ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第2講    1923年10月20日  ドルナハ 

・翼ー人間の頭部の形態化;太陽と外惑星の力の共同作用

・ライオンー人間の律動組織は太陽の作用

 牛ー新陳代謝組織は太陽と内惑星の作用

 鷲、ライオン、牛の作用の合流としての人間

・人間を一面化させようと誘惑する鷲、ライオン、雌牛の呼びかけ

・雌牛の誘惑の声に捉えられると起こることー機械音の鳴り響く文明

・ライオン、鷲の誘惑に捉えられると起こること

・ライオン、ハイエナ、狼の寓話の現代的意味

 一面化させようとする誘惑の呼びかけに対抗するための人間の箴言


 昨日私たちは、鷲に代表される高いところの動物、ライオンに代表される中間の動物、牛、雌牛に代表される地底の動物、これらの動物たちの関係について学びましたが、今日は、まさにこれら動物界を代表するものたちに対する人間の内的な形態上の関係から明らかになる観点から、他ならぬ人間と宇宙との関係に注目することができます。

 あの領域、それがこの動物がその特殊な力を引き出してくる領域であるなら、本来それはこの動物全体を頭部組織にする、と昨日私たちが言わなければならなかった、あの領域へとひとつ視線を上げてみましょう。こういう領域を見上げてみましょう。すると私たちには、この動物がこの動物たりうるのは陽光に貫かれた大気のおかげであるということがわかるのです。陽光に貫かれた大気は、この動物の生存は主に陽光に浸透された大気のおかげである、ということを通じていわばこの動物によって引き寄せられうるすべてであるにちがいありません。私は昨日皆さんに、本来の翼の形態化はこのことに由来する、と申し上げました。この動物はいわばその本性を外的なもののなかに有しています。外界がこの動物から作り出すもの、これがこの動物の翼のなかに具現されているのです。そして、この陽光に貫かれた空気から作り出されうるものが、鷲の場合のように外から本質へともたらされるのではなく、人間の神経組織のなかから刺激されるように、内部において刺激されると、思考が、瞬間の思考、直接的な現在の思考が生じる、と私は皆さんに申し上げたのです。

 さて私たちの視線を、このように、いわばこういう観察によって明らかになるすべてのことで重石をつけて、高い所へと向けてみますと、私たちにはまさに、静止している大気と流れ込む陽光が示されるでしょう。けれどもこういう場合にも、太陽それ自体を観察することはできません。太陽というものは実際、宇宙のさまざまな領域と関係を結んでいく、ということを通じてその力を保持しているのです。この関係は、人間がその認識をもって太陽の作用を、いわゆる獣帯(黄道十二宮)と関係づけることによって表わされます。したがって、太陽の光が、獅子座から、天秤座から、蠍座から地球に落ちるとき、その太陽光は(その都度)地球にとって異なることを意味するのです。太陽はまた、この太陽系の他の惑星によって強められるか、弱められるかによっても、地球にとって異なった意味を持ちます。つまりこの太陽系のさまざまな惑星に対して、さまざまな関係が生じているわけです。火星、木星、土星といったいわゆる外惑星に対して、また水星、金星、月といったいわゆる内惑星に対して、異なった関係が生じているのです。

*上記図のドイツ語部分(上から):violett:菫色/dunkelblau:紺色/hellblau:薄青/weiss:白/gelb:黄/orange:オレンジ/violett:菫色

 さて、私たちが鷲の生体機構に注目するとき、とりわけ、太陽と土星、木星、火星との共同作用を通じて太陽の力がどれくらい修正されるか、強められたり弱められたりするか、ということを見なくてはなりません。伝説が、鷲はユピテル(ジュピター)の鳥である、と語るのもいわれのないことではないのです。木星(ユピテル)はそもそも外惑星を代表するものとして存在しています。この場合重要なことを図式的に示すなら、私たちは、万有において、宇宙において、土星が占める領域、木星が占める領域、火星が占める領域を指し示さなくてはならないでしょう。

