ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第12講   1923年11月11日  ドルナハ  


・物質的、自然的人体組織と霊的(精神的)道徳的なもの

・人類の道徳的ー精神的(霊的)なものの源泉:人間理解と人間愛

・今日、精神的(霊的)なものは単なる抽象思考として語られる

・物質界、自然界にあるすべてのものは、霊的世界に関する文字

・人間の(物質的)形姿は、霊的に観て道徳的冷たさと憎悪から構築されている:

 道徳的冷たさは人体組織を固く構成し、憎悪は血液循環を引き起こす

・人間の魂には道徳的熱(暖かさ)、人間愛への萌芽があるが、

 下意識には道徳的冷たさと憎悪が潜んでいる:現代文明との関係

・死の門を通過していくとき、人間は冷たさと憎悪の結果を携えていく

・今日の一般的な社会生活に見られる道徳的な熱と愛の欠如

・人間が携えてきた冷たさと憎悪の結果を負担する高次ヒエラルキア存在たち:

 第三ヒエラルキアが冷たさに由来するもの、次いで第2ヒエラルキアが

 憎悪に由来するものを取り除く

・人間の形姿は純粋に霊的なもの:単なる物質的なものを人間の形姿に保つのは

 霊的なもの

・死後霊的世界でこの形姿は徐々に頭の部分から溶解していき、

 第一ヒエラルキアのもとで完全に変容する

・第一ヒエラルキアのもとでの霊形姿の形成:

 四肢であったものが未来の頭の原型となる

・脳だけでなく、手足で思考することでカルマを追求することができる

・人間の動きとともに、その人間の道徳的全体が運動している

・死後の生の後半における新たな形姿の形成プロセス:

 第二、第三ヒエラルキアは死後の生の前半に人間から取り出したものから、

 胸器官、四肢代謝器官の原基を形成する

・人間の物質的本質と周囲の物質的自然との違い

・人間と結びついているヒエラルキアの営み

・新たな人間形姿形成のために使い果たされなかった人間無理解と人間憎悪の

 力の残余、その帰結としての文明の癌形成、潰瘍形成

・寄生生物に冒された生体組織のような現代文明:人間との生きた結びつきを

 持たない思考

・現代文明に上から下降してくる霊的なものは人間を通じて有毒となる:

 下からの寄生性と上からの毒性

・文化の病の診断と治療法

・人間の心と心情から生み出される新たな文明の必要性:

 文化の病の治療としてのヴァルドルフ教育

・真の文化の覚醒衝動としての人智学


 人体組織において、外的ー自然的なものがいかに変化させられるか、たとえば熱エーテル的なものにまで変化しなければならない鉱物質のものの場合非常に激しい変化ですが、これがわかりますと、自然的な人間、有機的に組織された人間のなかに生きているものがいかに霊的(精神的)なものとつながっているかも認められるでしょう。たとえば解剖学や生理学に関する一般的な手引き書にある図にしたがってしばしば考えられているように、人間というのは固い構築物であって、外部に在る自然の成分を摂取し、それを体内にほとんど変化させないままとどめる、と想定するなら、橋が欠けていることに始終悩むことになるのは当然でしょう、自然的な人間のなかにあるものから、人間がその本来の魂的なものにしたがって結びつけられているものへと架けられねばならない橋が欠けていることに。

 まず、固い物体と思われている骨組織、筋肉組織と、たとえば道徳的[morarisch]な宇宙秩序との結びつきを見出すことはできないでしょう。ひとはこう言うでしょう、一方はまさしく自然であり、もう一方は自然とは全く異なる何かだ、と。けれども、人間のなかにはあらゆる種類の実質が存在しており、すべては、筋肉と骨よりもっと揮発的な種類の実質を経ていかなければならない、ということが明確に理解されるなら、より揮発的、エーテル的なものは、道徳的宇宙秩序の衝動であるものと結びつくことができるということが認められるでしょう。

 すでに私たちが行なった考察を、人間が上に向かって有している結びつき、つまり宇宙の霊的なもの、私たちが高次ヒエラルキア存在たちとみなしている存在たちに向かって有しているあの結びつきにまで導こうとするなら、以上のような考えを引き継いでいかなくてはなりません。そこで、今までの講義ではむしろ自然的なものから出発しましたように、本日私たちは、そうですね、人間のもとで精神的(霊的)ー道徳的に作用しているものから出発していきたいと思います。

 精神的(霊的)、道徳的、というのは、現代の文明にとっては実際すでに多かれ少なかれ慣習的なものを表わす概念になってしまっています。人間の本質において、道徳的ー精神的なものの根源的基本的感情はどんどん衰退していきました。現代文明はたとえば、その教育の全てにしたがってますますこう問いかけるように人間に指示します、一般に通用しているのは何か、慣習的に定着しているのは何か、掟とは何か、法とは何か、などなど。ーー現代文明は、人間からまさに衝動として、たとえばしばしば漠然と良心の場所と設定される場所に根付く衝動として発してくるものに向かうことは少なくなっています。この内的な自己自身への方向付けと目標設定、現代文明においてますます衰退していったものはこれなのです。ですから結局のところ、精神的ー道徳的なものは、今日多かれ少なかれ慣習的ー伝統的なもののなかに生きる何かになってしまったのです。

 古代の世界観、とくにまだ本能的な霊視に支えられていた世界観は、人間の内部から道徳的衝動を、成熟した道徳的衝動を引き出しました。こういう道徳的衝動は存在してはいますが、今日では伝統的なものになってしまいました。たとえば道徳的なものが非常に伝統的になってしまったことについて、はっきりと理解しておかなくてはなりません。もちろんそれで道徳的なものにおける伝統的なものに対して何か異論を申し立てよというわけではありません。ただ、よく考えてみてください、いったい十戒はどれくらい古いものでしょうか。十戒は古代から記録されてきたものと教えられています。根源的基本的な人間本性から、かつてデカローク[Dekalog]、十戒においてそうであったような何かが湧き出てくることが、今日でも普通に見られることである、と私たちは言えるでしょうか。そして、人間たちを社会的に結びつけ、ひとからひとへと社会的な糸をつなぐ道徳的ー精神的なものは、いったい何から湧き出てくるのでしょうか。

