ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第11講   1923年11月10日  ドルナハ  


・人間の体内での代謝経過は、外部に観察される物理・化学的経過の継続ではない

・体内に摂取された鉱物質のものは、いったん熱エーテルの形になって

 宇宙からの諸力を受け取り、再び硬化して人体形成の基礎となる

・鉱物質のものが熱に変化されきらずに人体組織内に沈殿すると、

 たとえば糖尿病などの原因となる

・外部から人体内に入ってくるものは、物質であれ力であれ、完全に加工され尽くされねばならない

・外部の熱を体内で完全に変化させられないと風邪をひく

・外界でのエレメンタルガイストの仕事が、人体内では高次ヒエラルキアに委託される

・植物の根は地上的に満足し、花は宇宙に憧れる

・植物界は自然界において人間の良心を映す鏡

・植物の根は月がまだ地球のもとにあった時代に由来する

・花的なものは月が地球を去ってから展開する

・霊的ー宇宙的なものから地上的ー物質的なものが生まれる

・人間が植物を食べることで植物の宇宙への憧れが満たされる

・植物質は人体内で空気的なものになり、上下逆転する

・人間に食べられると根は頭へと上昇し、花は下にとどまる

・動物の消化においては植物は逆転できず、植物の宇宙への憧れは満足されずに

 地へと投げ戻される

・動物の消化における、消化の流れに対抗する不安の元素霊の流れ

・草食動物と肉食動物の死における不安

・人智学はアジテーション的に何らかの食餌法を支持するのではなく、

 あらゆる食餌法を理解させるもの

・子どもにはまだ鉱物を熱エーテル化する力が不足しているため、ミルクが必要

・子どもは頭の内部から形成力を発達させるが、年取ってからは頭以外の

 生体組織全体が形成力を放射しなければならない

・人間が頭の内部で行っていることを蜂は外部で行っている;

 蜂の巣は頭蓋冠の無い頭

・人間が年取ってから形成力を促進しようとするときは、ミルクでなく蜂蜜が適する

・「乳と蜜の流れる土地」という言葉に含まれる深い叡智


 今までに述べましたことから、人間の周囲の宇宙と人間自体の関係は、今日の諸概念に従って描き出されるものとはやはり異なったものであるとお察しいただけるでしょう。実際安易にこう考えられています、人間の周囲に生きているもの、つまり鉱物界、植物界、動物界に属していて人間に摂取されるものは、いわばその経過を、つまり物理学者や化学者その他が調べ出すその外的な新陳代謝経過を、人間自体のなかで続行していくのだ、と。ところがこれはまったくお話になりません、そうではなく、はっきり理解しておかなければならないのは、人間の皮膚経過の内部では、すべてがその外部とは異なっているということ、この皮膚経過の内部には外部とはまったく異なる世界があるのだということです。このことに気づかない限り、ひとは相も変わらず、レトルトのなかやその他何らかのしかたで研究されるあれこれがどうやって人体組織のなかで継続されていくのか思案し続けるでしょう、そして人体組織そのものを単にレトルト内の経過が複雑に配置されたもののようにみなすのみでしょう。

 皆さんは、私が昨日の考察で申しましたこと、鉱物質のものはすべて人間のなかで熱エーテルへと置き換えられねばならない、ということを思い出してくださりさえすればよいのです。すなわち、鉱物質のものとして人体組織のなかに入り込んでくるものはすべて、それが少なくもある一定期間を通じて純粋な熱であるように、しかも人間が自分自身の熱として人間の周囲の熱を超えて発達させる熱とひとつになるように、変容させられ、変化させられねばならないということです。私たちが生体組織のなかに塩を摂取するにせよ、何らかの他の鉱物質のものを摂取するにせよ、それはなんらかのしかたで熱エーテルの形(フォルム)をとらなければなりません、しかも人体組織そのもののなかでそれがその構築と形成に用いられる前にその形を取らなければなりません。

 つまり、人体組織の外部に何らかの鉱物(ミネラル)があって、この鉱物が単にそこへ入り込んでいき、人体の骨、歯その他の何らかの部分を形成すると想像するなら、それはまぎれもないナンセンスです、そうではなく、人間の形成において再び現れるものは、まず最初に、完全に揮発的に熱エーテルの形へと移行させられていなければならず、次いでまた姿を変えて、人体組織のなかで生きた形成のなかに現れてくるものにもどらなければならないからです。

