ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第1講    1923年10月19日  ドルナハ 

・エーテル的に鳥を見ると、鳥全体が一個の頭部である

・鳥の翼と人間の思考

・ライオンと胸部律動組織

・牛:途方もなく美しい消化

・鷲、ライオン、牛の統合としての人間

・蝶・蛾の幼虫は太陽光を紡いで繭を織る

・蝶の翅と人間の記憶

・認識原理としての芸術


 私たちが行なっている考察においてしばしば言及され、四季とミカエル問題関する前回の連続講義(☆1 GA229 四季の宇宙的イマジネーション)でもある役割を果たしていたのは、人間というものは、その構成全体において、その生の関連において、人間であるものすべてにおいて、本来、小宇宙[eine kleine Welt]を、マクロコスモスに対するミクロコスモスを示しているのであり、人間は実際自らのうちに、宇宙の法則性のすべて、宇宙の秘密のすべてを含み持っているということです。ただし、このまったくもって抽象的な所説を完全に理解することがたやすいことだ、などとお考えになってはなりません。いわば宇宙の秘密の多様性の奥深く入り込んでいってから、この秘密を人間のなかにふたたび見出さねばならないのです。

 さて今日はひとつこのことを、一方においてある出発点から宇宙を見、それから、人間がいかに小宇宙として大宇宙の内部に存在しているか理解するために人間を見るというようにして観察していこうと思います。大宇宙について語ることができることは、常に小さな断片でしかないというのはもちろんです。決して完全なものを叙述することはできません、そうするには観察にあたって少なくとも全宇宙をくまなく歩き回らなければならないからです。

 まず最初に、こう言ってよろしければ、私たちのすぐ上に現われているもの、これに目を向けてみましょう。人間の周囲のもののうち、動物の系列のなかでその生をいわば空中で営んでいるもの、しかも非常に際立ったしかたで空中で生をいとなんでいる部類を見てみましょう。つまりこれは鳥類です。

 空中に住み、その生存条件を空中から得ている鳥というものが、大地に接して棲み、あるいは地下に棲むことさえある他の動物たちとは本質的に異なって構築されている、ということは誰しも否定できないでしょう。私たちが鳥類を見るとき、一般的な、人間として通例の見解にしたがって、鳥の場合にも、頭部、四肢その他について語らざるを得ないと思うのは当然です。けれどもこれは根本的にまさしく芸術的でない観察方法です。すでにしばしば注意をうながしてまいりましたことですが、そもそも真に宇宙というものに精通しようとするなら、主知主義的な理解にとどまっていることはできず、主知主義的なものは、しだいに宇宙を芸術的に把握することに移行していかざるを得ない、ということです。

 さて、そうしますと皆さんにしても、他の動物の頭、頭部と比較して実際きわめて奇形化しているいわゆる鳥の頭部なるものを、ほんとうの頭部と理解することはないでしょう。なるほど、外面的、主知主義的に観察すれば、鳥は頭をひとつと胴体をひとつ、そして四肢を持っている、と言えるでしょう。しかし、よく考えてみてください、そうですね、たとえばラクダの脚やゾウの脚と比して、鳥の脚はいかに萎縮していることでしょう、また、私見ではライオンやイヌの頭に対して、鳥の頭はいかに萎縮していることでしょう。このような鳥の頭部のなかには、規定どおりのものはほとんどまったく存在していないのです。つまり鳥の頭部のなかには、根本的に、イヌや、私見ではゾウやネコの場合のような、前方の口吻部以上のものはほとんど存在していないのです。哺乳動物の口の部分が少しばかり複雑になったもの、これが鳥の頭である、と私は申し上げたいのです。それに哺乳動物の四肢であるもの、これも鳥の場合には完全に萎縮しています。なるほど、芸術的でない観察方法は、それについても単純に、前肢が変形して翼になった、と言います。けれどもそれらはことごとく、まったく芸術的でない見方であり、イマジネーション的でない見方です。自然を真に理解しようとすれば、宇宙の内奥へと真に入り込んでいこうとすれば、こういうことをもっと深く、とりわけその形態化する諸力と形成する諸力において観察しなければなりません。

 単純に鳥も頭と胴体と四肢を持つ、というような見方は、けっして、たとえば鳥のエーテル体を観るということを真に理解できるには至りません。と申しますのも、イマジネーション的に観ることを通じて、鳥において物質的にあるものを見ることから、鳥においてエーテル的にあるものへと移行すると、エーテル的な鳥にあってはまさに頭しかない、ということに至るからです。エーテル的な鳥から即座に理解できることは、鳥というものは、他の動物の頭、胴体、四肢とは比較できず、鳥は単なる頭として、まさに変形された頭として、頭として変形された頭として理解されねばならない、ということです。したがって、本来の鳥の頭は、単に口蓋と前方の部位、口の部分を示しているにすぎず、さらに後方へ続くもの、骨格のうち肋骨や脊椎に似て見える部分、これらはすべて、変容され、変形されてはいるけれども、やはり頭とみなされるべきものなのです。そもそも鳥全体が頭なのです。これは、鳥を理解しようとすれば、実際のところ私たちは、地球進化を、惑星としての地球進化(☆2)を、ずっとずっとはるかな昔まで遡っていかなければならない、ということによるのです。