 人類における道徳的ー精神的なものの本来の源泉としてあるのは、人間理解[Menschenverstaendnis]と呼びうるもののみです、相互の人間理解、そしてこの人間の理解に基づく人間愛[Menschenliebe]なのです。社会生活において役割を果たしている、人間の道徳的ー精神的衝動が成立する際、なおもよく見回してみるとよいでしょう、私たちはいたるところで、こういう道徳的衝動が基本的に人類から発したところでは、それは人間理解と人間愛から生じたのだ、ということを見出すでしょう。後者は本来、人類の内部で社会的に精神的ー道徳的なものを促進させるものなのです。そして根本において人間は、人間が精神的(霊的)存在である限り、人間理解と人間愛を発達させることによってのみ、他の人間たちの間で生きるのです。

 さて、皆さんは意味深い問いを投げかけることができます、なるほどいつも投げかけられるわけではないけれども、まさに言われていることに対しては誰しも口先まで出かかっているにちがいない問いかけ、つまり、人間愛と人間理解が人間の共生の本来の衝動であるなら、いったいその反対のもの、人間無理解[Menschenunverstaendnis]と人間憎悪[Menschenhass]がどうして私たちの社会秩序の内部に生じることになったのか、という問いです。

 これは、あらゆる人間のなかでもまさに秘儀参入者たちの最大の関心事であった問いです。秘儀参入学[Initiationswissenschaft]は、それが原初的であったあらゆる時代に、これをまさに最重要の問いとみなしていました。けれどもこの秘儀参入学は、それが原初的であったときにはまだ、この問いの解明の背後に至るある種の手段を有していました。今日通用している科学を眺めますと、人間を観察するときーー神に創造された魂には本来人間理解と人間愛の素質があるわけですからーー、実際こう問いかけることになります、人間理解と人間愛が自明のものとして社会秩序の内部で働かないのはいったいなぜだろう、人間無理解と人間憎悪はいったいどこからやってくるのか、と。そして、人間無理解と人間憎悪を精神的(霊的)なもの、魂的なもののなかに捜すことができないなら、私たちはおのずとこれを物質的ー身体的なもののなかに捜さなくてはなりません。

 とは言えいかにも、今日通用している科学は、人間の物質的ー体的なもの、血液、神経、筋肉、骨とは何であるか、私たちに答えてくれます。ひとつの骨をどんなに長いこと眺めることができても、今日の自然科学の目だけで見るなら、この骨、これが人間を憎悪へと誘惑するものなのだ、と言うことはできないでしょう。ーーあるいは、今日調べられているような原理にしたがってどんなに血液を調べることができても、そのやりかたでは、この血液が人間を人間無理解へと誘惑するものだ、と確認することはできないでしょう。

 秘儀参入学が原初的な状態であった時代においては、むろんこれはまったく異なっていました。そのころ人間の物質的ー身体的なものを眺めると、本能的な霊視によって精神的(霊的)なもののなかに見られるものの対応像がそこに得られました。今日人間が精神的なものについて語るとき、せいぜい抽象的な思考について語るのみです、それが人間にとって精神的(霊的)なものなのです。そして人間にとってこれらの思考があまりに希薄になると、人間には言葉だけが残され、人間はフリッツ・マウトナー(☆1)がしましたように『言語批判』を書くのです。このような言語批判を通じて、そうでなくともじゅうぶん希薄になってしまった精神(霊)を、単なる抽象的な思考へと完全に蒸発させてしまう可能性が出てきます。本能的な霊視に浸透された秘儀参入学は精神的(霊的)なものを抽象的思考のなかには見ませんでした。秘儀参入学は精神的(霊的)なものを形態のなかに見ました、具象的なもの、それ自身が語り、音を発することができたもののなかに見ました。秘儀参入学は精神的(霊的)なものを生きた活動性のなかに見たのです。精神的(霊的)なものが生きた活動性のなかに見られたことによって、物質的なもの、骨、血液もまた精神性(霊性)において見られることができました。この秘儀参入学においては、今日のこのような骨格という考え、表象は存在しておりませんでした。こういう骨格は、今日、解剖学者あるいは生理学者たちにとって、計算する建築技師によって構築されたもののように見なされているものです。けれども、骨格はそういうものではないのです。この骨格というのは、皆さんがごらんになったように、鉱物質のものが熱エーテルにまで駆り立てられ、熱エーテルのなかに霊的ヒエラルキアの力が介入し、そしてそれから骨の形(フォルム)が構成されることによって形成されたのです。

 つまり骨格を正しく観ることができるひとに対して、骨格は霊的な起源をそっと明かします。そして実際のところ、骨格を今日の形(フォルム)において、つまり今日の科学が観る形において、ということですが、骨格をそういう形に観るひとは、ここに印刷されたページがある、文字の形がある、と言うひとに似ています。ーーそのひとは、これらの文字の形を書きますが、それを読むことができないので読まないのです。そのひとは文字の形のなかに表現されているものを、その根底にあるものに関係づけることなく、ただ文字の形を書くだけです。今日の解剖学者、今日の自然研究者は、このように骨を記述します、あたかも骨が示唆していることなど何もないかのように。けれども骨は霊的なものから発したその起源をほのめかしています。

 物質的な自然法則、エーテル的な自然法則のすべてに関してこれがあてはまります。すべては、霊的(精神的)世界であるものに関する文字のようなものなのです。これらを霊的世界に由来する文字と解釈できてはじめて、こういう事柄が理解できるのです。

