ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第3講    1923年10月23日  ドルナハ 

・霊的実質と物質的実質、霊的な力と物質的な力

・上部人間、下部人間における霊的ー物質的な実質と力の相互浸透

・実質と力の不規則な配分によって病気が起こる

・人間の宇宙的カルマー人間は地球に対して負債がある

・牛は地球にとって必要な霊的実質を地球に与える

・鷲は地球にとって不要になった物質的実質を霊界に運び去る

・地球存在を確実にする鷲と牛

・牛と鷲の回りの元素霊たちの歓び

・現代の一般的科学、認識では宇宙の意味は見出せない

・鷲、ライオン、牛に示される宇宙的秘密


 私たちは人間を再びある観点から宇宙万有のなかに据えようと試みました。今日は、いわば全体を総括することのできるような考察をしてみましょう。私たちは物質的な生の範囲内においては地上に生きていて、きわめてさまざまなしかたで自然界の本性、そして人間の形態そのものへと形成され、形態化されている地球の物質素材、この物質素材を通じて存在している出来事および事実に囲まれています。あらゆるもののなかにまさに地球の物質素材が存在しているのです。私たちは今日これを、この物質素材をひとつ、後ほどすぐにこの反対のものについても語らなければならないので、地球の物質的実質[die physische Substanz]、つまり素材的に地球のさまざまな形態化の基礎を成しているもの、と呼びましょう、そして、この物質素材の反対のものとして宇宙に存在するもの、霊的実質[die geistige Substanz]をこれと区別しましょう、この霊的実質は、たとえば私たち自身の魂の基礎を成すものですが、ふつうは宇宙において、物質的形態化に霊的なものとして結びつくような形態化の基礎を成しているのです。

 物質素材あるいは物質的実質について語るのみでは間に合わないのです。私たちが高次ヒエラルキア存在たちを私たちの宇宙の全体像のなかに置いてみる、と考えてごらんになりさえすればよいのです。これらの高次ヒエラルキア存在は、地の実質というものを有しておりません、私たちが彼らの身体性とでも呼ぶところのもののなかに地の実質を有してはいないのです。したがって、私たちが地上的なものを見ることができると、私たちは物質的なものを知覚するでしょう、私たちが地球外のものを見ることができれば、私たちは霊的実質を知覚するでしょう。

 今日、霊的実質についてはほとんど知られておりません、そのため、物質界と同時に霊界にも属している地球存在、つまり人間についても、あたかも人間が物質的実質しか有していないかのように語られるのです。けれどもそうではありません。まったくもって人間は自らのうちに霊的実質と物質的実質を担っています、しかも非常に独特なしかたで、つまりこういう事柄に注意することに慣れていないひとが最初驚愕せざるを得ないようなしかたで、人間は自らのうちに霊的実質と物質的実質を担っているのです。つまり、人間を運動に移行させるもの、すなわち人間の四肢であるもの、そして四肢から発して新陳代謝活動として内部へと継続されるもの、人間におけるこうしたものを考慮に入れると、そのとき私たちが主として物質的実質について語るとすればそれは正しくありません。私たちが人間について正しく語ることができるのは、人間のいわゆる低次の性質について、他ならぬこの性質の根底には根本的に霊的な実質があるのだとわかるときのみです。したがって、人間を図式的に描こうとすれば、以下のようなしかたで行なわなくてはなりません。

 私たちはこう言わなくてはなりません、本来下部人間は、霊的実質のなかに形成されたものを私たちの前に示し、私たちが人間の頭に向かって進めば進むほど、人間は物質的実質から形成されるようになる、と。そして脚については、異様に聞こえようともこう言わざるを得ないのです、脚は、本質的に霊的実質から形成されている、と。申しましたように、異様に聞こえようともです。ですから、頭の方へと進むと、私たちは人間をこのように、つまり霊的実質を物質的実質に移行させるように、描かなくてはなりません(図が描かれる)、そして物質的実質はとくに人間の頭のなかに含まれているのです。これに対して、霊的実質がとりわけみごとに広がっている、とでも申し上げたいところは、人間がその脚を空間へと伸ばす、あるいはその腕を空間のなかへと差し伸べるところです。腕と脚にとって肝心なのは、この霊的実質が腕と脚を満たしているということ、腕と脚の本質的なものであるということだろうというのは、これは実際そのとおりなのです。実際のところ、腕と脚にとって、物質的実質はいわばそこでは霊的実質の内部に浮かんでいるだけであり、他方、頭というのは実際いわば物質的実質から緻密に形成されたものです。ーーけれども私たちは、人間がそれであるようなこういう形成物において、単に実質を区別するだけではなく、その形態化において力を区別しなければなりません。そしてこの場合にも、霊的な力と地上的ー物質的な力とを区別しなければならないのです。