 ひとつ私たちの目の前にこれを置いてみましょう、土星領域、木星領域、火星領域を。すると、私たちは太陽領域への移行を見出し、いわばこの太陽系のもっとも外部に、太陽、火星、木星、土星の共同作用が得られます。そして私たちが空中を輪を描いて飛ぶ鷲をみるとき、次のように言うとするなら、私たちはまったくもってひとつの真実を語っているのです、つまり、太陽から大気を貫いて流れ込む力、したがって、太陽と火星、木星、土星との共同作用から成り立っている力、これが、鷲の全形態、鷲の本質のなかに生きている力なのだ、と言うならばです。この力はしかし同時に人間の頭の形成のなかにも生きています。ですから私たちが、人間をその真の在りように関連づけてーー地上においては人間はミニアチュール像として存在しているだけだ、と申し上げたいのですーー宇宙のなかに据えるなら、頭に関しては人間を鷲の領域に据えなければなりません。つまり、私たちは人間というものを、その頭に関しては鷲の領域に置いて思い描かなくてはならず、それによって上へ向かう力と関連するものが人間のなかに与えられたのです。

 ライオンは、本来の意味での太陽の動物、太陽がいわば自身の力をそこに展開している、太陽の動物である動物を代表しています。ライオンがもっともよく繁殖するのは、太陽の上にある星々、太陽の下にある星々が、太陽そのものに対して影響を及ぼすことがもっとも少ない配置にあるときです。このとき、昨日皆さんにお話ししました奇妙なことが起こります、つまり、大気を貫いてくる太陽そのものの力が、ライオンのなかのこのような呼吸組織をまさに活気づけ、この呼吸組織はそのリズムにおいて血液循環のリズムと、数によってではなく、そのダイナミズムによって完全に均衡状態にある、ということです。これはライオンにおいて見事に均衡しているのです。ライオンは血液循環に呼吸抑制を対置し、血液循環は絶えず呼吸の流れを刺激します。私は皆さんに、このことは、その形のとおりに、ライオンの口の形態のなかにも見ることが出来る、と申し上げました。そこには、この血液のリズムと呼吸のリズムの驚くべき関係が、形のとおりに現われているのです。これはまた、自らのうちに安らぎつつも大胆に外に向けられている

ライオンの独特の眼差しからも見て取ることができます。けれども、このライオンの眼差しのなかに生きているもの、これはまた、人間本性の他の要素、つまり頭部組織、新陳代謝組織と連結して、人間の胸部あるいは心臓組織、律動的組織のなかにも生きているのです。

 したがって、本来の太陽作用というものを私たちの前に置いてみると、太陽領域にしたがって、人間の心臓とその一部である肺を太陽の活動範囲のなかに置くように、人間を描かなくてはなりません、するとこの領域に人間のライオン性質が得られます。

 私たちが内惑星、地球に近い惑星へと移ると、まず水星領域に至ります、これは、とくに人間の新陳代謝系、新陳代謝組織のより精妙な部分に関わるもので、そこでは栄養分がリンパ性の物質に変成され、さらにそれが血液循環のなかへと送り込まれています。

 さらに進むと、私たちは金星の作用する域へと至ります。人間の新陳代謝系のより粗雑な部分、人間の生体組織において、取り入れられた食物をまず胃から加工するものへと至るのです。私たちはさらに月の領域へと進みます。私はこの帰結を、今日天文学において通常行なわれているように描写しております、別の描写をすることもできるでしょうが。つまり、私たちは今や月領域に至り、月と関係するあの新陳代謝の経過のなかで人間に作用し、作用される領域に至るのです。

 私たちはこのようにして人間を全宇宙のなかに据えたわけです。太陽が、水星、金星、月と一致して実現する宇宙的な作用へと向かうことによって、私たちはさらに、私が昨日説明しました意味で、あの雌牛によって代表される動物を受け容れる力を含む領域へと入っていきます。ここで私たちに得られるのは、太陽がそれ自身によって造ることができるものではなく、太陽の力が地球に近い惑星を通じてまさに地球にもたらされるときに太陽が造ることができるものです。これらの力がすべて、単に大気を貫いて流れ込むだけでなく、地球の表面にさまざまなしかたで浸透すれば、これらの力は地から上へと作用します。そしてこの地から上へと作用するもの、これは、私たちがまさに雌牛の生体機構のなかに外的に具現しているのを見る領域、そういう領域に属しているのです。