 けれどもさらに、人間の物質的な生体組織へと目を向けるとき、まず最初に知覚されるのは、あの領域に属するものです、つまり、あらゆる時代の秘儀参入者たちがーーつまりまさに真に秘儀参入者であったひとたちがーー、霊的世界へと境界を越えて最初に知覚されるのは、ぞっとするような何か、最初は容易には耐えられないような何かだ、と語ってきたようなあの領域に。人間は大抵の場合、自分にとって努力する価値があると思われるものによって喜びを感じたいと思うものです。とは言え、霊的な現実、すなわちおしなべて真の現実に精通しようとすれば、ひとは恐怖を通過して行かねばなりません。と申しますのも、解剖学的ー生理学的に私たちの眼前に置かれている人間の形姿[Menschengestalt]に関してひとは、この人間形姿は霊的世界から、つまりそこにおいて道徳的な冷たさと憎悪である二つの要素から構築されている、ということに気づくからです。

 私たちは実際に魂のなかに、人間愛とあの熱、他の人間を理解しようとするあの道徳的な熱への萌芽を有しています。ところが、生体組織の固い構成部分のなかには、道徳的な冷たさを持っています。これはいわば、霊的世界から私たちの物質的生体構成をくっつけて固めるあの力なのです。そして私たちは、私たちのなかに憎悪への衝動を担っています。これは、霊的世界から血液の循環を引き起こすものです。そして私たちは、もしかすると非常に愛に満ちた魂、人間理解を切望する魂をもって世界を進んでいくかもしれませんが、他方、下意識(潜在意識[Unterbewusste])の底には、魂はそこで私たちがそもそも肉体というものを担うことができるために、体的なもののなかに流れ込み、衝動を与えるわけですが、この魂の底には冷たさが潜んでいるのです。私は終始冷たさについて語るでしょうが、これはつまり道徳的な冷たさのことなです、ただしこれは熱エーテルという迂回路を経て物質的な冷たさに移行することができるのです。私たちの底深く、下意識には道徳的な冷たさと憎悪が潜んでいます、そして人間がその魂のなかに、体内に潜んでいるものを持ち込むのは簡単です、その結果、人間の魂がいわば人間無理解が感染させられることになります。これは道徳的な冷たさと人間憎悪の帰結なのです。こういうわけですから、人間は道徳的な熱、すなわち人間理解と愛をそもそもまず自分のなかに育成しなければなりません、これらが、体的なものからやってくるものを克服しなければならないからです。

 さて、これは否定できないことでしょうがーーこれは霊的な眼差しにはきわめて明確に示されることですーー、15世紀とともに始まり、一方においては主知主義的に、他方においては唯物論的になった私たちの時代、私たちの文明に結びついているのは、魂の根底で多くが人間無理解と人間憎悪において存在する、ということです。これは考えられている以上にそうなのです。と申しますのも、人間の無意識のなかに人間無理解と人間憎悪がどれほど存在しているか、本来人間は死の門を通過してはじめて気づくであろうからです。このとき人間は魂的ー霊的なものを物質的ー肉体的なものから引き離します。人間は物質的ー肉体的なものを脱ぎ捨てるのです。冷たさの衝動、憎悪の衝動はこのとき単なる自然力[Naturkraefte]であることが判明します、これらは単なる自然力なのです。

 死体をよく見てみましょう。霊的な眼差しで、エーテル的な死体をもよく見てみましょう。私たちはこのとき、もはや植物や石のように道徳的判断を呼び起こさないものを眺めています。道徳的なものの内部に入り込んでいたものは、自然力へと変化したわけです。けれども人間は生きている間に多くを吸い込みました、人間はこれを死の門を通って携えていきます。このように自我とアストラル体は後退し、物質体とエーテル体のなかに繰り返しまったく沈み込んでしまったために、生きている間に気づかないまま残ったものを引き出して、携えていきます。この自我とアストラル体は、霊的世界へと、まさに魂のなかにはびこっていた人間に対する人間憎悪と冷たさの衝動のすべてを携えていくのです。私は申しました、私たちのこの文明において、さらにこれからお話ししていくであろうさまざまな事柄を通じて、人間無理解と人間憎悪を通して人間のなかにいかに多くが植え付けられているか、ひとは人間が死の門を通過していくのを見るときはじめて気づくのです、と。なぜなら、今日の人間は、この両衝動のうち非常に多くを死の門を通過して運んでいくからなのです、途方もなく多くを運んでいくのです。

 けれども、このとき人間がともに携えていくものは、物質的なもののなかにあるべきものの、物質体とエーテル体とを完成すべきものの霊的な残余なのです。人間は人間無理解と人間憎悪のうちに、本来物質的世界に属するものの残余を霊的世界へと持ち込みます、しかもこれを霊的なしかたで持ち込むのです。これをさらに死と新たな誕生との間の時期を通じてずっと携えていることは、人間にとって決して役立つことはできないでしょう、なぜなら、人間がこの人間無理解と人間憎悪をさらに持ち運ばなければならないとしたら、人間はまったく前進することができず、死と新たな誕生との間でさらに進化する際に、前へ進むたびにつまずいてしまうことになるでしょうから。いわゆる死者たちが歩み入っていく超感覚的世界のなかに、今日絶えず見られるのは、それが直接的に作用すれば人間の進歩が阻まれるであろうような動向ばかりなのです。こうした動向、これはいったい何に由来するのでしょうか。