 さて力の場合にはこれがちょうど逆になっています。四肢と新陳代謝にとっては実質が霊的である一方、その内部の力、たとえば脚にとっての力は、重さであり物質的なのです。そして頭の実質は物質的である一方、頭の内部で働く力は霊的です。霊的な力が頭を貫いて流れ、物質的な力が四肢ー新陳代謝人間の霊的実質を貫いて流れているのです。人間というものを完全に理解できるのは、人間において、その上部領域、頭部と、胸の上部領域、本来は物質的実質で、霊的な力に浸透されているーー呼吸においてはもっとも低次の霊的力が働いている、と申し上げたいのですーー胸の上部領域が区別されることによってのみであり、さらに私たちは下部人間を、内部に物質的な力が働いている霊的実質から形成されたものと見なければなりません。ただ、言うまでもなく私たちがはっきりと理解しておかなくてはならないことは、こういう事柄は本来人間においてどういう状態であるか、ということです。つまり人間はその頭の性質を生体組織全体に広げているため、頭というのは、霊的な力に貫かれた物質的実質であり、この頭の本質すべてを人間の下部にまで広げ伸ばしている、ということを通じて存在するものでもあるのです。内部に物質的な力が働いている霊実質を通じて人間であるところのもの、これは逆に上部人間に向かって上に送られます。こうして人間において作用しているものは相互に浸透し合っているのです。けれどもやはり、人間を理解することができるのは、このように人間を、物質的ー霊的に、実質的にして力動的なもの、すなわち力存在でもあるもの、と見なすときのみです。

 これにもまた大きな意味があります。と申しますのも、外的現象から目を転じ、内的な本質に入り込んでいくと、たとえば、人間におけるこの実質的なものと力に則ったものの配分に不規則が生ずることは許されない、ということが私たちに示されるからです。

 たとえば、人間において純粋な実質、純粋に霊的な実質であるべきもののなかに、物質的な素材、物質的な実質が侵入すると、つまりたとえば、本来は頭部に導かれるべき物質的実質が、新陳代謝組織のなかであまりに優勢になりすぎて、新陳代謝がいわば頭の本質に浸透されすぎると、そうすると人間は病気になります、まったく特定のタイプの病気が生じてくるのです。そこで治療の課題とは、こうした霊的に実質的なもののなかに広がっている物質的な実質形成を、ふたたび弱め、駆逐することとなります。他方、人間の消化組織、霊的実質のなかの物質的な力に貫かれているという固有の性質を持つこの消化組織が、頭へと上に送られると、人間の頭は、こういう表現が許されるなら、過度に霊化され[spiritualisiert]ます、頭部の過度の霊化が起こるのです。その場合、これは病気の状態を示しますので、物質的な養う力をじゅうぶん頭に送り込んで、この物質的な力が霊化されずに頭に着くように配慮しなければなりません。

