれるのです。

 このことを、より大きな宇宙的な関連の中で表象してみるなら、私たちの地球の形成、鉱物の形成がどのようにこのような過程と関連しているかわかるでしょう。この地球の形成をずっと以前までたどっていくと、この地球の温度はますます上がり熱が高まっていきます。そしてレムリア時代において、岩石のひとつひとつが溶解している状態、現在は完全に固く結晶化してしまった鉱物が、ちょうど今日溶鉱炉の中で鉄が液体化されて流れ出しているように流れ出している状態に行き着きます。鉱物はみなこのような過程、つまり水を冷却するとコップの中に溶けていた塩が沈殿するということのなかにその小規模な形を見ることのできる過程を経てきたのです。このように、地球上ではすべてが固体化し、集結してきたのです。このような固体化は、液体状の地球の中への集結による固い結晶が次第に沈殿してくという形で進行しました。このような固体化によってのみ、地球は今日の肉体を持つ人類の住みかとなり得たのです。

 この固体化はむろんある特定の時期に頂点に達したというようにとらえることができます。今日、ある意味でこの頂点の時期は過ぎています。今日すでに部分的には多かれ少なかれ溶解過程が記されなければならないのです。地球がその目的に達した時には、そして人間がもはや地球から何も引き出すことができないほどに浄化され霊化された時には、地球自体もまた霊化されていることでしょう。その時には地球の鉱物的な含有物はすべて精妙にエーテル的になり、地球は物質化する前にもそうであったアストラル的状態に移行することができるのです。物理的な溶解過程はそれに到るための過渡的状態なのです。

 この地球が、私たちが今日の進化段階で順次進化していくための固い舞台基盤となるべく準備していた時期を考察してみると、私たちはそこに絶え間ない地球の受難の過程を記さなければなりません。固体化を進めることで、地球は苦しみ、「苦痛に呻吟する」のです。私たちの生存は、地球の苦痛を通して獲得されたのです。いわゆるアトランティス時代の初期まで、この苦痛が増していくのが認められます。人間が次第に自分で自らの浄化を行うようになった時から、地球も再び苦痛と受難から解放されるのです。この過程は、まだそれほど進んでいません。私たちの足下にある固い地盤の大部分は、今日なお苦しんでいます。霊視をそこへ向けてみるなら、私たちにとって固体は地球存在の呻吟であることがわかります。このような事実を神秘学的な由来から探求し、偉大な宗教的文献の中にそれらを再び見出す人には、こうした文献が霊的世界のいかなる深みから書き上げられたかが開示されます。その時、これらの宗教的古文献を尊重する感情がなおいっそう高まってきます。経験を通じて、私たちは外的世界の事実に目を向けつつ、いかなる真実の基盤がパウロの言葉、つまり「すべての自然は苦痛に呻吟する養子を得ることを待ち焦がれつつ」の根拠になっているか、経験的に認識することができるのです。このパウロの言葉をちょっと翻訳してみると、「地球生成のすべては、後に地球の存在たちにとって『養子を得る』つまり霊化が成し遂げられるための、苦痛のもとでの生成、苦痛のもとでの固体への凝集である」ということです。

 真に秘密の修練と呼ばれるものにおいては、それらを見たとき、私たちの裡に感情を呼び起こすような、周囲の世界のイメージからとりかからなかればなりません。まず始めに修練をやり遂げようとする弟子に、外部の自然で起こっていることを単に外的な出来事として観るのみならず、内的な体験として魂全体をもって、いかにこの地球の生成、固体化が苦痛を引き起こしているかを感じとることができるような表象、概念を伝えられます。この苦痛の心象は、実際の霊的な事実を提示しているのです。真の神秘学においては、像は何らあれこれ考えてつくり出されたものではなく、実際の霊的事実から読み取られたものなのです。いかなる哲学も、思弁も、最高度の明敏さも、このような像の謎を解くことはできません。高次の世界の事実を認識することによってのみ、理解に導かれるのです。神秘学においては、あらゆる像は霊的事実を表しているのです。