 これが何に由来するのか知ろうとするなら、今日の生活をよく見さえすればよいのです。人間たちはお互いにすれ違い、他のひとがどんな特性を持っているかを見ることはほとんどありません。そもそも今日人間たちは多くの場合、誰もが自分自身がどうであるか正しく良く見る、というようなありかたをしているのではないでしょうか。そして他のひとが違った様子をしていると、愛情深くそのひとのなかに入り込んでいくのではなく、このひとはそうあるべきではないのに、と判断するだけです、その際結局のところその判断の背後にあるのは、このひとは私のようであるべきなのに、とつぶやくことなのです。ーーこういうことはいつも意識されているとは限りませんが、これはまさに社交上の交流、人間の社会的なつき合いのなかに潜んでいるのです。今日明るみに出されているもの、人間言語の形式と申し上げたいもののなかには、他の人間の理解であるものはほとんど生きておりません。人間であるべきことを自分がいかに考えているか、人間は世界に向かって大声でがなり立てますが、その際その背後にあるのは、たいていの場合、すべての人間は自分のようであるべきだ、ということにほかならないのです。そのときまったく別なようすの誰かがやってくると、その誰かはただちに、たとえそれが完全に意識されないにしても、敵であり、反感を覚えさせる人間なのです。ここでは人間理解が、道徳的な熱が欠けています、愛が欠如しているのです。そしてこれらが欠けているのと同じだけ、道徳的な冷たさが、人間憎悪が人間とともに死の門を通過していき、そこに人間を引き留めるのです。

 けれどもここで人間がまず最初に見出すのは、第三ヒエラルキアの存在たち、つまりアンゲロイ、アルヒアンゲロイ、アルヒャイです、なぜなら人間がさらに進化することは人間自身の目標であるのみならず、全宇宙秩序の、叡智に満ちた宇宙秩序の目標であるからです。人間が死の門を通過して死と新たな誕生との間にある世界へと入った後の最初の時期に、彼らは人間たちに近づき、人間無理解から来る冷たさを慈悲深く人間から取り去ります。そして、人間が死の門を通過して今描写しましたやりかたで霊的世界に持ち込んだものを、いかにこの第三ヒエラルキアの存在たちが負担してくれるか、私たちにわかるのです。

 人間憎悪の残余を人間はもっと長い間運んでいかなければなりません、これが人間から取り去られるのは第二ヒエラルキア、エクスシアイ、キュリオテテス、デュナーミスの恩寵によってのみだからです。そのとき彼ら人間憎悪によって残されているものすべてを人間から取り去ります。

 けれども次いでそうこうするうちに人間は、死と新たな誕生との間のあの領域、セラフィム、ケルビム、トローネという第一ヒエラルキア存在たちが滞在する領域へと、私が神秘劇において霊的生存の真夜中時と呼びましたもの(☆2)に、ほぼ到達します。人間が前もって第三ヒエラルキアと第二ヒエラルキアの存在たちによって、人間無理解すなわち道徳的冷たさと人間憎悪を慈悲深く取り除かれた状態にされていなかったら、人間が内的に完全に破壊されることなしに、つまり消し去られることなしに、このセラフィム、ケルビム、トローネの領域を通過することは決してできないでしょう。こうして私たちにわかることは、人間は、そのさらなる進化に貢献できる衝動に結びつきを見出すために、それがあるべき物質的エーテル的本性から霊的世界に持ち込んでいくものを、最初に高次ヒエラルキア存在たちに負担させざるを得ないということです。

 とは言え、こういうことすべてを見通すとき、いまやこうした道徳的冷たさが霊的世界で意のままに活動するようすを見るとき、この霊的(精神的)冷たさとこの下方の物質的な冷たさとの親和性を判定するすべも獲得されます。雪や氷のなかにあるこの物質的な冷たさは、実際この上にある道徳的ー霊的(精神的)冷たさの物質的模像にすぎないのです。自分の前に両者を置いてみると、これらを比較することができます。このようにして人間はその人間無理解と人間憎悪を取り去られた状態を保つのですが、その間人間がまず徐々にその形姿をいわば失っていくようす、この形姿が多かれ少なかれ溶解していく、とでも言いたいようすが、霊的な目で追求できるのです。

  イマジネーションという霊的眼差しにとって、人間は死の門を通って行ったとき、本来まだこの地上にいたときと同じように見えます。と申しますのも、人間がこの地上で自らのうちに担っているものは、多かれ少なかれ粒のような形状、そうですね、原子のような形状で人間のなかにある実質だからです、けれども人間の形姿、これは霊的なものなのです。私たちはこれについてはっきりと理解しておかなくてはなりません、人間の形姿を物質的に表象するのはまったくナンセンスです、私たちは、人間の形姿を霊的に表象しなければなりません。そのなかの物質的なもの、これはいわば小さな粒子として内部のいたるところにあるのです。単なる力体[Kraftkoerper]である形姿が、この、そうでなければばらばらに崩れてひとかたまりになってしまうであろうものを、形態にしたがって結合させているのです。皆さんがたひとりひとりの髪の毛をつかんで形姿を取り除くことができるとしたら、物質的なものとそれにエーテル的なものは、砂山のように崩れ落ちるでしょう。これが砂山でないということ、これが配分されていて形姿を持っているということ、これは、何ら物質的なものに由来するのではなく、霊的なものに由来するのです。人間は実際霊的なものとしてこの物質的世界を動き回っています。人間が単なる物質的な存在であるというのはナンセンスです、人間の形姿は純粋に霊的なのです。物質的なものは、おおよその表現として、ひと山のパンくずなのです。

 

 しかしこの形姿を、人間は死の門を通過していくときもまだ有しています。この形姿がほのかに光り、きらめき、いろいろな色彩に輝くのが見えます。ただし、人間はまず最初にその頭の形態であるものを失います、次いで他のものも徐々に溶解していきます。そして人間が完全に変容して宇宙の一種の模像のようになるのは、死と新たな誕生との間で、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に至る時です。