 健康な人間と病んだ人間に目を向けるひとは、このような区別が役に立つことをすぐさま理解するでしょう、もっとも単なる外観だけでなく、真実を問題にする場合はですが。けれども、こういう事柄においてはさらに本質的にまったく別の何かが働いています。ここで働いているもの、つまり人間は私が示しましたような性質の存在であることによって、自らをそういうものと感じるのですが、そういうものは、今日の通常の意識において最初はまさに下意識にとどまっています。すでにそこにあるのです。そこではこれは、人間の一種の気分として、生の気分として現われてきます。これを完全に意識化させるのはやはり霊的な観照のみであり、この霊的観照を私は皆さんにただ以下のように描写することができるのみです。つまり、今日の秘儀参入学から、この人間の秘密、すなわち、物質的実質を必要とするもっとも主要な、もっとも本質的な器官は本来頭であり、それによって頭はこの物質的実質を霊的な力で貫くことができるという秘密を知るひと、そしてさらに、四肢ー新陳代謝人間において本質的なものは、霊的実質であって、これは存続するために物質的力、重力や均衡力その他の物質的力を必要とする、ということを知るひと、つまり人間の秘密をこのように霊的に見通したうえでこの地上的人間存在を振り返って見るひと、そういうひとにとっては、そもそも自分が人間として、地球に対して途方もない負債を抱えた者のように思える、ということです。と申しますのも、一方において人間は、人間存在として直立を維持するために一定の条件を必要とする、と言わなければなりませんが、これらの条件を通じて人間は元来地球の債務者なのです。人間は絶えず地球から何かを奪い取っています。つまり、人間は自らにこう言って聞かせなければならないと気づくのです、人間が地上生活をおくる間に自らのうちに霊的実質として担っているものは、本来は地球が必要としているものなのだ、と。人間は死へと赴くときに、これを地球に残していかなければならない、なぜなら地球は自らの更新のために絶えず霊的実質を必要としているからだ、と。人間は残していくことができません、(そうすれば)人間は死後の時期にあって人間の道を歩むことができなくなるでしょうから。人間はこの霊的実質を死と新たな誕生との間の生のために携えていかなくてはなりません、なぜなら人間にはこれが必要であり、この霊的実質を死の間携えていなかったら、人間は死後いわば消滅してしまうでしょうから。

 人間が成し遂げねばならないあの変化は、人間がその四肢ー新陳代謝人間の霊的実質を死の門を通過して霊界へともたらすことによってのみ成し遂げることができるのです。人間がもし、本来地球に対して負っている債務を地球に返してしまったら、人間は将来の受肉を引き受けることはできないでしょう。人間にはそれはできません。人間は負債者のままにとどまります。これは地球が中間状態にあるかぎり、さしあたりどういう手段によっても改善できないことです。地球存在の終わりになれば、事態は変わってくるでしょう。

 ともかくこういうことなのです、愛する友人の皆さん、霊視をもって人生を見つめるひとは、単なる苦しみや悲しみ、それに私見では通常の生活が与えてくれるような幸福や喜び、単にそういうものを持つだけでなく、霊的なものを観ることで宇宙的感情[kosmische Gefuehle]、宇宙的な喜びと悲しみが生じてくる、ということです。秘儀参入とは、このような宇宙的悲しみ、たとえば自らにこう言い聞かせざるを得ないようなこういう悲しみの出現と分かちがたいものなのです、つまり、まさに私が私の人間本性を直立に維持することによって、私は自らを地球の負債者へと形づくらざるを得ない、私が宇宙的にまったく公正であるなら本来は地球に与えなければならないものを、地球に与えることができない、という悲しみです。

 頭部実質のなかにあるものについても同様です。地上生活全体を通じて、霊的な力が物質的な頭部実質のなかで働くことにより、この頭部実質は地球から疎遠になります。人間は実際自らの頭のために地球からこの実質を奪い取らなければならないのです。しかも人間は人間であるためには、この頭の実質に地球外的なものの霊的力を絶えず浸透させなければなりません。そして人間が死ぬと、今や地球は自分から疎遠になってしまった人間の頭部実質をまた引き取らなければならないわけですが、これは地球にとってはきわめて害になるものなのです。人間が死の門を通過してその頭部実質を地球に引き渡すと、この頭部実質、まったく霊化されてしまい、自らのうちに霊的な成果を担っているこの頭部実質の作用は、根本的に地球生命全体を毒します、本来その作用はこの地球生命を害するものなのです。本来人間は、こういう事柄を見通すなら、こう言わなければなりません、この頭部実質を携えてまさに死の門を通過して行くのが人間にとって公正なことだろう、なぜなら、この実質は本来、人間が死と新たな誕生の間に通過していく霊的領域にずっと適しているのだろうから、と。(しかし)人間はそうできません。と申しますのも、人間がこの霊化された地球実質を携えて行ったとしたら、人間は死と新たな誕生との間の自らの進化のすべてに敵対するものを絶えず作り出すことになるからです。もしこの霊化された頭部実質を携えて行った場合に人間に起こりうることは、きわめて恐るべきことでしょう。これは、死と新たな誕生との間の人間の霊的進化が無に帰するように絶えず働きかけるでしょう。