 雌牛は消化の動物です。しかし雌牛は同時に、次のようなしかたで消化というものを成し遂げる動物なのです、つまり、この消化という経過のなかに真に地上を超えたものの地上的な模像があるような、雌牛のこの消化全体が、全宇宙を見事に象り(かたどり)つつアストラル性に貫かれるような、そういうしかたでです。昨日すでに申しましたように、雌牛のこのアストラル的な生体組織のなかには全宇宙があるのですが、すべては重さによってささえられ、すべては地球の重さが効果を現わすことができるようにしつらえられています。皆さんは、雌牛は毎日その体重の八分の一の食物を必要とする、ということを考えてごらんになりさえすればよいのです。人間は二十分の一で満足できますし、それで健康も維持できます。雌牛は、その生体機構を完全に満たすことができるためには、地球の重さを必要としているのです。雌牛の生体機構は、物質が重さを持つように方向付けられています。雌牛の場合、毎日重さにおいて八分の一が交換されなければなりません。これが雌牛をその質量で地球に結びつけますが、その一方で、雌牛はまさにそのアストラル性を通じて、同時に、高きものの模像、宇宙の模像でもあるのです。

 ですから、雌牛はヒンズー教の信奉者にとってーー私が昨日申しましたようにーー崇拝に値する対象なのです。なぜなら、ヒンズー教の信奉者はこう言うことができるからです、雌牛はこの地上に生きている、この地上に生きているというそのことだけで、雌牛は、物質的な重さー質量のなかに、地上を超えたもの、と言い得るものを象っているのだ、と。ヒンズー教の信奉者の意味で語るならそうなのです。そしてこれはまったくもって、人間の本性が正常な生体機構を得るのは、人間が、鷲、ライオン、雌牛のなかに一面化されたこれら三つの宇宙的作用に調和をもたらすことができるとき、つまり人間が真に鷲の作用、ライオンの作用、雌牛の作用の合流であるときである、ということなのです。

 しかし、普遍的な世界の進展に従い、私たちは宇宙の進化にーーこういう表現をしてよろしければーーある種の危険がさし迫っている時代に生きています、一面的な作用が、人間のなかに現に一面的に現われてくる、という危険です。十四、十五世紀以来現在にいたるまで、この地上の人類進化において、鷲の作用は人間の頭を一面的に利用しようとし、ライオンの作用は人間のリズムを一面的に利用しようとし、雌牛の作用は人間の新陳代謝と地に対する人間の作用全体を一面的に利用しようとする、という事態がますます強まってきているのです。

 人間がいわば宇宙の諸力によって三分割されようとしている、そして宇宙の諸力のうちひとつの形が常にその他の要素を制圧しようと懸命になっている、というのが現代のしるし(シグナトゥール)なのです。鷲は、ライオンと雌牛を突き落としてその力を無効にしようと懸命になっていますし、同様に他の二者も、その都度自分以外の両者の要素を無意味なものにおとしめてしまおうとやっきになっています。そして他ならぬ今日の時代、人間の下意識であるものに対して実に絶え間なく、きわめて誘惑的なものが働きかけているのです、誘惑的であるのは、それがある種の関連で美しいものでもあるからです。意識の表層においては今日人間はそれを知覚しておりません、けれども人間の下意識にとっては、人間を誘惑しようとする三重の呼びかけが宇宙を貫いて波立たせ、鳴り響かせています。現代の秘密というのは、鷲の域から、鷲を本来鷲たらしめているもの、鷲にその翼を与えるもの、鷲の周りをアストラル的に漂っているものが下へと鳴り響いてくることだ、と申し上げたいのです。人間の下意識に聞こえてくるのは鷲の本質そのものなのです。これは心を惑わす呼び声です:

 

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、

   おまえ自身の頭のうちに

   万有を創り出す力を。

 

 鷲はこう語ります。これは、今日人間を一面化しようとする上からの呼びかけです。

  続いて第二の誘惑の呼び声です。これは中間の域からやってきます、そこでは宇宙の力がライオンの本性を形成し、宇宙の力が、ライオンの本性を構成しているあのリズムの均衡、呼吸と血液循環の均衡を、太陽と大気の合流から生じさせるのです。ここでいわばライオンの感覚のなかで大気を振動で満たすもの、人間自身の律動組織を一面化しようとするもの、これがやはり今日人間の下意識に向かって誘惑的に語りかけます。

  

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、

   巡る大気の輝きのなかに

   万有を体現する力を。

 

