ルドルフ・シュタイナー

■GA230■

創造し、造形し、形成する

宇宙言語の協和音としての人間

Der Mensch als Zusammenklang

des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes


翻訳紹介(翻訳者:yucca)


●第8講   1923年11月3日  ドルナハ  

・現代の人間からはエレメンタル存在たちを知覚する力が失われている

・グノームは骨格のない下等動物たちを霊的に補足する

・グノームの知性と注意深さ

・入眠時の夢とグノームの知覚

・ウンディーネはもう少し高等な動物たちを補足し、鱗、甲殻を生じさせる

・夢のない眠りとウンディーネの知覚

・ジルフェは本来頭である鳥を霊的に補足する

・目覚めの夢とジルフェの知覚

・火存在は蝶の体を補足する

・グノームとウンディーネは下等動物を上つまり頭の方向に補足し、

 ジルフェと火存在は鳥と蝶を下つまり四肢の方向に補足する

・思考存在としての自己の観察と火存在の知覚

・宇宙思考と火存在の領域

・良い種類の元素霊と悪い種類の元素霊

・悪い種類のグノームとウンディーネにより寄生生物がもたらされる

・人間の排泄プロセスと脳形成、脳は排泄物の高次のメタモルフォーゼ

・グノームとウンディーネの力による物質的な脳形成

・グノームとウンディーネは破壊の力に関わり、ジルフェと火存在は

 構築する力に関わる

・悪い種類のジルフェにより果実に毒が生じる、ベラドンナ

・悪い種類の存在たちは領域をずらして作用する

・火存在は果肉を焼き尽くし、これが行き過ぎると果実の核が有毒となる

・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァと元素霊の関係


 昨日私は皆さんに、現存する自然の別の面について、眼に見える感覚的自然の存在と出来事に、超感覚的で不可視のそれとして付き従っている存在たちについてお話しいたしました。古代の本能的観照は、感覚的な存在たちを見るのと同様に、現存する自然の背後にある超感覚的世界のこれらの存在たちに対しても目を向けていました。今日ではこれらの存在たちはいわば人間の観照の前から退いてしまいました。とは言え、こうしたグノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火の精霊といった民が、動物、植物、あるいは物質的ー感覚的世界のように知覚され得ないのは、ひとえに人間が地球進化の現時点で、その魂的本質を、物質体エーテル体の助けなしには展開できないせいなのです。人間は、地球進化のまさに現在の状況において、魂を用いるためにはエーテル体を、霊的なものを用いるためには物質体を使うことを、余儀なくされています。霊のために道具を提供している物質体、感覚器官は、物質的世界の根底をなす存在たちとの結びつきを得ることはできません。人間のエーテル体も同様です、人間は自らを魂存在として展開するためにエーテル体を用いるのですから。そのため人間からは、こういう表現が許されるなら、そもそも地上的環境の半分が失われているのです。私が昨日お話ししましたあのエレメンタル(元素)存在たちが取り巻いているすべてのものが、人間からは失われています。物質体エーテル体はそれに近づくことはできません。こういうグノーム、ウンディーネなどがそもそも何なのかはっきりと理解すれば、現代の人間からは失われてしまったものについての理念を獲得できるでしょう。

 よろしいですか、下等動物、目下のところ下等な動物の大群がおります、いわば柔らかい塊からできているのみで、液体エレメントのなかで活動し、液体エレメントのなかで生きていて、どんな骨格も、つまり内部に支えとなるものは何も持っていない生物たちです。これらは、地球の最も後になってから出現した生きもののひとつで、最古の地球存在である人間が、その頭構造に関連して古い土星紀の間に行ったことを、進化したこの地球で今はじめて行っています。そのためこれらの生きものは、骨格の土台となることのできるあの硬化を内部に形成するに至っていないのです。

 さて、グノームたちは、この下等動物の世界、上は、骨格の徴候らしきものをーーとくに魚類はーー備えているだけの両生類と魚類まで含むこの下等動物の世界に欠けているものを、宇宙においていわば外的に霊的なしかたで補う存在たちです、したがっていわばこの下等な動物段階が、グノームが存在することによってようやくひとつの全体となるわけです。