 ですからこういう事柄を見通すなら、こう言わざるを得ません、ひとはこのことによってもまた地球に対して負債のある者となるのだ、と。ひとが地球のおかげで手に入れながら地球にとっては使用不可能にしてしまったものを、ひとは後に残して行かざるを得ず、携えていくことができないからです。ひとは地球に置いていくべきものを地球から奪い去り、自分が携えていくべきもの、地球にとって使用不可能にしてしまったものを、自らの土の塵とともにこの地球に委ねます、地球はその全生命において、全存在として、それによって法外な苦しみを与えられるのです。

 つまり、まさに霊眼を通して観るとまずもって、途方もなく悲痛な感情のような何かが人間の魂に横たわっている、ということなのです。そしてさらに長大な時間を見はるかし、系全体の進化を見渡すときのみ、次のような展望が開かれます、つまりたとえば、地球がいつの日かその最後を迎えるとき、人類の進化の後の段階、木星、金星、ヴルカン段階において、ひとはこの罪をいわば清算し、罪を脱することができるであろう、と。

 このように、個々の地上生活を全うするということによってのみならず、そもそも地球人であること、地球に居住し地球からその実質を引き出すことを通しても、ひとはカルマを、世界のカルマ、宇宙的カルマを生み出しているのです。

 ここで人間から目を転じ、その他の自然に目を向けることもできます、すると、なるほど人間は、私がたった今お話しいたしましたような罪をいわば積み重ねていかざるを得ないけれども、それでも宇宙の本質を通して絶え間なく調停がなされているのだ、ということもわかるでしょう。こうして、存在の驚くべき秘密、これを統合してはじめて、本当に宇宙の叡智についての表象として自らのものとできる秘密へと入り込んでいきます。

 人間から眼差しを転じて、ここ数日私たちがさまざまに目を向けてきたものを見てみましょう、ここ数日鷲によって代表されるものとして私たちに現われてきた鳥の世界に眼差しを向けてみましょう。鷲について私たちは、鳥の世界を代表するものとして、いわば鳥の世界の特性と力を統合した動物として語ってきました。そして鷲を観察することで、私たちは結局、宇宙的連関において鳥の世界全体に責任を負っているものを観察しているのです。ですから鷲については今後またお話しするでしょう。ーー皆さんにお話ししましたことは、鷲は本来人間の頭に対応していること、人間の頭において思考を作動させる力が、鷲にあってはその翼を作動させる、ということでした。したがって、鷲の翼においては、太陽が流入した大気の力、光が流れ込んだ大気の力が作用しているのです。鷲の翼で煌めいているのは、光に浸透された大気の力です。

 さて、やっかいな特性もいくらかつけ加えることができるとはいえ、やはり鷲というのはその宇宙的現存に関して注目すべき特徴を持っています、つまり、いわば鷲の皮膚の外側、翼の形成のなかに、この太陽の作用に貫かれた大気の力が作り上げるものすべてがとどまっている、ということです。鷲が死んではじめて、ひとはここで起こっていることに気づきます。

 鷲が死ぬと、反芻をする牛の徹底的な消化に対して、鷲の消化がいかに奇妙な、表面的とでも申し上げたいようなものであるかがはじめて明らかになるのです。多くの動物の種を代表するものとして、牛は本当に消化動物です。牛においては徹底的な消化が行なわれます。どの鳥もそうですが鷲は表面的に消化します。いわばすべてが単に始まりだけであり、消化の営みも発端のみなのです。そして鷲という存在において、この消化というものは、私たちが全体を見れば、本来生存の副業とでも申し上げたいものです、これは鷲のいたるところにおいて副次的な力として扱われています。これに対して、鷲において徹底的な経過を示しているのは、鷲の翼に用いられるものすべてです。他の鳥の場合、これはもっと強力です。途方もなく念入りに、羽毛のなかのすべてが仕上げられます。それでこのような羽毛は本来驚くべき構成物なのです。つまりそこには、地上的素材(質料、マテーリエ[Materie])とでも呼びたいものがもっとも強力に現われているのです、この地上的素材を鷲は地球から取り出し、上部の力によって霊的に浸透されますが、鷲は再受肉を要求しないので鷲に独占されることはありません。したがって、上部の霊的力を通じて翼のなかの地上的素材に生ずるもの、これによってそのとき起こることが鷲を困らせる必要はありません、霊界においてそれがさらに作用しても、鷲を困らせる必要はないのです。