 鳥は長い惑星的(惑星進化的)な歴史を経てきています。鳥は、そうですね、たとえばラクダなどよりはるかに長い惑星的歴史を経てきているのです。ラクダはどの鳥よりもずっと後になって発生した動物です。ダチョウのように、地上に縛りつけられた鳥は、もっとも後になって発生した鳥です。鷲、ハゲタカといった自由に空中で生きる鳥たちは、非常に古い地球動物です。これらの鳥は、以前の地球紀、月紀、太陽紀において、その後鳥のなかへ入って内部から外に向かって皮膚にまで移行していったものを、それ自体としてまだすべて有していたのですが、鳥類において、今日皆さんが羽のなかに見るもの、角状の嘴のなかに見るものは、本質的には後になってから完成されたのです。鳥における外的なものの起源はより遅く、鳥がその頭部の性質を比較的早期に作り上げたことによってもたらされ、地球進化の後の時代になってから鳥が入り込んいった諸条件のもとでは、鳥は、その翼にみられるものを外的に付け加えることができるだけとなったのです。この翼というものは、たとえば月と地球によって鳥に与えられたのですが、他方、鳥のその他の性質は、さらにずっと以前の時代に由来します。

 けれどももっとずっと深い側面もあるのです。ひとつ空中の鳥を、そうですね、堂々とかなたに飛び去る鷲を見てみましょう、いわば外に現われた恩寵の賜物のように、太陽光線がその作用をもって、鷲にその翼を与えーー他の作用についてもお話ししていきますーー、その角状の嘴を与えたのです。この鷲がどのように空中を飛んでいるか、見てみましょう。このとき鷲にはある種の力が働きかけています。太陽というものは、私たちが通常話題にするような物理的な光および熱の力のみを持っているのではありません。ドルイドの秘儀についてお話ししたとき(☆3)に、皆さんの注意を向けていただいたことですが、太陽からは霊的な力も放射されているのです。この霊的な諸力に目を向けなければなりません。さまざまな鳥類に、多様な色彩と、独特の翼の形態を与えるのは、この太陽の霊的力なのです。太陽の作用であるものを、霊的に見通せば、鷲がなぜあの翼を持っているか、私たちは理解できるのです。

 このように、私たちがこの鷲の本性に正しく沈潜し、霊的なものをも含む内的芸術的な自然理解を発達させることを理解するなら、また、後にお話しします他の衝動によって強化された太陽衝動から、いかに芸術的に作り上げられるのかを見ることができるなら、さらに、鷲が卵から這い出す前から、いかにこの太陽衝動が、いわば鷲へと溢れみなぎっていき、いかにその魔術的力を翼へと顕現させ、あるいは本来、もっと良い言い方をすれば、いかにその魔術的力を筋肉の形態へと送り込むかを私たちが見るなら、そして、いったいこれは人間にとってどういう意味があるのか、と私たちが問いかけるならーーそう、これは人間にとって、その脳を思考の担い手にするものを意味するのです。ですから、皆さんが鷲を見て、こうおっしゃるなら、皆さんは、マクロコスモスを、大いなる自然を正しく見ていることになります、つまり、鷲は翼を持つ、色さまざまな、多彩な羽を持っている、この翼のなかに生きている力は、お前の脳を思考の担い手にすることによって、お前のうちに生きている力と同じだ、と。お前の脳にしわを刻み、お前の脳が、あの内的な塩の力、思考の基礎である塩の力を取り入れることができるようにするもの、そもそもお前を思考する者にするために、お前の脳を創り出すもの、これは、空翔る鷲にあの翼を与える力と同じ力なのだ、と。ーーそうすると、私たちは思考することで、自らのうちにいわば鷲の翼の代用品を感じつつ、(鷲に)親近性を感じるわけです。

 私たちが物質的なレベルからアストラル的なレベルに上昇すると、次のような逆説的な発言をせざるを得ません。つまり、物質界においては、アストラル界において思考形成を引き起こすのと同じ力が、翼の形成を引き起こす、と。この力は鷲に翼の形成を起こしてくれますが、これは思考形成の物質的な相です。この力は人間には思考形成を起こしてくれますが、これは翼形成のアストラル的な相です。こういう事柄が、驚くべきしかたで民族の言霊[der Genius der Volkssprache]のなかに表現されていることがあります。一本の羽を上部で切り取り、その内部にあるものを取り出すとき、その民族はこれを魂と呼ぶのです。なるほど、このような魂という命名に外面的な表示を見るひともいるでしょう。けれどもこれは外面的な表示などではなく、ものごとを洞察するひとにとっては、一本の羽が、何かとほうもないものを含み持っているのです、思考形成の秘密を内包しているのです。