 宇宙における存在たちの関係はともかく非常に多様なので、他ならぬこの下等な存在たちとグノームたちの間では、昨日私が反感と特徴づけました何かが働いています。グノームたちはこの下等な存在たちのようになりたくないのです。この下等な存在たちの姿をとることから、彼らは絶えず身を守りたがっています。このグノームたちは、皆さんに描写いたしましたように、並はずれて賢く、知的な存在です。知覚とともに彼らには知性も与えられていて、実際のところ、すべてにおいて下等動物の世界の対をなすものです。グノームは、昨日特性をお話ししました植物の成長にとって意味を持つ一方、下等動物の世界に対しても実際に不足を補っているのです。グノームはいわば、下等動物の世界に、この下等動物界が持っていないものを付け加えます。この下等動物界はぼんやりした意識を有しますが、グノームたちは極めて明るい意識を有しています。この下等動物界には骨格、骨の土台がありません。グノームたちは、重力としてあるものすべてを束ねて、とでも申し上げたいのですが、そしてつかの間の軽い重力から体を形成するのです、もっともこの体は、崩壊する危険、その実質を失う危険に常にさらされているのですが。グノームたちは繰り返し繰り返し重力から自らを作り出さねばなりません、彼らはいつもその実質を失ってしまう危険にさらされているからです。そのためグノームたちは、自身の生存を維持するために、自分の回りで起こることに絶えず注意を払っています。地球を観察してもこのグノームほど注意深い存在はいません。グノームはあらゆることに注意を怠りません、自分の命を救うためにはあらゆることを知り、あらゆることを理解しておかなくてはならないからです。グノームはいつも目を覚ましていなければなりません、しばしば人間が眠くなるように、グノームが眠くなったとしたら、たちまちその眠気のために死んでしまうでしょう。

 絶えず注意を払っていなければならないこういうグノームの特性を実際非常によく表している、非常に古い時代に由来するドイツのことわざがあります。小鬼[Wichtelman]のように注意深くせよ、というものです。−−小鬼というのはグノームのことに他なりません。つまり誰かに気をつけるよう警告しようとするとき、その人にこう言うのです、グノームのように注意深くしろ、と。ーーグノームは本当に注意深い存在なのです。もし、見本としてグノームを皆から見えるように学校のクラスの最前列に座らせることができたら、グノームは生徒たち全員が見習うべき優秀な存在であることでしょう。

 こういう特性以外に、グノームたちはさらにまた別の特性も持っています、彼らは実に克服しがたい自由の衝動に満たされているのです。グノームたちはいわばお互いにあまり関わり合いを持たず、本来別の世界、周囲の世界にのみ注意を払っています。グノームは別のグノームに対してあまり興味を示しません。けれども、自分が生きているこの世界で、別のグノーム以外の、自分を取り巻くすべてのものにはとりわけ興味を持つのです。

 さて、私は皆さんに、体というものは本来、こういう民を知覚する妨げになるのだ、と申しました。体がもはやこういう妨げをしなくなったとたん、自然の他の存在たちが目に見えるのと同じく、こういう存在たちがいるのもわかります。そして、入眠時の夢を完全に意識的に体験できる段階まで行ったひとは、このグノームたちをよく知っています。皆さんは、私が「ゲーテアヌム」誌でちょうど夢について述べたこと(☆1)を思い出してくださりさえすればよいのです。私は、夢は本来、その真実の姿で通常の意識の前に現れてくることはない、夢は仮面をつけている、と申しました。入眠時の夢も仮面をつけています。私たちは、昼間私たちが通常の意識で体験したこと、その他体験したことからすぐには抜け出せません、追憶、人生の記憶像、あるいは、心臓がストーブ、肺が翼、などとシンボル化されるような、内部の臓器のシンボルや比喩から抜け出せないのです。これらが仮面です。人間が夢を仮面なしに見るとしたら、人間が眠りへと入っていって、実際にその世界に入ってそこにいる存在たちが仮面をつけていなかったら、そのひとはちょうど眠りに入るときにこの小鬼たちの群を見るでしょう、その人に向かって小鬼たちがやってくるでしょう。