 死と新たな誕生との間人間を追求していくと、つまりこのように、その形姿を上から下へと徐々に失っていきながら、人間がさらに動き活動しているのが見られます。けれどもいわば最後のものが下から失われるとともに、すばらしい霊形姿[Geistgestalt]である何かがもう形成されるのです、自らのなかに全天球の模像のようにあり、同時に人間が自分の身に備えるであろう未来の頭の原型でもある霊形姿です。ここで人間は、単に下位ヒエラルキアの存在たちのみならず、セラフィム、ケルビム、トローネといった最高のヒエラルキア存在たちが関与する活動に織り込まれます。

 このとき何が起こるのでしょう。このとき起こっているのは実際、そもそも人間として表象しうるもっとも驚くべきことです。と申しますのもこのとき、人間が下部人間としてこの人生にあったものが頭形成へと移行するからです。私たちがこの地上を動き回るとき、私たちが表象の器官、思考を担う器官として有しているのは、この貧しい頭のみです。けれども思考は私たちの胸の同伴者でもあり、思考はとりわけ私たちの四肢の同伴者でもあります。けれども、私たちが今や単に頭でのみ思考するのではなく、たとえば四肢で思考し始めるようになる瞬間、この瞬間に、カルマの現実(リアリティ)の全てが私たちに開かれるのです。私たちが私たちのカルマについて何もわからないのは、私たちがいつもこの本来表面的な器官、脳でのみ考えるからです。私たちが指で思考し始める瞬間ーーそうしようと奮起したなら、ひとは頭の神経で思考するよりもずっと明快に、まさしく手指で、足指で思考することができますーー、私たちが完全に物質になっていないもので、下部人間で思考し始める瞬間、私たちの思考は私たちのカルマの思考なのです。私たちが手を使って単に掴むだけでなく、手で思考するとき、私たちは手で思考しつつ私たちのカルマを追求していきます。そしてとえいわけ、足によって、単に歩くだけでなく、足で思考するとき、私たちはとりわけ明瞭ににカルマを追求するのです。人間が地上でこれほど偏狭なのはーーご容赦ください、ほかの言葉を思いつかないものですからーー、人間がその思考のすべてをこの頭の領域に閉じこめているからなのです。けれどもひとは全人間をもって思考することができます。そして全人間をもって思考するとき、この中間の部分で、全宇宙論が、すばらしい宇宙の叡智が私たち自身のものとなります。そして下の部分と四肢全般にとっては、カルマが私たち自身のものとなるのです。

 私たちがこの地上で、歩いている人間を観察し、無関心に陥らずに、その歩みの美しさ、歩みの特徴を追求していくなら、そしてたとえば人間の手を私たちに作用させてみて、この手を解釈して、どの指の動きにも人間内部をきわめてすばらしく証左するものがあることを見出すなら、私たちは実際すでに多くを成し遂げているのです。とは言えこれは、歩行し、掴み、指を動かす人間とともに運動しているもののほんの小さな部分にすぎません。何しろこのとき、道徳的人間の全体が運動するのです、そのひとの運命が共に運動しています、霊的にそのひとであるものすべてが共に運動しているのです。そして、死の門に歩み入った後人間の形姿が溶解していくのを私たちが追求できればーー物質的形姿を思い起こさせるものがまず最初に溶解しますーー、なるほど物質的形姿の方に似てはいるけれども、その内的な性質、その内的な本質を通じて、これは本来道徳的なものの形姿であると告げるものが、現われてきます。存在の真夜中時に近づき、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に至りつつ、人間はこのようになっていくのです。次いで私たちは、驚くべき変容(メタモルフォーゼ)が起こるのを見ます、このとき形姿が溶解する、と言うことができるのです。けれどもこれは本来重要なことではありません。形姿は溶解するように見えますが、実際にはこのとき高次世界の霊的存在たちが人間に共同して働いています、人間は自分自身で、そしてまたカルマ的に結びついているひとたちとともにーーある人間がほかの人間にも働きかけますーー人間の以前の形姿、過去の地上生での形姿から、まずは霊的に、次の受肉の形姿となるものを作り上げます。

 この霊形姿はそれからまず、物質的生において胎児として人間に与えられるものに結びつきます。けれども上の霊的世界においては、足と脚が頭部の顎(あご)に変化します。そこでは腕と手が頭部の頬骨に変化します。そこでは、下部人間全体が、後の頭のための霊原基となるものへと変化するのです。これは、宇宙から認識しつつ体験しうるもっとも驚くべきことです、このときこのメタモルフォーゼが起こるようすは。つまりいわばまず全宇宙の模像が創造され、そして道徳的なものすべてが付着するーー私が言いましたすべてが取り除かれたあとにですがーー形姿へとこれが分化されていき、存在していたものが生成するものへと変化していくのです。そして、人間が霊形姿としてさらに変化を続け、再び第二ヒエラルキアの領域、第三ヒエラルキアの領域にもどっていくのが見えます。今やこの変化した霊形姿にーー霊形姿は根本的に未来の頭のための原基にすぎないのでーー、胸器官となるもの、四肢器官、代謝器官となるものがいわば取り付けられねばなりません。これらが取り付けられねばなりません。この取付のための衝動はどこからやってくるのでしょうか。

 そう、この衝動は、人間がこの道の前半にいたときに、第二及び第三ヒエラルキアの存在たちが慈悲深く拾い集めたのです。この存在たちは、人間の道徳的なものからこの衝動を取り出したのですが、今やこの衝動を再び下降させ、それからリズム人間および代謝ー四肢人間の原基を形成します。このとき人間は、死と新たな誕生との間における生存の後半期に、物質的生体組織のための成分、霊的な成分を受け取るのです。胎児的なもののなかに、この霊形姿が入り込んでいき、今や物質的力、エーテル的力となっているものを運び入れます、この物質的、エーテル的力はしかし、私たちが人間無理解と人間憎悪として過去の生から携えてきたもので、私たちの四肢はそれから霊的に形成されるのですが、その物質的な模像にすぎません。