 今度は空中に棲む鷲から目を転じて、また別の代表的なものを見るために、ライオンのような哺乳動物を見てみましょう。ライオンをほんとうに理解できるのは、ライオンというものがその環境を生きるのにいかなる喜びと満足とを持っているか、ということに対する感覚を発達させる場合のみでしょう。ライオンに似ていない動物はどれも、これほど驚くべき、秘密に満ちた呼吸をしてはおりません。動物という存在にあってはいかなる場合も、呼吸のリズムと循環のリズムが一致しています。ただ、循環のリズムは、それにぶら下がっている消化器官によって重くなり、呼吸リズムは、脳形成という軽さに到達しようと上昇を目指すことによって、軽くなるのです。鳥の場合においても、鳥の呼吸のなかに生きているものが、同時に頭部のなかにも生きている、という状態にあります。鳥はまったく頭そのものであり、鳥はいわば外的に、宇宙のためにその頭を担っていくのです。鳥の翼の形が鳥の思考です。美のなかに生きることのできる正しい自然感情にとって本来、実にありありと具象化した、内的に生気を得た人間の思考であるところのものが、鳥の翼と親和性を持っている、ということほど心を動かすものはありません。こういう事柄において内的な実践のできるひとは、自分がいつ孔雀のように考えているのか、いつ鷲のように考えているのか、いつツバメのように考えているのか、全く正確にわかるのです。一方はアストラル的で、他方は物質的であるということは別として、これらはまったくもって驚くべきしかたで対応しています。そのようになっているのです。ですからこう言うことができます、鳥は、非常に呼吸を主とする生を営んでいるので、他のもの、血液循環その他は、ほとんど消えてしまっている、と。消化の重さのすべて、血液循環の重さすら、鳥にあっては、自らのうちで感じることから排除され、存在しないのです。

 ライオンの場合は、呼吸と血液循環の間にある種の均衡が成り立っています。もちろん、ライオンの場合も、血液循環は重くされていますが、それでも、そうですね、ラクダや牛ほど重くはないのです。これら(ラクダや牛)の場合は、消化が、血液循環に非常な負荷をかけるのです。ライオンの場合は、消化器官がこれらと比較してとても短く、しかもできるだけ速く消化がなされるような体構造になっているので、消化が循環に対してひどく負荷をかけることはありません。それに対して、ライオンの頭部においては他方で、呼吸と循環のリズムの均衡が維持されるように頭的なものが展開しています。ライオンは、内的な呼吸のリズムと、心臓の鼓動のリズム、内的に釣り合いを保ち、内的に調和し合っているこの二つのリズムを最も多く有している動物なのです。ですからライオンは、私たちがライオンの主観的な生活、とでも申し上げたいものに入り込んでいくと、独特のしかたで、ほとんど際限のない貪欲さでその餌食を飲み込むこともします、つまり餌食を下方に送り込むこむのがとても嬉しいからです。ライオンが餌食に対して貪欲なのは、ライオンにとって空腹が、他の動物にとってよりもはるかに苦痛であるためなのはもちろんですが、餌食に貪欲であるからといって、ライオンはことさらに美食家たることに執心しているわけではありません。ライオンは多く味わうことに執心しているわけではないのです、なぜなら、ライオンは、呼吸と血液循環の釣り合いから満足を得る動物だからです。ライオンは呼吸の流れを深い内的満足をもって自らのうちに取り入れることによって、呼吸することに歓びを感じるわけですが、ライオンにおいて、大食が心臓の鼓動を調節する血液のなかへと移行し、この心臓の鼓動が呼吸と相互に関わり合ってはじめて、また、大食した結果を、つまり呼吸と血液循環とのこの内的均衡を、自らのうちに感じてはじめて、ライオンは自らの要素(エレメント)のなかで生きるのです。要するにライオンは、血液が拍動しつつ上昇し、呼吸が波打って下降していく、という深い内的な満足を得るとき、まさしくライオンとして生きています。この打ち寄せる二つの波動の相互の接触のなかにライオンは生きているのです。

 このライオンがいかに走り、跳躍し、頭をもたげ、そしていかに見つめるか、よく見てごらんなさい、そうすれば、均衡から出てくるものと再び均衡に至るものとの、絶え間ないリズムの交替へとすべてが還元されることがおわかりになるでしょう。この独特なライオンの眼差し、自らから発してこれほど多くを見る、自ら発して、内的な克服、相対する働きをするものの克服を見つめるこの眼差しほど秘密に満ちた気分にさせうるものは、ほとんどないかもしれません。ライオンの眼差しが外に向かって見ているものは、これ、すなわち、呼吸リズムによってまさに完璧なしかたで行なわれる心臓の鼓動の克服なのです。