 しかし人間は通常の意識のために、これらのことを準備なしに知覚することをいわば免れています、怯えてしまうでしょうから。と申しますのも、このものたちが人間に向かってくる姿のなかに形成しているものは、この人において破壊する力として働いているすべてのものの実際の写しだからです。人間は、自らのなかで破壊する力として働くもの、絶えず解体させるものすべてを同時に自らの本質において知覚するでしょう。そしてこれらグノームたちは、準備なしに知覚されれば、文字通り死のシンボルなのです。通常の知性にとってそれらについて何も聞かされたことがなく、さて眠り込むときになってグノームたちが向かってきて、その人をいわば埋葬してしまう、と申しますのも、これは、向こうのアストラル界ではその人をいわば埋葬するように見えるからですが、ということになれば、人間はこれらを前にして途方もなく怯えてしまうでしょう。眠りに入るとき起こっていることは、向こうから見れば、グノームたちによる一種の埋葬なのです。

 さて、これは本来眠りに入る瞬間のみにあてはまることです。物質的ー感覚的世界をさらに補っているのはウンディーネたち、水の存在たちで、これらは絶え間なく変容し続け、グノームたちが地とともに生きるように、水とともに生きる存在です。これらウンディーネたちもーー私たちはウンディーネが植物の成長においてどんな役割を果たすかも学びましたがーー、補う存在として、いくらか高い段階にある動物たち、より分化された土の体を受け取った動物たちと関係しています。その後高等な魚類あるいは高等な両生類へと成長するこれらの動物たちには、鱗(うろこ)が、何らかの硬い甲殻が必要です。これらには外部に硬い殻が必要なのです。この外側の支え、いわばこの外骨格を、昆虫のようなある種の動物たちに獲得させるための力として存在するもの、これを宇宙はウンディーネの働きに委ねているのです。グノームはまったく下等な動物たちをいわば霊的に支えます。外部から保護されなければならない動物、たとえば甲殻に覆われなければならない動物、これらの動物を保護する覆いはウンディーネの働きによるものです。ウンディーネはこのとき、私たちが頭蓋冠のなかに有しているものを、原始的なしかたでこれらのいくらか高等な動物たちに付与するのです。ウンディーネはこれらの動物たちをいわば頭にするわけです。可視の世界の背後に不可視のものとして存在するこれらすべては、存在するものの連関全体のなかで大きな使命を持っています、そして皆さんは、唯物論的な科学が、私が今取り上げたような種類のことを解明しようとするとき、いたるところで無力さを露呈するのをごらんになるでしょう。唯物論的な科学はたとえば、下等な生きものたちが、そのなかで生きているエレメントより硬いわけではないのに、どうやってそのエレメントのなかを移動していくことができるようになるのか、解明することはできません、なぜなら科学は、私がちょうど説明しましたようなグノームによる霊的な支えがあることを知らないからです。他方、甲殻に覆われるという事実も、純粋に唯物論的な科学を常に手こずらせます、ウンディーネたちが、自分自身が下等動物になってしまうことに対して過敏になり、それを回避するうちに、鱗その他の甲殻としていくらか高等な動物にかぶせられるものを自身から切り離していることを知らないからです。

 そしてまたこれらの存在にとっても、今日の人間の通常の意識が、たとえば植物の葉やいくらか高等な動物たちを見るようにこれらを見ることを妨げているのは、まさに肉体なのです。

 けれども、人間が今や深い夢のない眠りに入るとき、しかも眠りが人間にとって夢のないものではなく、インスピレーションの才によってこの眠りが見通されうるとき、霊的な眼差しの前に、霊的な人間の眼差しの前に、あのアストラル的なものの海から、眠りに入る際にグノームたちが人間を埋葬し隠したあの海から浮かび上がってくるのは、これらウンディーネ存在たちです、ウンディーネたちは深い眠りのなかで目に見えるようになるのです。眠りは通常の意識を消し去ります。眠りにとって明るくなった意識は、生成する液体の世界、あらゆる可能なしかたでウンディーネたちの変容へと隆起するこの驚くべき液体の世界を内容とします。ちょうど私たちの昼の意識にとって、堅固な輪郭を持った存在たちが周囲にいるように、夜の明るい意識は、これらの絶えず動き回る、これら自身ひとつの海のように波立ちまた沈んでいく存在たちを見せてくれるます。完全に深い眠りは本来、人間の周囲には、活発に動く生きものたちの海、ウンディーネたちの波立つ海がある、ということによって満たされているのです。

