ルドルフ・シュタイナー

神秘学の記号と象徴

そのアストラル界と霊界との関係

第六講

ケルン 1907年 12月27日

集合自我と個の自我。人間の本質的構成要素の完成度の違い。未来における生きた法則の支配のための必要条件:秘蹟主義(サクラメンタリズム)の秘密。物質体における本質的構成要素の表出(感覚器官、腺、神経、血液)とエーテル体における表出(人、獅子、牛、鷲)。人間の各種族におけるこれらのさまざまな表出。人間の集合魂(諸民族)。その存続と変容。不死鳥(フェニックス)。秘学(オカルティズム)における言葉の象徴学と霊的な修練にとっての意味。


●神秘学の記号と象徴/そのアストラル界・霊界との関係

<第六講/ケルン 1907年12月27日>

 

 昨日の前置きに続いて、今日はすぐにいくつかの大変特徴のある記号や形象についてお話することにいたしましょう。

 昨日強調されたのは、この物質界に生きている人間だけが個としての魂、つまり自我を有していて、私たちの周囲にいる動物たちは集合自我、集合魂を有していること、集合自我はアストラル界に生きていてそこでは完結した存在として見いだされるということでした。このように動物界と人間界は、霊的に観察してみると、集合魂ないし集合自我と個としての自我として互いに相対峙しているのです。ただし、これを宇宙においてあたかも個々の存在間にまったく移行状態が存在しないかのように思い描いてはいけません。自然は飛躍しないという格言は、神秘学者にはまったくあてはまらないとは言え、至る所に移行状態が見られるのは確かです。つまり、動物界の集合魂と人間の個別的魂との間にも、移行状態が見出せるのです。人間がこの地球紀に出現してすぐに完全な個別的魂を有していて、この魂がこの地球上で同じやり方で何度も何度も受肉してゆく、というふうに思い描くとしたら、それは正しくありません。むしろ、今日の人間は、太古の時代に有していた集合魂から、まだ自分のものになっていない完成された個別的魂へと徐々に移行している状態なのです。人間はまだその物質体に個別的自我を完全に組み込んでいく途上にあります。この地球紀が多かれ少なかれ完了するときになってはじめて、人間はこの完成された個別的魂を得るでしょう。大多数の人々にとって、今日自我は集合自我と個別的自我の中間物です。過去へとさかのぼればさかのぼるほど、人間の自我はいっそう集合自我の度合いを増します。地球紀の初め、魂が初めて神的な世界からこの物質界に降ってくたとき、人間の魂はまだ集合自我でした。複数の人間がいっしょにひとつの共通の魂、すなわち集合自我を有するグループに属していたのです。

 このことをひとつの面として記憶にとどめておいてください。さて、もうひとつの面として、人間本性の構成要素そのものをもう少し詳しく見ていきましょう。これは、もう繰り返し言われてきたことなので、皆さんはもう十分ご承知のことと思いますが、人間はまずその本質として四つの構成要素、すなわち物質体、エーテル体あるいは生命体、アストラル体、自我を有しています。この自我は、もっと正確に観察すると、さらに三つの部分、つまり感受魂、悟性魂あるいは心情魂、意識魂という名で呼ばれている部分に分かれて現れます。

 感受魂と悟性魂ないし心情魂においてようやく独立した自我がほのかに現れはじめ、意識魂に至ってようやく自己意識的な自我の最初の名乗りが得られます。さらに、人間の本質の第五の構成要素、つまり霊我ないしマナスと呼ばれるものも徐々に人間の中に入り込んできているように見えます。従って、今日の人間の場合、次のように構成されているのです。つまり、物質体、エーテル体ないし生命体、アストラル体、それからアストラル体と内的に結びつきアストラル体の中にはめこまれているようになっている感受魂、そして悟性魂と意識魂、さらに本来の自我−魂である意識魂の中に霊我ないしマナスが組み込まれています。これでおよそ今日の人間を想定することができるでしょう。