 ですから、鷲が死に今やその翼も崩れていくとーー申し上げましたように、これはどの鳥にもあてはまりますーー、そのとき霊化された地上的素材が霊の国に入っていき、再び霊的実質へと変化させられる、ということがわかります。

 おわかりのように、私たちは頭に関して鷲と奇妙な親和関係にあります。私たちにできないことを鷲はすることができます、鷲は、地球で霊的力を通じて物質的実質において霊化されたものを、絶え間なく地球から運び去るのです。

 私たちがあんなにも独特の感情をもって、飛翔する鷲を見つめるのは、この所以もあるからです。私たちは鷲を、何か地球から疎遠なもののように、地球よりも天に関わっているもののように感じます、たとえ鷲がその実質を地球から取り出しているにしてもです。けれども鷲はどうやってそれを取り出しているのでしょう。鷲は地球実質にとって単に奪う者にすぎない、というやりかたで鷲はそれを取り出すのです。地球存在における通常の月並みな法則のなかでは、鷲がさらに何かを得ることは見込めません。鷲はその素材を盗み取り、奪い取ります、そもそも鳥類全般がさまざまに素材を奪うように。けれども鷲はそれを清算します。鷲は素材を奪いますが、霊的力として上部領域にある力によってその素材を霊化させ、そして死んだ後、自分が奪ったこの霊化された地球の力を霊の国にさらっていくのです。鷲とともに、霊化された地球質料が霊の国へと引き入れられます。

 動物が死んでも、その生命は完結しません。動物の意味は宇宙万有のなかにあります。鷲が物質的な鷲として飛翔すれば、鷲はいわばそのありかたのひとつの形象にすぎません、鷲は物質的な鷲として飛翔するだけです。ああ、でも鷲は死後も飛翔するのです!鷲の性質の霊化された物質的素材がかなたへと飛翔していき、霊の国の霊実質とひとつになるのです。

 おわかりですね、こういう事柄を見通せば、宇宙万有における驚くべき秘密に到達します。このときはじめて、地球の動物その他のこれらのさまざまな形姿が存在しているのはいったいなぜなのか、と言えるのです。これらの形姿はすべて宇宙全体において意味があるのです、大きな、とてつもなく大きな意味があるのです。

 今度は、これも数日来私たちが観察してまいりましたもう一方の極端に移りましょう、ヒンズー教徒にあれほど崇拝されている牛に移りましょう。確かにこれはもう一方の極端です。鷲が人間の頭に非常に似ているように、牛は人間の新陳代謝組織に非常に似ています。牛は消化動物なのです。そして、奇妙に聞こえようとも、この消化動物は本来霊的実質から成り立っていて、食された物質素材はこの霊的実質に引き入れられ、混入されるのみなのです。つまり牛のなかには霊的実質があって(図示される)、物質素材がこのいたるところに入り込み、霊的実質に摂取され、加工消化されます。これを徹底して遂行するために、牛の消化の営みはあんなにも念入りで徹底的なのです。これは考えうるもっとも徹底した消化の営みであり、この点で牛は実際、もっとも徹底して動物であることに気を配っているわけです。牛は徹底して動物です。事実牛は、動物存在を、この動物生体組織、この動物自我[Tier-Ichheit]を宇宙から地球へと地球の重力の領域に引き下ろすのです。

 血液の重量と全体重との比率を牛と同じくする動物はおりません、(他の動物は)体重に対する血液の比率が、牛よりも多いか少ないかいずれかです。そして重量は重さと、血液はエゴ性[Egoitaet]と関係があります。人間のみが有しているエゴ[Ego]とではなく、エゴ性、個別であることと関係があるのです。血は動物をも動物にします、少なくとも高等動物にするのです。こう言えるかもしれません、牛は宇宙の謎を解いた、徹底して動物であろうとするとき、血液の重さと全体重の重さとの正確な比率をどのように保つのか、という謎を解いたのだ、と。