 さてまたしても、形態化を芸術的に把握するセンスを持つひとは、ライオンの口を、ライオンの口のこの構造、つまり、心臓の鼓動がこの口のところまで上昇してくると、呼吸がそれを押し止める、ということを示しているこの口の構造を見るとよいのです。皆さんが、心臓の鼓動と呼吸のこの相互の接触を心に描き出すとしたら、皆さんはライオンの口に至るのです。

 ライオンはまさに胸部器官に他なりません。ライオンは実際、その形姿のなに、その生態のなかに、まさしく律動組織を表わしている動物です。ライオンは、この心臓の鼓動と呼吸の交替を、その心臓と肺との相互関係においても表わすように組織化されているのです。

 したがって、私たちは実際こう言わなければなりません、もっとも鳥に似たもの、ただし変容(メタモルフォーゼ)させられたものを、人間において捜すとしたら、それは人間の頭である、もっともライオンに似たものを人間のなかに捜すとしたら、それは人間の胸の辺り、循環のリズムと呼吸のリズムが互いに出会う胸の辺りである、と。

 さて、今度は、上空に鳥類として現われてきているもの、本来地球の直接の環境である空中において、ライオンのなかに見られるような空気の循環とともに生きているために鳥類として現われているもの、これらすべてから目を転じて、牛を見てみましょう。他の関連でもう何度も指摘したことですが、満腹した牛の群れが牧場に横たわっているのを観察するのは、姿勢にも、目の表情にも、動きのひとつひとつに表わされているこの消化という営みを観察するのはなんと魅力的なことでしょう。たとえばなにかがあちこちで物音をたてた場合の、牧場に横たわっている雌牛を一度よく見てごらんなさい。雌牛が頭をもたげ、この頭をもたげる動作のなかに、すべてが重く、頭を上げることは容易ではない、という感情があること、この頭を上げることのなかにはまったく特別なものがあるということがわかるのは、実際驚くべきことです。牧場においてこのように頭を高く上げることが煩わしそうな雌牛を見れば、こう言うほかはなくなるでしょうーーこの雌牛は、草を食べること以外の目的のために頭を上げなくてはならないことをいぶかっているのだ、いったい何でまた今頭を上げなくちゃならないの、草を食べてもいないのに。草を食べていないときに、頭を起こすなんて無駄よ、とーー。これがどんなようすか、ちょっと見てごらんなさい。この動物が頭を上げることのなかにはこういうことが含まれているのです。しかしこのことは、この動物が頭を上げる動作だけに含まれているのではありません。皆さんは、雌牛が頭を上げるようにライオンが頭を上げることは、想像できないでしょう。このことは頭部の形のなかに含まれているのです。そこでさらに進むと、この動物の全身の形態に入っていきますーーこれは実際、まったく成長しきった消化器官の動物とでも申し上げたいものです。消化の重さが血液循環に負荷をかけるので、すべてが頭と呼吸を圧倒するのです。この動物はまったき消化なのです。このことを霊的に見ると、眼差しを上空の鳥に向け、それから雌牛を見下ろす場合、実際計り知れない不思議さがあります。

 雌牛を物理的にもっと高く持ち上げても、雌牛が鳥になったりしないのは言うまでもありません。けれども、同時に雌牛における物質的なものを移行させることができるとしたらーーまずは地球に隣接している空中に、気体ー湿気的なもののなかに雌牛を運ぶことによってですがーー、さらに物質的なものを、今度は湿気的なものに適している雌牛のエーテル的形姿の変化へと同時に移行させることができるとしたら、そして雌牛をもっと持ち上げ、アストラル的なものにまで運んでいくことができるとしたら、そのときは遥か上方で雌牛は鳥になるでしょう。アストラル的に、雌牛は鳥になるでしょう。

 よろしいですか、ここで驚くべきことが心に浮かんできます、つまりこのことを洞察すると次のように言えるのです、鳥があの上空で自らのアストラル体からアストラル的に得ているもの、私が申しましたように、その翼の形態化に働きかけているもの、雌牛はこれを、肉のなかに、筋肉、骨のなかへと送り込んだのだ、と。鳥においてアストラル的であるものが、雌牛においては、物質的になったのです。アストラル性において異なって見えるのはもちろんですが、そうなのです。

 さらにまた、私が逆に、鳥のアストラル性に属しているものを落とし、その際エーテル的なものと物質的なものへの変化を引き起こすとしたら、鷲は雌牛になるでしょう、なぜなら、鷲においてアストラル的であるものは、消化するときに大地に横たわっている雌牛において肉と化し、物質体と化しているからです。と申しますのも、雌牛にあっては、驚くべきアストラル性を発達させることはこの消化の一部だからです。消化しているときの雌牛は美しくなります。アストラル的に見て、この(雌牛の)消化の内部には何か途方もなく美しいものがあります。通常の俗物的概念から、まさに俗物的理想主義に浸って、消化の営みはもっとも低次のものだ、などど言うとしたら、霊的観照におけるより高い見地から雌牛のこの消化の営みを見るとき、偽りを責められることになるでしょう。牛の消化は美しく、崇高な、なにか途方もなく霊的なものなのです。