 さて、これら人間の構成要素のうちどれが最も仕上がった、完成されたものなのか明確にしておかなければなりません。すでに私から説明を受けた方もいらっしゃると思いますが、今日の人間が進化したように、最も仕上がった、最も完全に発達した構成要素は物質体なのです。ただし、「最も仕上がって、最も完全に発達している」ということと、「高次の性質を持つ」ということを混同してはいけません。なるほど、エーテル体とアストラル体は、その程度において物質体よりも高次の性質を持っていますが、未来においてやっとその発達の完成に到達します。その性質において今日の物質体は人間のうちでもっとも完成された構成要素なのです。物質体を研究する人、しかも単に解剖学的物理学的にではなく、心情と心にしみわたるように研究する人は、物質体の中に組み込まれている巨大な叡智の前に驚嘆しつつ立ち尽くすでしょう。私たちの物質体はその最小の部分のどれをとっても、完成された、知恵に満ちた構造を示しています。例えば、この物質体のうちで大腿骨のほんの一片、大腿骨の一番上の部分をとってみても、これは一個の中身の詰まった固まりではなく、小さな梁が見事に組み合わされた、知恵にあふれた構造なのです。

 精緻な梁がいかに組み合わされているか研究してみると、最小の実質の消耗で最大量の力が出せるように、そしてこの大腿骨の柱二本で上体が支えられるようにすべてが構成されていることがわかるでしょう。最も完璧な工学技術をもってしても、このような叡智によってこれほど少ない材料の消費でこれほど大きな力を展開する橋や骨格のようなものを建造することはできません。人間の知恵は人間の物質体を構築したこの叡智にはるかに及ばないのです。物質体のすべての部分に対しても同様です。神経組織を備えた脳を観察すると、これはすばらしい構造です。人間の心臓を観察すると−−心臓はまだ完成していく途上にあり、将来もっとずっと高度な完成に至るのですが−−、心臓もすばらしいものです。この物質体の完成と欲求や衝動、熱情を伴ったアストラル体を比較してみると、次のように言わねばなりません。アストラル体は将来物質体よりも高次に位置するようになるとはいえ、今日のところまだ比較的低い状態にある、と。今日人間が享楽への熱望として発達させているすべてのものにおいて、アストラル体は物質体を何百とない攻撃にさらすのです。人間が調達するアルコールやその他あらゆる享楽の中で欲望され満たされるもの、これらはすべて根本的に物質体の叡智に満ちたすばらしい構造に絶え間なく攻撃をしかけるまさに心の毒なのです。アストラル体が、今日すでに物質体が完成状態で有しているものに行き着くには、長い進化期間が必要なのです。

 私たちの神智学的宇宙論が提出する進化論では、物質体はすでに古い土星上で物質体としての性質を有し、太陽、月、地球進化を経て、さらに完成度を高めてきたということでした。ご存知のように、第二段階、すなわち古い太陽上でエーテル体が加えられ、従って今日エーテル体は進化という点で物質体より一段階低い状態にあるのです。さらに、古い月上でアストラル体が付与されました。アストラル体はこの月進化と現在までに完了した地球進化の一部しか経ていません。自我は地球上ではじめてつけ加えられたので、人間本性の四つの構成要素の中では「赤ん坊」の状態です。

 昨日お話しした動物の集合魂を貫いているあの叡智は、本来人間の物質体に刻印されています。この叡智は、知恵にあふれた構成を持つ人間の個別の物質体へと移行したのです。人間のエーテル体はまだその完成の途上にあり、地球進化の経過の中で、その完成のために必要なものをすべて自らのうちに取り入れるのです。