 けれども、これにはさらにまったく別のものも結びついています、つまり、たとえば堅いフォルムを有しているもの、すでに口中で水性のものに変化し、さらに熱エーテルへと変化させられるもの、これは、まず最初に水のフォルムに移行することで、人間のなかで徐々に重さを失い、地上と疎遠になるということです、そして、これが熱エーテルのフォルムに達し、上からやって来る、宇宙のかなたからやって来る霊的(精神的)なものを自らのなかに受け入れる準備が完全になるのです。

 つまり皆さんが、鉱物質のものが人間のなかでどのように用いられるか思い描こうとなさるなら、次のように言わなければなりません、ここに鉱物質のものがあります、これが人間のなかに入り込みます。人間のなかでそれは液体的なものその他を経て熱エーテルへと変化します、ここの熱エーテルがあります。この熱エーテルには、宇宙の彼方から力として放射してくるもの、流れ込んでくるものを、自らのうちに受け入れようとするきわめて大きな傾向があります。これら宇宙万有の諸力が、ここで熱エーテル化された地球質料を貫いて霊化する[durchgeistigen]霊力として、今や自らを形成するのです。そしてそこから、熱エーテル化された地球実質の助けを借りて、今や肉体がその形成のために用いるものがはじめて肉体のなかに進入していきます。

 ですから考えてみてください、私たちが古い意味で熱を火と呼ぶとき、私たちはこう言うことができます、鉱物的に人間によって摂取されるものは、人間のなかで火の性質にまで高められる、と。火の性質は、高次のヒエラルキアの影響を自らのうちに受け入れようとする傾向にあり、この火がさらにまた人間の内部領域すべてにまず流出し、それが新たに硬化することによって人間のなかで個々の器官の実質的な基礎を形成するのです。人間が自らのうちに摂取するものでそのままにとどまっているものはありません、地上的なままにとどまるものは何もないのです。すべては変化します、とりわけ鉱物界からのものはすべて、それが霊的ー宇宙的なものを自らのうちに受け入れ、霊的ー宇宙的なものの助けでそれが再び硬化して地上的なものにもどるまで変化するのです。

 ですから、皆さんがある骨から燐酸石灰の一片を取るとすると、これはたとえば皆さんが外部の自然のなかに見出すか、たとえば実験室のなかで皆さんが調合するような燐酸石灰ではありません、そうではなくこれは、外的に摂取されたものが熱エーテルの状態に移行させられている間に進入し、人間の形成に介入した力、これらの力の助けを借りて、外的に摂取されたものから生み出された燐酸石灰なのです。

 よろしいですか、ですから人間はその生涯にわたってきわめてさまざまな実質を用います、そして人間がその年齢にしたがって組織化されるのに応じて、生命無きものを熱エーテル的なものに変化させることができるのです。子どもは一般にまだ、生命無きものを熱エーテル的なものに変化させることはできないでしょう、子どもの生体組織のなかにはまだ充分に力がないのです。子どもは、人間の生体機構そのものにまだ近しいミルクを摂取しなければなりません、そしてこれを熱エーテル的なものに至らしめ、その力を、真に拡張された造形[Plastizieren]、これは肉体形成に関して幼児期の間に不可欠なのですが、この造形を成し遂げるために用いることができるのです。外から摂取されたものはすべて徹底的に加工されなければならない、ということを知ってはじめて、人間の本性をのぞき見ることができます。ですから皆さんが外部のある物質を取り、これが人間の生にとって価値があるかどうか調べようとするとき、さしあたり通常の化学ではまったくそれをすることはできません、なぜなら、皆さんが知らなければならないことは、ある外部の鉱物的な物質を熱エーテルの揮発性[Fluechtigkeit]にまで至らせるために、人体組織はどれくらい多くの力を使わなければならないか、ということだからです。人体組織がそれをすることができなければ、この外的な鉱物的物質は人体組織のなかに沈殿し、熱へと移行させられる前に、重い地球物質になってしまいます、そして人体組織に疎遠なままの無機的な物質として人間の組織[Gewebe]を貫くのです。

 このようなことが起こるのはたとえば、鉱物化されてーーこれはもともとは有機的なのですがーー鉱物化されて糖として人間のなかに生じるものを、人間が熱エーテル的なものの揮発性にまで至らせることができないときです。するとそれは、全生体組織がそのなかにあるものすべてに関与していればもたらされるはずのあの状態になる前に、体組織のなかに沈殿し、そしてあのやっかいな糖尿病[Zuckerruhr]、ディアベーテス・メリトゥス[Diabetes mellitus]が起こるのです。つまり、どの物質の場合にも、生命無きもの、これはたとえば私たちが食塩を食べるときのようにすでに物質を形成しているか、砂糖の場合のようにこれからそうなるかいずれかですが、この生命無きものを人体組織がどの程度熱質料にまで至らせることができるかに注目しなければなりません、これが熱質料にまで至るとき、地上に根をおろした生体組織も霊的宇宙との結びつきを見出すのです。