 よろしいですか、いにしえの人々が獣帯(黄道十二宮)[Tierkreis]を「獣帯」と名づけたのはいわれのないことではないのです。獣帯は十二の部分から成り、いわばその全体が十二の個々の部分に分けられています。宇宙から、獣帯からやってくるこの力は、諸々の動物のなかでまさに自らを形づくるのです。しかし他の動物たちはそれほど厳密にこの力に従いません。牛は、その体重の十二分の一が血液の重さです。牛の場合血液の重量は体重の十二分の一ですが、ろばの場合はわずか二十三分の一、犬の場合は十分の一です。どの動物も異なった比率になります。人間の場合血液は体重の十三分の一です。

 おわかりですね、牛は動物存在全体を重さのなかに現わすことを、可能な限り徹底的に宇宙的なものを表現することを目指してきたのです。私はここ数日にわたって、牛は本来上なるものを物質的ー質料的なもののなかに具象化しているが、それは牛のアストラル体に見て取れる、とお話ししてきましたが、まさにこのことのなかに、牛が自身の内的な重量の比率において十二分割を正確に維持していることが現われています。牛は内部において宇宙的なのです。牛にあってはすべてが、霊的実質になかに地球の諸力が取り入れられているような状態なのです。地球の重さは牛のなかの獣帯の比率で分割されることを余儀なくされます。地球の重さは、十二分の一をエゴ性へと展開させることに応じざるを得ないのです。牛はすべてを地上的比率のなかに押し込みます、牛がその霊的実質のなかに有している地上的比率のなかにです。

 このように、牧場に横たわっている牛は、事実霊的実質なのです、この霊的実質は地球素材を自らのうちに摂取し、吸収し、自らに似たものにするのです。

 牛が死ぬと、牛が自らのうちに担っているこれらの霊的実質は、地球全体の生命の恵みとなるために地球素材とともにこの地球に摂取されることが可能となります。ですから、牛に対してこういう感情を持つのが正しいのです、つまり、お前はまさしく供犠の動物だ、おまえは地球が必要としているものを絶え間なく地球に与え続けているのだから。お前が与えるものがなかったら、地球はこの先存続することはできないだろう、お前が与えるものがなかったら、地球は硬化し、ひからびてしまうだろう。お前は地球に絶え間なく霊的実質を与え、地球の内的な活動性、内的な生命力を回復させている、という感情です。

 そして皆さんが、一方に牛のいる牧場を、もう一方に飛翔する鷲をごらんになるなら、そこに注目すべき一対が得られます、鷲、これは、霊化されてしまったために地球にとって使用不可能となった地球素材を、死ぬときにかなたの霊の国に運び去ります、牛、牛は死ぬとき、地球に天の素材を与え、そうして地球を回復させます。鷲は、もはや地球には使用できず、霊の国に戻さなければならないものを、地球から取り除きます。牛は、地球が霊の国からの回復させる力として絶えず必要としているものを、地中にもたらすのです。

 ここで皆さんは、秘儀参入学から浮かび上がってくる感情のような何かをごらんになるのです。と申しますのも、通常次のように信じられているからです、そういう秘儀参入学、ひとはともかくもそういうものを研究する、でも結局それが与えてくれるのは概念、観念以外のなにものでもない、ひとは超感覚的なものについての観念で頭をいっぱいにしているのだ、ふつう感覚的なものについての観念で頭をいっぱいにするのと同じように、と。ところがそうではないのです。こういう秘儀参入学において先に進めば進むほど、以前はそれについて予感もしなかったにせよ、どんなひとにも無意識的に存在している感情を、ひとは魂の奥深くから引き出してくるようになります、あらゆる存在を以前感じ取っていたのとは別様に感じ取るようになるのです。私はある感情を皆さんにこのように描写することができます、これは精神科学、秘儀参入学をまさに生き生きと把握することの一部なのです。これは、ひとは次のように自らに語らざるを得ない、という感情です、つまり、人間の真の性質を認識すれば、地球上に人間しかいないとしたら、地球がそもそも必要なものを得るということ、そして正しい時期に地球から霊化された(物質)素材が取り除かれ、霊素材が与えられるということに対して、ひとは絶望的にならざるを得ない、と。ひとは本来、人間の存在と地球の存在との間のこのような対立を感じ取らざるを得ないのです、これはきわめて悲痛な対立です、人間が地球上で正しく人間であろうとすれば、地球は人間によって正しく地球であることができない、と言わざるを得ないがゆえに悲痛なのです。人間と地球はお互いを用いています、人間と地球は互いに支え合うことができないのです!一方の存在が必要とするものが他方から失われ、他方が必要とするものが一方から失われます。周囲の環境が現われてこないなら、人間と地球との生の連関についてひとは安心していられないでしょう、そしてひとは自らにこう言い聞かせざるを得ないでしょう、霊化された地球実質を霊の国へと持ち去ることに関して人間にできないこと、これを成就するのは鳥の世界なのだ、と。さらに、人間が霊的実質として地球に与えることができないもの、これを与えるのは反芻動物たち、そしてその代表としての牛なのだ、と。