 地球が目標を達成したあかつきには、地球はアストラル状態へ、そしてさらに高次の状態へと移行し、その後、地球を引き継ぐ木星と呼ばれる惑星に変化します。その時、人間のエーテル体は、地球上で物質体が完成した性質を持つように、完成されているでしょう。その次にくる地球の受肉状態、通常未来の金星と呼びならわしている状態においては、人間のアストラル体が完成に至るでしょう。その時、アストラル体は今日物質体の状態、そして次の惑星状態でのエーテル体の状態と同じ段階に至るでしょう。そして最後に、地球がヴルカン状態に到達する時には、私たちの自我が完成されていることでしょう。従って、実際、次のようにいうことができるのです。地球上では、人間の物質体のみが人間と言えるものであり、地球の次の惑星状態では人間のエーテル体が人間であり、その時、エーテル体は地球が人間に与えることのできるもの、すなわち愛によって浸透されているであろう、と。

 今日、人間の物質体がその独自の特性として担っているものは、古い月に負うところのものです。神秘学においては、古い月は叡智の宇宙と呼ばれています。当時、古い月上では少しずつ現在人間の物質体に見いだされるものが準備されていました。ちょうど私たちの物質体であるものが月上で叡智に貫かれていたように、後の地球の木星状態に見いだされるべきもの、すなわち完全に愛の要素に貫かれたエーテル体が愛の宇宙を通して準備されるのです。今日私たちが物質体の骨の一部に現れている叡智に驚嘆するように−−比較のためにこう言ってよろしければ−−、木星人間はエーテル体に驚嘆することでしょう。エーテル体ちょうど地球上の物質体が叡智に貫かれて形成されているように、愛の力に貫かれているからです。

 このことを心にとどめておいていただくなら、本来人間の物質体がようやく真の人間といえるものであり、ようやく本当の意味で人類の段階にあるという見方を受け入れ、この事実を認識していただけると思います。人間のエーテル体はまだ人類の段階ではなく動物の段階であり、人間のアストラル体はまだ植物の段階です。夜眠りにつきアストラル体が離れるとき、物質体とエーテル体は夢のない眠りに沈みます。これは植物に終始見られる状態です。人間のアストラル体は、その意識状態に関しては植物の段階にあります。自我に至っては、ようやく鉱物界の段階に達している状態です。自我−人間の意識状態は、まったく鉱物界の段階そのものです。この真実に従って、ちょっと認識として有しているものすべてを調べてみてください。正しく認識しようとしてください。そもそも人間が理解できるものは何なのでしょうか。人間は鉱物界の物理的法則を理解できます。その法則に従って機械や工場、建築物等を建造できるのですから。これらすべては鉱物界の物理法則に従って行われます。植物の場合、もう当然人間は生命そのものは知性をもってしては理解できないと言わねばなりません。将来、人間が今日鉱物を理解しているのと同じように植物を理解するときがくるでしょう。そのときには、今日聖堂や家や機械類を鉱物界の法則に従って建造するように、植物でも作り出すことができるようになるでしょう。現在、自我が貫かれているのはすべて鉱物界の法則なのです。

 科学は、いつか生命ある存在を実験室の中で製造するという理想が実現するのを期待しています。これは、人類が道徳的進化のある特定の必要な段階に達しなければかなえられないでしょう。もし人類が今日すでにそういったことができるとしたら困ったことです。今日鉱物的な法則に従って時計を製作したり家を建てたりするように、将来人間は生きているものの法則に従って生きているものをつくりだすようになります。そのときに人間は生きているものに生命そのものを刻印できるようになっていなければなりません。そのとき実験室の机の前に立つ者は、自らのうちからあのいわば自らのエーテル体のなかにある振動を、生命を与えられるべきものの中へ導入していくことができるようになっていなければならないのです。善良な人間であれば善のものを導入しますし、良くない人間であれば良くないものを導入します。ただ神秘学においては次のような教理があって、サクラメンタリスム(秘蹟主義)の秘密を修得しないうちは、生命製造の秘密と呼ばれるホワイト・ロッジの知識は人類に伝授されないとされています。