 糖尿病の場合に起こっているような、人間のなかの加工されないままにとどまっているこういった沈殿はいずれも、その人間が自分のなかにある物質のために宇宙の霊的なものとの結びつきを見出せないでいる、ということを意味しています。これは、外部から人間のところにやってくるものは、内部で人間によって完全に加工しつくされなければならない、という普遍的原則の個別的適用のひとつにすぎない、と申し上げたいのです。ある人の健康に配慮しようとすれば、とりわけ、その状態のままにとどまるもの、最もわずかな原子にいたるまで人体組織によって加工され得ないものは、なにひとつ人間のなかに入っていかないように注意を払わなければなりません。このことは単に物質のみに関わることではなく、たとえば力にも関係しています。

 外部の熱、私たちがものをつかむときに感じる熱、空気の持つ外的な熱、この熱は、それが人体組織によって取り入れられるとき、変化させられて、実際に人間のなかの熱そのものが、こういう表現をさせていただいてよいなら、外部とは別のレベルにあるようになります。外部の熱が持っている熱レベルをこれで示しますと(描かれる)、この熱レベルは、私たちによって取り入れられると、内的にいくらか変化させられなければなりません、そこで、外部の熱のなかの、私たちがまだその内部にいないところにはどこへでも生体組織が介入していきます。どんな最小の熱量[Waermequantum]にも生体組織が介入していかなければなりません。

 さて、よく考えてみてください、私が寒気のなかを歩いていき、寒気があまりに大きいために、あるいは寒気が空気の動きや風となってゆらぐために、私が必要とされるほど迅速に宇宙の熱を私自身の熱に変化させることができない、と。この場合私は、外から暖められる一個の木材かそれどころか石のように宇宙の熱によって暖められる、という危険に陥ります。私は外部の熱を単に客体のように私のなかに流入させるという危険にさらされてはなりません。私はあらゆる瞬間ごとに、私の皮膚の位置からただちに熱を捉え、私自身の熱にする状態になければならないのです。私がそうできないと、風邪をひくというわけです。

 これが風邪の内的な経過です。風邪とは、生体組織によって占有されなかった外部の熱による中毒なのです。

 よろしいですね、外の世界にあるものはすべて、人間にとっての毒、まさしく毒なのであり、人間が人間自身の力を通じてそれを占有することによってはじめて、人間にとって有用なものとなるのです。と申しますのも、ただ人間によってのみ、諸々の力は人間的なしかたで高次ヒエラルキアのところまで上昇していく一方、外部では、力はエレメンタル自然存在たちのもとに、自然霊(エレメンタルガイスト)たちのもとにとどまるからです。人間にあっては、自然霊たちが人体組織のなかでその仕事を高次ヒエラルキアに委託することができる、というこの驚くべき変化が起こらなければならないのです。このことは、鉱物質のものが完全に熱エーテル的なものに変化させられるときにのみ、鉱物質のものにあてはまります。

 植物界を見てみましょう。この植物界というのは、人間が霊眼でもって地球の植物の覆いを観察し始めると、実際のところ人間にとってさまざまに魅了させるものを持っています。私たちは草原か、どこか森のなかに出かけていきます。私たちはある植物を根ごと掘り起こしたりします。このとき掘り起こしたものを、私たちが霊眼で眺めると、それは実際すばらしく魅惑的な構成です。根は本来、それについて、これはまったくもって地上的なもののなかでふくらんでいる、と言うことができるような何かであることが判明します。ああ、植物の根、私たちの前にそれが粗野な姿を見せれば見せるほど、根は実際何か恐ろしく地上的なものなのです。と申しますのも、植物の根、とりわけそうですね、カブの根は、実際いつも太った銀行家を思い起こさせます。そう、植物の根は、あんなに大きく太って、あんなにも自分に満足しているのです。根は地の塩を自分のなかに摂取したので、地を自分のなかに取り込んだ、というこの感情のなかであんなにも心地よく感じているのです。本来あらゆる地上的なもののうちで、このようなカブの根ほど満足しているものはありません、カブは根的なものの代表です。