 ジルフェにとっては事情は異なります。ジルフェについては、ジルフェもまたあるしかたで、ある種の動物存在の補足をするのですが、今度は別の方向にむかって補足するのです。グノームとウンディーネは、頭を欠く動物たちに頭的なものを付け加える、と言えるかもしれません。さて鳥というものは、私が皆さんに述べましたように、本来純粋な頭です、鳥はまったく頭組織そのものなのです。ジルフェは、いわば頭組織の肉体的補完として鳥に欠けているものを、霊的なしかたで鳥に付け加えます。ジルフェはつまり、人間においては新陳代謝ー四肢系である生体組織の領域に向かって鳥類を補足するのです。鳥たちが脚を縮めて空中を飛び回ると、それだけいっそうジルフェたちの四肢は力強く形成され、牛が下の物質的質料のなかに表すものを、霊的なしかたで、空中に表す、と申し上げたいのです。ですから私は昨日、ジルフェたちは鳥類のなかに自我を持つ、ジルフェを大地に結びつけるものを持つ、と言うことができました。人間は地上でその自我を獲得します。ジルフェを大地と結びつけるもの、それは鳥類なのです。ジルフェが自我を、少なくとも自我の意識を有するのは、鳥類のおかげです。

 さて、人間が夜眠り込んで、さまざまなウンディーネのフォルムに形成されるアストラル的な海に囲まれ、そして目覚めて目覚めの夢を見るとき、この目覚めの夢もまた人生の回想や内部の臓器の比喩という仮面をつけていないとしたら、つまり仮面をつけていない夢を見るとしたら、そのとき人間は、ジルフェの世界と対峙することでしょう。しかし人間にとってジルフェたちは奇妙な姿をとっているでしょう。ジルフェは、太陽が何かを送り出そうとするとき、しかも本来やっかいなしかたで人間に作用する何か、ある種のしかたで人間を霊的に眠り込ませる何かを送り出そうとするときのようなようすをしていることでしょう。なぜそうなのかは、すぐ後ほど聞くことができるでしょう。やはり人間は、もし仮面なしの目覚めの夢を知覚するとしたら、その夢のなかに羽ばたきつつ入り込んでくる何かを、本質的に羽ばたきつつ入り込んでくる光のような何かを見るでしょう。人間はそれを心地よくは感じないでしょう、ジルフェたちの四肢がいわば絡みつき巻き付いてくるのですから。人間は、光が四方から彼を攻撃してくるときのように、光が何か襲ってくるもの、それに対してひどく過敏になってしまうものであるかのように感じます。もしかすると、人間はあちこちでこれを、光が撫でていくように感じるかもしれません。こういうすべてのことで皆さんに示唆したいのは、支え、手探りするこの光が本来ジルフェの形(フォルム)をとって近づいてくるということなのです。

 次いで火存在たちに移りますと、火存在の場合、これらははかない蝶の本性の補足をしています。蝶はいわば自らその物質的な体、本来の物質的な体をできるだけ作り出さないようにしています、蝶はその体をできる限り希薄にしているわけです。蝶は体に対して光存在なのです。火存在たちは自らを、蝶の体を補完する存在として示します、したがって次のような印象が得られます。つまり一方に物質的な蝶を見て、それをしかるべく拡大したと考え、そして他方に火存在をーー火存在たちが一緒にいることはまれで、昨日皆さんにお話ししましたような場合のみですーー見るとき、こう感じられるのです、つまりこれらをお互いにくっつけると、翼を付けた人間のようなものが、実際に翼を付けた人間が得られる、と。ただ蝶をしかるべく拡大し、火存在を人間の寸法に合うように見なければなりません、そうすればそこから翼を付けた人間のようなものが得られるのです。

 このこともまた皆さんに、火存在たちは本来、実際霊的なものの一番近くにいるこの動物存在の補足をしていることを示しています、これらはいわば、下向きの補足なのです。グノームとウンディーネは上向きの、頭の方に向かう補足であり、ジルフェと火存在は、下へ向かって鳥と蝶を補足します。つまり火存在は蝶と組み合わされねばならないのです。