 サクラメンタリスムとは、人間の行為が道徳的完成、神聖さの炎に燃え上がっていなければならないということを表しているのです。人間が作業を成す実験台が彼にとって祭壇となり、彼の行為が神聖なものとなったときはじめて、人間はこのような知識を伝授されるにふさわしく成熟するのです。唯物主義に染まった今日の人間たちには、その実験台がいかに祭壇にはほど遠いものであるかを考えてみてください。

 このように人間の意識は鉱物意識から植物意識へと高められていくのです。もうひとつ神秘学の教理があります。もはや自分自身の幸せを他のすべての人々の幸せと分離できなくなったときにはじめて、人間は植物意識の状態に到達するということです。個々人が他の人々の負担のもとに自らの幸せを追求するかぎり、意識が一段階上にひきあげられるという状態は起こらないのです。

 以上のように、私たちは物質体においてようやく本来の人間の段階であり、エーテル体ではまだ動物の段階、アストラル体では植物の段階、自我においては鉱物の段階なのです。このような事実のうちひとつのこと、つまり私たちはエーテル体においては動物の段階であるということを心に留めておきましょう。エーテル体は地球に存在する間にだんだんと人間の段階へと進化していきます。ますますいっそうエーテル体は愛によって、ひとりの幸せを他のひとの幸せからもはや分かつことのできないあの愛によって貫かれます。まず最初に物質体が仕上げられ人間の段階に到達したように、今度はエーテル体が、そして次にはアストラル体と自我も、人間の段階へと高められるでしょう。自我はまだ鉱物の段階です。自我は地球上ではじめて人間に組み込まれたのです。

 今度は、私たちの魂、つまり感受魂、悟性魂ないし心情魂、意識魂と意識魂の中に含まれた霊我ないしマナス、これらとエーテル体との関係を考察してみましょう。私たちのエーテル体自体は動物の段階にあります。下の方(黒板に書かれる−−図参照 下から上へ)の人間の高さに物質体があります。とりあえずエーテル体は省略します(図では点で示されている)。私たちのアストラル体、魂の第一の構成要素である感受魂を含むアストラル体は植物の高さにあります。さらに、悟性魂ないし感受魂が続きますが、これらはすべて植物の段階にあります。さらに上方には、今日の人間に見出せる限りでの霊我ないしマナスを含んだ自我ないし意識魂があります。

 

鉱物                     意識魂/

                       自我/霊我ないしマナス

                  悟性魂

植物・・・・・・・アストラル体/

          感受魂

・・・

人間−−−物質体

 

 とりあえず動物段階のエーテル体は省略しました。今度は人間のどの構成要素の中にも一定のやり方で他の構成要素が現れているということを明確にしておかねばなりません。人間の物質体はまず第一に物質体そのものの開示を自らのうちに表現しています。感覚器官を観察すると、物質体のうちに物質的原理が表現されているのがわかります。目の中には一種の写真機、カメラが、耳の中には一種のピアノがあるというわけです。つまり、感覚器官のなかに物質的原理そのものが表現されているのです。人間の腺を観察しますと、腺のなかにはエーテル体が表現されているのが見出せますし、神経組織の中にはアストラル体が、血液の中には自我が表現されているのが見出せます。「血はまったく特性のジュース」なのです。血を所有する者が人間の自我を所有するのです。悪魔が人間の血を所有すれば悪魔は自我を得るのです。

 このように人間の物質体のなかに他のどの構成要素も入り込んでいて、それが物質体のなかで表現されています。血液は無意識に脈打っています。血液のなかで活動する自我は、その物質的な経過を意識していないからです。物質体の中に他の構成要素の本質が現れているのと同様、エーテル体のなかにも他の構成要素の本質が現れています。もっともこの場合は「人間的に」現れているのではなく、「動物的に」、しかもある特定の動物の形で、外部に存在する動物の形姿と一定の類似を持つ形で現れています。このようにエーテル体の下にあるもの、つまり物質体が影像のように現れているのです。人間本性の物質的部分が現れているエーテル体のこの部分は、「人間」と呼ばれています(黒板に書き込まれる)。エーテル体の中に現れているアストラル体、感受魂は、そのエーテル形姿が似ていることから、「獅子」と呼ばれています。エーテル体の中に現れている悟性魂は、「雄牛」あるいは牝牛と呼ばれ、霊我を担う意識魂は、霊視的にみたエーテル形姿が似ていることから「鷲」と呼ばれています。