 これに対して花を見てみましょう。霊眼で花に向き合うとき、私たちは本来、花をもっとも柔和な希望を宿しているときの私たちの魂のように感じる、と言うほかありません。ひとつ汚れない春の花をごらんになってみてください、根本的に言って春の花は希望の息吹です、春の花は憧れの化身です。そして事実、私たちがそのための繊細な魂感覚を充分に有していれば、私たちの周りの花々の世界には何か驚くべきものが溢れ出しているのです。

 私たちは春にすみれや、あるいはたとえば水仙や鈴蘭や黄色い花を咲かせるいくつかの小植物を見ます、そして私たちはそれに心をとらえられるでしょう、これら春に花咲く植物たちがみなこう語りかけようとしているかのように、ああ、人間よ、ほんとうはなんて純粋に汚れなく、あなたは望みを精神的(霊的)なものに向けることができるんでしょう!とーー。精神的(霊的)な希望の本性、敬虔さに身を沈めた希望、とでも申し上げたいものが春の花々のどれからも芽吹き萌え出てくるのです。

 次いでもっと遅咲きの花々に移りましょうーーさっそく極端なものを、イヌサフランを取り上げましょうーー、そう、いったい、軽い恥じらいの感情を持たずして魂感覚によってこのイヌサフランを眺めることができるでしょうか。私たちの希望が不純になりうることを、私たちの希望がきわめてさまざまな不純さに浸透されうることを、イヌサフランは警告してはいないでしょうか。イヌサフランはあらゆる方向から、私たちに向かって語りかけていると言えるかもしれません、あたかも私たちに、あなたの希望の世界をごらん、おお人間よ、あなたはなんとたやすく罪人になることができるのか、と絶えずささきかけようとするかのように。

 さてこのように、本来植物界は人間の良心を映す外なる自然鏡[Naturspiegel]なのです。内部において一点から発してくるようなこうした良心の声が、きわめてさまざまな植物の花の形へと分かち与えられていると考えること以上に詩的なものは、考えられません、このさまざまな花の形が四季を通じてこのように私たちの魂に語りかけます、きわめてさまざまなしかたで魂に語りかけるのです。私たちが植物界を正しく眺めるすべを知っていさえすれば、植物界は拡張された良心の鏡です。

 私たちがこのことに注目するなら、植物の花を眺め、いかに花が本来宇宙万有の光の彼方(広がり)への憧れであるか、地球の希望を宇宙万有の光の彼方に向けて流出させるために、花はいかに形態的に上へと成長していくか、そして他方ではいかに太った根が植物を地に繋ぎ止めているか、つまりいかに根が、植物から絶え間なく天への希望を取り去り、それを大地の安楽さに形成し直そうとするものであるか、照合することが、私たちにとってとりわけ重要になるでしょう。

 地球の進化史において、植物の根のなかにあるものは常に、月がまだ地球のもとにあった時代に素質を与えられたということに至るとき、私たちはこれがなぜそうなのか理解することを学びます。月がまだ地球のもとにあった時代には、地球体の内部の月に固定された力が非常に強く作用したために、植物をほとんど根だけにしてしまったのです。月がまだ地球のもとにあって地球がまだまったく異なった実質を有していたとき、根的なものは非常に力強く下に向かって伸びていました。これは、こう言うことで描写できます、下へ向かって植物ー根的なものが力強く伸びていた、そして上に向かっては、植物は宇宙万有を仰ぎ見ていただけだったと。細かい繊毛のように植物はその宇宙万有への衝動を送り出していた、と申し上げたいのです。ですからこう感じられます、月がまだ地球のもとにある間、この月は、地球体そのもののなかに含まれていたこれら月の諸力は、植物的なものを地上的なものに繋ぎ止める、と。そして、当時植物的なもののなかに移し入れられたもの、これがその後も、植物的なもののなかに原基となってとどまり続けるのです。

 ところが月が地球を去ったあの時期以来、以前は単に小さなわずかなものであった衝動、はるかに宇宙をうかがい見ていた衝動のなかに、憧れが開いてきます、彼方への憧れ、宇宙万有の光の彼方への憧れが開いてきて、そして、花的なものが生まれたのです。ですからいわば、植物界にとって月が出ていくことは一種の解放、まさに解放だったのです。