 ライオンは消化をこの霊性にまで導けません。鳥にあってはなおさらです。鳥においては、消化の営みはほとんど完全に物質的なものです。鳥の消化機構のエーテル体が見られるのはもちろんですが、鳥の消化機構のなかにアストラル性が見出されることは非常にまれで、ほとんどまったく見出されません。これに対して雌牛においては、消化器官は、アストラル的に見て、何かまったく崇高なもので、ひとつのまったき宇宙なのです。そこで、今度は人間のなかに似たものを見ようとすれば、さらに雌牛が一面的に形成しているものの照応、ある種のアストラル的なものの肉化を見ようとすれば、人間においてはそれが、消化器官のなかと、消化器官の継続つまり四肢のなかに、調和的に他のものに付加されて組み込まれています。したがって、私が高い上空の鷲のなかに見るもの、ライオンの場合のように動物が直接空気を享受するところに見るもの、動物がその消化器官のなかで作用し続ける地下の地の力に結びつくとき、つまり私が高みを見る代わりに深いところを見下ろして、そこから理解に満ちて雌牛の本質に迫るときに私が見るもの、以上、人間のなかで統合されて一つの調和(ハーモニー)を成し、それによって互いに調停し合う三つの形態を私は持っているのです。つまり、人間の頭における鳥の変容(メタモルフォーゼ)、人間の胸におけるライオンの変容、人間の消化器官および四肢機構、四肢機構においてはさらに大規模な変容、大規模な変形がなされるのはもちろんですが、この消化器官と四肢機構における雌牛の変容です。

 今日、こういう事柄をこのように見て、人間は本来自然全体から生まれ、しかも自らのうちに全自然を担っていること、私が示しましたように、鳥の領域、ライオンの領域、雌牛の本性を自らのうちに担っているということにたどりつくなら、人間は小宇宙である、という抽象的な所説が語ることを成り立たせている個々の要素を手に入れることができるのです。ーー人間はたしかに小宇宙です、そして大宇宙も人間のうちにあります。空中に棲む動物、地球の周囲を循環する空気のなかにその主要なエレメントを持っている動物、そして大地の下の重力のなかにその主要なエレメントを持っている動物、これらの動物はすべて、人間において調和した全体性を成して共に作用しているのです。それで人間は、鷲、ライオン、雄牛または雌牛の統合[Zusammenfassung]なのです。

 このことを比較的新しい精神科学の見地から研究し、洞察すると、しばしばお話ししたことですが、古代の本能的な霊視による宇宙の洞察に対して大いに尊敬の念が生じます、たとえば、互いに調和して相応じつつひとつの全体として人間を形成している鷲、ライオン、雌牛または雄牛、人間がこれらから成り立っていることについての力強い像(イメージ)、このようなものに対して大いに尊敬の念が湧いてくるのです。

 けれども、個々の衝動、つまりたとえば鷲の周囲に漂う諸力のなかにある衝動、ライオンの周囲に漂う諸力のなかにある衝動、雌牛の周囲に漂う諸力のなかある衝動、これら個々の衝動について論ずることーーこれは明日にもできると思いますーーに移る前に、内的ー人間的なものと外部の宇宙のなかにあるものとの、もうひとつ別の照応(コレスポンデンツ)についてお話ししたいと思います。

 さて私たちは今や、すでにわかったことにしたがって、これについてイメージすることができます。人間の頭は、その性質に合ったものを求めます、つまり頭は鳥類に眼差しを向けざるを得ません。人間の胸、心臓の鼓動、呼吸は、自然の秘密のなかの秘密として自らを理解しようとすれば、ライオンであるものに眼差しを向けざるを得ません。人間は自らの新陳代謝機構を、牛の体構造と生体機構から理解することを試みなくてはなりません。けれども人間は、頭のなかには思考を担うもの、胸のなかには感情を担うもの、新陳代謝機構のなかには意志を担うものを有しています。ですからつまり、鳥類とともに宇宙を織りなし、鳥の翼に現われている表象、地球のまわりを巡り、ライオンにおける心臓の鼓動と呼吸との内的な均衡の生になかに見出される感情世界、これは人間においては和らげられてはいるものの、人間においてまさしく内的な大胆さーーギリシア語は大胆なという言葉を心臓の特性、胸の特性のために作り上げましたーーを示している感情世界、人間は魂的にも、この表象と感情世界の模像なのです。そして人間が、主に新陳代謝のなかに位置を占めている意志衝動を見出そうとすれば、これを外的に形態化しようとすれば、人間は雌牛のなかに肉として形態化されているものを見るわけです。