 

  鉱物                          意識魂/自我/

                              霊我ないしマナス

                      悟性魂

  植物       アストラル体/感受魂

 

  エーテル体  人間     獅子     雄牛       鷲

  (動物)

 

  人間     物質体

 

 こうしてここに(図参照)黙示録の四つの徴(しるし)−−人、獅子、雄牛、鷲−−が、四つの本質的構成要素の、人間のエーテル体における現れとして挙げられます。このことから、人間本性を表すのにこれらの意味深い象徴(シンボル)形象を考え出した私たちの祖先は、空想や哲学、思弁から作り出したのでも明敏さによって案出したわけでもなく、実際にある世界から、つまり隠された事実の世界から作り出したということが見てとれるでしょう。

 さて、ここで明白にしておかなければならないのは、これらの四つの表現は、どんな人間にも同等に生じているわけではないということです。ある人の場合、四つのうち一つの表現が優勢であり、別の人の場合にはまた別の表現が優勢となります。むろん、人類全体をその進化において考察せねばなりません。物質体そのものが最も強く現れているのはどこか観察してみると、その最も強い現われは、没落しつつある赤色人種、アメリカ・インディアンの場合、優勢である骨組織の特別な形成の中に見出せます。エーテル体が物質的に特別に現われているのはどこか見ようとするなら、これはまた別の人種、黒色人種の場合、腺組織の中に探さなければなりません。植物のひとつの性質は、炭素分離において見いだされます。[ここで筆記に欠落]とりわけ強く神経組織が物質段階に現われ、それとともに敏感さも現われている人間は、マレー人種の中に見いだされます。そしてとりわけ血液組織が現われている人種はモンゴル人種です。マナスの原理を養成しはじめている人間の一部はコーカサス人種に見いだされます。こうして神秘学的真実から人種の分類ができました。今日の人間の中に見出せるものは、ある人種の場合、あるものが優勢で他のものは後退しているというように、人類全体に配分されているのです。

 このような差異は人間のエーテル体の場合にも見いだされます。肉眼で物質体を観察するように、霊視によってエーテル体を観察してみると、人間においてエーテル体は、人−人間、獅子−人間、雄牛−人間、鷲−人間に分かれているのが見られます。これらの集合自我はアストラル的性質のものです。霊視者はアストラル界において動物の集合自我と人間の個別的自我の中間に人間の集合自我が位置しているのを見ます。時間的に過去にさかのぼるほど、人間はエーテル体に関してはこれら四つのうちのひとつの形態をとっていることが多くなります。これら四つの魂のグループはそれぞれひとつずつ人間の集合魂、つまり、ひとつは人間−集合魂、ひとつは獅子−集合魂,三つ目は雄牛−集合魂、四つ目は鷲−集合魂に帰せられます。ただ、これらの物質的な動物の形姿からとられた名前にあまりにこだわりすぎると、これについて誤った観念を持つことになってしまいます。このような獅子−人間のエーテル体は、物質界の個々のライオンに似ているよりもずっとライオンの集合魂の方に似ているのです。キリスト教は、福音史家たちについて、彼らの魂は通常の人間の魂のようではなく、人間のグループ全体を含むことを提示してきました。内的な魂の性質に従って、マタイは人に、マルコは獅子に、ルカは雄牛に、ヨハネは鷲に比較されてきました。これは、キリスト教的秘教が福音史家ひとりひとりの魂に帰してきた類似性に由来するものです。人間が、ある面では下降において、またある面では上昇において理解されるということを見ていくと、このことをもっと正確に理解できるでしょう。この地球上で唯物主義の最も深まった時点で、人間は個別的魂の原基を獲得しました。人間はひとつひとつの集合魂、人−人間、獅子−人間、雄牛−人間、鷲−人間をもっと厳密に区別していた古い時代から下降してきました。人間が将来再び上昇していったとき、人間はその個別的魂を保持したまま、より高次の段階においてより高次の意識で、以前には単にぼんやりとした意識のなかに有していたもの、つまり四つの集合魂を再び発達させることでしょう。そういうわけで、キリスト教においては、福音史家たちに、これらの特性が付与されているのです。