 とは言えこの場合も注目しておかなければならないのは、地上的であるものはすべて、霊のなかにその起源を持つということです。古い土星の時代ーー私の『神秘学概論』での記述を取り上げてみてくださりさえすればよいのですがーー地球は完全に霊的であって、ただ熱エーテル的なエレメントのなかにのみ生きていて、まったく霊的であったのです。地上的なものは霊的なものから形成されてきたというわけです。

 さて植物を見てみましょう。植物は、その形態のなかに、生き生きとした進化の記憶を携えています。植物はその根的なもののなかに、地球的になること、物質的ー素材的になることを担っています。私たちが植物の根を見ると、私たちはさらに気づきます、霊的なものから地上的ー物質的なものが発生したことによってのみ植物は生成できたのだ、と植物は私たちに語っているのです。けれども地球が月的なものの重荷から解放されるやいなや、植物はまた光の彼方に戻ろうと努めます。

 さて、私たちが植物質のものを食物として取るとき、植物が外部の自然においてすでに始めたことを正しく継続する機会が、単に宇宙の光の彼方にのみならず、宇宙の霊の彼方にも戻ろうと努める機会が植物に与えられます。したがって、昨日申し上げましたように、私たちは植物質のものを空気の性質のもの、ガス的なものにまで駆り立てなければならないのです、植物質のものが光ー霊の彼方への憧れに従うことができるようにするためです。

 私は草原に出かけていきます。私は草花から、植物の花々から、それらが光を求めていることを見て取ります。人間は植物を食べます。人間はその内部に、外の環境とはまったく異なる世界を有しています。植物が外部で花々のなかに憧れとして顕現させているものを、人間は自分のなかで成就させることができます。私たちは、自然のなかに広がっている植物の憧れの世界を見ます。私たちは植物を食べます。私たちはこの憧れを私たちのなかで精神的(霊的)世界に対峙させます。私たちは、植物がより軽い空気界のなかで精神的(霊的)なものに向かっていく可能性を得られるように、植物を空気界へと高めなければならないのです。

 ここで植物はある特殊なプロセスを経ていきます。人間が植物質のものを食べるとき、以下のようなことが起こります、ここに図式的に描いて、根的なものがあります、それから葉を経て花に向かっていくものがあり、次いでこの植物的なものが空気的になる際に、内的に植物存在が完全に逆転する[Umstuelpen]ということが体験できるのです。根は、まさしく地中で生きることによって、地に繋がれていることによって上昇を目指します、根はきわめて強く上の霊的なものを目指し、花の努力を引き離します。これは事実、皆さんが植物的なものを、このようにして下へと展開していくと思い描き、そしてこの下のものをこの中へと差し込むことができ、その結果、上のものが下に、下のものが上になる[ひっくり返されたハンカチ]というときのようです。植物は完全に逆転しているのです。植物は自分自身のなかで、下のものが上に、上のものが下になるように自らを形成します。すでに開花まで成長したものは、いわば物質的な求めのなかで光を食し、物質を光にまで上昇させたのです。そうすることによってそれは、今もなお下にとどまらねばならない、という罰を受けなければなりません。根は地上的なものの奴隷でした、しかし皆さんがすでにゲーテの植物のメタモルフォーゼ論〈☆1)からおわかりのように、根は同時に自らのうちに植物の全本性を担っています。根は上方を目指すのです。

 人間が頑固な罪人であるなら、人間は罪人で在り続けようとしますね。植物の根は、それが地に繋がれている限り、太った銀行家の印象を与えますが、人間に食べられると即座に根は変化させられ、上を目指します、一方で、物質を光へと至らせたもの、つまり花は、下にとどまらなければなりません。ですから、植物における根的なものには本来、それが食べられると、それ自身の性質にしたがって人間の頭を目指していく何かがあり、他方花に向かって位置しているものは、下位の領域にとどまります、これは全新陳代謝において頭形成まで上昇することはないのです。

 こうして、奇妙な不思議な光景が得られます、人間が植物質のものを食べるときーーもちろん植物全体を食べる必要はありません、植物の個々のどの部分も植物全体を含んでいるからです、申しましたようにゲーテのメタモルフォーゼ論をごらんくださいーー、つまり人間が植物を食べるとき、植物は人間のなかで空気へと変化する、上から下へと植物的に進んでいき、上から下へ向かっていわば花を咲かせるような空気へと変化する光景です。