 今日グロテスクで逆説的に聞こえること、宇宙の霊的な関連に関してもはやまったく理解が失われてしまった時代にとっては狂気の沙汰と思われるかもしれないことでも、古きからの風習が示唆しているある真実を含んでいるものです。よろしいですか、あのマハトマ・ガンジー、ロマン・ロランが楽しいとはいえない書物であまりかんばしくない記述をしたあのマハトマ・ガンジー(☆4)が、彼の活動は確かに外に向かうものではありましたが、しかしその時もインド民族の内部にあって、いわばインドへと移動させられた十八世紀の啓蒙主義者のように古いヒンズー教に対峙していること、彼がその啓蒙主義的なヒンドゥイスムにおいてもひとつのこと、つまり牛の崇拝ということは守ったということ、こははやはり、注意をひく現象です。これを捨てることはできない、とマハトマ・ガンジーは言うのです、ご存じのように、インドでの政治活動のためにイギリス人から六年の重禁固を負わされた彼がです。彼は牛の崇拝を捨てないのです。

 比較的まだ霊的な文化のなかに強固に維持されているこういう事柄を理解できるのは、こういう関連を知るときのみ、つまり、消化する動物、雌牛のなかにどんなに大きな秘密が生きているか、そして、雌牛のなかの、地上的になった、それゆえ低次のものとなってしまった、気高くアストラル的なものがいかにあがめられうるものなのか、これを真に知るときのみです。このようなことから、ヒンズー教において雌牛に寄せられる宗教的な崇拝というものが理解できます、逆に、人々がこれにくっつけるありとあらゆる合理的、主知主義的な錯綜した概念からは、決してこのことは理解されないのです。

 さてこうして私たちは、意志、感情、思考が外部の宇宙のなかにいかに探索されうるか、その照応であるミクロコスモスのなかにいかに探索されうるか、理解するのです。

 けれども、よろしいですか、人間のなかには、さらにまだいろいろと別の力がありますし、外部の自然にも、さまざまな別のものがあります。ここでひとつ、次のようなことに注目していただきたいのです。蝶・蛾となっていく生き物が成し遂げるあのメタモルフォーゼにひとつ注目してください。

 蝶(や蛾)は卵を産みますね。卵から幼虫が出てきます。幼虫が卵から這い出してきました。卵は、それ以降の生き物の原基であるものすべてを円く閉ざしたなかに含み持っています。さて幼虫が卵から出ます。幼虫は光に浸透された空気に触れます。この空気は幼虫が入っていく環境です。ここで、この幼虫が今や太陽の光に浸透された空気のなかで実際どのように生きているかに目を向けていただかなくてはなりません。さらに、皆さんが、そうですね、夜ベッドに横たわってランプを灯すと、蛾がランプに向かって飛んできて、光を目指して飛んで光のなかで死んでしまうとき、このことを研究してみなければなりません。光は蛾に作用して、蛾は死を求めることに屈してしまうのです。このことでもう、生きているものに対する光の作用がわかります。

 

 さて、幼虫はーー私はこのことを警句的に示唆しておくだけにします、明日と明後日にはもう少し厳密に考察していくでしょうからーー上方の光源、つまり太陽にまで至ってそのなかに突き進むことはできません、しかし、幼虫はそうしたいのです。蛾は皆さんのベッドのかたわらで炎のなかに身を投げ、そこで命を失いますが、蛾がそれを欲するのと同じくらい強く、幼虫もそれを望んでいるのです。蛾は炎のなかに身を投げ、物質的な火のなかで死を迎えます。幼虫も同じように炎を、太陽からやってくるあの炎を求めます。けれども幼虫は太陽に身を投げることはできません。光と熱への移行は幼虫においては霊的なものにとどまっています。太陽の作用全体が霊的なものとして幼虫に移行するのです。彼らは、幼虫は、太陽光線のひとつひとつを追い求めます、日中は、太陽光線と行動をともにするのです。蛾がいちどきに光に突進してその蛾としての実質[Mottenmaterie]全部を光に捧げるように、幼虫もその幼虫としての実[Raupenmaterie]をゆっくりと光のなかに織り込んでいき、夜には中断し、昼にはまた織り、自分の周囲に完全なまゆを紡ぎ織り上げます。ですからまゆの内部、まゆの糸の内部には、幼虫が流れ込む陽光のなかで紡ぎ続けて、幼虫自身の実質から、自身から織り上げたものがあるのです。今や、さなぎとなった幼虫は、物質に変化させた陽光を、自分自身の実質から自らの周囲に織り上げたのです。蛾は物質的な火のなかで急速に燃え尽きます。幼虫は自らを捧げながら陽光のなかに突き進み、追い求める陽光のそのときどきの方向にむかって自らのまわりに陽光の糸を織りなします。皆さんが蚕蛾[Seidenspinner]のまゆをとってこれをごらんになれば、これは織りなされた太陽の光だ、ただ、この太陽の光は絹を紡ぎ出す[seidenspinnend]幼虫自身の実質を通して物質化されている、ということがわかるでしょう。これによって空間が内的に閉ざされているのです。外的な太陽の光はいわば克服されます。しかし、皆さんにお話ししましたように、太陽の光によってクロムレック(環状列石[Kromlech])のなかに入り込んでくるものーーこのことはドルイド秘儀に関する説明の際に皆さんにお話ししましたーー、この場合これは内的なものなのです。それまでの太陽光は、物質的な力を行使して、幼虫がまゆを紡ぎ出すよう導いてきましたが、今度は内的なものに力を行使して蝶・蛾を創り出します、今(まゆから)這い出してくる蝶や蛾をです。こうして新たに循環が始まります。皆さんの前に、鳥の卵のなかに寄せ集められているものが分割されて現われたわけです。