 ところで、人間がいわば眠っているときの夢を貫いていくことのできるのと同様のやりかたで、人間は目覚めた昼の生活をも貫いていくことができます。昼の生活では人間はまさにまったく無骨なしかたでその物質体を用います。このことも私は「ゲーテアヌム」誌の論文のなかで述べました。昼の生活では、人間は、次のようなことを洞察するところまで全然到達しておりません、ほんとうは昼の生活の間に常に火の存在たちを見ることができる、火存在たちは人間の思考と、頭の組織から発するものすべてと内的な親和関係にあるからだ、ということをです。ですから人間が、完全に目覚めた昼の意識にあってしかもある意味で自身の外にいるという状態になれば、つまりまったく理性的であって両脚でしっかりと大地に立ち、しかも同時にやはり自らの外にいるーつまりつまり彼であると同時に彼に相対するもの[Gegenueber]である、すなわち自己自身を思考存在として観察することができるーという状態になれば、そのとき人間は知覚するでしょう、火存在たちは宇宙のなかで、もし私たちがそれを知覚すれば、私たちの思考を別の側から知覚できるようにするエレメントを構成していることを。

 このように、火存在を知覚することは、自己自身を思考する者として見ることに私たちを導いてくれます、単に思考する者としてあり思考を煮詰めるのみではなく、思考の経過を観照することに導くのです。ただ、このとき思考は人間に結び付けられていることをやめます、このとき思考は自らを宇宙思考として呈示します、思考は宇宙における衝動として生き生きと活動するのです。このときひとは気づきます、人間の頭は、あたかもこの頭蓋の内部に思考が閉じこめられているかのように思う幻影を呼び起こしているにすぎない、と。思考はそこに反映しているだけなのです、そこにあるのは思考の鏡像です。思考の根底にあるものは、火存在の領域に属します。この火存在の領域に入っていくと、ひとは思考のなかに自己自身を見るのみならず、宇宙の思考内容[Gedankengehalt der Welt]を、本来同時にイマジネーション的な内容である思考内容を見るのです。つまりこれは自己自身から出ていく力であり、思考を宇宙思考として呈示してくれる力です。そう、こう申し上げてよいかもしれません、今や人間の体ではなく、火存在の領域から、つまりいわば地球に入り込んでいる土星の本質から、地上に見られることを眺めると、私が『神秘学概論』で地球進化(☆2)について記述したその通りのイメージが得られる、と。この神秘学の概要は、火存在の視点から見て、思考が宇宙思考として現れてくるように描かれているのです。

 こうした事柄に深く現実的な意味があることがおわかりでしょう。けれども人間にとって深く現実的な意味はほかにもまだあります。グノームとウンディーネのことを考えてみてください、これらはいわば、人間の意識の世界と境を接する世界に生きています、すでに境域の向こう側にいるのです。通常の意識はこれらの存在を見ることから守られています、これらの存在は本来すべてが良い種類のものではないからです。良い種類のものは、私が昨日述べましたような、たとえばさまざまなしかたで植物の成長に働きかけている存在たちです。しかしそのすべてが良い種類の存在ではありません。これらの存在たちの活動している世界に進入するやいなや、良い種類のものだけではなく、悪い種類のものもいるのです。こうなると、これらのうちどれが良い種類のもので、どれが悪い種類のものか、見分け方を修得せざるをえません。これはそうたやすいことではありません。私が皆さんに悪い種類のものを描写せざるを得ないしかたから、それがおわかりになるでしょう。悪い種類の存在たちが良い種類の存在たちから区別されるのはとりわけ、良い種類は植物界と鉱物界をよりどころとすることが多いけれども、悪い種類は常に動物界と人間界に接近しようとする、そしてもっと悪い種類は、また植物界と鉱物界に近づく、ということによってです。とは言え、これらの領域の存在たちが持ちうる悪というものについてしかるべき概念が得られるのは、人間と動物に近づこうとする存在たち、本来は高次のヒエラルキアによって植物ー動物界のために良い種類の存在たちに(役目として)指定されていたことを、人間のなかで実行しようとする存在たちに関わり合うときです。