 このような見方をしようとすれば、物質界のために必要とされるのとはそもそもまったく違った種類の感じ方を身につけなくてはなりません。と申しますのも、今示唆されましたようなしかたで人間において霊から物質になっていくものを眺めることができなくてはなりませんし、骨のなかには、冷たさが、道徳的冷たさが物質的模像の状態で生きていて、血液のなかには道徳上の憎悪が物質的模像として生きている、ということに耐えることができなくてはならないからです。いわば、こういう事柄をまったく客観的に眺めるすべを改めて学ばなくてはならないのです。

 とは言え、こういう事柄をこのように覗き込むとき、ひとは人間内部と外部の自然であるものとの違いにようやく気づくのです。

 私が言及しました事実、私たちは分解された人間の良心のような何かを植物界の花のなかにみとめる、ということを思い起こしてください。外にあるものは、いわば私たちの魂的なものの像[Bild]です。私たちがまず内部に有しているもの、これは、外なる自然とは親近性を持たないように見える力です。骨が骨であることができるのは、骨が、鉱物的に現われている炭酸石灰および燐酸石灰を憎み、それらの前から後退し、自分自身のなかに収縮して、外部の自然のなかで炭酸および燐酸石灰であるものとは別の何かになることによってのみなのです。人間が物質的形姿を持つことができるためには、人間の物質的なもののなかに憎悪と冷たさがなくてはならない、という見解にまで跳躍することができなければなりません。

 このとき私たちの言葉は内的な意味とでも申し上げたいものを獲得します。私たちの骨が一定の堅さを有しているとき、それは骨にとって良いことです、骨は霊的な冷たさの物質的模像としてこの堅さを有します。私たちの魂がある種の堅さを持っていたら、それは社会生活にとって良いことではありません。人間の物質的本質は人間の魂的なものとはまったく異なっていなければなりません。人間が人間である可能性、人間の物質的本質は人間の魂的ー霊的(精神的)なものとは異なるという可能性はまさにこの点にあるのです。人間のこの物質的本質は、周囲の物質的自然とも異なっています。私が皆さんにお話ししました変化が不可欠なのは、このことに依るのです。

 けれどもおわかりのように、私がかつて、宇宙論、哲学、宗教を扱いました講座で(☆3、*1)申しましたことに対して、この重要な補足を、人間とヒエラルキアとの結びつきのために不可欠なこの補足を、私たちは一度加えなければなりませんでした。けれどもちょうどこれまでの講義の出発点と同様な出発点を獲得したうえでのみ、私たちはこれらの補足を加えることができたのです。この地上で鉱物界、動物界、植物界の個々の存在とは何であるかを霊的な眼差しで見通すように、ちょうどそのようにひとはヒエラルキアの営みをのぞき見るのです、この下方で物質的な自然のできごとと人間の営みが時とともに経過していくように、時とともに経過していくヒエラルキアの営みを。

 このように死と新たな誕生との間の生を、すなわち霊的世界での生活を見つめると、人間が死と新たな誕生との間に行なうことを、ちょうど人間がこの地上で誕生から死までの間に行なうことを伝記的に記述できるのと同じように、事細かに記述することができます。そして、人間が死の門を通過していくときに人間を通じて霊界に持ち込まれた人間無理解と人間憎悪に基づくものすべて、これらすべてがまたもや人間に付与されること、すなわち、そこから、それを高貴なものに改良しつつ人間の形姿が創造されること、これは本来望まれるべきことだ、と申し上げたいのです。

 さてしかし、何世紀も経過するうちに地球人類の現在の進化にとって、何か非常に奇妙なことが生じてきました。霊的世界においては、人間無理解の力と人間憎悪の力のすべてが、新たな人間形成、新たな人間形姿のために使い果たされることはできません。残余ができます。この残余がこの数世紀の間に地球へと流れ込んできて、その結果霊的な地球大気圏のなかに、地球のアストラル光と申し上げたいもののなかに、混入物として、外部から人間に現われてくる人間憎悪と人間侮蔑の衝動の総和が見られるのです。これらの衝動は人間の形姿にはならなかったもので、地球の周囲のアストラル光のなかを巡り流れています。これらの衝動は人間の中へと作用しますが、今のところ個々の人間であるものには作用しません。これらは人間たちが地上で互いに形成するもののなかに作用を及ぼします。これらは文明のなかに作用を及ぼすのです。そしてこれらが文明の内部に引き起こしたものは、私が1914年の春ウィーンで(☆4、*2)こう語ることを余儀なくさせたのです、つまり、現代文明には、霊的な癌[Karzinom]、霊的な癌の病、霊的な潰瘍[Geschwueren]が混入している、と。

 死と新たな誕生との間の現象を扱ったウィーンでの講演会(チクルス)においてこういうことが語られたのですが、これは当時人々が好んで耳を傾けることではありませんでした。けれどもそれ以来人々は、当時なされた発言が真実であったことを、いくらか経験することになったのです。当時人々は、文明を通じて流れ込んでくるものについてよく考えることなく生きていました。人々は、文明の潰瘍形成がほんとうに存在していることがわかりませんでした、ただ潰瘍形成は1914年から突発したのです。それは今日、まったく損なわれた精神的(霊的)文明実質として姿を現わしています。文明のなかに生きているものを、統一ある精神的(霊的)形成物とみなすこともできます。そうです、人間形成の際に使用されなかった人間憎悪と人間の冷たさの流れが入り込んだほかならぬこの現代文明にとってここで明らかなのは、ここに流れ込んでいるものが現代文明の寄生的なものとして生き抜いている、ということです。