 もうしばらくの間、この人間の集合魂の概念にとどまってみましょう。これらの集合魂は、空間的に、つまり並列的に生きているというよりは、むしろ時間の中で相次いで生きているのです。動物の集合魂を観察してみると、ライオンのグループや鯨のグループを考えるなら、それらに共通の集合魂はアストラル界に並列的に存在しています。けれども、人間の集合魂を観察するときは、もっと時間というものに目を向けなければなりません。人間の集合魂はエーテル的なもののなかで、いわば物質界とアストラル界の境界領域である特定の時期に生まれ、再びある特定の時期に変化してゆくのです。先に述べたこれら四つの集合魂は、単なる四つの主要なタイプであって、無数の中間段階が存在するのです。最も特色ある人、獅子、雄牛、鷲という形姿を挙げましたが、これらはどのようにも混合することが可能です。

 ひとつの人間集団を観察してみましょう。例えばひとつの種族、古代中央ヨーロッパのいずれかの種族、ここではヒュルスカー族をとりあげてみましょう。このような種族がいったんあらわれては消えていきます。唯物主義的な世界観察者は、ヒュルスカー族であるもののなかに、そもそも何か抽象的なもの、種族をまとめるひとつの概念しか見ていません、神秘学者はヒュルスカー族の中にひとつの集合魂を見ます。この集合魂はヒュルスカー族が歴史に登場したときに現われ、「生まれ出」て、ヒュルスカー族が勢力を増すとともに成長し、ヒュルスカー族が歴史から消えるときに、「死ぬ」のです。進展してゆくヒュルスカー族の背後に、神秘学者はひとつの進展してゆくエーテル存在を見るのです。もっとも、エーテル存在とこの地上の物質的存在の間には差異があります。物質的存在は物質界で生まれ、成長し、生の最高点に達して、また死にます。誕生と死が物質界の存在の特徴をなすものです。アストラル界の動物の集合魂を数千年に渡って追求してみると、これらの生成と消滅は「誕生」と「死」という言葉ではまったく表現できません。まったく別のものに基づいているのです。すなわち変化、変容です。霊視的な能力をもってアストラル界で今日ある動物の集合魂に出会い、その集合魂の以前の受肉、つまり1500年前にこの動物の集合魂がどうであったかを思い出すとすると、これはもっと年の若い人を観察するということにはならないのです。もちろん、集合魂もやはり青年期、中年期、老年期を経ていきます。けれども集合魂は老年期に意識を捨てることなく死ぬこともないのです。死を通過することなく絶え間なく変化し続けるのです。皆さんは動物の集合魂をずっと太古の昔までさかのぼって追求していけます。つまり、変容があるのみで誕生と死はないのです。