 よろしいですか、グノームおよびウンディーネの領域に由来するこのような悪い種類の存在たちがいます、これらは人間と動物に近づき、人間と動物に働きかけて、本来なら下等な動物たちに付加すべきものを人間のなかに物質的なしかたで実現させるのです、人間のなかにはどのみちすでにそれは存在しているのですが。人間のなかにこれを物質的なしかたで実現させようというのです、動物のなかにもです。これらの悪い種類のグノームおよびウンディーネ存在たちがいることによって、人間と動物のなかで、もっと下等な動物ー植物存在が生きるようになります、寄生生物[Parasiten]です。このように、悪い種類の存在たちは寄生生物をもたらすものなのです。とは言え、霊的世界へと境界を踏み越えた瞬間、人間はすぐさまこの世界の策略のなかに入り込む、と申し上げたいのです。実際いたるところに罠があり、人間はまさに小鬼たちから学ばなければなりません、つまり用心することをです。たとえば心霊主義者たちは決して用心することができません。罠はいたるところにあるのです。今やこう言えるかもしれません、悪い種類のグノームとウンディーネ存在たちが寄生生物を発生させるなら、そもそもいったいこれらは何のために存在しているのか、と。そう、これらの悪い種類の存在たちがいなかったら、すなわち人間はその脳塊を作り出す力を自らのなかに発達させることができないでしょう。さてこうして、きわめて重要なことに行き着きます。

 これを図式的に描いてお見せしたいと思います。人間を、新陳代謝ー四肢人間として、胸ーつまりリズム人間として、さらには頭人間つまり神経ー感覚人間として考えるとき、皆さんにはっきりと理解していただかなければなりません、この下の部分でいくつかのプロセスが進行しーーリズム人間は除外しましょうーーこの上の部分でやはりいくつかのプロセスが進行します。この下で起こっているプロセスを一緒にすると、本質的に、通常の生活ではたいてい誤解されている結果が出てきます、これらは排泄プロセスです、腸を通じての排泄、腎臓を通じての排泄その他、下へと流出するすべての排泄プロセスです。これらの排泄プロセスはたいてい単なる排泄プロセスとしか見られていません。しかしこれはばかげたことです。単に排泄されんがために排泄されるのではなく、上で物質的に脳であるものに似た何かが、出現する排泄物と量を同じくして、下部人間の中に霊的に出現するのです。下部人間において起こっていることは、その物質的発展に関しては道の半分にとどまっています。排泄されるのは、ものごとが霊的なものへと移行するからです。上ではプロセスは完了しています。下では単に霊的にのみあるものが、上で物質的に形成されます。私たちは上に物質的な脳を、下に霊的な脳を持っているのです。そして、下で排泄されるものを、さらなるプロセスのもとに置くなら、その改造を続けていくなら、最終的な変容はさしあたり人間の脳となることでしょう。

 人間の脳塊はさらなる形成を受けた排泄物です。これは、たとえば医学的な関連にうおいても途方もなく重要なことです、これは16、17世紀においてはまだ当時の医師たちによく知られていたことです。今日、かつての「汚物薬局」[Dreckapotheke]について、軽蔑されて当然な部分もあるとはいえ、非常に軽蔑的に語られております。けれどもそれは、汚物のなかにこそいわば霊のミイラがまだ存在したのだ、ということを知らないからなのです。もちろんだからと言ってかつての数世紀に汚物薬局として現れたものを崇拝しようというわけではありません、私は、ちょうどお話ししましたような深い連関を持つ多くの真実を指摘しているだけなのです。

 脳はまったくもって排泄物の高次のメタモルフォーゼ[hoehere Metamorphose der Ausscheidungsprodukute]です。したがって、脳の病気は腸の病気と関連し、脳の病気の治療は腸の病気の治療と関連しています。

 よろしいですか、グノームとウンディーネがいることによって、そもそもグノームとウンディーネが生きることのできる世界があることによって、力が存在します、なるほど下部人間から寄生生物を発生させることもできるけれども、同時に上部人間のなかで排泄物を脳に変容させるきっかけにもなる力です。もし世界が、グノームとウンディーネが存在することができるように作られていないなら、私たちはまったく脳というものを持つことはできないでしょう。