 今日は、皆さんが基礎的な神智学において理念、概念、表象として修得しておられるものが、いかにして次第に体験へと導かれるかを暗示するだけにとどめておきたいと思います。何しろ神秘学におけるいかなる図像も体験からのみ取ってこられたのですから。例えば、有名な卍の図形を例にとってみますと、さまざまな文献に、この図形に関する極めて機知に富む解釈を見出すことができます。これはもともとはどのようにして神秘学に取り入れられたのでしょうか。この図形は、私たちがアストラル的な感覚器官と呼んでいるものの模像に他なりません。ある種の処置、修練によって、人間はアストラル的な感覚器官を養成することができます。この二本の線(図示)は、本来、霊視者の霊眼に、炎の車輪か花のように見えたアストラル体の中での動きなのです。これらは蓮華とも呼ばれます。この車輪ないし蓮華−−それらのうち例えば、両眼のあたりには二弁のもの、喉頭のあたりには十六弁のものが位置しますが−−、アストラル界に発光現象として生じてくるこのようなアストラル的感覚器官を表す記号、図形が卍なのです。あるいはまた別の記号、いわゆる五芒星(ペンタグラム)を考えてみましょう。思索しても哲学しても、五芒星の本来の意味を見出すことはできません。五芒星はひとつの現実なのです。これは、人間のエーテル体の中に見出せる流れ、力の流れの作用を描き出している図像なのです。人間の場合、ある種の力の流れが左足から頭部の一定の一まで上昇し、そこから右足へ、次いで左手へ、そこから身体を通り、心臓を通って右手へ、そして右手から再び左足に戻ります。その結果、人間の中に、頭、腕、両手、両脚、両足を通る五芒星を描きこむことができるのです。これを単なる幾何学的な図形としてのみではなく、力の作用として表象せねばなりません。人間のエーテル体の中に、皆さんは五芒星を有しています。力の作用は、正確にこれらの五芒星の線をたどっています。各線はさまざまにねじ曲がることもありますが、常に五芒星の形を保って、人体に書き込まれています。五芒星はひとつのエーテル的な現実です。象徴ではなく、事実なのです。

 このように、神秘学においては、どの象徴も霊的世界の事実の像です。こうした事実が根ざしている世界を示唆することができてはじめて、その意味が認識されます。従って、最高度の明敏さといえども、神秘学の記号の解釈に至ることはできないのです。唯一[霊的世界の]体験から、神秘学の記号と象徴の意味を見出すことができ、この意味を認識することで、人間は「何かを始める」ことができるのです。ですから人間が、まず霊視的な能力によって見出されたことを伝達され、語られて、それから獲得することは、決して不必要なことではありません。そして、探求された事実から、再び人間はこれらの事実自体の原因へと回帰させられるのです。

 記号や象徴と同様、古い伝説や神話においても事情は同じです。伝説や神話は民衆文学からつくり出されたものだとするのは、学識上の机上の空論です。民族は創作しません。すべての伝説や神話は、人間がまだある程度霊視能力を有していた時代の遺物なのです。ヨーロッパの伝説や神話において語られていることは、人間が以前に見た事実を保存しています。これらの伝説、メルヒェン、神話の中にあるすべては、本来霊視的に見られたもので、本来の霊視的経験を見たとおりに語っているのです。神話とはそもそも霊視的経験が見たとおりに語られたものなのです。

 今日でもなお、神話において語られている出来事全体をアストラル界で追求することができます。ヴォータンあるいはオーディンによる行為は、実際に起きた事なのです。神秘学的な記号、象徴、封印の背後に、真実を探すことができるのです。しかも、思弁によってこれらの記号の解釈を企てることが少なければ少ないほど良いのです。

 このように、この連続講演では、神秘学の事実感覚へと入っていこうと思います。記号は考え出された作り事などではなく、霊的世界における実際の出来事の模像ないし複製です。そして、神話において出会うすべての物語は、まだ人間の大部分が霊視力を有していた頃に見たことの再現なのです。


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