 ヒュルスカー族のそれのような集合魂の場合にも同様のことがあてはまります。ヒュルスカー族が何人かの肉体を持つ人間として物質界に現われると同時に、ヒュルスカーの魂が形成されたのです。けれどもヒュルスカー魂が生まれたというのではなく、別の時代から作り変えられ変成させられたのです。この魂はヒュルスカーの勢力とともに成長し、ヒュルスカー族が頂点に達したときに頂点に達し、ヒュルスカー族が物質界における歴史のなかで後退し消えてゆくときには、ヒュルスカーの魂は別の種族の魂となるために新たに若返るのです。つまり、魂は変容するのです。高次の世界において魂を観察すると物質的な誕生と物質的な死は存在しません。私たちの知っている誕生と死は物質界のみに存在するのであって、高次の世界には存在しないのです。神秘学の叡智はこのことをよく心得て表現していて、その際、数に対しては非常に注意を払っています。ある特定の人間集団に属する集合魂がいつ成立して別の魂から変容して成長し、頂点に達して再び下降していき、さらにまた別の集合魂に変化してゆくのか、平均の数を決定しようとしてきました。人間の寿命を平均75歳と見積もって−−この数を大陰暦年とみなして−−7を掛けると、四つのタイプにおける人間の集合魂の次の変化までの生命が明らかになります。ここでは7によって世代が意味されているのです。この場合、大陰暦年であることを考慮すると−−およそ500年となります。従って、神秘学においてはこう言われています、ひとつの集合魂は別の集合魂に変わる、その意識を失うことなく、新たに自分自身を生み出す、と。

 このような集合魂の自我を観察し、この自我のための外的な表現手段を物質的なものに探すとすれば、これは血液なのです。血は神秘学者にとって火の現われであり、火で燃え立たされた実質です。人間の物質体が土の現われであり、エーテル体が水の現われ、アストラル体が空気の現われであるように、まだ利己主義に縛りつけられていない自我は火の現われなのです。ですから−−このことは明日またお話しますが−−、血は利己主義を通して死を見出したといえるのです。人間の自我は自分自身によって「自らの火の中でわが身を焼き付くし」ています。これは神秘学上の表現です。人間は利己心を克服するときにのみ、不死性に到達するのです。人間の集合自我は自らの火のなかで身を焼き付くします。500年が過ぎると、集合自我は燃え尽き、自己自身から新たな形姿を創造します。このことが神秘学では、集合自我は一般に500年生き、それから燃え尽きて自らの火から再び命を吹き込まれると叙述されます。これが「不死鳥(フェニックス)」と呼ばれているのです。フェニックスについての美しい伝説は、このように事実に即した背景を有しているのです。フェニックスは四タイプの特性をもつ集合自我なのです。それは七世代後に燃え尽き−−一世代を75大陰暦年と計算して−−復活するのです。

 これがフェニックス伝説の真実の背景です。こうして皆さんは、フェニックスに関するような古い伝説は極めて奥深い神秘学的事実から創られたということの新たな証明を得られたわけです。ここでが、何百年にもわたって神秘学の学院で教えられてきたこと、そして実際の、示威しに即した経験−−神秘学の記号や封印はそれを表現しているのですが−−が示していることを、あれこれ思弁を弄するのではなく、明示せなばなりません。

 このような神秘学の真理の表現のことを聞き、これを人類が記号や象徴のなかに保存しているものと比較してみると、人間の意識はいかに多くのことをそれが悟性的意識となる以前にすでに創造していたのかが繰り返し思い出されます。人間はしかし、今日我々はすでにずいぶん進歩したと信じ込むものです。けれども、人間の悟性は、過去の世の創造的意識、これはむろん秘儀参入者のみが有し、彼らはこれを伝説の中に隠したのですが、この創造的意識にはるかに遅れをとっているのです。四種の動物についての象徴は考え出されたものではありません。その出発点、起源となっているのは、思考ではなく、観ること(Schauen)なのです。

 私が「集合魂は物質界とアストラル界の間の境界のエーテル的なもののなかにある」と言っても、ひとつの境界線を想像しないでください。物質界から出発しますと、ここに(描かれる)物質界の七つの小区分があります。続いて、アストラル界の七つの小区分がくるのです。これらのうち下から三つまでの区分は、物質界の上から三つまでに区分と重なり合っています。つまり、物質界の上位三区分が同時にアストラル界の下位三区分でもあるというように、アストラル界は物質界にはめ込まれていると見なさなくてはなりません。これはいわば周辺地帯です。私たちの魂が死後、熱望によって地上につなぎとめられているときに、離れられないところで、カマローカと呼ばれます。