 破壊の力に関してグノームとウンディーネに当てはまることーー破壊、解体はこのときやはり脳から起こりますーーが、構築する力に関してはジルフェ存在と火存在に当てはまります。これまた同様に、良い種類のジルフェ存在と火存在は、人間から距離をとり、私が示唆しましたやりかたで植物の成長に関わりますが、悪い種類のものも存在するのです。悪い種類のジルフェ存在と火存在はとりわけ、上のほうつまり空気ー熱の領域にのみ存在すべきものを、下へ、水的、土的領域へと運ぶのです。

 さて、たとえばこれらのジルフェ存在が、上に向かうべきものを、上の領域から下の水および土のエレメントの領域へと運び下ろすときに起こることを研究したいとお思いなら、ベラドンナ[Belladonna](*1)をじっくりとごらんになってください。ベラドンナは、こういう表現が許されるなら、その花がジルフェにキスされ、そのために良い汁であり得たものが、ベラドンナの毒液に変化してしまった植物です。

 この場合、領域のずれと呼びうることが起こっています。私が先ほど描写いたしましたように、ジルフェが巻き付く力を発達させ、そのとき人は文字通り光に触れられるわけですが、これも上では正しいのですーー鳥の世界がそれを必要としているからです。けれどもこれらのジルフェが下へ降りてきて、そして植物界に関して上に適用すべきことを下で用いると、強い植物毒が生じます。寄生生物的な存在はグノームとウンディーネによって生じ、ジルフェによって毒が生じます、毒とは本来、あまりに深く大地へと流れ込んだ天的なものなのです。人間あるいは動物のあるものが、ベラドンナ、これはサクランボのように見えますが、ただ萼の中に隠れていますーー下に押しつけられているのです、私が今描写したことはベラドンナの形のなかにも見て取ることができますーー、このベラドンナを食べますと、つまり人間あるいはある種の動物がベラドンナを食べますと、それがもとで死んでしまいます。ところが、ツグミやクロウタドリをひとつよくごらんください、これらの鳥はベラドンナの枝に止まり、そこで世界で最良の食料を得ています。ベラドンナのなかにあるものは、ツグミやクロウタドリの領域の一部なのです(*2)。

 それにしても奇妙な現象です、もともとその下部組織によって大地と結びついている動物と人間たちが、地においてベラドンナのなかで損なわれたものを毒として摂取し、他方ツグミやクロウタドリに代表される鳥たち、つまりジルフェを通じて霊的なしかたでこのまったく同じものを得るーー鳥たちは良い種類のジルフェを通じてもこれを得ますーー鳥たち、上の鳥たちの領域にあるものが下へと運ばれたとは言え、この鳥たちがこれに耐えられる、というのは。鳥たちより大地に強く結びついている生き物たちにとって毒であるものが、鳥たちにとっては食物なのです。

 こうして、一方においてグノームとウンディーネによって寄生生物が地から他の存在めがけて上昇していき、そして毒が上から滴り落ちてくるようすについて、ひとつの見解が得られるでしょう。

 これに対して、火存在たちが蝶の領域に属するあの衝動、蝶の進化のために非常に役に立つ衝動で自らを貫き、これを果実のなかへと下ろしてくるなら、たとえば一連のアーモンド類のなかに有毒のアーモンドとしてあるものが生じます。このときこの毒は火存在の働きによってアーモンドの実のなかへと下ろされるのです。そして、いわば私たちが他の果実の場合食しているものが、この同じ火存在によって良いやりかたで燃やされないとしたら、そもそもアーモンドの実というものも生じることができないでしょう。ともかくアーモンドをよくごらんください。他の果実の場合、中心に白い核がありその回りに果肉がありますね。アーモンドの場合、この中心に核があり、回りの果肉は焼き尽くされています。これは火存在の働きなのです。そしてこの働きが節度を失うとき、つまり火存在が実行することが、単に褐色のアーモンドの外皮に入り込むだけならまだ良い種類のものであり得ますが、外皮にとどまらず、外皮を作り出すべきものからわずかではあってもアーモンドの白い核の内部まで入り込むなら、アーモンドは有毒になります。