 ライオンはこう語るのです。

 私たちが考える以上に、人間の下意識に語りかけるこれらの声には影響力があります。そうです、親愛なる友人の皆さん、地上でのさまざまな人間の生体機構は、これらの作用を受け容れるように組織されているのですから。ですからたとえば、鷲の声によってとくに誘惑され、惑わされやすいのは、西洋に住むすべてのものです。とくにアメリカ文化は、そこの人類の特殊な(生体)機構を通じて鷲が語る誘惑にさらされています。ヨーロッパの中部、古代文化(ギリシア、ローマの)であるものの多くを自らのうちに有し、たとえばゲーテを人生の解放のためにイタリア旅行へと導いたものの多くを自らのうちに有しているヨーロッパ中部は、とくにそこでライオンが語りかけるものにさらされています。

 東洋の文明はとりわけ、そこで雌牛が語りかけるものにさらされています。あとの動物が両者ともその宇宙の領域で鳴り響くように、地の底深く、とでも申し上げたいところから、轟き、叫びつつ鳴り響いてくるのは、雌牛の重さのなかに生きているものです。これは実際、すでに昨日皆さんに描写いたしましたように、たらふく草をはんだ群が、独特の大地の重さに身をささげるようなしかたで、この大地の重さのもとにあること、毎日自分の体重の八分の一を、その重荷のために自らのうちで交換しなければならない、という状況のもとにあることを表現するような格好で、横たわっているのを見るような、そういうものです。これに加えて、太陽、水星、金星、月の影響のもとに雌牛の栄養摂取機構におけるすべてを引き起こす地の底、この地底が、魔物のように轟く力で鳴り響かせるように、次のような言葉の響きでこのような群を満たすのです:

 

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、

   秤、標尺、数を

   万有より奪い取る力を。

 

 雌牛はこう語ります。この誘惑の呼び声にとくにさらされているのは東洋なのです。ただしそれはこういう意味です、つまり、東洋はヒンドゥー教における古くからの牛崇拝があるので、なるほど最初は東洋がこの雌牛の誘惑の呼び声にさらされているけれども、この誘惑の呼び声が実際に人類を捉えて、この誘惑の声から生じるものが勝利を得るほどになるとしたら、まさにこの東洋から作用するものが、中部と西方を抑えて、自らを、前進を阻む、没落を引き起こす文明であると告知するだろう、ということです。大地の魔の力が一面的に地球文明に働きかけるでしょう。それでは、このときいったい何が起こるのでしょうか。

 このとき起こるであろうことは以下のようなことです。前世紀の経過にともない、私たちは地上で外的科学の影響下にある技術を、外的な技術の生活を獲得いたしました。実際あらゆる分野における私たちの技術は驚異的なものです。自然力は技術においては、生命のない形態で作用します。そして、この自然力を担ぎ出して、いわば徹底的に地球の上に文明の層を形成するために役立つもの、これが秤、標尺、及び数なのです。

 秤、物差し、量る、数える、測定する、これが、今日まさに外的科学を本職としている今日の科学者、今日の技術者の理想です。私たちは、「存在を保証するものは何か」と問われた著名な数学者が以下のように答える、という事態にまで達しているのです。あらゆる時代の哲学者たちは、「そもそも現実的なものとは何か」という問いに答えようとしてまいりましたが、この著名な物理学者は、こう答えます、測定できるものが現実的なのだ、測定できないものは現実的ではない、と(☆1)。これはいわば、あらゆる存在を次のようにみなす理念なのです、つまりあらゆる存在は実験室に持ち込んで、重さを量ったり、測定したりすることができ、科学、この科学が技術のなかに流入するわけですが、この科学となおもみなされているものは、この量られ、測定され、数えられたものから組み立てられる、とする理念です。数、寸法、重さは、文明全体をいわば方向づけるように作用すべきものとなったのです。