 古い本能的な霊視によってこういう事柄が知られていた時代には、植物はその外的な性質に応じて、それが人間の頭にとってなにがしかのものでありうるかどうか、あるいは霊的なものへの憧れを持つことをすでに強くその根のなかで告げたかどうか、吟味されていました。そして、私たちがそれらの植物から食べるものは、いわば完全な消化において人間の頭を訪れ、頭の中へと進入していくでしょう、そこで霊的(精神的)宇宙を求めて上昇し、宇宙との必要な結びつきに入っていくために。

 すでにアストラル的なものに強く浸透されている、たとえば莢果{エンドウなどの豆科植物の実}のような植物の場合、実さえも下の領域にとどまり、頭まで上昇しようとしないので、眠りをぼんやりしたものにし、それとともに人間が目覚めているときも頭をぼんやりとさせるでしょう。ピュタゴラス学派の人々(☆2)は純粋な思索者でありつづけようとし、頭の機能において消化の助けを借りようとはしませんでした、ですから彼らは豆を禁じていたのです。

 このようにして、自然のなかに存在するものから、人間的なものとの関連、人間において起こっていることとの関連を予感することができます。そもそも精神的(霊的)イニシエーション学を持てば、唯物論的な科学が人間の消化の場合ーーたしかに牛の消化の場合は異なっていますが、これについてはさらにお話ししていきましょうーー、単に植物質のものが摂取されるという考えとどうやって折り合いをつけているのか、まったくわからないでしょう。植物質のものは単に摂取されるのみではなく、残らず霊化されます。植物質のものはそれ自身のなかで、最も下のものが最も上へ、最も上のものが最も下へと転じられるように形成されるのです。これ以上に大きな作り替えは考えられません。そして人間は、最も下のものが最も上へと、最も上のものが最も下へと転じられていない植物のほんの少量でも食べるなら、すぐに病気になるでしょう。

 このことから、人間は霊(精神)が作り出さないものはなにも自らのうちに有していない、ということがおわかりになるでしょう、と申しますのも、人間が物質的に摂取するもの、人間はこれにまずひとつの形(フォルム)を与えねばならないからです、その結果、霊(精神)がそれに影響を及ぼすことができます。

 私たちが動物質のものに近づくとき、はっきり理解しておかなくてはならないのは、動物質のもの自身がまず消化をするということ、動物質のものがまず植物質のものを摂取しているということです。草食動物を見てみましょう。動物質のものは自らのうちに植物質のものを摂取します。これはまた非常に複雑な経過です、と申しますのも、動物が植物質のものを自らのうちに摂取することでは、そもそも動物は、植物に人間的な形態を対置することができないからです。したがって動物のなかでは植物質のものは下から上へ、上から下へと転ずることができません。動物の脊柱は地球の表面に平行しています。そのため、消化の際に起ころうすることは、動物のなかでまったく無秩序になります。そこでは下のものが上へ、上のものが下へ行こうとするのですが、停滞してしまいます、それ自身のなかで停滞してしまうのです、ですから動物の消化は人間の消化とは本質的に異なった何かなのです。動物の消化の場合、植物のなかに生きているものは停滞します。その帰結として、動物の場合、植物存在に対して、お前は宇宙の彼方へのお前の憧れを満足させてよい、と約束がなされるのですが、動物にはこの約束が守れません。植物は再び地へと投げ返されます。

 けれども、動物の生体組織のなかで植物が地に投げ返されることによって、逆転が起こる人間の場合のように上から宇宙霊たち[Weltengeister]がその力とともに進入してくる代わりに、動物の場合すぐさま植物のなかへと、ある種の元素霊たちが進入します。これらの元素霊たち、これは不安の霊たち、不安の担い手たちです。したがって霊的な観照にとってはこの奇妙なことが追求されねばなりません、動物は自分で食物を取ります、内的な心地よさのうちに食物を取るのです、そして食物の流れが一方に向かい、他方で不安の元素霊たちの不安の流れがもう一方に向かっていきます。消化の方向に絶えず動物の消化管を貫いて、食物摂取の満足感が流れていき、この消化に相対して、不安の元素霊の恐ろしい流れがやってきます。