 このように、境界のすぐ向こうの世界で隣り合っているこれらの存在たちは、その衝動を実行するとき、寄生生物や有毒の存在の担い手となること、それによって病気の担い手になることについてのイメージが得られます。こうして、病気のなかに人間をとらえることのできるものから、人間が健康な存在としてどこまで抜け出していくかが明かになります。と申しますのも、これは、構築のすべて、自然の成長と芽生え、さらにまた自然の破壊をも可能にするために向こう側に存在せねばならないこれらの存在たちのうちの、悪い種類のものの展開と関係があるからです。

 これは結局、本能的な霊視から発した、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァについてのインドのそれのようなインテュイションの根底にあるものです。ブラフマーは宇宙領域において、人間に接近することを許されている活動する存在を表します。ヴィシュヌは、構築されたものを絶えず再び取り壊さなければならない、つまり構築されたものが絶えず変化していかざるを得ない、その限りにおいてのみ人間に接近することを許されている宇宙領域を表します。そしてシヴァは、破壊する諸力と関係するすべてを表しています。古代におけるインドの高度な文化の時代にはこう言われていました、ブラフマーは火存在の性質であるもの、ジルフェの性質であるものすべてと密接に関係がある、ヴィシュヌは、ジルフェーウンディーネの性質であるすべてと、シヴァは、グノームーウンディーネの性質であるものすべてと関係がある、と。総じて、これらの古代の表象に遡っていくと、今日自然の根底にある秘密として再び探し出さなければならないものが、具象的に表現されているのがいたるところで見いだせるのです。

 さて以上のように、私たちは昨日、この不可視の民と植物界との親和性を観察いたしました、きょうは、この不可視の民と動物の世界との親和性を付け加えました。境界のこちら側の存在たちは、いたるところで境界の向こう側の存在たちに干渉し、境界の向こう側の存在たちは、境界のこちら側の存在たちに干渉する、等々です。そしてこの両者の生き生きとした共同作用のことを知るときのみ、可視の世界がどのように展開していくかがほんとうに理解できるのです。人間にとって、超感覚的世界の認識はほんとうに不可欠です、と申しますのも、死の門を通過する瞬間、人間の回りにはもはや感覚世界はなく、このとき別の世界が人間の世界となることが始まるからです。現在の進化において人間はこの別の世界に赴くことはできません、この向こう側の別の世界を指し示す文字を、いわば物質的な顕現から認識することがなかったなら、また、地の動物のなかに、水の動物のなかに、空気の動物のなかに、そして光の動物と申し上げたい蝶たちのなかに、死と新たな誕生との間の私たちの同居人であるエレメンタル存在たちを示すものを読みとるすべを学ばなかったとしたらです。しかし、私たちがこれらの存在について見出すものは、まさにこの誕生と死の間においてはどこでも、粗雑で濃密な部分と申し上げたいもののみなのです。超感覚的なものに属するものは、私たちが洞察力をもって、理解力をもって、この超感覚的世界へと赴くときはじめて認識することができます。

 

□編註

☆1 私が「ゲーテアヌム」誌でちょうど夢について述べたこと:ルドルフ・シュタイナー「魂生活について。I. 夢の薄闇のなかの魂の本質」参照。これは最初週刊「ゲーテアヌム」(1923年10月21日、第III巻、第11号)に掲載された。全集版では『現代文明の危機のさなかにおけるゲーテアヌム思想。1921年から1925年の論文集 GA36』349頁以下に所収。

☆2 『神秘学概論』で地球進化:第一講の編註☆2参照のこと。

□訳註

*1 ベラドンナ:和名セイヨウハシリドコロ。ナス科の多年草。葉は卵型、葉の付け根に暗褐 色の花をつけ、黒色の液果を結ぶ。全体にアトロピンなどのアルカロイドを含み猛毒。瞳孔を拡大させる作用があるため、ルネサンス時代のイタリアで、瞳を大きく見せる美用法としてこの植物が用いられたことがあり、ベラドンナ(Belladonna 美しい婦人)という名前はそこに由来すると言う。非常に希釈して(最低でも原液の千万分の一の希釈)ホメオパシー療法でも用いられる。ベラドンナの特性と人間への作用については、『精神科学と医学』(GA312)第19講での説明も興味深い。

*2 この点は、『精神科学と医学』(GA312)第15講で、オニグモを食べたツグミがその毒の作用を消すために、ヒヨス(ベラドンナと同じくナス科の毒草)を食べる、と述べられていることとも関連すると思われる。


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