 さて人間がただ単に悟性をもってこの測定する、数える、重さを量ることを用いている限りは、とりたてて不都合はないのです。人間はなるほど利口ではありますが、宇宙万有の賢さにははるかに及びません。したがって、測定する、重さを量る、数えるということに関して、いわば宇宙万有に対してディレッタント的にあれこれやっている限りは、とくに不都合にはなり得ないのです。けれどもまさに今日の文明が秘儀参入に変貌するとしたら、それが秘儀参入の心情にとどまり続けるとしたら、まずいことになるでしょう。このことが起こり得るのは、まさに秤、物差し、数という記号のなかに成立している西洋の文明が、何と言っても東洋において起こりうるであろうこと、つまり本来霊的に雌牛の生体機構のなかに生きているものは何か、秘儀参入学を通じて究明されうることによって、あふれさせられるときです。と申しますのも、皆さんが雌牛の生体機構に入り込んでいって、そこで、この栄養分の八分の一が、いかに地上的な重さ、つまり量ったり測定したり数えたりできるすべてのものの重荷を負わされているかを学び、雌牛のなかのこの大地の重さを霊的に組織しているものを学び、牧場に横たわり、消化し、その消化のなかに宇宙からもたらされた驚異をアストラル的に顕現させているこの雌牛の生体組織全体を知るようになると、そうすると皆さんは、量られたもの、測定されたもの、数えられたものをひとつの体系にはめ込むことを学び、そうすることによって文明における他のものをすべて克服し、ひたすらいっそう量り、数え、測定して文明から生じるそれ以外のすべてをものを消滅させるような文明を、唯一その文明だけを全地球に与えることができるのですから。いったい、雌牛の生体機構の秘儀参入(イニシエーション)は何をもたらすのでしょうか。これは非常に奥深い、途方もなく意味深い問いです。雌牛のイニシエーションは何をもたらすのでしょう。

 たとえば、機械を構成するしかたというのは、個々の機械によって非常に異なっていますでしょう。ですが、まだ不完全な、原始的な機械が徐々に振動に基づくものになっていく、つまりそこでは何かが振動していて、この振動、発振を通じて、周期的に経過する運動を通じて機械の効果が得られるのですが、すべてはそういうものになっていく傾向にあります。すべてはこのような機械に収束していくのです。ところが、いったんこういう相互作用する機械を、雌牛の生体機構のなかでの栄養分の分割に学ぶことができるようなしかたで構成すると、機械によって地球上に創り出された振動、この小さな地球振動は、地上で起こっているもの、地球の上部にあるものと共鳴し、共振して経過するようになります、この太陽系がその振動においてこの地球系と共振しなければならないようにです、ちょうどしかるべく調律された弦が、同じ空間の別の弦が鳴らされると共鳴するように。

 これが、雌牛の呼び声が東洋を惑わせるとしたら実現されるであろう、振動の共鳴の恐ろしい法則です、その結果東洋が説得力あるしかたで、西洋と中部の精神性に欠けた純粋に機械的な文明に浸透していき、そしてそれを通じて宇宙万有の機械的な系(システム)に精確に適合する機械的な系(システム)が地上に生み出されることになりかねないでしょう。それとともに、空気の作用であるもの、循環の作用であるもの、そして星々の作用であるものすべてが、人類の文明のなかで根絶やしにされてしまうでしょう。人間がたとえば四季の移り変わりを通じて、つまり芽生え、萌え出る春の生命、死滅し衰えていく秋の生命に人間が参加することで体験するもの、これらすべては人間にとっての意味をなくしてしまうでしょう。ガタガタと振動する機械の音と、その反響(エコー)、地球のメカニズムへの反応として宇宙から地球へと流れ込んで来るであろうこの機械音の反響が、人間の文明を貫いて鳴り響くことでしょう。

 現在作用しているものの一部を考察してみれば、皆さんは自らにこう言い聞かせることでしょう、現在の私たちの文明の一部はまさに、この恐ろしく没落的な目標に通じる道の途上にある、と。

 さて、ひとつ考えてみてください、もし中部がライオンの語ることによって誘惑されるとしたら、なるほど私がたった今描写しましたような危険はないでしょう。機械装置は次第にまた大地から消えていくでしょう。文明は機械的になりはしないでしょうが、人間は一面的な強さで、風雨のなか、四季の循環のなかに生きているすべてのものに委ねられるでしょう。人間は四季の循環のなかにはめ込まれ、そのためとりわけ呼吸リズムと循環のリズムの相互関係のなかで生きざるをえないでしょう。人間は、その不随意の生活が彼に与えてくれるものを自らのうちに育てていくでしょう。いわば人間は胸の性質を特に発達させるでしょう。けれどもそうすることによって、人間において、実に誰もが自分自身だけで生きようとし、誰も現在の幸せ以外の何かを気にかけることはない、といったような利己主義が地球文明に到来することでしょう。これにさらされているのは中部の文明です、中部の文明はこのような生活を地球文明に科すこともできるでしょうから。