 現代文明は、何か根深く寄生的なものを持っています、それは、寄生生物、細菌に冒された生体組織の一部のようです。人間の思考に積み上げられたものは、人間との生きた結びつきを持たないまま存在しています。きわめて日常的な現象にこれがいかに現われいるかちょっと考えてみてください。何かを学ばなければならないひとは、学ぶべき内容がすでにあるからなのですが、熱中して学ぶのではなく、試験に通るために、あるいは正しい公務員を演じる云々のために腰を据え、まさに学ばなくてはなりません。そのひとにとって、彼が受け容れるものと、彼の魂において本来精神的(霊的)なものを受け容れることへの渇望能力として生きているものとの間に、基本的なつながりがないわけです。これはちょうど、飢えを感じるように作られなかった人間が、絶えず食べ物を自分の中に詰め込んでいるようなものです。食物は、私がお話ししました変化を遂げず、その本質において余計なお荷物となり、とどのつまり、ほかならぬ細菌を呼び寄せるものになってしまうのです。

 現代文明において、人間から切り離されたようになったままの多くのもの、これは、まさにヤドリギとでも申し上げたいものーー霊的に考えてーーのように、人間がその心の、心情の根源的衝動から生み出すものの上で生きています、その多くは、この文明の寄生的なものとして生き抜くというように生きているのです。そしてこれを霊的な眼差しで観るひと、この文明をアストラル光のなかに見るひと、こういうひとにとって、すでにほかならぬ1914年に強度の癌形成が見られました、こういうひとにとって文明全体が何か寄生的なものに冒されていたのです。ところが今や、寄生的なものに加えてまた別の何かが登場してきます。

 私は皆さんに、下から上へと作用してくるグノームたちとウンディーネたちの性質から、寄生的になる衝動を持つ可能性が人間のなかに有機的に生じてくるようすを、いわば霊的ー生理学的に描写いたしました。けれどもこのとき、反対像が生じる、とも申しました。このときジルフェたちと熱元素(エレメンタル)存在たちを通じて、有毒のものが上からもたらされるのです(*3)。そして今日の文明のように寄生的な性質を持つ文明においてはこのように、上から、すなわち霊的な真実として流れ込んでくるものは、自分を通じて毒になることがありませんが、人間のなかで毒に変化します、その結果人間は、私が「ゲーテアヌム」誌に記述いたしましたように(☆5)、不安の中でそれを拒絶し、それを拒絶するためのありとあらゆる理由を作り出すのです。この二つの事柄は互いに対となっています、つまり、下の寄生的文化は、元素的(エレメンタル)な法則から跳躍して抜け出ることがないために寄生生物を自らのうちに含み、そして降下してくる毒、上から降下してくる精神性(霊性、スピリチュアリティ)、これは文明のなかに侵入して人間に摂取され、毒となるのです。このことをよく考えてどらんになれば、現代文明にとってきわめて重大な徴候を示すものが得られます。そしてこのことを洞察すると、まったくおのずから、これに対する治療手段として登場してこなければならない文化教育的なものが生じてきます。実際の診断、実際の病理学からラツィオに基づく治療法が生まれるように、文化の病の診断から治療法が生まれます、一方が他方を引き寄せることによってです(図参照)。

 

 

 今日、人類が新たな文明から、人間の心情と人間の心に寄り添う文明、人間の心情と人間の心から直接生み出される文明から、再び何かを必要としていることは明白です。今日、子どもが小学校に入ったとき、この高度な文明に属する文字形、現在ABCとして学ばされることになっているこの文字形に子どもをなじませるなら、それは子どもの心、子どもの心情のなかの何ものとも関わり合うことがありません。それは、子どもの心、心情とはまったく関わらないのです。子どもがABCを学ばねばならないとき、子どもの頭、子どもの心情のなかで発達するものは、霊的ー魂的に考えて、人間の性質における寄生生物なのです。

 このように、実際私たちの教育時代全体にわたって、今日文明から発して寄生的に人間に迫ってくる多数のものがあります。したがって私たちは、子どもが学校に入るとき、子どもの心情から創造するような教育芸術を開発しなければなりません。私たちは子どもに色彩を作り出させ、喜びから、落胆から、ありとあらゆる感情から生み出されるこの色彩形成を、紙に表出させなければなりません、喜びから苦悩まで!このとき子どもが単にその心情を繰り広げることで紙に表出したもの、これは人間と結びついています、これはいかなる寄生的なものももたらしません。これは、指のように、鼻のように、人間から生え出るものをもたらします、他方、文字のなかで高度の文明の成果に導かれることで人間が受け取るものは、寄生的なものへと至ります。

 そして、人間の心情と人間の心に非常に近しいものと教育芸術とがこのように結びつけられる瞬間、私たちはスピリチュアルなものをも人間にもたらします、それが人間のなかで毒になることなしにです。皆さんはまず最初に、私たちの文明は癌に冒されている、とわかる診断を得て、次いで治療をーーつまり、ヴァルドルフ学校教育を得るわけです!

 ヴァルドルフ学校教育は、愛する友人の皆さん、別様に組み立てられているわけではありません。そこでは、医学的に考えるのとまったく同じ思考法によって、文化について考えられています。ですからここで皆さんは、私が数日前に申しましたことつまり、人間存在は本来、下から、栄養摂取から、治癒を経て、上へ、精神的(霊的)発達へと進むこと、そして、教育は、精神的(霊的)なものへと移された(翻訳された)医学と見なしうるということが、特殊なケースに適用されているのをごらんになるのです。けれども、私たちが文化治療法を発見しようとすれば、このことはとりわけ厳しさをもって際だってきます。と申しますのも、この文化の治療というのを、私たちはヴァルドルフ学校教育としか考えられないからです。

 こういう関連を単に見通すだけでなく、この関連においてこのヴァルドルフ学校教育を実践的に強化拡張しようと試みるなら、それがどういう気分のものか考えてみることがおできになるはずです、そして今、文明の癌の共通の帰結として、中部ヨーロッパに起こっていますことは、今日では皆さんもご自身できっと理解されるでしょうが、実践的なヴァルドルフ学校教育であるものを、まったく不可能にはしないまでも、おそらく非常に危うくする状況です。