 この経過全体を産卵する鳥の場合の経過と比較してごらんなさい。鳥自身の内部では、さらに変容させられた経過によって、石灰質の殻が周囲に形成されるのです。蝶・蛾において卵、幼虫、まゆのなかに分割されているプロセス全体をまさに寄せ集めるために、鳥の内部では石灰質が用いられるのです。このような、つまり例えば鳥の卵におけるような固い殻を直接円く形成するようなところでは、すべてが寄せ集められています。このように別々に分けられたプロセスが寄せ集められることによって、鳥の場合発生の経過全体がまったく異なったものになっています。鳥においてはこの段階、つまり第三の段階まで実現されているものが、蝶・蛾の場合は分割されて現われてきます、つまり、蝶・蛾においてはこれが、卵形成、幼虫形成、さなぎ形成、まゆ形成へと分割されるのです。このように外的に見ていくことができます。こうして蝶・蛾(の成虫)が這い出してくるのです。

 今、この経過全体をアストラル的に追求すると、何が見えるでしょうか。そう、このとき鳥は、その形成全体のなかに人間の頭を示します。思考形成の器官を鳥は示すのです。やはり空中に棲んでいますけれども、その発生形態はもっとずっと複雑な蝶(および蛾)は何を示すでしょう。蝶(および蛾)が示しているのは、いわば頭の機能がその継続のなかに示すもの、頭の力をいわば人間全体へと広げているものだ、ということに私たちはたどり着きます。そこでは、自然における鳥形成とは別の経過に対応することが、人間全体に起こっているのです。

 人間の頭のなかには、これにエーテル的なものとアストラル的なものをつけ加えれば、卵形成のなかにあるものに非常によく似ているもの、ただし変容させられていますが、そういうものがあります。しかし、私たちが単に頭の機能だけしか有していないなら、私たちは瞬間的な思考しか形成できないでしょう。思考はもはや私たちのなかを下降して人間全体を用いることができず、そうすると記憶として再び浮上することもないでしょう。私が外界に沿って形成する自分の瞬間的な思考を見て、そして鷲を見上げると、私はこう言います、鷲の翼のなかに、私は私の外部に物質化した思考を見る、私のなかでそれは思考となる、しかしそれは瞬間的な思考となるのだ、と。私が自分のなかに記憶として携えているものに目を向けるなら、複雑なプロセスが起こっています。物質体の下の方では、もちろん霊的なしかたでではありますが、一種の卵形成が起こっているのです、これはもちろん、エーテル的なものにおいては、まったく別のもので、外的物質的には幼虫形成に似ていますが、アストラル体においては、内的にさなぎ形成、まゆ形成に似ているものです。そして、私が知覚するときに、私のなかで思考を解き放ち、下方へ送り込むもの、これは、ちょうど蝶(および蛾)が卵を産むときのような状態なのです。この変化は、幼虫に起こっているものに似ています、つまりエーテル体における生命が霊的な光に自らを捧げ、内的、アストラル的なまゆの織物でいわば思考を織りなし、そこに記憶が現われ出てくるわけです。私たちが鳥の翼を瞬間的な思考のなかに見るなら、私たちはさまざまな色にきらめく蝶(および蛾)の翅を、私たちの記憶的(想起的)思考のなかに霊的なしかたで現われてきたものと見なければなりません。

 私たちはこのように外部を見渡し、自然というものが途方もなく私たちに親和性を持つものと感じます。私たちはこのように考え、この思考の世界を飛翔する鳥のなかに見るのです。私たちはこのように思い出し、このように記憶にとどめ、私たちのなかに生きている記憶像の世界を、陽光のなかでほのかに光りつつ舞い飛ぶ蝶のなかに見ます。実に、人間はミクロコスモスであり、外部の大宇宙の秘密を含み持っているのです。つまり、私たちが内部から見るもの、私たちの思考、感情、意志、記憶表象、これらを、別の側から、外部から、マクロコスモス的に見ると、私たちはこれらを自然界のなかに再認識するということなのです。

 これは、現実を見渡すということです。この現実は、単なる思考によっては理解できません、単なる思考にとって、現実というのはどうでもよいことです。単なる思考が尊重するのは論理のみだからです。しかし、この論理では、現実におけるきわめてさまざまなことを覆い尽くすことはできません。このことを具象的に理解するために、ある喩え話をもって締めくくらせてください、これをさらに明日の説明につなげていこうと思います。