 さらにまた、鷲の誘惑の呼び声が西洋を惑わせるとしたら、鷲の思考方法と心情を地球全体に広げ、この思考方法と心情のなかに自分自身を一面化することに成功するとしたら、かつて存在していた世界、地球の出発点、地球の初めに存在していた地上を越えた世界とこうして直接結びつきたいという衝動が、人類のなかに全般的に生じてくるでしょう。人々は、人間がその自由と独立のなかで獲得したものを消し去りたい衝動を得るでしょう。人間の筋肉、神経のなかに神々を生かすあの無意識の意志のなかでのみ生きるようになるでしょう。原始的な状態、太古以来の原始的な霊視へと退行していくでしょう。人間は、地球の始まりへと戻ることによって、地球から離れ去ろうとするでしょう。

 私は申し上げたいのですが、厳密に透視的(クレアヴォワヤント)[clairvoyant]な眼差しにとって、これはさらに、草をはむ雌牛が絶えず一種の声で人間を貫くということによって裏づけられます、その声は、こう語るのです。「上を見るな、すべての力は地より来るのだ。大地の作用のなかにあるすべてに精通せよ。お前は大地の主となろう。お前は、お前が地上で獲得するものを永続的なものにするであろう」と。さて、人間がこの誘惑の声に屈するとしたら、私がお話しした危険、地球文明の機械化、というあの危険を除去することはできないでしょう。と申しますのも、消化動物のアストラル的なものは、現在のものを永続的に、現在のものを不朽にしようとするからです。(一方)ライオンの生体機構からは、現在のものを永続させようとせず現在を出来る限りすばやく過ぎ去らせようとするもの、すべてを絶えず繰り返す四季の循環の戯れにしようとするもの、天候のなかへ、太陽光の戯れや大気のなかへと上昇しようとするものが現われてきます。文明はこういう特徴を現わすようにもなるでしょう。

 空中を漂っていく鷲を人間が真に理解をもって観察すれば、鷲はその翼に地球の出発点に存在していたものの記憶を担っているように思われます。鷲はその翼のなかに、地球内部へとまだ上から作用していた諸力をとどめているのです。言うなれば、いかなる鷲のなかにも地球の数千年を見て取ることができるわけです、そして鷲は、せいぜいえものを捕らえるため以外には、物質的なものによって地球に触れたことはなく、いずれにせよその独立生活の充足のためには地球に触れることはありません。鷲はこの独立生活を維持しようとするとき、空中を旋回します、なぜなら、地上で生成されたものは鷲にとってはどうでもよいからです、鷲は大気の諸力によって歓喜と熱狂を得、地上生活を軽蔑すらしていて、地球がまだ地球でなかったとき、地球がその地球存在としての初めのころまだ天的な諸力に貫かれていたときに、地球自体がそのなかで生きていたような、そういう要素(エレメント)のなかで生きようとするからです。鷲というのは誇り高い動物で、固い地球進化に参加しようとはせず、この固体化する地球進化の影響から身を離し、そして地球の出発点にあった諸力とのみ一体化していようとした動物なのです。

 以上は、私たちがこれを宇宙の謎の解明のために宇宙万有のなかに書き込まれた巨大な文字とみなすことができるなら、これら三つの動物が私たちに与えてくれる教えなのです。と申しますのも、根本的においては宇宙万有のなかのいかなるものも、私たちがそれを読む事ができれば、ひとつの文字なのですから。つまりこの連関を読むことができれば、私たちは宇宙万有の謎を理解するのです。

 コンパスあるいは定規で計測するとき、秤で量るとき、数えるときに私たちがすることをよく考えてみなければならない、ということはやはり意味があるにしても、私たちはその際結局、すべて断片にすぎないものを組み合わせているのです。それが全体となるのは、私たちが雌牛の生体機構をその内的な霊性において理解するときです。そしてこれは、宇宙万有の秘密を読み取ることです。そしてこの宇宙万有の秘密を読み取ることが、宇宙存在と人間存在を理解することに通じていくのです。これが現代の秘儀参入の叡智[Initiationsweisheit]です。これは、今日精神生活の深みから語られねばならないことなのです。