 これも、動物たちが死ぬときに後に残していくものです。つまり私がすでに別様に述べました順序に属さない動物たち、さらにたとえば四つ足の哺乳動物に属する動物たちも、これらの動物が死ぬことで、その死において、もっぱら不安から構成されたある存在が常に死に、本来こう言えるかもしれませんが、甦ります。動物とともに不安は死ぬ、ということはすなわち不安が甦るということです。肉食獣の場合、すでに不安を一緒に食べているということになります。肉食獣は獲物を引き裂き、満足感をもって肉を食べます。肉食へのこの満足感に対抗して、不安が、恐怖が流れ込みます、この恐怖を、植物を食べる動物たちは死に際してはじめて自分から発するのですが、肉食動物は生きているうちにすでに流出させます。したがってライオン、トラといった動物たちは、そのアストラル体が不安に浸透されており、この不安をさしあたり生きているうちは感じませんが、これらの動物は死んだ後、それがまさに満足感に対抗してやってくるものであるがために、この不安を撃退します、ですから肉食する動物たちは、その集合魂において、なおも死後の生を、人間がいつか経ていくであろうよりずっと恐ろしいと言えるカマローカである死後の生を送るのです、それは肉食動物が、すでに有しているこの性質を有しているがゆえにです。

 こういう事柄の場合、これは別の意識においても体験されるのだ、と皆さんは想像されるにちがいありません。つまり皆さんがまたすぐに唯物論的になり、皆さん自身を動物の立場に置くことによって肉食動物はどんなことを体験せねばならないのか、と考え始めるとき、そして今や、このようなカマローカは私にとってはどういうのものであらねばならないか、と考えるとき、ーーそしてさらに、このようなカマローカが皆さんにとってどのようなものでありうるかということにしたがって肉食動物を判断することを始めるとき、そういうとき、皆さんは言うまでもなく唯物論的であり、実際動物崇拝的[animalistisch]なのです、このとき皆さんは動物の性質に身を置いています。世界(宇宙)を理解しようとすれば、こういう事柄を理解しなければならないのはもちろんですが、唯物論者が全宇宙に対して生命無き物質に感情移入するように、いわばこういう事柄に感情移入してはならないのです。

 ここで、魂的に語るほかはない問題が始まります、と申しますのも、人智学は決してアジテーション的に、あるものを支持したり別のものを支持したりするのではなく、まさに真実を提示するべきものだからです。そのひとが自分の生活様式のためにどんな結論を導き出すかはその人の問題です、人智学は規定を与えるのではなく、真実を語るものだからです。ですから私は決して、ファナティックなひとのために、植物を食べることから動物が形成するものから導かれるいわば戒律を提示したりすることはないでしょう。つまり私は、こういう観点から戒律的にヴェジタリスム、肉食その他について語るつもりはありません、こういう事柄は徹頭徹尾各自が考慮検討する領域に置かれなければならず、各自の体験領域に置かれてのみ本来価値があることだからです。私がこう申しますのも、人智学とは、あれこれの食餌法その他を支持することだ、という意見が出てきたりしないようにするためです、事実人智学は、あらゆる種類の食餌法を理解させてくれるのみなのです。

 けれども、まさに私が示しておきたかったことは、鉱物質のものが霊的なものを受け入れることができるために、私たちはこれを熱エーテルにまで駆り立てなければならない、ということでした。そして、霊的なものの受け入れの後、鉱物質のものから人間が構築されます。人間がまだ非常に若いとき、申しましたように、人間にはまだまったく鉱物質のものを熱エーテル的なものまで追いたてる力がありません。人間がミルクを自分のなかに摂取しなければならないということで、あらかじめ準備がなされます、ミルクにおいてはすでに変化が起こっていて、そのため、熱エーテル的なものに変化させられねばならないものが容易に変化させられやすいので、子どもの場合、飲まれたミルクはその力とともにすばやく頭へと注ぎ込み、子どもに必要なフォルム形成の衝動を、頭から発達させることができるのです。なぜなら子どもの生体組織形成全体は頭から発していくからです。

 人間がこのフォルム形成の力をのちの年齢においても保持しようとするなら、ミルクを取ることによってこれを促進することはよくありません、と申しますのも、子どもの場合、頭まで行って、歯の生え替わりまで存在する頭の力によって形成しつつ全身に放射していくことができるもの、これが、その後の年をとってからの人間にはもはや存在しないからです。年をとってからは、頭以外の生体組織全体が形成力を放射しなくてはなりません。そしてこの、そのほかの生体組織にとっての形成する諸力、これはまったく特殊に、頭とは異なって作用する何らかのものを摂取することによってその推進性が促進されます。

 よろしいですか、頭は丸く閉じられていますね。この頭のなかには体の形成のための子どもの衝動があります。そのほかの体においては内部に骨があり、形成する力は外にあるのです。そこでは形成する力であるものは、外へと刺激されます。私たちが人間にミルクを取らせると、私たちが子どもであるうちは、頭のなかのこれらの形成する力が刺激されます。私たちがもはや子どもではなくなると、その形成力はもうなくなります。これらの形成する力をもっと外から刺激することができるためには、ここで私たちはいったい何をすべきでしょうか。