 ごらんのように、これによって宇宙はいわば、ひとつの全体へと完結するのです。単に人間だけを見ると、感情のなかに入り込んでくるのは地球の現存についての危うさですが、人間の周囲にあるものを見ると、再び安心感が得られるのです。

 今や皆さんは、ヒンズー教のように深く霊的なものに入り込んでいく宗教的世界観が牛を崇拝することに、さほど驚きをお感じにならないでしょう、なぜなら、牛は地球を絶え間なく霊化し、牛自身が宇宙から取り出してくるあの霊的実質を絶えず地球に与え続けるからです。本来このイメージはリアルなものになるはずなのです、草をはんでいる牛の群の下で、大地(地球)がいかに喜びをかき立てられて生きているか、そこで草をはんでいるものたちがいることによって宇宙からの栄養の確保が約束されたために、いかに元素霊(精霊)[Elementargeister]たちが下で歓呼の声を挙げているか、というイメージです。鷲を取り巻いて漂いつつ、踊り歓呼の声を挙げる元素霊たちの空気の環がほんとうは思い描かれるはずなのです。そうすれば霊的真実が再び描かれたということです、そして霊的な現実の内部に物質的なものを見出せるでしょう、鷲がそのアウラ[Aura オーラ]のなかに継続されているのが、そして、そのアウラのなかに、元素的な空気の精(精霊)たちと空気中の火の精(精霊)たちの歓声が紛れ込んでくるのがわかることでしょう。

 まったく宇宙的であるために地上的存在に非常に抵抗するこの牛の独特のアウラをひとは見るでしょう、そしてこれが地の元素霊たちの上機嫌の感覚を呼び起こすのを見ることでしょう、元素霊たちは、大地の闇のなかで生き続けなければならないために彼らから失われてしまったものをここで目にすることができるでしょう。牛のなかに現われているものは実際これらの精霊にとって太陽なのです。地中に住まうこうした元素霊たちは物質的太陽に歓びを感ずることはできませんが、反芻動物のアストラル体に歓びを感ずることはできるのです。

 そうなのです、愛する友人の皆さん、今日の書物には載っていない別の自然史というものもあるのです。それでは、今日書物に載っている自然史の最終結果とは、いったいどんなものでしょうか。

 それは、私が一度論評したことのあるアルベルト・シュヴァイツァーのあの本の続編(☆1)に他なりません。皆さんは、私が少し前にゲーテアヌムで行なった、現代の文化状況についてのこの小著の論評を覚えておいでかもしれません。この続編の前書きは実に、現代の精神の産物のかなり悲しむべき一章というものです、と申しますのも、私が当時論評いたしました最初の巻には、少なくともまだ、私たちの文化に欠けているものをつけ加えるためのある種の力と洞察があります、ですからこの前書きは事実本当に悲しむべき一章なのです。なぜなら、ここでシュヴァイツァーは自分が、知は結局いかなるものも与えることはできない、ひとは認識によるのとは別のどこかから世界観と倫理学を獲得せねばならない、ということを見抜いた最初の人物であると豪語しているからです。

 さて、先ず第一に、認識の限界についてはもうじゅうぶん語られてきましたし、ひとが自分を認識の限界について語った最初の人物であると思うことには、どう申し上げるべきか、いささか近視眼的なところがすでにあります。認識の限界についてはすでに自然科学者たちがありとあらゆる言い方で語ってきたのですから。ですからこの巨大な誤謬を最初に発見したなどと自慢するには及ばないのです。