 今日人間にとってそもそも人間であるということが困難なのです。と申しますのも、人間は今日、昨日皆さんにお話しいたしました寓話のなかの、三頭の動物に向き合ったカモシカのように見える、と申し上げたいからです。一面化しようとするものが特殊な形を取っているのです。ライオンはライオンのままですが、ライオンは自分の仲間の猛獣を、変容されたものとして他の動物の代わりにしようとします。ライオンは、もと鷲であるものの代わりに、猛獣の仲間であるハイエナを用います、ハイエナは基本的に死んだものによって生きています、私たちの頭のなかに生み出され、私たちの死に向かって絶え間なく瞬間ごとに原子論的な断片を供給しているあの死んだものによってです。したがって、この寓話は、ハイエナを、腐肉を喰らうハイエナを鷲と取り替えるのです、さらにライオンは、雌牛の代わりに、没落にふさわしくーーこの伝説は黒人文化から生じたのでしょうからーー、仲間の猛獣、狼を置きます。こうして寓話のなかに三頭の別の動物、ライオン、ハイエナ、狼が現われるのです。今日誘惑の呼びかけが対立しあっていますが、誘惑の呼びかけが響くとき、徐々に鷲は地に降ってハイエナとなり、雌牛はもはや聖なる忍耐強さで万有を象ろうとせず、猛獣の狼となることにより、実際そのように対立しあっているのは、宇宙的シンボリスムとでも申し上げたいものです。

 そうすると、昨日の講義の終わりに皆さんにお話しいたしましたあの伝説を、黒人の言葉から私たちの現代文明の言葉へと翻訳する可能性が出てきます。昨日私は、いわば黒人の心情で語らねばなりませんでした。ライオン、狼、ハイエナが 狩に出かけました。彼らはカモシカをしとめました。ハイエナが最初に分けることになりました。ハイエナはハイエナの論理にしたがって分け、こう言いました、「三等分しよう、三分の一はライオン、三分の一は狼、三分の一は僕のものだ。」するとハイエナは食べられてしまいました。さてライオンは狼に言いました、「今度は君が分けろ。」すると狼は言いました、「最初の三分の一は君のものだ、君がハイエナを殺したんだから、ハイエナの分け前は当然君のものだ。次の三分の一も君のだ、ハイエナはそれぞれが三分の一取る、と言ったけど、その通りにすれば、どっちみち三分の一は君がもらうんだから、君のものだ。最後の三分の一も君のものだ、君は動物のなかで一番勇敢で賢いんだから。」そこでライオンは狼に言いました、「君にそんなに上手に分け方を教えたのはだれだい。」狼は言いました、「ハイエナが教えてくれたのさ。」ーー論理は両者とも同じです、現実への適用において、ハイエナが論理を適用するか、あるいはハイエナの経験をふまえて狼が論理を適用するかでは、全く異なるものが出てきたわけです。本質的なことは、現実への論理の適用にあるのです。

 さて、私たちは、いわば現代文明的なものに翻訳して、これをいくらか別様に物語ることもできます。けれども私が語りますことは常に、このことにご注意ください、私が語りますことは常に、文化の大きな流れにおいて重要なことなのです。ここで申し上げたいことは、この物語は現代的に次のように表現されるかもしれない、ということです。ーーカモシカがしとめられます。ハイエナは後ろに退き、無言の判断を示します。ハイエナは敢えて最初にライオンの恨みを買うようなことはせず、後ろに退きます。ハイエナは無言の判断を示し、背後で待ちます。さてライオンと狼は獲物のカモシカをめぐって闘いを始め、闘いに闘い、互いにひどい傷を負い、傷によって共に死んでしまうまで闘い続けます。さて今度はハイエナが出てきます、カモシカとライオンと狼を、これらが腐敗してしまってから平らげます。ハイエナは、人間の知性のなかにあるもの、人間の本性のなかの殺し去るものを具象化しています。ハイエナは、鷲の文明の裏面、カリカチュアなのです。