 アフリカの黒人部族、フェラタ(中部アフリカのプール[Peuhls]族)には、多くを具現する実にすばらしい喩え話があります。あるとき、ライオンと狼とハイエナが旅に出かけました。彼らは一頭のカモシカに出くわしました。カモシカはこの動物たちの一頭に引き裂かれました。三頭の動物たちはお互い親しかったので、引き裂かれたカモシカを、ライオン、狼、ハイエナのあいだでどう分け合うか、ということになりました。ここでまずライオンがハイエナに向かって言いました、君が分けろよ、と。ーーハイエナにはハイエナの論理がありました。ハイエナというのは、生きたものではなく、死んだものに執着する動物です。ハイエナの論理は、この種の勇気、というよりむしろその臆病さによって決定されます。この勇気はそれがいずれであるかに従って、いずれかのしかたで現実的なものに向かうのです。ハイエナは言いました、「カモシカを三等分しよう。そのひとつはライオン、ひとつは狼、もうひとつはハイエナ、つまりぼく自身がもらうんだ」と。するとライオンはハイエナを引き裂き、殺してしまいました。さてハイエナはいなくなりました。また分けなくてはなりません。ライオンは狼に向かって言いました、「ごらん、狼くん、今度はちがった分けかたをしなくちゃならないよ。今度は君が分けてくれ。どういうふうに分けるんだい」ーーすると狼は言いました、「そうだね、今度はちがった分け方をしなくちゃならない、もう前みたいにそれぞれ同じものをもらえないんだから。君がぼくたちからハイエナを取り除いたんだから、ライオンとしての君は当然最初の三分の一をもらわなくちゃいけない。次の三分の一はハイエナが言ったようにいずれにせよ君のものだろう、そして最後の三分の一も君がとらなくちゃいけない、君は動物のうちで一番賢くて勇敢なんだから。」ーーさて狼はこのように分けたのです。するとライオンは言いました、「その分けかたを君に教えたのはだれだい」ーー狼は言いました、「ハイエナが教えてくれたのさ」ーーするとライオンは狼を食べてしまうことはせず、狼の論理にしたがって三つの部分を取りました。

 そう、ハイエナの場合でも狼の場合でも、数学、主知主義的なものは、同じだったのです。ハイエナも狼も三分割し、わり算しました。けれども両者は、この知性、数学を、異なったしかたで現実に適用したのです。それによって、運命もまた本質的に変わったわけです。ハイエナは、分割原理と現実との関わりにおいて、狼とは別のものを与えたので、食べられてしまいました。狼は、ハイエナの論理との関係でーー狼自身が、ハイエナから習ったと言っていますねーーこの同じ論理をまったく別の現実に関係づけたので、食べられなかったのです。狼はこの論理を、ライオンが狼まで食べてしまう必要がもはやなくなるように、現実に結びつけたのです。

 おわかりですね、ハイエナの論理があり、ハイエナの論理は狼にもあるのですが、その現実への適用において知性的なもの、論理的なものは、まったく異なったものとなるのです。

 このようにこれはあらゆる抽象化をともなうのです。皆さんは、抽象化をあれこれと現実に適用するそのしかたに応じて、宇宙において抽象化によってあらゆることを為すことができます。ですから、ミクロコスモスとしての人間とマクロコスモスとの対応のなかのリアリティといったことにも目を向けなければならないのです。人間を単に論理的にのみ観察できる必要はありません、主知主義から宇宙の芸術的なものへの移行することなしには決して到達できない感覚をもって観察できなくてはならないのです。皆さんが、主知主義的なものから芸術的な把握への、いわばメタモルフォーゼを成し遂げることができ、芸術的なものを認識原理として育成できれば、人間のなかに人間的なしかたで、つまり自然的なしかたでなく生きているものが、外部のマクロコスモス、大宇宙のなかに見出されることでしょう。そのとき皆さんは真の感覚をもって大宇宙と人間との親和性を見出すことができるでしょう。

                            (第1講 終わり)

 

□編註

☆1 ルドルフ・シュタイナー「四つの宇宙的イマジネーションにおける四季の体験」(1923年10月3日から13日にドルナハ、10月15日にシュトゥットガルトで行なわれた七回の講義、GA229)参照。*邦訳は「四季の宇宙的イマジネーション」(西川隆範訳 水声社)

☆2 「アーカーシャ年代記より」(1904ー1908、GA11)、および「神秘学概論」(1911 GA13)の「宇宙進化と人間」の章に見られるシュタイナーの基礎を成している記述を参照。

☆3 1923年9月10日の講義「ドルイド祭司の太陽秘儀参入と月存在の認識」(「秘儀参入学と星認識」GA228に所収)参照。

☆4 マハトマ・ガンジー:Mohandas Karamchand(Mahatma) Gandhi(1869ー1948)インド独立運動の指導者。ロマン・ロラン「マハトマ・ガンジー」エミール・ローニンガーによりフランス語から訳されたもの、ロータフェル出版。 エルレンバハ・チューリヒ、ミュンヘン、ライプツィヒ、1923(シュタイナーが使用した版)


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