 もしこうすることができたらきっとよいでしょう、頭が頭蓋冠によって閉鎖されていることによって行うこと、頭が完全に内部で行うことを、外的な形で持つことができるなら、つまり頭がその内部で行うことがどこか外からなされるしたらです。内部にある力、これらはミルクを取ることに対して良いのです。エーテル的変化をしたミルクが内部にあるとき、ミルクはこの頭の力の発達のために良い基礎を与えます。私たちはたとえば、ミルクのような何かを持たなければならないでしょう、けれどもそれは人間の内部では製造されず、外から製造されるものですが。

 ここで自然のなかには、頭蓋冠のない頭であるものが存在します、つまりそこでは、頭の内部で作用しているのと同じ力、つまりミルクを必要とし、ミルクを再び生み出すことさえする力、なぜなら子どもはミルクをまず熱エーテル的な状態に移行させ、それからまたそれを作り出すからですが、そういう内部で作用するのと同じ力が、外から作用していているのです。ーーさて、あらゆる方向に開いている頭というのは蜂の巣です。蜂が営んでいることは本来、頭が内部で営んでいるのと同じことですが、ただしそれは外部にありますーー私たちは蜂に支えとしてせいぜい巣箱を与えるのみですーー、それは閉じられておらず、外から作用します。さらに蜂の巣の内部には、すでに外的霊的影響のもとに、私たちのこの頭のなかで霊的影響のもとにあるものと同じものがあります。蜂の巣の内部には蜂蜜があり、私たちが蜂蜜を摂取したり、年配になってから蜂蜜を食べると、蜂蜜は私たちに、今はむしろ外から形成する力を与えなければならないもののために、子どもの年代には頭のためにミルクが与えてくれていたのと同じ力を与えてくれます。

 つまり私たちが子どもであるうちは、私たちはミルクを取ることによって頭から造形する[plastizierend]力を促進します、後の年齢にもなお造形する力が必要なときは、蜂蜜を食べなければなりません、とは言え、そんなに多量に食べる必要はありません、要は蜂蜜から力を得るというだけのことですから。

 このように、外なる自然を完全に理解すれば、人間の生命にどうやって促進衝動を供給しなければならないか、外なる自然から見て取ることができます。それでは、美しい子どもたちと、年老いた美しい人々のいる国を想像しようとするなら、それはどんな国でなければならないでしょうか。それは「乳と蜜の流れる」国(*1)でなくてはなりません!おわかりでしょう、古い本能的な見力が、人々の憧れるそのような国々について語ったのも不当なことではありません、それは「乳と蜜の流れる」国々なのです。

 こういう単純な言葉が途方もなく深い叡智を含むことがあります、そして、まずは可能な限りの力を尽くして真実を探究し、「乳と蜜の流れる」国についてのような深い叡智の充溢した太古の聖なる真理の言葉をどこかに見出すこと以上にすばらしい体験はありません。と申しますのも、それは実にたぐい稀なる国だからです、美しい子どもたちと美しい老人たちのみがいる国は。

 おわかりですね、人間を理解するには、自然を理解することが前提となっています。自然を理解することは、人間理解のための基礎を与えます。そこでは常に、最も下位の物質的なものが、最高の精神的(霊的)なものまで通じています、自然界、鉱物、動物、植物界が一方の下の極に、ヒエラルキアがもう一方の上の極にあるのです。

 

□編註

☆1 ゲーテの植物のメタモルフォーゼ論:ゲーテ『植物のメタモルフォーゼ(変態)』(J・W・ゲーテ『自然科学論文集』所収)参照。第7講の編註☆4も参照のこと。

☆2 ピュタゴラス学派の人々:ピュタゴラスによってクロトン(南イタリア)に組織された倫理的ー宗教的生活形式のための教団。その閉鎖的な貴族的保守的立場のために迫害されたが、4世紀初頭まで存続した。アリストテレスは、ピュタゴラス派は数学と真剣に取り組んだ最初の人々だった、と伝えた。オルフェウス教徒にならってピュタゴラス学派の人々は、魂の輪廻と再来を教えた。

□訳註

*1 「乳と蜜の流れる」国:旧約聖書「出エジプト記」3−8など。モーゼがエジプトからイスラエルの民を導いていく土地についてこの表現が与えられている。

(第11講・終わり)


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