 私がこの古い黒人の寓話のヨーロッパ化によって申し上げようとすることを、皆さんが感じとってくだされば、今日こういう事柄がほんとうに正しく理解されるべきである、ということをご理解いただけるでしょう。こういう事柄が正しく理解されるのは、三重の誘惑の呼びかけ、鷲と、ライオンと雌牛の呼びかけに、人間が自らの箴言を、今日人間の力と思考と作用の合い言葉であるべき箴言を対置することを学ぶときのみです。

 

   私は学ばねばならぬ、

   おお、雌牛よ、

   星々が私のなかに啓示する言葉から、

   お前の力を。

 

 地球の重さではなく、単に重さを量り、数え、計測することのみではなく、単に雌牛の物質的な生体機構のなかにあるもののみを学ぶのではなく、雌牛のなかに体現されているもの、雌牛の生体機構から雌牛が体現しているものへと畏怖しつつ眼差しを転ずること、眼差しを高みへと上げること(を学ぶのです)、そうすれば、そのままでは地球の機械文明となってしまうであろうものが霊化されるのです。

 人間がよく考えなければならない第二のことは、

 

   私は学ばねばならぬ、

   おお、獅子よ、

   日ごと年ごとの巡りが

   私のなかに織り込む言葉から、

   お前の力を。

 

 「啓示する」という言葉、「織り込む」という言葉に心を留めてください。そして、人間が学ばなければならない第三のものは、

 

   おお、鷲よ、

   大地から萌え出たものが私のなかに創り出す言葉から、

   お前の力を。

 

 このように人間は、一面的な誘惑の呼びかけに、自らの三つの箴言を対置しなくてはなりません、その意味が一面性を調和的な均衡に導くことができる三つの箴言をです。人間は学ばねばなりません、雌牛を見ることを、ただし、雌牛を徹底的に感じ取ったあとで、雌牛から、星々の言葉が啓示するものを見上げることを学ばなければならないのです。人間は学ばねばなりません、鷲に眼差しを向けることを、そして、鷲の本性を徹底的に自らのうちで感じ取ったあとで、その眼差しで、鷲の本性が人間に与えたものをもって、大地のなかで発し萌え出て、人間の生体機構においても下から上へと作用するものを見下ろすことを。そしてまた人間は学ばねばなりません、ライオンを観ることを、風のなかで人間を取り巻くもの、稲妻のなかで鋭く見据えるもの、雷鳴のなかで人間の回りを轟き巡るもの、人間が組み込まれている地球生命全体の四季の巡りのなかに嵐が引き起こすもの、これらがライオンによって人間に開示されるようにライオンを観ることを。つまり人間がーー上方への物質的な眼差しを下方に向けられた霊の眼差し[Geistesblick]と、下方への物質的な眼差しを上方へ向けられた霊の眼差しと、まっすぐ東洋に向けられた物質的眼差しを、逆にまっすぐ西洋に向けられた霊の眼差しとーー、上方と下方、前方と後方、霊の眼差しと物質的な眼差しを、相互に浸透させ合うことができれば、そうすれば人間は、高みからは鷲の、(地球の)周囲からはライオンの、地球の内部からは雌牛の、人間を弱らせるのではなく力づける真の呼びかけを感じ取ることができます。

 人間がその営みにおいてますます地球文明にふさわしくなり、没落ではなく、開化に貢献するために、宇宙万有との関係について学ぶべきことはこれなのです。

 

 

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、     鷲はこう語る

   おまえ自身の頭のうちに       西洋

   万有を創り出す力を。

 

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、     獅子はこう語る

   巡る大気の輝きのなかに       中部

   万有を体現する力を。

 

   私の本質を学ぶがよい!

   私はおまえに力を贈る、     雌牛はこう語る

   秤、標尺、数を           東洋

   万有より奪い取る力を。

 

 

   私は学ばねばならぬ、

 

   おお、雌牛よ、お前の力を

   星々が

   私のなかに啓示する言葉から。

 

   おお、獅子よ、お前の力を

   日ごと年ごとの巡りが

   私のなかに織り込む言葉から。

  

   おお、鷲よ、お前の力を

   大地から萌え出たものが

   私のなかに創り出す言葉から。

(第2講 終わり)

□編註

☆1 (誰のことを指すのか)確定できない。可能性としては、物理学者エルンスト・マッハ(1838ー1916)か、シュタイナーが言及することの多い数学者・物理学者アンリ・ポワンカレ(1854ー1912)のことと思われる。


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