 このような考えを私たちから振り払ってはなりません。この考えを私たちのなかで、まだ可能なところではどこででも、この文明の治療に働きかけよう、という衝動にしようではありませんか。実際今日、何倍にも増してそうなのです、1913年のヘルシンキでの講演会(チクルス)で(☆6)、ある種の霊的認識から私はウッドロー・ウィルソン(☆7、*4)の劣等性についてお話しいたしました。彼はそのとき多くの文化人たちにとって一種の世界の主なる神となっており、今日ようやく人々は、もはやそれ以外できないために、彼についていくらか明確に理解するところも出てまいりましたがーー、そのときそうであった状況は、当時文明の癌について語られたことについてもまったくあてはまるのです。当時これらのことについてはまったくそういう状態でした、今日、私たちの時代に適合することについても、まったく同様な状態です、眠りこんでいる状態なのです。私たちにふさわしいのは何と言っても覚醒です。人智学は真の文化を目覚めさせるすべての衝動をそのなかに含んでいます、人間の真の文化の覚醒のための衝動を。

 これがこの連続講義の最後に皆さんに申し上げたかったことです。

 

□編註

☆1 フリッツ・マウトナー:Fritz Mauthner 1849ー1923 作家、哲学者。『言語批判論集』全3巻(シュトゥットガルト、1901)参照。

☆2 私が神秘劇において霊的生存の真夜中時と呼びましたもの:ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘劇』(GA14)所収の『魂の目覚め』第四景及び第五景参照。

☆3 …講座で:ルドルフ・シュタイナー「人智学における哲学、宇宙論、宗教」(GA215 全10講 ドルナハ 1922年9月6日ー15日)参照。さらにルドルフ・シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25 ゲーテアヌムにおける「フランス講座」のための論文集1922年9月6日ー15日)参照。

☆4 1914年の春ウィーンで:ルドルフ・シュタイナー「人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生」(GA153 全6講 ウィーン 1914年4月)参照。文明が霊的潰瘍に冒されていることについてシュタイナーは第6講で語っている。

☆5 私が「ゲーテアヌム」誌に記述いたしましたように:ルドルフ・シュタイナー『魂生活について IV. 魂の勇気と魂の不安における魂の本質』(当初週刊「ゲーテアヌム」誌に発表 1923年11月11日 第III期 11号)、全集版では『現代の文化の危機におけるゲーテアヌム思想 1921〜1925年の論文集』GA36 360頁以下)参照。

☆6 1913年のヘルシンキでの講演会で:ルドルフ・シュタイナー「バガヴァド・ギータのオカルト的基盤」(GA146 全9講 ヘルシンキ 1913年5月28日ー6月5日)参照。

☆7 ウッドロー・ウィルソン:Woodrow Wilson 1856ー1924 アメリカ合衆国大統領。シュタイナーは上述のヘルシンキでの講演会、1913年6月1日の講演で彼について述べている。

 

□訳註

*1 シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25)の邦訳は『霊界の境域』(西川隆範訳 水声社)に所収。

*2 シュタイナー『人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生』(GA153)の      邦訳は『死後の生活』(高橋巌訳 イザラ書房)。

 文明の癌、潰瘍形成については:「今日では、消費を顧慮しないままに、市場のための生産が続けられています。私が論文「霊学と社会問題」において述べた意味においてではなく、生産された商品は全部、市場の仲介を通して倉庫に集められ、そして買われるのを待っています。この傾向はますます顕著になっていくでしょう。そしてーーなぜ私が今こんなことを言うのか、すぐにわかっていただけると思いますがーーこの傾向は自己を破滅させるまではやまないでしょう。社会生活の中にこのような生産方式が導入されますと、それによって人類社会の秩序の中に、生体に癌が発生するときとまったく同じことが生じるのです。まったく同じ癌が、文化癌が人類社会に発生するのです。今日の社会生活を霊視する人は、そこに癌への傾向を発見します。今、いたるところに社会的潰瘍形成への恐ろしい素地が作られつつあるのです。これは現実を直視する者にとって、とても憂慮すべき状況なのです。(中略)自然という創造の場においてはなくてはならないものが、今述べたような仕方で社会の中へ入ってくるときには、それは癌を発生させるのです。」(第六講 205ー206頁)

*3 グノームとウンディーネによる寄生生物の発生、ジルフェと熱存在による毒の発生については第八講参照。

*4 ウッドロー・ウィルソンについて、シュタイナーは「バガヴァド・ギータのオカルト的基盤」(編註☆6)で、ウィルソンの論文("What is progress?")に言及しながら批判している。ウィルソンによれば、ニュートンの時代には、重力に関する考えが社会の概念、国家概念にも影響を及ぼしていたが、天体力学の概念を人間の正確に適用するのは不十分である、現代は別の考え方をしなければならない…そしてウィルソンは、ニュートンの概念では不十分で、生体についてのダーウィニスムの法則を{社会に}適用しなければならない、と主張する。シュタイナーは、ダーウィニスムのような純粋に生体組織に由来する法則では不十分で、今日必要なのは、魂的、霊的(精神的)法則であるとし、ウィルソンの観点を、現代に多く見られる、人智学に敵対する「半分の論理」(halbe Logik)の実例として批判する。シュタイナーによれば、人智学的世界観は、半分の論理ではなく、透徹した思考、いたるところに入り込んでいく論理を前提とする。進化というものも、ウィルソンのようなダーウィニスムの意味ではなく、霊的な意味で考えなければならない、と。 ("Die okkulten Grundlagen der Bhagavad Gita" P.87-89)

別の講義でも、さまざまな関連で、しばしばシュタイナーはウィルソニスムを批判している。

 

(第12講・終わり)


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