 

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------- ------- |  周辺地帯(Randzone)

------- ------- |  カマローカ(kamaloka)

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------- アストラル界

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物質界

 

 このように、ここで最初の例として選び出した神秘学の記号、象徴、封印のなかに、深い神秘学的事実から得られたものを見出すことができます。従って、神秘学の学院における深い過去の叡智を誤解したり、それらが現代の知識によって何らかの方法で克服されたとみなしたりすると、まったく道を誤ることになります。神秘学の教えの叡智に記号や象徴のなかで向き合うところではいつも、それらは直接の神秘学的考察によって確認されるということが示されます。神秘学の教えが比較的遠くない時代に作用していたことの例は、名前や言葉に象徴的な意味が秘められていたということですが、これらの根底にある真の意味は高次の世界の事実なのです。文献学の意味における言語形成の起源にさかのぼるというわけではありません。これからお話することは、文献学によって確かめられることではありません。たとえ文献学的に誤りとされたとしても、言葉の象徴学はやはり正しいのです。

 物質界から出発してアストラル界を通り、デヴァチャン界へとさらに高く上昇していくほど、すべてが物質界の鏡像として眼前に現われてきます。この鏡像をまず読み取ることを学ばねばなりません。学徒たちにとっての数は、最も学びやすいものです。この物質界の543という数があるとします。この数はアストラル界では鏡像としてありますから、345と読みとれるわけです。同様に他のあらゆる事物や出来事も鏡像として読み取ることができます。少々極端な例を挙げますが、この物質界で鶏が卵を生み、その卵から雛がかえるようすをたどってみてください。これと同じ出来事を、雛がいてこれがしだいに小さくなり最後に卵の中に入り込むというふうに、時間も逆行するわけです。これを初めて目にする学徒にとってはどんなに当惑することかおわかりでしょう。人間から発する情熱は、タブローに描かれたように見えます。情熱は中心点から発します。この情熱の反映は、まったく動物が押し寄せてきたときのように現われます。低級な情熱はありとあらゆる野生の獣たち、ねずみやラットのようなものに見えるのです。学徒がこのことを学んでいなかったら、自らの情熱がねずみやラットとなって自分のほうへ押し寄せて来るのを見るとき、これが最初の経験であれば、容易に迫害妄想その他の病理学的な状態が現われ得るのです。

 ここで皆さんに高次の世界の低次の世界に対する関係についての事実としてお話してきたことを、人々は言葉遊びとしての進化論のなかに象徴的に表現しようとしてきました。人間が地球での生存に入ったとき、人間はエヴァ[Eva]を通じて霊的な状態から感覚的な状態に入り込んだのです。エヴァのなかに人々は霊的な人類が物質的になった、すなわち罪を負うこととなった状態を見ました。人類を再び霊的なものへと上昇させ、世界に死すべきものをもたらした女性とは反対のものを表現しようとすると、逆に人類に再び不死性をもたらすべきものが表現されねばなりません。つまり、名前が逆にされねばならないのです。そのため神の天使はマリアに対して、「アヴェ・マリア [Ave Maria]!」という言葉で語りかけたのです。エヴァからマリアとなる(Eva → Ave )のです。この逆転は象徴的な意味をもっています。多かれ少なかれ本末転倒の文献学がこれに対して何と言おうと問題ではありません。重要なのは、神秘学においては、象徴的なものが語の組み合わせにおいて作用を及ぼし、この言葉を発することで、人間が物質界を霊的世界はその流れにおいて逆方向であるという神秘学的事実を意識するように求められてきたのです。

 このことは大変深い意味をもっています。その背後に何か恣意的なものは見ないでいただきたいのです。背後に見出せる最良のものは、人間は言葉のなかに神秘学的な合法則性を認識するためにこのような実習をさせられることにより、意識的にせよ無意識的にせよ、神秘学的修行を行なっているのです。象徴学の原理は同時に修行の原理なのです。


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