 けれどもこれを度外視しても、まさにこのことは、シュヴァイツァーのような卓越した思想家ーーこの第一巻に関しては彼はやはり卓越した思想家ですーーが、こう語るに至ったということに他なりません、つまり、我々が世界観を持とうとするなら、我々が倫理を持とうとするなら、知と認識とを我々はまったく問題にしない、これらは我々に何ひとつ与えはしないのだから、と。今日まさに書物に載っていて公に認知されている知と認識、そういう諸々の科学、認識は、世界のなかに意味を発見するーーシュヴァイツァーの言うようにーーことに通じていくことはありません。と申しますのも、結局のところ、こうした人物たちが世界を眺めているように眺めるなら、実際次のようなこと以外には何も浮かんでこないからです、つまり、鷲から紋章の動物を作ることができる、という点は別として、鷲が飛翔することには意味がない、とか、雌牛が牛乳を与えてくれることは、地上的に有用である、とか。人間もまた単なる物質的存在でしかないので、物質的有用性しか持っておらず、世界(宇宙)全体にとっていかなる意味も与えない、ということになります。

 それ以上進もうとしないのであれば、そのひとは世界に意味が現われてくる水準にはないということは言うまでもありません。霊的なものが、秘儀参入学が、世界(宇宙)について語りうることへと、ひとはまさに移行していかなければならないのです、そうすれば、この世界(宇宙)の意味が見出されるでしょう。しかもそのときこの宇宙の意味は、あらゆる存在のなかに驚くべき秘密を発見することによって、見出されるのです、それは、死にゆく鷲と死にゆく牛とともに起こる秘密、そしてこの両者の間にライオンがいて、ライオンは自らのうちでその呼吸のリズムと血液循環のリズムの協和を通じて霊的実質と物質的実質の均衡を維持する、つまりライオンは今や、私がお話ししましたような上と下への正しいプロセスを生じさせるために、どれだけの鷲が必要で、どれだけの牛が必要であるかを、その集合魂を通して調整するものである、といった、そういう秘密です。

 ごらんのように、この三種の動物、鷲、ライオン、雄牛あるいは雌牛は、驚くべき本能的な認識からまさしく生み出されたのです。これらと人間との親和性が感じ取られていました。と申しますのも、こういう事柄を見通すなら、人間は自らにこう語らざるを得ないからです、鷲は、私が私の頭によって自分で果たすことができない課題を私から取り除いてくれる、牛は、私が私の新陳代謝、私の四肢組織を通じて自分で果たすことのできない課題を私から取り除いてくれる、ライオンは私が私の律動組織を通じて自分で果たすことのできない課題を私から取り除いてくれる、と。こうして私と三種の動物から宇宙的連関の全体が生成する、と。

 このようにひとは宇宙的連関のなかに組み込まれて生きています。このようにひとは宇宙における深い連関を感じ取り、存在を統括している力、人間が織り込まれ、さらに人間を取り巻いて波打ち、うねっているこの存在を統括する力が、本来いかに聡明であるかを認識することを学ぶのです。

 さてごらんのように、先週お話ししました三種の動物に対する人間の関係を探究したことにより、このとき私たちに立ち現われてきたものをこのようにまとめることができました。(☆2)

(第3講おわり)

 

□編註

☆1 アルベルト・シュヴァイツァーのあの本の続編:『文化哲学 1. 文化の没落と復興』(ベルン、1923年)「文化の外見上の局面と現実の局面」という題のシュタイナーの論評は、全集版『現代の文化危機のさなかにあるゲーテアヌム思想 週刊「ゲーテアヌム」からの論文集1921ー1925』(GA36 100頁以下)に所収。

アルベルト・シュヴァイツァー:Albert Schweizer 1875ー1965

ロテスタント神学者、哲学者、医師、音楽家。1913年よりガボン(アフリカ西部の共和国)のランバレーネで派遣医師。シュヴァイツァー「ルドルフ・シュタイナーとの出会い」も参照のこと。これは『ルドルフ・シュタイナーの思い出』(エーリカ・ベトゥレ、クルト・フィール編 シュトゥットガルト、1979年)に所収。33頁以下。

☆2 この講義に引き続いてすぐ、シュタイナーは第二ゲーテアヌム設立に関する募金活動のために見解を表明した。彼の「ゲーテアヌム貯金箱についての発言」は『人智学協会の歴史における運命の年1923年』(GA259 185頁)に掲載されている。


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